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山家屋 [会津]

昨年12月に購入した会津味噌がなくなった。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-12-01
「買わないとね・・・」
「山家屋に行ってみるか」
「やまがや?麦とろのおやじさんが言ってたとこ?」
ジャン妻が検索したら、「材木町だって・・・」
「材木町?南若松駅か西若松駅の近くっぽいな」
「電車が分かれてるところ」
それは会津鉄道と只見線が分岐する西若松駅。
「行ける?」
行けるに決まっている。場所もだいたいわかる。若松城下の西だろう。
山家屋.jpg
山家屋の味噌.jpg
材木町には前夜に振る舞い酒を過ごして寝坊した佐川官兵衛が長命寺出撃から城内に帰還せず、城外に留まって新政府軍に逆襲した神社、住吉神社がある筈だが、今回は行くのを忘れてしまったです。
その名の通り木材を売買してた商家、もしくは湯川の水運で流通していた材木商家、問屋が集まって成立したと言われている。
でも現在、材木町を流れる湯川は昭和9年(1934年)から昭和30年代前半頃までに開削された人口河川です。放水路の意味合いが強い。
それは上流の東山温泉の先に東山ダムがあるのからその水量調整かと思いきや、東山ダムは昭和57年度完成なので、その為だけと位置付けたらイマイチ辻褄が合わないのだが。。。
旧湯川は喜多方方面へ迂回して阿賀野川に直接通じている。旧湯川が洪水、氾濫するのを防ぎ、調整する為かもしれない。
調査不足ですみませんが、山家屋さんの女性スタッフは、
「材木町は材木問屋さんの集まり」
「西若松駅は材木を取り扱う貨物駅の側面もあった」
「昔は湯川っていう川で流していた」
と仰っていたので、地元の方の証言として載せておきます。
(余談ですが、西若松駅は会津若松駅より鶴ヶ城に近い。会津鶴ヶ城駅改名の話が出ているという。)
満田屋2.jpg
私らはこれまで七日町の満田屋で購入していた。店内で味噌田楽も喰えるあの店です。
満田屋さんは店ん中で喰える味噌田楽で有名だが、まぁ観光客集客の匂いがプンプンする店でもある。いい意味で商売上手だと思う。
数年前、麦とろのオヤっさんが、「満田屋さんの味噌もいいけど、山家屋さんの味噌も・・・」と言い切るので、そっちにしてみようかってなったの。

満田屋さんは天保五年創業。
山家屋さんは嘉永年間だという。満田屋さんよりちょっと後です。店は旧日光街道に面した材木町、城下の外れにあった。
山家屋1.jpg
今回飛び込みで初めて入ったのだが、先客の老夫婦がいらして、その方の購入品を包装している間、奥の蔵を見せていただいた。
蔵は家の一部でもあるので撮影、掲載は控えますが、旧いお宝がたくさんおいてありましたね。漆で黒光りする梁も一本の木がドーンとしており、デカく太かった。
左が蔵.jpg
他にお客がいないので、いろいろ雑談しました。お茶と漬物を出していただいた。味見程度の会津味噌もちょっとだけ舐める程度につまんだ。
お茶と漬物.jpg
味噌なめなめ.jpg
私は味噌をペロペロなめながらお茶を飲んでいる。
「塩分が濃いんだから控えめにしなさいっ!!」(ジャン妻)
何を言ってるか。滅多に来れない場所で、しかも味噌屋でそういう健康志向をのたまうほど不粋なこともないもんだ。興を削ぐっ。
この一帯が会社.jpg
お店の人が言うには、
「ようやく八重さんも終わって落ち着いたけど。昨年はこれをいい機会に地元の人がボランティアのガイドさんをするってなって自分で勉強したの。でもガイドさんやった人に聞いたらそういう地元の人より観光に来てくれたお客さんの方が詳しいくらいだって」
だが私の会津視点と、店側の会津観光論議とは全くかみ合わなかった。
「どこどこの紫陽花の花がキレイで・・・」と言われても、ジャン妻は紫陽花が好きでない。
「会津にどれくらい来られてるんですか?」
あまり考えたことなかったのだが、この時初めて会津・・・といっても湯野上温泉ですが、平成7年以来だから20年になるのに気付いた。
「そんなに。じゃぁもう殆ど見て廻られましたよね?」
「でもこの人(私のこと)ヘンなところばかり見るから」
ヘンなところとは何だ。
「喜多方方面の蔵とか行かれましたよね」
それには答えず、「喜多方?喜多方は日向内記さんのお墓を見に寺まで行ったけどみつからなかったな」
「日向・・・なんです?」
「内記。戸の口原に白虎隊を置き去りにした人ですよ」
「ホラ、食料がないから取って来るってそれきりになった場面」(補足するジャン妻)
「ああ、あの場面。ドラマなんかで必ずそこだけ出る場面ね。そこだけね。へぇ。そういう人がね」
意外だったのは、「八重さんブームで盛り上がったけれど、中野竹子さんならともかく、八重さんって地元でも知らない人って多いの。これまで取り上げられなかったのは、結局は八重さんってのは会津藩で何も功績がなかった人だからだと思うの」
往時はそうだったのかもしれない。八重さんは近年になって会津に目を向けさせた功労者といったところではないか。
店内1.jpg
店内2.jpg
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量り売りの待ち時間含めて30分ばかり滞在したが。お客は私ら含めて3組ほどだった。平日とはいえ、満田屋さんとは違って素朴でのんびりした雰囲気だった。
「ウチは市街地の中心部から離れているからね。でもお店の前の道は日光街道だから、身分の高い方が歩ったんですよ」
あまり店頭に山積みされてないのね。大方は奥の蔵か樽の中で生きているんだと思う。なので急いでたり、セルフ買いするお客さんには向いてないかも。
「味噌はまだ生きてっから、ビニールが膨らむんで、時々空気を抜いてください」
「破裂したりしないよな」
「そういうことはないですけど・・・」って言いながら微笑んだ。

さぁ、家で溶いてみたぞ。
買って来た味噌たち.jpg
味噌汁.jpg
「美味しいっ」
「ホント?ヨカッタ」
あのね。ジャン妻の味噌汁が美味いというよりか、使った味噌が美味いんだよ。味噌汁全部飲み干したけどこの時は止めなさいとも何とも言わなかったね。
味噌をちょっとつけて.jpg
「あまりつけ過ぎないように。。。」
「・・・」

(平成26年8月9日
新規購入したSCANをセットしたのでカタログ追加しました。)
山家屋2.jpg
山家屋1.jpg
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麦とろ [会津]

麦とろ1.jpg
会津若松城下、甲賀町口門裏にある麦とろです。
ここは戸の口原を突破した新政府軍が若松城下に最初に乱入した場所といっていい。綾野剛さん演ずる容保公が、「敵に外堀を越えさせるな」と言ってたが、郭門は土佐藩を中心とする新政府軍にあっさり突破された。
すぐ近くには、田中土佐と神保内蔵助が、「生まれかわる時は会津で・・・」、自刃した地の近くでもある。
八重の甲賀町口門.jpg
甲賀町口門裏.jpg
甲賀町口門2.jpg
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麦とろのオヤジさんは言う。
「ここは戊辰で一番激戦地だったんだ。今でも掘っと何か出てくる・・・」
でも麦とろは最初っからここにあったのではないそうで、いつだったか、オヤジさんとばあちゃんが、
「ウチは前は焼肉屋だったんだよ」
場所も現在の栄町(甲賀町口門裏)ではなかったというんだな。
「何で焼肉屋辞めたの?」
「○○病ってのが流行ったでしょ。あれでアウト。それで居酒屋に変えたの」
それから居酒屋だけど、主人たるオヤジさんは一滴も酒を飲まない。若い頃はかなり飲んだらしい。無茶な生活して(殆ど放蕩同然だったような・・・)それで体調崩して飲まなくなったんだそうです。
麦とろはビルです.jpg
麦とろは3階建ての鉄筋で3階は住居になっている。
3.11震災時にも揺れるには揺れたが鉄筋なので何ともなかったように営業したので同業者に驚かれたという。
「えっ?麦とろさん営ってるの?って驚かれたけど、営れるから営っただけであってさ」
料理素材は一部の魚介類以外は地場地産が基本なのと、海の無い会津の家庭料理、保存食中心なので、仕入れに困ったことは殆どないらしい。
2階は宴会場です。宴会ったって料理をバンバンって出して酒も出して、後は好き勝手にやってくれっていうスタイル
「これまでの最高売上は○○万円。最後にはとうとう店でお客さんい出すものがなくなってお引き取りいただいたの。すみませんもう出すものがなくなりましたって」
昼間のカウンター.jpg
店内2.jpg
「昔はアルバイトの子もいたんだよ」
バイトも?」
「そう。昔ウチで働いてた子がウチに遊び来て、割と遅い時間帯だったんだけどホテルもとってないって。じゃぁ今夜どーすんだよ?って聞いたらここ泊まるっていうから(笑)。ウチに泊まる?それからいっそいで風呂炊いて、布団出して・・・」
処理済~店内1.jpg処理済~店内3.jpg
蕎麦宿で朝飯を腹いっぱい喰った後です。飯盛山に参拝したくらいじゃ腹がこなせない。
「ご飯、少なめで。。。」(ジャン妻)
麦とろ定食です。
ヘルシー料理.jpg
麦とろ定食.jpg
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とろろ、カボチャ煮物、厚焼き玉子、小茄子と胡瓜の浅漬、鰊の山椒漬。
カボチャ煮物は甘さを抑えてしょっぱ系だった。ジャン母が作るカボチャの煮物なんか喰わないのに初めてご飯のおかずでカボチャを食べました。
この後、オッソろしく甘くて瑞々しいスイカが出ました。
「普段、都会で美味ぇもんばっか食べてっからこういうのが食べたくなるんだ」
お会計は2000円です。
昼も夜もいい意味の不明瞭会計なんです。

これは昨年だったか、いただいた素麺です。
大盛りそうめん2.jpg
大盛りです。
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「事前に電話くれりゃいいのによぉ」(お婆ちゃん)
「あのさ。心の準備があっがらさ。事前に連絡くなんしょ」(旦那さん)
蕎麦宿でたらふく朝飯を食った後の昼食だったがヘルシーそのもの。すぐに消化してしまいました。
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鵜ノ浦城 [会津]

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猪苗代湖畔の西に湊町という場所がある。
その辺りは国道294号線が南北に通って湖南経由で白河方面まで結んでいる。その道の西に、会津東山温泉から細い県道374号線がクネクネ曲がりながら背あぶり高原を通っている。
背あぶり高原の東側と湖畔に挟まれた領域に湊町大字赤井、大字共和、大字静潟、大字原、大字平潟という地名が広範囲に渡って広がっている。
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湊町大字共和の辺りに鵜ノ浦という地があって、現在はトンネルで中田浜に抜けている。
中田浜は猪苗代湖畔です。前に蘆名最後の太守蘆名義広が摺上原で伊達軍に大敗北し、黒川城を維持できなくなり実家の常陸に逃げ帰る際に何者かが後を付けて来るのに気付いて軍用金を湖底に沈めた伝説を取り上げたが、それが中田浜で現在はマリーナになっている。
マリーナ1.jpg
マリーナ2.jpg
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そこに立ってみると湖畔と水田が隣り合わせになっているのに気付きます。
西を見ると山々で遮られていて、山と湖に挟まれた長閑な桃源郷のような雰囲気を醸し出していた。朝日が湖から昇り、西の山に沈んで日が終わるようなそんな村だった。
店も殆どない。そこだけ別の世界のようです。
もちろん現在では居住している方もおられ、山の向こうにはトンネルで抜けて国道に出られます。トンネルが出来るまでは山と湖に守られていただけではないだろうか。
鵜ノ浦の郷.jpg
中田浜1.jpg
中田浜は大河のロケに度々利用されている。
八重の桜で山本覚馬が会津に戻って磐梯山を眺めるシーン。
風林火山初回で武田信虎の実弟、勝山信友(辻萬長)と板垣信形(千葉真一)VS北条氏綱(品川徹)の山中湖半合戦シーンでもこの地でロケされた。

そのロケとは別に風光明媚で長閑なこの地が、過去に一度だけ本当に兵火に見舞われたことがある。
戊辰ではないです。この地を荒らし、蹂躙したのは独眼竜政宗。
独眼竜.jpg
国道294から中田浜に抜けるトンネルを鵜ノ浦トンネルというのだが、このトンネルの山上に鵜ノ浦城という山塞があって、そこに鵜ノ浦範綱という蘆名氏の将が1万石で護っていた。
鵜ノ浦氏は会津を領した蘆名の一族です。蘆名11代盛信という人、この人は若松城下の天寧時を創建した人だが、この盛信の弟(甥とも)に盛清という人を初代鵜ノ浦氏に据え置き、白河街道沿いの鵜ノ浦城を預けて監視させた。
次が二代め範盛、3代範綱と続いた。
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蘆名氏の末期的症状については割愛するが、豊穣な会津が欲しい伊達政宗は、白河街道を北上して会津を狙ってみたが、その途中にある鵜ノ浦城や背あぶり峠の難所を避けた。
蘆名本家に含むところがある猪苗代城の猪苗代盛国が伊達に内応したので、天正17年(1589年)7月17日に磐梯山麓の摺上原で蘆名最後の当主、義広率いる蘆名連合軍を破り、即日残敵掃討にかかる。動員数の少ない鵜ノ浦範綱は摺上原には参戦せず白河街道を守備していたと思われるが、戦後、ここ鵜ノ浦城も標的になった。
中田浜を護る番卒が酒に酔い潰れて伊達軍の襲来を見逃したという説はさておき、摺上原戦の数日後、暁の猪苗代湖畔中田浜の北、松崎浜沖に伊達兵を満載した軍船が現れ、浜から上陸して湊町の郷と鵜ノ浦城に襲いかかった。
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鵜ノ浦城には男女合わせて200人ほどしかいなかったので戦は僅か1日で決着した。鵜ノ原城は伊達政宗にとっては摺上原の大勝の後、残敵掃討戦に過ぎなかったのである。別天地だったここ湊町は伊達軍の蹂躙を受け、住民は山中に逃げた。
鵜ノ浦範綱はどうなったのかその後はわからない。蘆名義広と共に常陸へ去ったのかも知れない。

「鵜ノ浦という地名に気付いたら言ってくれ」
しばらく走ったら、「鵜ノ浦ってあるよ」(ジャン妻)
トンネルに鵜ノ浦のプレートがあった。
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近代的なトンネルだが、中に照明は点いていない。
このトンネルの上に鵜ノ浦城はあったのだが、上り口がみつからない。頂上には羽山神社があるらしいが、その参道も見当たらない。
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それほど急な山城でもなさそうだが、草ぼうぼうなのと傍らのジャン妻が制止するのでで自重せざるを得なかった。詳細を尋ねようにも人がいないのです。
「帰ろうよ」(ジャン妻)
「・・・」
「帰り遅くなるよ」
「・・・」

この書籍に載っています。
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伊達政宗は会津から見たら侵略者だが、この書籍に限らず淡々と描かれているように思う。会津にいたことがある人、程度です。滞在した期間が短かったからかも知れない。
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鵜ノ浦城は所在地がはっきりわかっているのに私の中では遠いです。
トンネル東側に訪城路があると何かに載っていたが。。。
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会いに来たよ [会津]

「あのごだぢも戦場にいぐごどになんだべか」(綾瀬はるかさん)
「いや、白虎隊はあくまで備えの隊です。まだ戦場に出す年ではありません」(長谷川博巳さん)
尚之助さんは八重さんを安堵させようと常識論を言っただけだが、現実はどうだったか。
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会いたかった少年の墓碑は、正面に並ぶ自刃少年兵の墓碑群ではなく、右に並ぶ墓碑群の中にあった。
森新太郎16歳、左から五番目にあった。
星勇八16歳、右から三番目にあった。
古川深松14歳、真ん中辺りにあって白くかすれていた。
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森新太郎君は白虎足軽組、会津戦争で最初の戦死者です。
彼がどのようにして戦死したのかはわからない。未だ新政府軍が若松城下に殺到する前、慶応4年6月13日、白河口方面の大平口で戦死した。
大平という場所は現在の岩瀬郡天栄村で下郷町の隣です。湯野上温泉から東に走る国道118号が羽鳥湖の手前で馬入峠へ至る道と合流する辺りが大平という。その辺りでどういう戦闘があったのか、どのようにして亡くなったのか全く不明です。
森君は足軽なので各隊に付けられていたひとりではないだろうか。諸隊に付いていき、何処かの緒戦に巻き込まれて被弾し、大平まで搬送されて亡くなったのかも知れない。
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星勇八君は白虎寄合組最初の戦死者。
会津に多い姓です。彼は白虎寄合二番隊に属していた。越後戦線、阿賀野川沿いの石間村の左岸、左取村(磐越西線咲花駅の近くです。)に陣地を構築して待ち構えたが、8月10日に新政府軍が現れ圧倒的な火力差で敗走する過程で星君は被弾して戦死した。他3名の少年兵が戦傷死している。
足軽隊の森君、寄合隊の星君は自刃ではない。戦死です。
寄合隊は鶴ヶ城に入城せず、城外で補給路確保と、越後戦線からの新政府軍を食い止めるよう峻烈な指令を受けて最後まで戦った。(一部の隊士は入城しています。)
後半戦、一ノ堰の戦い後に藩のお偉方から激賞され、生存者は士中に昇格している。星君はそお栄誉を知らずに先立ってしまった。
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古川深松君14歳は自刃です。
年齢を詐称して押しかけたのだろうか。
「古川深松ハ足軽白虎隊ニテ、八月二十三日城中ニ馳セ入ラント滝沢町ヨリ博労マチニデレバ、味方ト思シキ人影モナクテ前後コドゴトク敵ナリケレバ、コレマデナリト刀ヲ抜キ、間近ニ打チ向カイタルモ手甲ヲ射ラレテ働キ得ズトテ、自在院ニ馳セ入りテ自刃シタリ」
14歳ですよ。入隊年齢に達していないんです。飯盛山で自刃した19士に先んじて若松城下、博労町の自在院でひとり孤独に自刃した。
古川君は足軽なので何処かの諸隊に付けられていたのか、途中ではぐれて単独行動だったのかはわからない。14歳というからには元服前で前髪も落としていなかったのではないだろうか。
甲賀町他の各口門から侵入した新政府軍に取り囲まれてしまい、少年ひとりで抗せずどうにもならなかったのだろう。
白虎隊士で最初の自刃かも知れない。どんなに痛かっただろう。

線香を2束購入した。
今回は敢えて自刃19士は避け、右側の墓碑群に線香を手向けた。
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麓からエスカーを上がって来るときから後から来た老人観光客グループの嬌声やガイドさんの説明する声が耳障りで煩わしいこと。平日で人が少ないだけに余計に笑い声が目立つ。
観光ガイドさんも自刃した十九士、蘇生した飯沼貞吉さんの話しかしないのです。廻る時間が限られていてその範囲で説明してるんだろうけど、マニュアル通りの観光ガイド解説でしかない。
皆さんニコニコしながら拝聴しているが耳障りで癇に障った。うるさいくらいである。
県外から来た方や会津戊辰戦史を知らない人は見て廻って欲しいし、参拝がてら観光するのも大いに結構。だがその観光客たちは中央の自刃した士中二番隊の墓だけ眺めただけで手も合わせず、脇の少年兵の墓碑群にも目もくれず、すぐ次のルート、鶴ヶ城を遠望して自刃した場所へ去っていった。
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今更ながら自刃した19名は、安達藤三郎、有賀織之助、池上新太郎、石田和助、石山虎之助、八重さんの隣に住んでた伊東悌次郎、伊藤俊彦、ソニーの創業者の親戚たる井深茂太郎、指揮を執った篠田儀三郎、鈴木源吉、津川喜代美、大谷吉継の系譜に連なるという津田捨蔵、永瀬雄次、西川勝太郎、野村駒四郎、林八十治、間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治。。。
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彼らはよく知られている。
だが彼らだけではない。中村彰彦氏は言う。
「幕藩体制は身分制社会だから、会津藩が白虎寄合組隊や白虎足軽組隊より白虎士中を手厚く扱ったとしてもそれは止むを得ない。しかしその後の白虎隊研究もこのような流を受けついで士中隊に片寄りがちなのはいささか残念である。」
観光客も観光誘致体制もそう見えてしまうのは穿った見方だそうか。会津藩は戊辰に関しては永遠に悲劇の主役だが、上士の子弟だけでなく、少し寄合隊、足軽隊の少年兵にも光を当てて欲しい。
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十四歳より十七歳までとある。深松君でしょう。
飯盛山を訪れた際、正面の士中白虎隊士だけではなく、左右にある少年隊士たちにも香を手向けけてあげてください。
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散歩する閑人 [会津]

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朝の散歩です。
白岩踏切から江川橋(吊り橋)を渡って対岸の旧道へ行きました。
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女将さんにお願いしたことがある。
昨夜の夕餉でお酒を持って来た女将さんに渡したのがこれ。
「この書籍って手に入ります?」
「???」
昼は教職にある女将さんは、私が渡した印刷メモを怪訝そうに手に取った。
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「女将さんなら下郷町にある教育委員会にツテが効くかな~と思って・・・」
「ええ、知ってますよ。」
「在庫ありますかね?こういうのって手作りだから。常時置いてあるかどうか・・・」
「これって急ぎます?」
「全然急がないですけど」
「じゃぁ調べておきますワ」
手に取って厨房へ戻って言った。
翌朝、宿を出る時、若が、「昨夜のあれは調べておくって言ってましたけど」
それきり連絡もないのだ。おおかた、○○さん(私らのこと)が次回来た時でいいでしょって思ってるのかもね。
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ベタベタせずにサラッと別れて途中の某酒店で一升瓶を数本購入。
若松市内へ向かいました。
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蕎麦懐石20年。。。 [会津]

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平成一桁の頃、岩魚の刺身(薄造りではなくブツ切りだったような・・・)、鯉の洗いとかも出ました。
福島のどっかで大量の鯉が病気になっちゃった事件があったのをご記憶の方もいるかと思いますが、その時も大旦那は「ウチの鯉は大丈夫ですっ」って言いきってましたから。でも今は鯉の洗いはやってないようです。骨が多いし、残りの鯉こくや煮物もいいけど、鯉や馬刺を苦手なお客もいるでしょうからね。
馬刺が出て、その次に何も言わなかったらマグロとホタテと甘海老になっちゃったので、こっちから言うようになりました。「馬刺」って。
大旦那に言われましたよ。「そういうのの方がいいんですか?」って。
海の無い会津で海産物が出るのはどうも興を削ぐんだけど、湯神で出されるマグロも悪くないですよ。流通が発達した今の時代、昔は口にできなかった海産物がいちばんの御馳走なのかもしれません。
馬刺.jpg
大根浅漬け.jpg白和え.jpg
なめこおくら.jpg枝豆.jpg
蕎麦稲荷.jpg蕎麦豆腐.jpg
「これは何だ?」
「山菜でしょ」
そんなこたぁわかっている。何の山菜か。女将さんに聞いてみた。
「何ですこれ?」
「シオデ」
「しおで?」
「そう。山菜のアスパラって言われてるの」
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なるほどアスパラみたいな食感でしたよ。シオデ(牛尾菜)は複数年に渡って生息する多年草の山菜です。秋から冬にかけては地上の葉は枯れるものの、地中では生きているとか。
ただ、クレソンのように群生していないので、山に入ってもベテランの方でないと採るのは難しいらしい。
事前予約受付で通販している農家の方もいるようですが、アスパラの味がするまでは5年はかかるそうです。
貴重で山菜の横綱と言われています。
そんな希少価値の山菜を。。。
「山菜ってのは、天ぷらにするのがいちばんつまらない食べかただよ」な~んてどなたかが仰っていた。茹でてそのまま食べるのが美味しいんだよと。
ここで出たのは軽く醤油で和えたもの。
「マヨネーズが欲しいな」
「止めてっ」
この後で蕎麦サラダが出るからそれまで取って置いとけばよかったね。
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蕎麦サラダ、揚げ蕎麦、蕎麦稲荷、20年前と変わらぬ定番ですが、
料理は何処かで修養したの?」
「大内(大内宿)の〇〇さんとうち親戚だからそこへ習いに行ったの。でも主人が蕎麦打ちを習いに行きだしたのって辞めてからですよ」
「じゃぁ蕎麦サラダや揚げソバみたいなのは?」
「あれは自分で考えたみたい」
どっかでパクったのかな。でも他で同じような料理って今日まで知らないですね。
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蕎麦宿20年。。。 [会津]

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1枚の領収書がある。
平成7年7月に初めて蕎麦宿に行った時のものです。
この領収書を見ると当時の基本料金は2人で17000円ってなってる。安かったですね。その頃と現在とでは物価も税率も違うから単純な比較はできないけど、宿へ行くまでが遠い代わりに1人あたり8500円という破格の宿泊価格に唸ったものです。
ビールが3本で2100円、お酒が7杯で3150円だから1杯450円。。。
これもまぁ安いこと。お酒はこの宿で初めて知った花泉でした。
まてよ?
平成7年初訪だから、今年平成26年で我々も20年に渡るわけか。
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蕎麦宿は民宿なので、布団の上げ下げとかは自分でするのかなと思って行ったら、最初っから敷きっ放しのスタイルだった。
現在、更級庵以外の3室はベッドルームになっている。
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20年に渡る宿の情景、周辺の風景は平成7年の頃と殆ど変らない
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花咲く会津や、各地のゆるキャラをモチーフしたラッピング車輛がいく。あかべえ、会津じげん他です。
ぐんまちゃんはないのか。。。
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メゾネット恵明庵の露天に屋根ができていた。
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大旦那はある日突然前職を辞めたそうです。
「いきなりですよ。辞めたから、民宿営るからって・・・」
ボヤく女将さんに事前に相談も何も無かったそうです。
今の宿と駐車場の敷地はもとは畑だったそうですが、「それを潰してね。宿の図面も自分でひいてましたね。この辺の民宿は部屋に風呂付いてないから付けちゃえって・・・」
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夏です。。。
蜩の声、大川のせせらぎ、裏を走る会津鉄道と踏切音。
20年前も今も変わらない。
いつまでも変わらずこのままでいて欲しい。
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満田屋&山家屋 [会津]

若松城下の郭外北に旧桂林寺通りがある。
16あった口門、郭門の一つから七日町へ伸びていた通りで、通りの由来は桂林寺という名前の道場から来ている。
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有名な店です。
創業は天保五年(1834年)だから幕政がそろそろグラつき始める頃、塩と味噌製造、卸小売りを始め、明治4年(1871年)に新政府から許可を得て味噌の製造販売を本格的に始めた。
現在は醤油、味噌漬、菜種油や胡麻油、会津高田の梅製品も取り扱うようになった。
株式会社設立は昭和38年、おっ、俺と同年ではないか。

平成9年(1997年)6月には搾油攻城を門田町一ノ堰に移転している。一ノ堰といえば、最後まで城外で戦った寄合白虎隊他諸隊が新政府軍を二度に渡って撃退し、寄合→二段階特進→藩主に目通り叶う上士に昇進し、士中二番隊と称された場所である。(八重の父さん、権八が戦死した地でもある。)
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満田屋の店はもう何年もジャン家で使っている味噌です。家で切らした時はネットで注文しますが、今回は買いに来ました。
味噌がたくさんある。
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一度、奥のコーナーで味わえる味噌田楽を試してみたいのですが、未だに食したことはありません。
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白味噌の商品に「白虎味噌」って命名する辺りはさすが会津商魂!!
(実際は赤と白の中間味噌です。)
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だが数年前、会津の知人がこんなこと言っていた。
「満田屋さん?そこで買ってんの?あそこも美味しいけどもっともっと美味ぇ味噌があんだ。それはウヂの婆ちゃんの手作り味噌と、ヤマカヤさん・・・」
「ヤマカヤ??何処にあるんです?」
「満田屋さんの近く」
その時は満田屋の近くを走って探したがみつからず結局諦めて満田屋で買って帰ったのだが、それからヤマカヤは私らの中で謎の味噌屋になった。地元人が満田屋より美味しいという味噌屋は何処にあるんだろうかと。
今回の会津旅から満帰宅していろいろ検索したら、ヤマカヤというのは西若松駅の北西、材木町にある「山家屋」のことでした。
材木町には寝過ごした佐川官兵衛が長命寺出撃から城内に帰還せず、城外に留まって新政府軍に逆襲した神社、住吉神社がある。まぁそれは余談だが、山家屋は嘉永年間創業だという。満田屋より若干後年の創業ではあるし、規模も満田屋ほど大きくなさそう。

HPも見たが、満田屋と違って地味で控えめだった。
山家屋.jpg
山家屋の味噌.jpg

「満田屋の方が商売上手なんじゃないの?」(ジャン&ジャン妻)
それはいい意味でですよ。満田屋は若松城下に近いのと、店の奥の小さい食事処で味噌田楽を供していてそっちの方で有名になったんだと思う。
HPから1.jpg
HPから2.jpg
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「山家屋さんの注文してみる?」
「いいけど。でも、満田屋の味噌、いっぱいあるし。。。」(ジャン妻)
「買い過ぎたかな。ジャン母の土産に持ってくか・・・」
そういえば前に満田屋の味噌をジャン母へ土産に持ってったら、「今、ウチにお味噌いっぱいあるのよねぇ」
何処から貰ったのか知らんが味噌があり余ってたらしく喜ばれなかったのを若干根に持ってる俺たち。
今回は山家屋は断念しました。今あるのが無くなったら買いますか。
購入したもの.jpg
今回の旅で買って帰った味噌です。
他に会津湯野上のW酒店で銘酒を4本買いました。家にいながらにして毎日のように会津の味に触れています。
家ですする味噌汁は満田屋の味噌を溶いたもの。
でも山家屋が気になる。。。
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長沼盛秀と田島祇園祭の謎 [会津]

蕎麦宿を出て会津街道を西へ走り、左手に流れる大川に沿って走る車中で、「二つ寄りたいところがあるんだけど」と言ったらジャン妻は露骨に嫌な顔をした。
また小田山みたいな山に付き合わされるのかと疑ったらしい。
私がハンドル握る前方には会津田島の鴫山城が見えている。数年前、私とジャン妻は尖がった山頂まで登ったが、観光嫌いでいついつ何処で何を見たか殆ど記憶していないジャン妻も鴫山登頂はキツかったので覚えているらしく、今でも「あれは何の苦行なのかと」ボヤいている。
鴫山城.jpg
「つきあえ」
「またどうせ山でしょ」
「違う。寺を二か所」
「お寺ぁ?」
「・・・」
「アタシはくるまん中にいるからひとりで見て来なさい」

会津田島、コンビニの角を南に走ったドン詰まりにお寺がある。
徳昌寺といって、会津田島を領し、祇園祭を保護した長沼盛秀一族の墓群がある。
盛秀は長沼氏による鴫山城最後の城主です。
徳昌寺山門1.jpg
会津四家という。
黒川城(会津若松)の蘆名氏。
伊南の駒寄、久川城の河原田氏。
只見川沿、横田の山之内氏。
そしてここ、会津田島、鴫山城の長沼氏です。

前Blogで、会津田島の長沼盛秀と、山を越えた西会津、伊南の河原田盛継の喧嘩抗争を描いたことがある。いただいたコメは殆どゼロに近く、アクセス数もさっぱりだった。
盛秀は凋落した蘆名氏に見切りをつけ早く伊達氏に鞍替えった。別に軽いのではなく時流を見る目があったのである。結果、長沼家は伊達家というデカいカンパニーに吸収されて生き延びた。伊達家中の準譜代にまでなった。

隣領の河原田盛継は伊達政宗に臣従するのが嫌で嫌で、伊達軍に最後まで刃向い、久川城に押し寄せた伊達&長沼連合軍を寡兵ながら単独で撃退した。
伊南光盛という家臣に「弓矢を持って馳走してやるから攻めて来い」みたいな書状を持たせて政宗を怒らせる辺りは痛快である。
だが近世の領主としては生き残れなかった。会津戦争で決起した農民の中に河原田氏の末裔を見るのみである。

私は長沼盛秀、河原田盛継、この二人には何だか思い入れがあって、伊達に単独で抵抗した河原田盛継は確かにカッコいいと思うが、いち会社員としては長沼盛秀に共感を覚える部分も大きい。他人事と思えないのだ。
久川城大看板.jpg
この二人、長沼盛秀と河原田盛継はかなり仲が悪かったらしく、伊達政宗が太閤秀吉に謁見する為に小田原に出向いた後も休戦を破棄してかつての仇敵に戻ってしまった。止せばいいのに喧嘩戦争を再発させ、会津坂下町、塔寺八幡宮に伝わる古記録、「異本長帳」には、
『天正十八年三月十六日会津大豆渡村ニ於イテ長沼河原田ノ合戦、長沼盛秀、河原田盛継討チ死ニス。両家トモ文治五年ニ会津、大沼、下野塩谷、宗原、阿沼、越後魚沼ノ内オ領ス。今四百二年ニシテ亡ブ』
要は南会津侵攻を停止した伊達軍に関係なく戦争をおっ始め、盛秀、盛継とも両軍の将帥がひとつ合戦で同時にダブル討ち死にしたという、読んだ私が呆れる記述があるのだ。

後世の学者さんでどなただか忘れたが、犬猿の仲だったようだと書かれていましたね。地方の田舎領主(失礼)同士の抗争とはいえ両討死とは尋常ではない。同じ会津人同士、もうちょっと上手く関係を築けなかったのだろうか。
また別の資料には、天正十八年三月に会津田島に河原田大膳盛勝が攻め入り、河原田大膳は討死、長沼盛秀は負傷し、その傷がもとで間もなく死去したという説もあるのだ。

墓は境内の隅、山の中腹斜面にあった。墓そのものは撮影していません。
長沼盛秀墓群解説.jpg
墓標を示す.jpg
盛秀の墓と伝わるからにはこの地で卒したのだろうか。
それとも後年の供養塔のようなものだろうか。

長沼氏の系図では、盛秀の死に関して「天正中卒す」とだけあって戦死とは書かれていないそうです。ただ、急死だった。突然だったらしい。
では伊達家中で長沼家は生き残ったのか。盛秀の遺児、長男福国、次男盛重、三男九郎左衛門の兄弟は伊達家に従って米沢に移住していく。三兄弟で長男福国は伊達家中での上席たる召出家に昇進して七百石。
二男盛重は孫、致貞の代に永代着座に列し、千五百石の家老級に昇進した。この家が鎌倉期末から所持された家祖、安芸権守宗実以来の古文書を伝えた。
三男九郎左衛門も召出家に列し、仙台藩の中堅家臣として続く。
召出家とは、伊達家の正月の宴に召し出される格式である。
泉下の盛秀は安堵しただろうか。
徳昌寺山門3.jpg
長沼家は伊達家中で存続した。
だが鴫山城と馴染み深い会津田島から去らねばならなかった。盛秀の胸中を察しながら徳昌寺を後にした。

長沼盛秀の死因は謎なのです。
〇〇守とか、〇〇大輔といった官途、受領名もわからない。

「もう一か所・・・」
「どうぞおひとりで・・・」
冷てぇヤツだなぁ。
盛秀や長沼氏が庇護した田島祇園祭の出発会場、田出宇賀神社&熊野神社にくるまを走らせた。

祇園祭.jpg会津田島の祇園祭は文治年間・・・鎌倉時代ですね。当時の会津田島の領主だった長沼宗政という人の祇園信仰から発する。宗政は長沼氏の祖だが鴫山城最初の城主ではなく自身の被官を派遣して統治していたと思う。

鴫山城の初代城主は長沼義秀という人だが室町時代の人で、誰かが鴫山城の守護神に牛頭天王の須佐之男命を祀り、今日に至るまで、田島の天王社が熊野神社と合祀され、熊野神社に隣接する田出宇賀神社例祭が祇園祭と合併になったりして改編を重ねる。

田島祇園祭において上演される子供歌舞伎の演目に「時津風日の出の松鴫山城内の段」というのがあって、戦争になれば長沼家が滅亡すると悲嘆した隼人之助という家臣が、伊達家の重臣の前で腹切って城主、秀盛と伊達家が和睦できるように嘆願するというもの。
そこまでするか。
実際は盛秀は猪苗代盛国と同じく、サッサと伊達家に通じた。

祇園祭の伝統、礼式を伝えた社家である現宮司、室井家という家がある。
この室井家とはどうも長沼氏の被官らしく、祇園祭が出立する田出宇賀神社&熊野神社の西側に、どう見ても館跡としか見えないものがある。
中途半端な庭園、公園みたいになっているのだが、南~西にかけて高い土居と空壕がある。
庭園1.jpg
庭園2.jpg
館の土居1.jpg
館の土居4.jpg
館の土居5.jpg
空壕1.jpg
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素人目にどう見ても館跡にしか見えない。
土居に登れるし、空壕にも降りれます。
空壕4.jpg
空壕5.jpg
空壕6.jpg
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館跡からは鴫山城が手に届くように望見される。支城、支砦だろうか。
鴫山城が見える.jpg
説明版も何もない。
室井氏が田出宇賀神社の神官になってそのまま居住していたと伝わるのみです。
その筋のサイトで検索してみたらひとつのサイトしかひっかかってこなかった。そのサイトと県のデーターベースには、地元の地名を取って「宮本館」となっている。

これは土居から公園内を見下ろしたものですが、結構な高さですよ。
土居から庭園を見下ろす.jpg
もうひとつ謎がある。
祇園祭を歴代の長沼氏が庇護していたのは間違いない。だが祇園祭が今日まで毎年欠かさず開催されてたかというとそうでもなく、いっとき中断、開催されなかった期間があった。会津の侵略者、伊達政宗が会津を支配した時代です。

伊達氏の会津支配は短い期間だったので祇園祭はもちろん復活する。謎というのはここにあって、会津鉄道沿線祭情報というサイトによると、
『慶長8年(1603年)に住民が当時の鴫山城代、小倉行春という人に復活を願い出て再興が許され、領主長沼盛実が京都八坂神社に準じた祭礼を取り入れた祭式を定めて現在に至った。。。』
とある。http://www.aizutetsudo.jp/info/?p=415

小倉行春という人は伊達家の後に会津を支配した蒲生家の家臣で鴫山城を改修した人でもある。(後年、大阪城に入城して戦い、行方知れずになるのだがそれは後年の話。)
では長沼盛実とは誰なのか?
長沼氏は田島に帰っていたのだろうか。
このサイトの記述だと鴫山城代は小倉行春で領主が長沼盛実???この辺りも解さない。城代と領主が別というのは何かの誤りではないだろうか。

祇園際を復活させた長沼盛実は長沼一族には違いないが、長沼盛秀の遺児3人の誰かに連なる一族なのだろうか。
私は伊達に従わずこの地に残り、蒲生家に使えた者ではないかと思っています。

最後に、ひとつの情景を載せます。
白鴫??.jpg
この鳥は白鴫かな???
鴫山城のいわれでもある。白鴫が陣中に現れたか行軍中に空を舞ってたか、それが勝利につながったという。
だとしたら縁起鳥ですね。
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道谷坂陣 [会津]

猪苗代湖畔を時計まわりに快走し、294号線で勢至堂峠を越えて天栄村に入り、118号線を西へ走って羽鳥湖方面から湯野上蕎麦宿へ向かった。
この道は白河、須賀川方面から会津の猪苗代湖南に通じる江戸時代からの幹線道路で、会津街道もしくは白河街道と呼ばれていた。
現在も国道294号線がほぼ同じルートとなっていて、頂上の勢至堂峠は標高約740m、現在ではトンネルで一気通貫している。
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勢至峠トンネルを過ぎて下り坂になる。
しばらくすると右に道谷坂陣という表示が立っている。今回は素通りしたが、前に私はくるまから下りて草の中に分け入っている。
「前に下りたの覚えてる?」
「ぜんぜん!!」(ジャン妻)
「・・・」
何だいその言いグサは。
蕎麦宿のお母さん(学校教師)がお膳を運んで来た時、「こういうお仕事って楽しいですか?」って余計な質問して返って来た返事が、
「ぜんぜんっ!!」
というものであった。
大旦那に「八重効果はあります?」って訊いた時も、
「ぜんぜんっ!!」
であった。

ジャン妻は、ぜんぜんっ覚えてないこれは、戊辰の会津藩防塁ではなく、上杉景勝軍が駐屯した防塁です。
道谷坂陣表示.jpg
道谷坂陣説明版.jpg
会津の上杉景勝と直江兼続主従が家康に送った書状(直江状)は写しだけで原文がなく、他にも様々な鑑定から偽文書だという説がある。
書状を受け取った家康が激怒したのもパフォーマンスでしかない。いいトシした大人が本気で感情ムキ出しにしたら器量を疑われる。五大老といえども潰す口実を得て東征軍を起こし、留守の間に上方で石田光成に挙兵させ、どっちに転ぶかを見極める戦略に乗ったとほくそ笑んだに違いない。
想定、予定の範疇でしかなかったのだが、後世から何も深く考えないで見ると、謙信公以来の勇武を誇りとする上杉軍が家康に堂々刃向ったという爽快感がある。他の誰にもできまいというもの。

だが、北の関ヶ原は実現しなかった。石田光成の挙兵が早過ぎたのである。
実現しなかったが、一般的に伝わる説で、上杉軍は東征軍を白河の革籠原(カワゴハラ)という平野部で迎撃しようとしたというが、果たしてそれ1回で勝てたとは思えない。
日光口や、北の最上や伊達の抑えも必要だし、白河口に廻せる兵力は上杉軍の動員力の1/3強ではないかと思う。平野部の迎撃戦では圧倒的に差がある。そこはわざと負けて山間部に退き込み、私が下って来た勢至堂峠やすぐ近くにある馬入峠、北西にある鳳坂峠・・・(現、羽鳥湖に至る九十九道)といった狭隘地まで誘い込み、そこで打撃を食らわそうとした。
その一つ、勢至堂峠に至る街道を遮断し、兵を駐屯させたのがここ道谷坂陣。
道谷坂陣マンガ.jpg

(他にも日光口から攻めて来る場合を想定し、秘境駅と言われる男鹿高原駅近くなる鶴淵隘口、横川宿、山王峠に防塁を築いた。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-01-22-3
ゲストのナワ~ルドさんは、勢至堂、馬入、鳳坂、山王、上杉軍の防塁峠の旧道は全て制覇されています。 勢至堂峠旧道、日光口の山王峠旧道にも防柵跡があるらしいが、その道のプロが見ないとよくわからないらしい。夏場は熊が出るかもなので、それなりの装備で自己責任の範疇でおでかけください。)

以下、二枚の写真は馬入峠です。
馬入峠防塁2.jpg
写真、草木の向こうに街道があって、真ん中に斜めに溝があるのがわかりますか?
街道を遮断しているんです。
馬入峠防塁1.jpg

景勝と兼続の机上の作戦では、勢至堂峠と道谷坂陣、須賀川にある長沼城のラインに置いた兵力は8千人。ここで喰いとめる間、北西の鳳坂峠から別働隊が側面から奇襲し、その間、東の常陸から佐竹氏の軍が侵攻して来るというもの。
白河口戦闘配備之図には、景勝公陣所八千人とあり、上田坂戸以来の景勝直轄精鋭部隊が守備していたのではないか。
陣内部1.jpg
陣内部2.jpg
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陣城というのはあくまでその戦争、局地戦があってこそ構築され、戦争が終わってしまえば放棄されるしかないのだが、一般の城塞と違って縄張りがよくわかり難いのだ。
道路を遮断しただけなら横一直線になるだけで、大きい兵力を一点集中されたらそこを突破され、背後に雪崩れ込まれるは必定。ある程度の厚みは必要なのです。
記録を見たら、大きさは南北約320m、東西約180m、数段の平場と土塁で囲まれた曲輪云々とあるが、私は現地を見てもさっぱりわからなかった。自然地形にしか見えないのである。
ここからどうやって敵に打撃を食らわすのか素人にもわかるような解説が欲しいものですな。
陣内部5.jpg
陣内部6.jpg
「会津要害録」に、「道谷坂ノ隘口、谷深ク道迫リタル要地ナレハ、慶長五年ノ秋、上杉景勝、矛盾ノ頃モ坂ノ隘口ニ土手ヲ築キ、横矢ヲ取テ待掛タリ其塁今ニ存ス要地之」
作られたのは慶長5年。。。
だが、会津若松西の高瀬にある作りかけの神指城同様、実戦には使用されなかった。
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蕎麦宿の朝 [会津]

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蕎麦宿の夜 [会津]

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ガッタンゴー [会津]

蕎麦宿を出て大川(阿賀野川)河原に下りたところ。
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河原はいつ何時増水するかわからないので気を付けてください。

湯野上温泉駅近く、W酒店脇の日光街道踏切から。
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いつもの宿の窓辺から。
いつもの光景1.jpg
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いつもと違うモーター音だと思ったら。。。
保線作業車?.jpg
保線作業車かな。引っ張っられているのはトロッコのような台車です。取り替えレールを積む場合はトロッコを連結します。
会津下郷駅か会津田島駅の車両基地に向かってます。
ゆっくり走ってましたよ。会津鉄道は単行鉄路で通常運行の列車ダイヤに余裕があるから合間合間に回送しているんでしょう。

タイトル借用は、地図の無い旅、監修のきくぞう氏(ぐーたら氏)の承認を得ております。(^^)

↓ このオークション広告は私がUpしてるんじゃないです。何ですかねこれ?
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會津Kitchen [会津]

お店の全体写真.jpg
小田山から下山途中でジャン妻が、
「何処か美味しいお店でランチが期待できるんでしょうねぇ。。。」
強請たかりじゃあるまいし。だがご褒美、報酬を要求されるのは想定の範疇ではあった。
和食より洋食がいいと。蕎麦やラーメンも却下。となると選択枠が限定されるが、あれもこれも選ばなくてもいいから簡単でもある。何故なら会津若松市内は駅に近づけば近づくほど空洞化していて飲食店、特に洋食系のレストランが散見されないのだ。
猪苗代や裏磐梯の方がありますよ。観光客向けにね。でも任せなさいって。ひとつの洋食屋さんがアタマん中に浮かんでるんだからさ。
入口にあったワイン.jpg
その店は有名な鈴善漆器問屋さんと併設している。
敷地内に漆器問屋、漆蔵、蔵座敷、漆資料館、そして同じようなレトロな蔵のレストランが118号線に面している會津Kitchenというレストラン。
数年前、この店の通り向かいにマーティンという店に行ったことがあって、そこの窓辺から會津Kitchenを見て、「よさそうだな、次回は行くべぇ」というのがアタマの隅にあったの。
マーティン.jpg
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-02-05
この記事の時点で會津Kitchenを意識してますね私。
1年半経って初訪問です。
パーキングは共同.jpg会津Kitchen拡大.jpg
鈴善漆器問屋さんとの共同駐車場に停めます。会津漆の蔵と一体で、幾つかの蔵を改装してそのうちのひと蔵をレストランにしたのではないか。
お店のフロアスタッフは美人でその一人は外国人さんみたいだったが、会津弁丸出しでなくともイントネーションが会津そのものだったので吹き出しかけた。
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女性客多し。
殆どが会津訛りのお客さんなのが意外だった。
ラザニアが良く出てましたが、私らはランチハンバーグコースを選んだ。会津旅で肉なんて馬刺ぐらいしか喰わないからね。
照り焼きハンバーグ、目玉焼きハンバーグ、チーズとトマトのハンバーグ、フォアグラとアボガドのハンバーグ、この4種からチョイスして、前菜、スープ、ライスorパン、ミニデザート、ドリンク。プラス、サラダバーを追加。旅行や出張絡みだと野菜を採らなくなりがちになるから。ここまで行くと1399円の通常価格にちょっと加算される。
サラダバー1.jpgサラダバー2.jpg
サラダバーチョイス1.jpg
サラダバーチョイス2.jpg
サラダバーに行ってみたら、そこらのファミレスなんかとは比較にならないくらいに・・・比較すること自体がこの店に対して失礼なんですが・・・丁寧なサラダでしたよ。カブのマリネ、会津青菜と蕪菜のペペロンチーノ、キノコのバターソテー、他全部で7種。
「珍しいね。カボチャ食べるなんて」(ジャン妻)
「俺は煮物の触感(食感?)が嫌いなだけ」
焼いたカボチャか素揚げなら食べます。カボチャの上にあるのはジャガイモに見えますが大根です。
前菜1.jpg
この店、HPでは会津産食材だけで作るメニューと謳っている。
サラダバーが秀逸だったのでこの店の素材は信用しましょう。前菜から始まってひとつひとつに料理の説明がちゃんとあったし。
説明に時間を取られてご新規のお客さんがちょっとウエイト状態だったかな。

実はこの店を疑うわけではないが、昨今の偽装メニュー事件が会津若松市内でもあった。
前に利用してた会津若松〇〇〇〇〇ホテルの最上階レストラン、〇〇〇〇〇でメニュー表記と異なった食材が使用されていた。
記事によると虚偽表示は4品、既製品ウインナーを手作りウインナー、バナメイエビをシバエビ、インドネシア産エスカルゴをフランス産、トラウトサーモンを秋鮭として提供していた。
私らは数年前にそこを数回、利用しましたよ。朝メシでね。夜は「麦とろ」や「籠太」に行くから。だからそういう偽装ニュースを見て聞いてもどうでもいいやっていう気持ちだった。エスカルゴのインドネシア産、フランス産と言われても比べたことないしワカラン。そういう店は素材の説明なんかしないしね。

いつの間にか満席になった。
年配層の女性客もいて、広い客層、年層なんですな。だが気づいたのは殆どのお客さん皆、会津訛りなんですよ。
はて?観光客は俺らだけだろうか。

ハンバーグは。。。
「これって牛100%かな」
「そうじゃない?」
今はないけどハングリータイガーみたいでしたよ。ジューシー。肉の味ぃぃぃといった感じ。
チーズハンバーグ.jpg
照り焼きハンバーグ.jpg
もしかして前菜は会津漆器かも?
気付くのが遅いかな。
ウップ.jpg
デザートが甘くってねぇ。
アタリマエだって?私には拷問に近かった。披露宴なんかでもデザートで一気に腹が膨れるが、別腹のない私にはこの店のデザートは甘くて苦しかった。あっ、美味しくないってことじゃないですよっ。
お会計時に、「結構なお味でございました」と言って出ました。レジの女性は嬉しそうだった。
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レトロな外観、清潔感のある店内、地野菜の利用、及第点以上のものはあった。
昼時は混雑必至で客層は地元の女性客、それもやや年配の女性客が多い。
何故、地元客が殆どを占めているかというと理由は簡単。会津を訪れる観光客は洋食なんか食べないからですよ。
http://www.aizukitchen.jp/index.html
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麦とろ [会津]

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大田和彦氏が日本一と謳う会津坂下の馬刺です。
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「今年は熊はよく出ったな・・・。何人か襲われて亡くなったし」
「猪は?」
「猪は前は会津にいなかったの。阿武隈系にはいるんだけどそっちのがこっちにも来てるみたい」
「捕獲して食べたりするんですか?」
「いやいや、ちょっと喰えねぇんだな。例の問題があっで・・・」

他では味わえない鰊の山椒漬。
身欠き鰊を山椒の葉やしょう油、酒、酢で漬けたもの。保存食です。
会津地方は海が無いので貴重な蛋白源だった。噛むと口中で旨味がじんわり溶け、鼻から脳天へ爽快さが突き抜けます。すぐ酒が欲しくなる。
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こづゆです。
三杯、お代わりしました。何杯お代わりしてもいいんです。
こづゆ一杯め.jpg
こづゆ二杯め.jpg
「麦とろ」は、馬刺、こづゆ、鰊山椒漬には絶対の自信を持っている。
「こづゆはオメデタイ時や法事とかで出るの。冠婚にはニンジンを入れて葬祭にはニンジンを入れないの。売ってるこづゆセットみたいなモンがあっけどああいうのはやめどき。ウヂのが一番美味ぇっがら」
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「ざくざく煮とはまだちょっと違うんだなぁこれが」
ざくざく煮とこづゆは根野菜こんにゃく、白滝を入れるのは一緒。薄い醤油も一緒。似てるんですが違いはダシです。ざくざく煮は煮干、こづゆはホタテ、貝柱の戻し汁なんです。薄味です。
「必ず水からゆ~ぐり1日かけで戻すんだ。急いでお湯沸かしだってうま味が出ねぇんだ。」
どちらも乾物ですがホタテの乾物は高価なのでこづゆは武家料理だったといいう説がある。
京都守護職だった時代を含め、京都から持ち帰られた料理だという説もあるので、薄味の京料理がベースになっているのかも知れない。

(余談ですが、蕎麦宿でも一度、こづゆ風の汁が朝餉に供されたことがある。その時は味噌汁のお椀に汁が並々入って熱々で、けんちん汁のような風味だった。)

とろろ天.jpg

「ホタテは薄く切るよりブ厚いまんまの方が甘くて美味ぇんだ」
「ウチのポテサラは魚肉ソーセージを使うの」
それと、卵を7つぐらい使って一気に焼き上げる厚焼き玉子。
ブ厚いホタテ.jpg
ポテサラ.jpg
厚焼き玉子.jpg
白菜漬.jpg
実は弟さん夫婦.jpg

「日頃都会で美味いモンばっか喰っでっから、うぢで出るようなもんぐいだぐなんだっぺ?」
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沢庵になる大根.jpg
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官兵衛さん起きてくなんしょ [会津]

御酒を賜る官兵衛.jpg
鬼の佐川官兵衛が松平容保公から御酒を賜っている。
場所は鶴ヶ城内黒金門、容保公と養子、喜徳公の戦時中の御座所だった。城内で最も安全な場所ある。
飲み干す官兵衛.jpg
慶応4年8月29日未明、官兵衛を主将に約千名の出撃隊が夜明けとともに郭外に出て、城外西、長命寺方面に展開する新政府軍を攻撃、補給路を確保しようとした。
その前夜、容保公は官兵衛他を黒鉄門の御座所に召し出し酒肴を振舞って激励した。御酒を頂いたのは官兵衛以外にもいたようである。
官兵衛は名刀正宗を賜った。他、未明に出撃する300数十人の上士たちが容保公の前で血判し、多くは懐中に、「八月二十九日討死、何ノ某」と書いた紙片を持っていた。官兵衛の父、幸右衛門直道も出撃したのだが、幸右衛門の下着には、「慶応四年八月二十九日討死佐川幸右衛門直道生年六十三歳」とあったという。
官兵衛も決死の覚悟で気合十分。御前で、「西軍を打ち払いまする。万が一失敗したときは再び入城することはない」とまで宣誓して主従別れの酒を酌み交わしたのだが。。。
殿の御前ですよ.jpg
夜が明けた.jpg
官兵衛寝坊した。[あせあせ(飛び散る汗)]
そんなに飲んだようにも見えなかったが緊張感を強いられた連日の疲労にがッと出て気が緩んだのだろうか。慌てて飛び起きて出撃したが時既に遅し。未明の夜襲が夜襲でなくなってしまい、必定、陽が高くなってからの戦闘になってしまったのである。
起きてください.jpg
こういうドジはサラリーマンだったら一度や二度は経験するでしょう。私だってある。でも若い頃です。近年は飲み過ぎて寝過ごしたなんてのはないです。
今何時だ?.jpg
ジャン妻はこの官兵衛の酔態というか、寝坊して出撃が遅れた体たらくを見て怒った。
「何これ!!」
「・・・」
「こんなのあり?」
「・・・」
「何故誰も起こさないのよ」
俺に言うな。脚本家に言えよ。
起こそうとした者はいたらしい。高木盛之輔とも井深梶之助ともいう。遅ればせながらも向かった戦線が鶴ヶ城西北の長命寺というところ。
長命寺.jpg
長命寺は現在、本町というところにある。鶴ヶ城三の丸前の道を西へ向かい、突き当りを右折、2つめの信号を左折・・・したいのですがそこは一通なのでその次の道から迂回した。
駅方面からだと桂林寺通りにある有名な味噌問屋、満田屋から4つめの信号を右折して突き当りです。
長命寺築地塀.jpg
本堂正面に入口、山門があって、そこから左右に土塀が伸びている。そこに弾痕がある。
右塀と弾痕.jpg
弾痕UP.jpg
寝過ごした官兵衛が向かった長命寺の境内に大垣藩兵他が立籠もっていた。
大垣藩と会津藩は戦前までは特に遺恨や利害関係はなかったようだが、戦時に突入してからは娘子軍と相対し、中野竹子を斃し、神保雪を捕えて自刃せしめた藩兵である。他に土佐藩兵と備州藩兵がいた。

官兵衛率いる城兵は、最も多い兵数の記録で朱雀隊、砲兵隊、正奇隊、歩兵隊、進撃隊、別撰隊といった諸隊1500人。
一度は大垣藩兵他を寺から追い出したらしいが、後方から長州藩、大垣藩の砲撃を受けて苦戦、奪回された。奪ったり奪われたりなので寺こそいい迷惑だが、塀の弾痕が新政府軍の放った銃弾か、籠城軍の放ったものかはわからない。寝過ごしたとはいえ一旦攻守が入れ替わり入り乱れての戦闘だったのではないか。
長命寺の官兵衛.jpg
弾痕は門扉を挟んで土塀に1数発あっていずれも小銃弾痕。平成○年に補強、復元されてるので弾痕のレプリカといっていい。施工業者が弾痕の穴を穿って壁を塗ったのかもしれない。
無数の弾痕.jpg
長命寺でも例の仕打ち、戦後の心無い仕打ちを訴えている。
このBlogではこれまであまり取り上げなかったが、新政府が会津藩戦死者遺体の埋葬を許さなかったというもの。
ここ長命寺に限らず城内市中にあった籠城側の戦死者遺体は賊軍ということで葬る事、手を触れる事さえ許されなかったと銘記してあった。
会津藩戦死者の墓へ.jpg
戦死者の墓説明版.jpg
当時の長命寺住職、14世幸證という僧が埋葬の為に奔走、埋葬が許されたのは明治2年2月14日(旧暦)で、埋葬の地は神指町の薬師堂河原罪人塚もしくは小田山を指定されたが、有志の奔走が実って阿弥陀寺、長命寺の2寺に限り許された。
最初は土饅頭にして三つを僧自ら埋葬した。墓標を建てることは許可されなかった。
明治11年4月になってから有志の奔走が実り、ようやく「戦死墓」とだけ記した石碑を建てることができた。戦死者の氏名など書くことはできず、埋葬者145名と記録にはある。
確かに墓があったが、「戦死墓」とだけ記したデカい碑があるだけ。ひとまとめに埋葬しただけの感がある。
随分な仕打ちではある。

隠れた挿話がある。
官兵衛が出撃する際、容保公は馬に乗って太鼓門前で見送ったという説がある。ってことは寝過ごしたのを知ってたのだろうか。
正午になって長命寺方面苦戦の報を受けた容保公は、官兵衛が自棄になって死に急ぐことを懸念して、平尾豊之助という家臣を派遣し官兵衛を制止するよう命じたとも。
しまったぁ.jpg
寝過ごしたぁ.jpg
官兵衛が主役.jpg官兵衛が寝過ごしたのを裏付ける史料が見つからないのだが、作家、中村彰彦氏は官兵衛が主役の長編を刊行している。やはり寝過ごしていましたね。
後日、官兵衛は挽回してもいる。バツ悪く城外で転戦する官兵衛は容保公の前で宣誓したとおり城内に戻らず城外戦線に留まり、9月5日、西若松駅の西方、材木町の秀長寺から出撃して寡兵で新政府軍を破り、鉄砲、弾薬、糧秣、毛布等を鹵獲して城内に収めた。
この戦闘は局地戦とはいえ、喜多方の熊倉、西若松の一ノ堰2連戦と並んで会津軍が新政府軍を破った勝利戦である。
材木町.jpg
官兵衛はその後も城内に戻らず、降伏開城後も南会津で戦う。
バツが悪くてどのツラ下げて城内に戻れるかと自分でも思ったに違いない。
まぁいい笑顔ではある.jpg
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小田山 [会津]

砲撃陣地跡その1.jpg
新政府軍砲撃陣地.jpg
新政府軍が母成峠猪苗代~十六橋~滝沢村を突破して若松城下に攻め込んだ時、会津藩諸隊は四方の国境に主力藩兵を派兵していたので城内戦力は数量質量とも低下していた。
甲賀町を突破して御城下に攻め込んだ新政府軍はここまで連戦連勝だったのだが、ナメてかかったのもあって当初は1日で陥落させるつもりだった。だが北の丸前に散開したら八重が率いる守備兵の銃火に撃退され一旦は城外に引いた。
包囲したが長期戦はしたくない。殆どが南国西国の兵なので冬が来たらヤバイと思ったのである。早期に決着を付けるべく何処かに大砲を据え付ける山はないかと地理を見回したら、鶴ヶ城から僅か1.5km足らずの東側に恰好な山があって、それが標高372mの小田山。陣地は中腹にある。
鶴ヶ城と小田山の位置関係.jpg

八重たん.jpg
小田山は蘆名氏の詰城というより新政府軍が鶴ヶ城を砲撃して攻めつけた陣地で有名なのだが、現地では例によって攻められた側、受け身の立場で訪れる人に訴えている。
西軍この地より、鶴ヶ城を砲撃する・・・と書かれた説明版に気になる一行があって、地形上すぐれていることを内通する者がいて・・・西軍は小田山上に堡塁を築いた・・・とある。

誰が内通したのだろうか。
説明版には内通者がいたと簡潔に記されているだけ。どうも内通者を出したもとが現在も市内に存続しているので、敢えて詳しく触れていないようにしているかに感じられる。

会津藩は村々に重税を課したのもあって領民の心は領主から離れていた。
加えて目を覆いたくなるのが会津藩が国境守備から撤退する際にやたらと村々に放火する悪癖があって、私が見たものでは石筵村(母成峠向こう)、猪苗代、塩原、関山、栃沢・・・他にもあるかも知れない。そういうのを知ったのもあって内通したのは苛斂誅求に抗した地元農民かと思ったらそうではなく、何と城下のお坊さんだった。
現在の鶴ヶ城の東に県立博物館があって(県庁所在地でもないのに県立博物館があるという自負、プライドでもある。)博物館に併設した運動場の東にある○○寺の僧侶が内通した。
寺社に対する政策で藩に含むところがあったという。
内通した坊さんは皮肉にも蘆名家庶流の末裔とも伝わる。末裔なら何故、ご先祖さんが小田山に詰城を置いたかは承知しているだろう。
砲撃陣地跡その2.jpg
砲撃陣地跡の坂道.jpg
だが坊さんが教えなくても小田山には会津藩の火薬庫が置かれてあったのでそれを手中に収めようと新政府軍が気付いたに違いない。
「会津戊辰戦争」には「小田山ノ北麓ニ火薬庫アリ。奥行十二間、間口三間半アリ、精製火薬五百貫ヲ蔵ム。小田山ノ西軍属々来リテ之ヲ奪フ、城兵之ヲ運ブコト能ハズ」
自らの火薬を会津藩は迂闊にも回収できなかったのである。回収できないうちに新政府軍が小田山を占拠した。
射撃場跡.jpg
小田山の散策路途中に、八重や白虎隊士が射撃訓練をした場所という説明版があった。畏れ多くも会津に初めて下向した蘆名七代直盛公の母、金峯尊公大禅尼の墳墓を射撃の的にしたという。射撃場にしたということは小田山から必然的に城内を見下ろしたこともある筈。火薬庫があったことも知っていただろう。具申しなかったのだろうか。上層部には届かなかったのだろうか。
火薬弾薬を回収できないなら爆破しちゃえと。これは成功した。
「廿五日決死ノ足軽二名密カニ之ニ近ヅキ火ヲ庫内ニ投ジテ之ヲ爆破セリ。此声数里ノ外ニ達シ激震鳴動万雷ノ一時ニ落チルガ如ク、四方ノ山谷に避難セシ市民モモ鶴ケ城一時に焼破崩壊セシモノト信ゼリ」
決死の足軽二名が爆破した。

恰好の砲撃場を教えて貰った新政府軍は佐賀藩のアームストロング砲の改良型(射程距離3000m以上)を主に据え付け、他にも薩摩、土佐、鍋島、松代、大村、岡山、加賀諸藩が砲門を開いた。
小田山と鶴ヶ城は直線距離1.6kmで比高差は140m。試射の段階では本丸まで届かない砲弾もあったが砲口を上に向けたら本丸まで余裕で届いた。射角を上げると命中率が低下するが別に天守閣を狙わずともよく、冬が来る前に早く降伏させるには城内の士気を低下させ銃砲を沈黙させるにしかず。届けばよかったので城内何処を狙っても同じであったろう。
以後、降伏前日まで砲門が火を吹くのである。
小田山から砲撃する新政府軍.jpg
山道脇の砲撃陣地跡に立つとここから城内や天守閣が丸見え。素人目でも直線上に位置してるのがわかり、ここからブッ放せば効果絶大なのが想像される。
鶴ヶ城方面.jpg
それでも現在は市街地なので、やや目を凝らさないと最初は見つかり難い。殆ど同行するように歩いて来たいち家族の3人さんがいて、「お城は何処だろ」とお嬢さんに問いかけていた。先に見つけた私は黙ってその方面を指した。
「届くのかな?」、「届いたからここだったんでしょ」という親子の会話が聞こえた。
Up.jpg
小山田は会津を開いた蘆名氏の聖地ともいっていいのだが、この戦闘時には地元でありながら禍の山となってしまった。だが内通者がいたとはいえ戦略的に取り込まなかった藩の責任であろう。
その小田山に対して城内も四斤砲で応戦した。
「若松記草稿」には、「敵、小田山或ハ山下、建福寺門前ヨリ大小炮発スル、雨ノ如ク。別撰組、延寿寺庭山ヲ楯トシ発炮、天神口ヨリ。隊大砲ヲ発シテ応戦ス」
四斤砲は射程距離は2000mだからまずまず届いたようである。
「会津戊辰戦史」から、「大砲隊士戸枝榮五郎、鯨岡平太郎及ビ川崎尚之助等野戦四斤砲を南門外、天神口ニ装置シテ小田山ヲ迎撃ス。西軍大ニ苦シム」とあって、ここで八重の最初の旦那、川崎尚之助さんが出て来る。
八重と尚之助1.jpg八重と尚之助2.jpg
大河で八重と尚之助が大砲をゴロゴロ引っ張って行き、夫婦揃って城内から討ち返した場面があった。あれはドラマの演出かと思ったらどうも実際にあったようで、後年の聞き取り書物、「会津戊辰戦争』には、
「砲術師川崎壮之助時ニ豊岡ニアリ性沈毅能ク衆ヲ督シテ戦フ、山本八重子曩(さき)ニ兄覚馬ニ就テ砲術ヲ練習シ其ノ技ニ長ズ、終始男子ニ伍シテ、奮闘甚ダ務ム」
豊岡とは城内三の丸にあった豊岡神社(豊岡東照権現堂付近)のことで、三の丸の南、小田山を向いた辺りらしい。
尚さん1.jpg打ち返す1.jpg
打ち返す2.jpg打ち返す3.jpg
9月14日から新政府軍は総攻撃に踏み切る。
一昼夜で小田山から2000発の砲弾が撃ち込まれた日もあったと言ったのは白虎士中一番隊生存者の永岡清治という人で、城中の惨状を記録している。
「各郭門ヨリ発スル大砲ハ、ソノ他西北ヨリ城中ニ発スル大砲ト相和シソノ破裂間断ナク、頭上、脚下、万雷ノ吠ユルガ如シ・・・(省略)・・・城中死傷算ナク火消組ハ屋上ニ上リ火ヲ防ギ、喬木倒レ建造物覆リ、ソノ音響ツギヲ追ウテ絶エズ」というありさま。
実際は小田山からだけでなく、城外の荒神という村や慶山村の畑地や、城下外郭にあった16の郭門に放列を敷き、三方から総計50門以上の大砲が砲門を開いた。被弾は天守閣や楼壁を貫通し籠城兵や婦女子を殺傷し、野戦病院に落ちて病臥していた病傷兵をも爆死させた。
小田山から砲撃.jpg
会津藩のボンクラ門閥家老たちは小田山に気付かなかったのだろうか。
歴代の城主たち蘆名、蒲生、上杉は皆、鶴ヶ城を見下ろせる小田山に気付いている。蘆名氏の詰城だった過去まで思い出さなくても上杉景勝&直江兼続のコンビが、小田山からは城内を見下ろされ天守や建造物が恰好の目標になるから最大の弱点である気付いて若松市西方の高瀬というところに神指城を建設した逸話すら思いつかなかったのだろうか。
皮肉の極みである。
かつて会津の盟主だった蘆名氏が詰城として作った小田山の存在価値が敵方新政府軍によって立証されたのだから。
ジャン妻の背中.jpg
武田宗三郎という藩士がいる。。
戦時は20歳、朱雀隊寄合隊士だった。小田山を内通した問題の僧侶に対して戦後に報復感情が芽生えて越後高田の謹慎場へ護送途中で脱走して舞い戻って報復した。
恨みを持ち恨まれる、虚しい輪廻である。
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小田山 [会津]

昭和になって復元された白亜の楼壁、赤く塗られた瓦の会津鶴ヶ城から約1.5km東に小田山という山がある。
そこにはこんなのがある。
冠木門1.jpg
前から一度、行きたかったのだが、行く前に一悶着あった。
「山に登らないって言ったじゃない」(ジャン妻)
「そうは言ってない」
「公園だって言ったモン」
「小田山公園って言ったの。小田山っていう山だけど山頂までキツくないし、道は整備されてるから大丈夫」
強引に説得して連れて来た。
いつもこうなんです。何処か取材に行くから付き合えって言うと、そこは山なの?サンダルで歩けるの?って必ず逆質問が返って来る。
以前も伊豆の狩野城、韮山城、上州の後閑城に行った時にブツクサ言ってましたね。公園化されてそれほど高くないとこでも、「まだ登るの?何処まで行くの?」ってブゥブゥ言いよるんです。
頂上まで行ったら後はサッサと下りたがる。早く降りてきなさいとまで言う。上州滞在中の天気のいい日曜日に後閑城に行った時なんか、「後で喫茶店でコーヒー飲ませてくれるんなら付き合う」とう条件付きだったからね。シブシブ付き合った感じ。
私が見ようとする世界もかなりマニアックで偏ってはいるが、これほど観光に興味がないオンナも珍しい。
風景を見るだけならいいんだそうです。湖とか、滝とか。

鴫山城.jpg解説版があればフムフムって見入ってる時もある。でも見ても忘れる。何処を見ても行っても記憶が殆ど残らないらしく、会津田島町を走る度に鴫山城(写真左)を見て思い出したようで、「そういえばあの山、天辺まで付き合ったわね。何の苦行かと思った」
越前の七尾城に行った時は他に同行者がいたのでプライドが優先したらしくさすがにブゥブゥ言わなかった。七尾城は中腹までくるまで行けますからね。
訪城口2.jpg
訪城口1.jpg
麓の登り口.jpg
小田山は公園化されています。
この山に行くには若松市街の東側をぐるっと廻る64号線を南下して天寧寺町の先、花見ヶ丘辺りを左折して小田山通りに入り、坂を直進すると右手に登山口があってそこから細い道を走ると6台ほど停める駐車場がある。そこからは歩きます。
登り口にあった案内図には頂上まで片道1kmちょっと、往復2km強あった。これを先に見せたらジャン妻は訪頂拒否するに決まってるのでさっさと歩いた。
散策ルート図.jpg
幸いジャン妻は色づいた紅葉キレイなのでそっちに気を取られたようで、「今年は急に寒くなったから(葉が)いい色をしてるわね。でも杉の木がジャマね」なんて言いながら写真撮ってた。

会津鶴ヶ城の前身は黒川城というのだが、まだ城のカタチを呈していなかった頃、会津には蘆名氏一族がいた。
蘆名氏の創設者は三浦半島を本拠とする三浦一族、頼朝創業時功労者の一人三浦義明の十男、佐原十郎(十男だから十郎?)義連という人から出ている。
義連は文治5年(1189年)に会津を拝領したが入国はしなかった。遠かったので家臣を派遣していたんでしょう。
それから20代の長きに渡り蘆名氏も疲れが見え、蘆名義広(常陸佐竹氏から蘆名氏養子に来た人)が天正17年(1589年)磐梯山麓摺上原で伊達政宗軍に大敗北するまで400年も会津にいた守護一族で、この小田山は蘆名氏の最初の詰城です。文和3年(1354年)に作った。永徳3年(1383年)に蘆名直盛という人が修築し強化した。
文和3年っていつ?
永徳3年っていつよ?
蘆名直盛って誰?
知らなくても日常生活に支障は無さそうだが蘆名氏で最初に会津に下向したのが直盛という人です。

処理済~向羽黒山城のジャン妻.jpgそれから180年ほど経って蘆名氏が名実ともに会津の盟主ではあるが、北から伊達親子がちょっかいをかけて来る頃になって、蘆名盛氏という蘆名最強の盟主が永禄11年(1568)に会津鉄道門田駅すぐ西に見える岩山、向羽黒山に移転したら小田山は殆ど捨てられた。小山田は峰々に配置された番所、烽火山程度に番付が下がった。
向羽黒山城(写真左)に登った時もジャン妻はブゥブゥ言ってましたね。高さに関係なく山や高所に徒歩で登るのがイヤらしんだな。
小郭と休憩場.jpg
郭の説明版.jpg
小田山しろ.jpg
小田山は山の峰々に小さい郭を連続して広げ、城域は山頂を中心に広範囲に及ぶが古いタイプの城塞なので、武田や北条の技巧を凝らした城塞に比べると単調でツマラないかも知れない。
会津藩の名執政と伝わる丹羽家墓や田中玄宰の墓(はるなか)、会津藩出身で最初に陸軍大将になった柴五郎の墓などを中心に平場が約25段ほどあるらしい。
柴五郎.jpg
(余談だが、柴五郎は鶴ヶ城に続いて後年、清国で二度目の籠城戦を経験、指揮する人。
彼が昇進する度に薩長閥の一部の元老は影で罵ったらしい。アイツは会津藩じゃないか、何で将校にするんだって。
柴五郎本人は、「薩長閥でないからといって軍部で迫害を受けたことは一度もない」と言ってもいる。でもそれは大将まで上り詰めてこそ言える台詞で、西郷が城山で自刃し、大久保が紀尾井坂で暗殺された時は日記に喜んでもいる。この辺り、現代人の我々からは伺えないくらいに複雑な心境であったのだろ。)

ジャン妻はイヤイヤながら登って来る。私の方が足が速い。
「ホント、アナタはこういう目的があると早いんだから」
遊歩道なんだからそれくらい歩いて欲しいね。
上州の国峰城なんかに比べりゃぁ楽チンですよ。

整備された砂利道を登って行くと復元されたこんなものが合った。
冠木門2.jpg
滑る階段を上る.jpg
門を潜る.jpg
冠木門です。当時は白亜の楼郭も豪壮な天守も櫓門もなかった時代だから。まぁ当時の雰囲気を出してはいます。
この門への階段は濡れ落ち葉が敷き積もって滑ります。
門の両側には柵や塀が復元され、蘆名の幟が所在無げに萎れて立っていた。塀の裏には土居があったが、実際は土居の上にこういた塀や丸木で組んだ柵があった筈である。
塀と土居.jpg
門内にジャン妻が入ったところ.jpg
丸太の柵.jpg
蘆名の幟.jpg
小田山城説明版.jpg
小田山城のマンガ.jpg
虎口と土居.jpg
大手口の説明版.jpg
遊歩道は未だ続く。
山頂は前述の田中玄宰の墓です。
私ん家に田中玄宰を描いた書籍があります。
田中玄宰の書籍.jpg
そこから先に物見台がある。
「未だ行くの?」
そこから先は自然地形に近かったので私ひとりで行くことにした。ジャン妻は物見台に待たせた。
山頂部.jpg
遊歩道が続く1.jpg
遊歩道が続く2.jpg
物見1.jpg
物見2.jpg
物見にある説明版.jpg

背後の尾根を断ち切った堀切らしきものは雑木林で起伏が確認し難い。後世の石切り場だったらしく地形が壊変されているようです。
その先の尾根道へも進んだんですが、途中から下りになったのでそこで引き返した。
途中で親子3人とすれ違ったので、「こっから先は何もないですよ」と余計なお世話を言ってさしあげました。
堀切跡へ.jpg
堀切は判別不明瞭.jpg
その先は雑木林.jpg
10分たらずで物見で待つジャン妻のもとへ戻ったのですが、戻る途中で、
「ちょっとぉぉぉぉ~」
物見台に取り残され焦れたジャン妻が俺を呼んでいる。
「何処まで行ってたのよっ」
時間にして10分たらずですよ。それくらい待てんのか。
「熊が出たらどうすんのよっ」
確かに麓に「熊が出ます」という表示はあった。でも、「熊の方が逃げるから大丈夫だよ」とは言わなかった。
さっさと引き上げようとするジャン妻.jpg
会津盆地を望む.jpg
磐梯山が見えた.jpg
では下山します。
遊歩道は要所要所にそこまでの歩行距離が明記してあるのだがジャン妻は今頃気付いたらしい。距離を見てジャン妻の眦が吊り上った。
「ここまで1kmちょい??」
「・・・」
「帰り往復2kmもあるじゃないの??」
たかが1kmじゃねぇかよ。文句の多いヤツだな~。
このオンナは自然散策に向いてないですね。更に追い打ちをかけるように、「ここまで付き合ったんだからお昼はさぞかし美味しいランチが待っているんでしょうねぇ」という交換条件が付随したからね。
美味しいランチだとぉ?
そのアテはつけてあるし行ってみたら実際に美味しかったのだがその前に書かなきゃならないことがある。
小田山が現代人にとって最初に有名になったのは蘆名氏でも復元された冠木門でもない。
他にも蘆名氏の廟所だったり、前述の名宰相や陸軍大将の墓があったり、古墳が眠ってたり、後述する射撃場や火薬庫があったりして盛りだくさんなのだが、それらを知らなくても、「伊達、蒲生、上杉なら知ってるし、容保公も今年見たわよ、でも蘆名なんて知らないわ」っていう人でも、会津側から「ここはこういう場所だったんだ。ここから。。。」。。。というあの場所で知られる。
新政府軍の砲撃陣地だったのである。
新政府軍砲撃陣地.jpg
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