So-net無料ブログ作成
船山温泉近郊ネタ ブログトップ

船山近郊にあるもの~建忠寺の謎 [船山温泉近郊ネタ]

武田家の一門だが、NHK大河の武田モノでまず絶対に登場しないのが穴山氏。それは七代目、あの梅雪入道の裏切りのイメージがあるからだろう。
梅雪にだって言い分はあるだろうが、日本人は裏切って生き残った者には惹かれない。滅んだ者に惹かれるところがある。
その梅雪から遡ること三代目、穴山家の四代に信懸(のぶとお)という人がいた。道義ともいう。
信懸がいた場所は、信懸自身が開基の寺で、船山温泉~淇水軒学舎~波木井山ルートの先、分かれ道を左に直進、しばらく下った右脇にある。建忠寺跡。
建忠寺.jpg
「本郷村建忠寺ニ牌子アリ建忠寺殿中翁通道義居士・・・」・・・穴山信懸=穴山道義=建忠寺殿は同一人物です。
この寺は明治の廃仏毀釈で寺は残っていません。跡だけ。現地説明版には寺跡として、簡単な記述がある。
解説版.jpg
左手の森の中に、建忠寺殿の墓、他幾つかがある。
この墓と説明版のある斜面の間に細い堰があるらしい。私は見てもよくわからなかったのだが、雨が降るとその堰の流れが赤い流に変わり、墓の辺りから鯨波の声が湧き上るとか。

寺跡の説明版には系図が描かれている。あるある梅雪入道(信君)が。
系図.jpg
穴山信懸=道義の三回忌が、永正十二年(1515年)、信懸の息女(孝女)により執り行われた。
法要の場所は、息女(孝女)が居住していた川田・・・(おそらくは現在の甲府市川田町で石和温泉駅近く。甲斐府中躑躅崎に移転する前の府)という地。武田家家臣に嫁いでいたのかも知れない。
武田家は例の暴君、信虎の時代になっている。信虎のお膝元で三回忌が執り行われたのだが、その法要に、穴山一門は誰も参加しなかったという。主催した信懸の息女以外はである。
何故、穴山一門衆は、信懸(建忠寺殿)の三回忌に誰も不参加だったのだろうか。

それは信懸(建忠寺殿)の死因にある。
寺の解説版には一切、触れてないが、当時の一級資料、「妙法寺記」永正十年(1513年)の項に、
「此年川内ノ穴山道義入道殿子息清五郎殿ニ打タレサセ玉フ」
実の息子に殺されたとあるのだ。
穴山一族の中で、信懸(建忠寺殿)は武田信虎派だった。だが一族内の反武田派(今川派)との暗闘に巻き込まれ、今川派だった実息、穴山清五郎に討たれたという記述なのです。
闇討ちか。今川派の穴山一族の兵がこの地を襲撃したのだろうか。

昨日Upした記事で、大永元年(1521年)9月、今川軍の甲斐侵攻の年、また「妙法寺記」に重要な記述がある。
「大永元年、此年七月十五日ニ武田八郎殿駿河ヨリ甲州ヘ御帰国有之、当国御屋形様ノ御意テ御帰候』・・・
武田八郎殿とは誰か?
これは信懸(建忠寺殿)の実息、穴山氏の五代めを継承した信綱という人で、穴山清五郎と父を同じくする兄弟です。
だが、信綱と清五郎と、法要を執り行った息女との兄弟姉妹順序は一切不明です。
信綱自身は実父に手を下してないだろうが、清五郎同様今川派だった。だから信虎のお膝元での三回忌に参列できなかったのである。
「甲州ヘ御帰国有之、当国御屋形様ノ御意テ御帰候」とは、武田信虎の許しを得て、甲斐へ帰順したいうこと。信虎派だった実父を暗殺しておいて(清五郎に暗殺させておいて?)8年後、穴山信綱は今川軍の侵攻を期に手の掌返して武田派に鞍返ったのだ。

穴山信綱は全体が闇のベールに包まれ、幼名を始め一切の経歴が判明していない。この今川→武田信虎へのダブルクロスの件だけ闇から現れ、そして消えている。
暗殺後、実行犯の穴山清五郎も記録に現れない。信綱か穴山一族の意志で抹殺されたに違いない。

信虎に帰順後、穴山五代信綱は甲斐府中へ挨拶に来ただろう。同じ血を分けた息女(孝女)と再会しただろうか。微妙なところである。
その穴山信綱の後を継いだ穴山六代信友は、信虎の娘を室に迎えて武田家との関係を更に強化した。次代が有名な穴山信君(梅雪)。彼が裏切るまで、穴山氏は武田親族衆として確固たる位置を築いていく。
帯郭?.jpg
この寺跡の敷地内に入って坂を上ると、説明版の裏に帯郭が巻いており、東側は底の沢が見えないくらい深い堀で落ち込んでいた。最上部は山梨県南部茶業試験地になっている。
西側は段々になってストンと落ちていた。
この寺跡の縄張りと穴山信懸について、南部町役場に訊ねたことがある。
「あそこに信懸さんの墓があるから、昔住んでいたんだろうということです。東側の堀みたいなのは底に沢があって、沢の傍に道があって。私はあの近所に住んでるんで昔よく歩いてました。あの程度では攻めるに易いだろうって(学者さんが)言っておられましたよ」(市の担当者)
ここまでは流暢だったのだが、穴山清五郎の実父暗殺に触れると途端に歯切れが悪くなった。
「信懸さんは息子に殺されたんですかね」
「ええ、まぁ、そんな話もね・・・」
答え難そうだった。あまり突っ込まれたくないようだった。
「では勝手に想像するしかないですよね」
「ええ」
みたいな会話で終わった。回答してくれたのは、船山T館長の同級生らしい。
建忠寺東側の堀~沢.jpg
2010年11月、この建忠寺跡の脇で、杖を突いたご老人に出会った。
ご老人は、「最近まで病気で、今日、久々に表に出た」そうで、昨日の記事、波木井山(峯城)と南部氏の件でいろいろ教えてくれたのだが、この寺にいた穴山信懸さんの死の真相に触れると、途端に歯切れが悪くなり、
「まぁそう言われてるけど、当時はね・・・そういう時代だから・・・」

船山温泉のある南部町一帯は、南部氏については”南部氏発祥の地”、”南部氏の里”を堂々アピールしている。
だが穴山氏については遠慮がちで、周囲や世間を憚るように感じる。これは後年、武田家を離反した穴山梅雪のイメージもあるだろうだが、梅雪は小山田信茂のように土壇場で裏切ったわけではなく開戦前に離反しているので、そう責められないような気もするのだ。
それでも、穴山氏の離反、裏切りのルーツは、穴山四代信懸の暗殺事件の頃から根付いていたように思う。

穴山氏は闇に非業に斃れた一族の血を代償に、信虎に従って南部氏庶流、波木井氏を滅ぼし、船山温泉を含めた南部地域一帯を得る。
だが現地説明板はイマイチ真相に触れていない。
イトザクラ.jpg
近くには原間のイトザクラがある。桜のある地には、何がしか滅んだ伝説があるようです。
船山温泉に向かう船山街道手前右奥の丘に、その昔、事が敗れて敗死した武人(波木井氏、穴山氏)の魂魄、舘が草に埋もれて眠っているのです。

おまけ。
闇の武人、穴山五代目信綱の墓は不明で、身延下山の龍雲寺が菩提寺なので、その境内の何処かにあるのかもしれない。
六代目信友の墓は、南部町の円蔵院裏手にある。
円蔵院.jpg
円蔵院説明版.jpg
穴山信友の墓はこの茂みの奥にある.jpg
コメント(2) 

船山近郊にあるもの~波木井山と古戦場 [船山温泉近郊ネタ]

船山温泉開湯時の資材を提供した明治の私塾、淇水軒学舎からその先へ、うねうね曲がったカーヴの町道をしばらく走ると、峯という南部町営バス停があって、右手にこんな山が見える。
波木井山1.jpg
波木井山といいます。
ここに波木井義実という人がいた。甲斐南部から奥州に移った南部氏の祖、南部光行の三男、南部実長から十代目の人物。奥州に移った南部氏本流と別れ、ここ南部町に残った庶流の子孫だが、武田信虎&穴山氏の連合軍に攻め滅ぼされた。
攻められた理由は甲斐国誌に、『大永中福島上総乱入ノ時、波木井三河守義実此ニ党スルニ依テ、武田信虎ノ為ニ峯ノ城ニ於テ責殺サルトモ・・・』
峯ノ城というのが、ここ、波木井山のこと。
波木井山3.jpg
大永元年(1521年)9月、駿河今川家臣、福島(クシマ)正成が甲斐に侵攻してくる。武田信虎は緒戦、甲斐大島で敗北するが、10月に飯田河原で逆転、11月に上条河原という地で撃退した。
この10月~11月の戦闘中に晴信(信玄)が誕生しているのだが、飯田河原という場所は甲府駅から遠くなく、山梨県立中央病院近く。信虎はかなり際どいとこまで押されていたことになる。
この流れで波木井義実は今川軍に内通した。手引きしたか、北上するのを傍観したのではないか。だから今川軍がこんな甲斐府中まで攻め込めたのである。
だが形勢が逆転。内応がバレたか同年中に攻め滅ぼされたのがこの波木井山で、周辺の沢は真っ赤な血に染まり(血沢)、戦死者が弔われた塚(千人塚)が何処かにある。

私が以前、勤務していた都内の支店で、初めて来局された男性に記入した貰った初回問診のアンケートに、波木井ってあった。
「南部氏の末裔さんですか?」
「うん。先祖がね。○○でしょ」
○○が光行だったか、実長と言ったか、義実と言ったか忘れた。

波木井山のある集落を峯というのだが、集落から波木井山へ向かう左手に公民館があって、その辺りの畑の爺さんが波木井山を指差し、「あっちに(遺構を)潰しちゃったけど社があってそこに祀ってある」
爺さんは、「そこにも祀ってある」って言いながら、公民館「峰沢つどいの家」を指した。
「もう知ってる年寄りはおらん」
バス停峯.jpgこの中に祀ってあるのだろうか.jpg
初めて行ったのは2009年の晩秋だった。T館長とも連れだって行ってみたが、館の跡は資材置き場になっていて、その先に社と墓がある。墓は南部氏のものというが確認していません。
波木井山と社(右手に墓).jpg
波木井山の中心部は正方形の平坦地だった。
東側と北側の急斜面に竪堀みたいな窪みがあったが、往時のものではなく、近年の崩れらしい。
竪堀か?.jpg
そこにあるお堂を波木井堂という。中には奥州に行かずに土着した実長公が祀ってあると言われている。
その先、痩せ尾根は南へ続いていて、尾根を断ち切る掘切に見えなくもない。
東西は急斜面だが北側の防御が弱く見えた。
城域1.jpg
城域2.jpg
爺さんは「もう知ってる年寄はおらん」と言ってたが、その翌年、もう一人、知ってる人に出会った。
この先を下った廃寺跡の近くで出会ったご老人が、「あの辺りは今は道路にしちゃったが、その時、そこを掘ったら石垣が出たって。人骨も出たって。(南部)光行のものではないかって」
果たしてそうだろうか。

信虎に攻められ落城し、敗れた波木井義実が囚われ、斬られた場所がある。
峯集落に住まう女性が、「昔、まだお年寄りが生きている頃にもっと詳しく聞いときゃよかったんだけど、ウチの田んぼの傍に垂直に切り立った大きい岩があって、そこんトコで昔、誰かが斬られたかって話を聞いたことがある。斬られたか磔にあったか、槍でこう(刺すマネ)だったか。斬られた人がその人(波木井義実)かどうかはわかんない。でもそういう怖い場所なんだって」
その大きい岩は波木井山の東側、船山川の支流が流れていて断崖を形成していた。
斬られた場所1.jpg
斬られた場所2.jpg
斬られた場所には沢奥橋という橋があって、そこを上がると「本郷の先年桜」に行きつく。
千年桜1.jpg
見事な桜が咲くのだろうけど、私は船山温泉で桜の花見をしたことが一度もない。桜が咲く3月末~4月前半は、期末期初で多忙だからです。
先年桜の先には、波木井山が望める。斬られた岩場も見える。
波木井山2.jpg
桜の花は潔く散る。南部氏庶流、波木井義実が散った山です。
ここは、船山温泉から目と鼻の先にある古戦場なのです。
コメント(0) 

船山近郊にあるもの~淇水軒学舎 [船山温泉近郊ネタ]

船山温泉は周囲に何もないので観光の拠点ともいえない。あくまで館内で寛ぐ宿だと思う。
宿のHPでも、近隣のお勧めスポットの紹介は、地元の飲食店・・・(・・・手打ち蕎麦屋、鰻、焼きそば、鉄板焼料理屋とかあるが、私はどれも利用したことがない。船山の朝飯を抜けばその日に喰えるかもしれない・・・)・・・、身延山とロープウエイの次に、一気に富士急ハイランドが紹介されている。

数年前に観光派のジャン母を船山に連れてった。
ジャン母は館内の静謐さ、清潔さ、空間に驚嘆していたが、周囲に何もないのにも驚いていた。船山河川敷や大森山に舞う蛍の大群を見てどうにか満足したようだった。
でも、それきり「行きたい」とも言わない。周囲に何も見るものがなかったからだと思う。
旅の価値観が全く違うんです。ジャン母はその日の限られた時間内であれこれ全部見たいワケ。宿や湯はどうでもいいみたいで宿に直行直帰の俺らのスタイルを時間の無駄だと思っているフシがある。旅館でなくホテルでいいみたいですね。宿入りはギリギリ夕方でいいっていう人なのです。

船山温泉近隣には観光の目玉はない。ではあるものでははどんなものがあるか。

最初の交差点を左折、カーヴの急坂を上がって行くと、路肩ともいえない道端に、こんな碑がある。
淇水軒学舎1.jpg
淇水軒学舎。。。
境界線を示す杭みたいな碑の文字は、キスイケンガクシャと読みます。
淇水軒学舎2.jpg
これは明治20年、船山のある本郷杉尾地区の豪農だった武田久嘉(キュウカ)という人が興した私塾の跡。
武田久嘉は子供がいなかったので、善エ門という弟に家を継がせたが、善エ門にも女の子が一人いただけだった。
婿を取ることになった。
同じ村に住まう小泉実という教員さんがいた。この人は南部町で有名な蒙軒学舎を修了してから現在の山梨大学教育学部の前身を卒業され、幾つかの教職を経て南部町に帰郷したのだが、彼を婿に迎え、この私塾を経営させた。
淇水とは小泉実の号なんです。だから淇水軒学舎。

学舎は武田家の自宅の下だったという。ゼンリンの地図を見ると武田姓のお宅が数軒、散見できます。
昭和50年に町道が現在のように改修され、私塾の痕跡は殆どない。当時の建物は、間口三間、奥行四間、二階建だったそうです。一間は約1800cmだからまぁまぁの広さ。
論語、四書、五経、英語、漢字、歴史を教えた。生徒は近隣の村の子たち、農民の子弟や、季節によっては農作業を手伝う寄宿生たち。
だが小泉実さんは、どうも嫁とは折り合いがよくなかったのか、明治24年に離縁して小泉家に戻った。生徒数も少なくなったのか、明治30年頃には閉鎖された。
淇水軒学舎4.jpg
閉鎖後、私塾の建物は、船山温泉の開湯時(大森館、本郷の湯場)の資材に転用された。「後に武田家の新屋が船山に温泉宿をはじめた時の建物になった・・・」(南部町史)
この記述で“武田家の”という箇所は記述ミスだと思われる。T館長は武田ではなくよく似たT姓だが、T館長の先祖が私塾を開いていたという事実もありません。

淇水軒学舎が閉鎖されたのが明治30年で、船山温泉の開湯は明治25年、5年の開きがあるが、その5年間は空き家だったのではないだろうか。
何故、資材を転用できたのか。淇水軒学舎とT館長のご本家はそう離れていないようです。ご先祖さん同士の話し合いで、よかったらウチの資材使わないか?って持ちかけられたのは想像にかたくない。

船山温泉は現在のT館長で五代目だが、ご先祖、初代が分家されて現在の船山温泉のある場所に住んだら、そこに鉱泉が染み出ていたというのが定説になっている。現在でも源泉のある裏手の岩盤から染み出ている。
硫化水素のシミ?3.jpg
淇水軒学舎の資材を使って先に家を建てたのか、後から温泉宿を作る時に流用したのかはわからないが、解体した私塾の資材を大八車か何かに積んで持ってきたのでしょう。

T館長が子供の頃、妙に古い木材で建てられた集会場みたいな建物があって、そこの広さは畳二十畳ぐらいだったという。想像される私塾の大きさと概略、一致しないだろうか。
淇水軒学舎3.jpg
町史にある記載、「後に武田家の新屋が船山に温泉宿をはじめた時の建物になった」この出典が何処なのか、誰が何を基に記述したのかはわからない。町役場に別件で問い合わせたことがあるのだが、「あれ(町史)を書いた人は今はお話を聞ける状態ではないそうです」と言われたことがある。おそらく書いた学者さんや研究家の人も老齢になったということでしょう。
境界を表す杭みたいな碑だけでなく、私塾のいわれや、船山温泉転用に至るまでの記載、解説版でもあればいいのに。誰も見ないかな。
コメント(0) 
船山温泉近郊ネタ ブログトップ