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勝頼公は来なかった。。。 [隠れ郷土史]

クリスマスも終わり、いよいよ年内ラストに向かってるのに、いつまで岩櫃をウロついてるのかと言われそうですが、今回でお開きです。
またかよ.jpg
岩櫃山麓には例によってクマ公注意の看板がそこらに幾つもあった。
上州には1000頭くらいのツキノワグマがいるらしく、ダブルカウント(同じ熊を2箇所以上で目撃した場合のカウント)も含めたらもっといるだろう。
しょっちゅうウロついてるわけではないし、あくまで注意を促す喚起だが、油断していきなりでくわすのもゾッとするね。熊除けの鈴を用意すればいいが、鈴を鳴らすとカモシカに遭えないという理由で持たない人もいるらしいですよ。
私は岩櫃山までは登らないし、麓のある場所へ行くだけ。そこは集落にほど近いところにある平場だが、岩櫃山に踏み入る場合は単独行動は避けた方がいいそうです。
乗用車は無理かも.jpg
私の目的地は潜竜院跡というのですが、それは赤岩登山道入口から入ります
そこへ至る道は集落の裏にあった。最初の上り口が狭いのでくるまで入るの無理と思われます。くるまで来られた方はここへ来る途中の真田丸の幟が立つ駐車場に停めた方がよろしいかと。
真田丸の幟.jpg
こんな細い道で熊に出くわしたら逃げ場なんかないじゃないか。。。
細い道幅.jpg
林道1.jpg
林道2.jpg
林道3.jpg
林道をしばらく歩いたら上空が開けて来る。
そこからの岩櫃山の雄姿です。さっきより更に近く手が届きそう。それだけ垂直で屹立している。
視界が開けると.jpg
その先が開けて来た。そこにあるものは。。。
広い原っぱが見える.jpg
潜竜院跡1.jpg
解説版1.jpg
潜竜院跡。。。
真田昌幸が祢津潜竜斎昌月という人に下げ渡した寺の跡だが、潜竜院という人は真田の諜報機関のヘッドではないかという説がある。
寺は後年、岩櫃城が廃されてからも代々続いたが、いつの時代かで途絶えたらしい。今は広々した原っぱになっていて、草と木々と石垣と、由来を示す説明版と真田の幟、熊出没注意の札が打ってあるだけ。
石垣.jpg
寺関係者の墓が東の高台にあります。そこには一般人のお墓も数基あったが、熊除けの鈴を鳴らしながら墓参に来るのだろうか。
真田昌幸が下げ渡した・・・というのは、当初、使う目的が消滅して必要がなくなったから下げ渡したんですが・・・。
解説版3.jpg
真田昌幸を「表裏比興の者」と言ったのは誰だったか。
表裏比興の意味は、「アイツは後背定かならず」という意味です。小狡いというか老獪というか、裏で誰とどう繋がってるかわからん、油断のならない者、得体の知れない何者と見られていた。
昌幸の為に弁護するのであれば別に好き好んでそういう人物になったわけではなく、生き抜く為にそう言われても仕方がないやり方をしたまでである。
真田家は大勢力ではない。信州上田から上州吾妻に進出してきて、最も広域で沼田辺りまで拡張したが、武田家が滅んで自立してからは、上州厩橋の滝川一益、越後の上杉景勝、小田原の北条氏直、そして生涯ソリが合わなかった東海の徳川家康と直に接しながら乗り切ろうとする。
それら大勢力とほぼ互角に渡り合えたのは智謀に優れていたからだが、それが皮肉も交えて表裏比興とまで言われた。でも昌幸にとっては痛くも痒くもなかったに違いない。
昌幸は知将、策謀家、謀将として描かれるが、どちらかというと人気がある方ではないか。それは後世の講談の影響もあるし、息子の信繁(幸村)の活躍ぶりや、敢えて途中で袂を分かった嫡男信之が父・弟と対照的に描かれたのもあるだろう。
昌幸個人もいざとなったら大勢力との武力衝突も厭わない痛快なところがある。上田城に押し寄せた徳川軍を単独で2度も撃退したのは家康が真田を怖れる伏線にもなっている。
現代で表裏比興なんて言われ方をされたら信用問題に関わるかも知れないが、往時では誉め言葉だったといっていい。小勢力ながらも畏怖され、一目以上も置かれていた。
家康は親の昌幸に2度も負けて、生涯最後の戦闘で息子の幸村に本陣まで攻め込まれた。小動物が巨像を撃退する痛快さで大衆の人気を博したのです。
大事な箇所.jpg
だが昌幸だって最初っから表裏比興なんて言われ方をされる人物ではなかったのではないだろうか。
昌幸は骨太だった大河、風林火山で佐々木蔵之助さんが演じた真田幸隆の3男で、信玄の近習を経て他所へ養子に行っていたのだが、長篠で大敗した時に長兄と次兄が戦死した為に真田家に戻って本家を継承した。
信玄、勝頼2代に仕えたので、近習時代は晩年の信玄の魅力や薫陶を相当浴びただろうし、信玄も昌幸の才能を見抜いたのは想像に難くない。
さすがに若い頃は後年の謀将のイメージは薄いし、武田勝頼の近くにいた跡部、長坂といった連中とは距離を置いていたようである。長篠で大敗後、武田家が上州戦線で北条家を圧倒したのは昌幸がいろいろ頑張って沼田領まで進出、維持したからです。岩櫃城まで押し出して来た北条軍を撃退してもいるからね。(叔父の矢沢頼綱が撃退した。)

勝頼と昌幸はそれほど年齢に差が無い。僅か1歳違いなのでどういう関係だったのかわからないが、武田家中の次世代として二代目社長を支えようという気概があったと勝手に想像しておく。
だが天正10年(1582年)3月に織田徳川連合軍が甲州領国へ侵攻して来る。親族の木曽、穴山は既に離反しており、武田家中も高遠城で玉砕した仁科盛信(勝頼の異母弟)以外は戦わずして総崩れ、逃亡が相次いだ。
昌幸は勝頼に甲斐から撤退して自分の領国、上州岩櫃に逃れるよう具申して容れられ、岩櫃城へ迎える準備をする。そこでここ、岩櫃城を見上げるこの原っぱに勝頼一行を迎えるべく館、御殿を造営したのです。
贅を尽くした御殿ではなかったかも知れないが、僅か3日間で竣工したという。
潜竜院跡2.jpg
壇上に登ってみた.jpg
原っぱ1.jpg
原っぱ2.jpg
だが勝頼はここ岩櫃には来なかった。
落ちる途中で真田を疑った者が讒言したか、岩櫃が遠くてそこまで行けないと前途を悲観したか、甲斐からほど近い郡内領主、小山田信茂の岩殿城を目指すが、その途中で裏切りに遭って天目山の露と消える。
せっかく急いで造営したのに。。。
小説風に描けば、昌幸に武田家滅亡を伝えに来た早馬、あるいは忍び?山伏か修験者かも知れないが、その者から最後の大悲報を知った時、昌幸は天を仰いで、あるいは甲斐の方角を向いて慟哭したと思いたい。
原っぱ3.jpg
たらればはタブーですが、もし現実にこの地へ勝頼一行が来たらどうなっていたのか。
織田徳川連合軍が雲霞の如く押し寄せ、吾妻郡は修羅の様相を呈したに違いないが、後年の上田城攻防戦で徳川軍を撃退した采配からしてここ岩櫃でも相当に粘ったかも知れない。
本能寺の変は僅か半年後なのだから。
かなり広いです.jpg
私は真田昌幸も武田勝頼も別に好きでも嫌いでもない。ただ、真田昌幸が表裏比興の者ではなかった時代の証になる場所としてこの地を見たかった。謀将昌幸に限らず誰しもそういう純な時代があった筈。
その後昌幸は、自分を庇護して育ててくれた武田家への思慕を抱きながらも、武田家の為に純粋だった時代と決別した。もう武田家はない、自分ひとりで生きぬくしかないと吹っ切って前へ進んだら、後世言われるように知将、謀将、表裏比興の者にならざるを得なかったのです。
いつか人は過去と決別する時期が来るということかもしれない。

上り電車が来た.jpg
高崎駅方面上り電車が来た。乗ったのは私とオバちゃんひとり。
高崎駅改札で現金清算しました。自己申告です。

おまけ。。。
居酒屋1.jpg
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これは埼京線板橋駅から都営地下鉄新板橋駅に歩いたところにある居酒屋。
板橋区役所への公用で必ず前を歩くんですが、未だ訪問に至らず。
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2016年はこの旗印で盛り上がるだろうか。今年の官兵衛みたいな駄作に仕上げないで往時の価値観に近づけて本格的に演出して欲しいものです。
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岩櫃城 [隠れ郷土史]

クリスマスイブですが。。。
「ウチにクリスマスはないっ!!」(ジャン妻)
「・・・」
「存在しないっ!!」
ジャン妻はクリスマスイブの少し前がBirthdayなんですな。アタシの誕生日祝いを優先しろというわけです。なので船山温泉でお祝いして来ました。
私は世界中が優しくなれるこの日が好きなんですが、ウチではクリスマスが未来永劫存在しないのです。
誕生日祝い船山温泉のネタはいよいよもってⅡの容量が満タンになってきたので来年になります。元旦からⅢに切り替える予定です。
なので今日も無骨な岩櫃ネタが続きます。
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説明版.jpg
岩櫃城の吾妻氏が里見氏に攻められたのは城域にある解説版にもあった。
「文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。行盛は南朝方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。。。」
小屋に貼ってあった歴代城主にも、「碓氷の里見義時に攻められ。。。」
里見氏?.jpg
碓氷の里見?
それは現高崎市の下里見、中里見、上里見の里見氏に違いない。焼きそばの永井商店、里見軌道、里見橋台、愛華飯店その他・・・私が上州滞在中にいろいろ散策した場所である。
草が刈ってある.jpg
私は里見方面にお住まいの地主さんと今でも半年に1度くらい電話や郵便程度のお付き合いがあって、最初にお会いした際、
「安房の里見なんですか?」
「こっちが里見氏発祥の地だけど、あっち(安房)も同じようなことを言ってる。まぁどっちでもいいけどね」
な~んて会話をした。里見橋台が鉄道ではなく明治の水道管を載せた橋台だってヒントをくれたのもその人で、
里見という姓だったんです。
ではその人の先祖かも知れない里見氏がここ、吾妻まで攻めて来たのか。
これは貞和五年(1349年)5月下旬の出来事です。貞和5年は足利尊氏と直義の兄弟喧嘩が激しくなって来た頃で、執事の高師直が直義の権限を停止させるクーデターを起こした年でもある。
この時代はアイツは南朝、コイツは北朝、どっち側の豪族かで旗幟を振り分け、里見氏もそれにかこつけて領土拡張を狙ったか、お騒がせ某女性大臣のお膝元たる中之条町の牧(牧場)を狙って北上して来たようです。
吾妻郡の史料によると、攻めて来たのは里見時義と嫡子の五郎左衛門尉という人。親子で攻めて来た。
里見親子は現在の倉渕温泉ルートで北上して来たのではないだろうか?わざわざ榛名湖ルートで来るよりも距離が短いしね。
岩櫃の吾妻行盛は城下の立石河原で迎え撃ったが敗れて自刃したそうです。立石河原は名前からして吾妻川のどっかの川原かと思われるが現在の場所はわからない。江戸時代に立石村というのが長野原にあったが、そこで迎撃するとなるとちょっと西に片寄り過ぎているような気もする。
このモノクロ写真は吾妻町の史料に載っていた立石河原。
立石河原.jpg
吾妻行盛の自刃に伴うオドロオドロしい伝説もあるのですがここでは省略します。岩櫃城は里見氏に奪われるが、この戦争で岩櫃に不在だった吾妻行盛の子が秋間(安中榛名方面)の斎藤氏に庇護され、成人して斎藤憲行となって捲土重来を期し、後年に岩櫃城を奪回、里見親子を捕え、亡父が討たれた立石河原に里見親子を引き摺り据えて処刑したというから凄い復讐の執念である。
吾妻氏は岩櫃城に復権した。吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広と続き、多少、近隣との小競り合いはあっても斎藤氏の支配下で続いた。
歴代城主1.jpg
だが、憲広が同じ吾妻郡内の豪族、羽根尾氏と鎌原氏の領地争いに介入したことで両家の仲介に入っていた真田氏、武田氏の介入を招き、すったもんだの末に真田氏に攻められ、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。斎藤氏の勢力は駆逐された。
歴代城主2.jpg
憲行の末子で城虎丸という幼な子が近隣の嶽山城にいたがそこも永禄8年(1565年)に落城し、城虎丸は崖から身を投げたという話が群馬原町駅前にある案内場のさなだ道のポスターに記載されていた。
そこからは上杉対武田の構図になるのだがここでは触れません。

ちと気になるのは、名胡桃城事件の直後で秀吉が小田原征伐を号令した天正17年、12月中旬に北条氏邦が渋川にやってきて、そこを拠点に吾妻郡侵入を開始したこと。
この時、岩櫃城には真田昌幸の叔父、矢沢頼綱がいて、彼は5つある吾妻道に兵を伏せ、北条軍を中之条~群馬原町の盆地におびき寄せて殲滅しようとする。
小田原征討の報が届いたので北条軍は撤退するのだが、岩櫃城を主に北条軍を撃退したといっていいかもしれない。
だがまてよ?名胡桃城事件でも述べたが、名胡桃城を奪っておいて、あれは配下の猪俣が勝手にやったと後世では言うが、その後で吾妻郡に攻め寄せているのだから、やはりあの事件は北条氏邦の意志があったのではないだろうか。
吾妻戦配置図.jpg
私は自分が高崎市に住んでた頃に縁あった旧榛名郡里見町、そこの里見氏がここまでやって来た事に集中力を奪われた。
でもこの後、帰りの電車の中で
(何か、大事なものを見落としている。。。)
そんな気がしたのである。
(それは何だ?)
岩櫃山の雄姿を見ていないこと?
そうではないな。何か真田氏関連で男気を奮い立たせるものがあった筈。。。
本郭跡2.jpg
素っ気ない道しるべ.jpg
岩櫃城周辺図.jpg
帰路のタクシーを呼んだ。
呼び出し係の女性が、「岩櫃城温泉ですか?」
「真田の岩櫃。登り口にいます」
「真田ですね」
タクシーが来た。往路と同じ運ちゃんだった。
「千円札、用意してきました」
「群馬原町駅はSUICA使えないからさ。券売機もないし」
「そうなんですよ。あの駅員さんも夕方になるといなくなっちゃうんで」
いなくなっちゃうって?
17時には窓口が閉鎖されるそうです。
「昨日は名胡桃、今日は岩櫃と来られて、次は何処へ行かれるんですか?」
「いやぁ何処にも。。。帰るよ。。。」
だが、まだ何か見落としているようなモヤモヤが消えないのだ。
群馬原町駅2.jpg
群馬原町駅の待合でボケーッと上りの電車待ち。
下車した際に私に向かって、「どちらから?」と聞いた無愛想な駅員さんは所在無さげにしてたが、若い女の子の乗客にはニコニコ顔じゃないか。
駅待合.jpg
待ってる間はヒマなのでしょーもないことを考えてた。
17時以降、駅員さん不在の時間帯だったら、ここから無人駅への移動だったら無賃乗車も可能なんじゃないの?
ひとり孤独してる駅員さんは当番制かな?
何かやらかしてここへ廻されたのかな?
1時間に1本しかない駅に駐在してると気鬱にならないか?とかロクでもないことを考えた。
上り電車が来た.jpg
上り電車が来た。
1時間に1本のダイヤだとこんなに長閑なんですね。
その電車から別の職員さんが下車して来た。交代要員らしい。それまで原町駅でムッツリしていた駅員さんは嬉々として車掌室に乗り込んだ。
だが車中、私の胸中のモヤモヤが消えない。
何だか消化不良なのである。岩櫃城の岩々を見てないからだろうか。
いやそうではないな。俺が見落としたものって何だ?それは帰宅してから岩櫃城と岩櫃山周辺を机上で調べて見つけた。
モヤモヤを払拭すべく二度めの訪問をすることになった。今度は群馬原町駅のひとつ先、郷原駅。。。
郷原駅と岩櫃山.jpg
ゴツゴツした岩櫃山が堂々そびえている。
この山の麓にあるものは。。。
潜竜院跡1.jpg
潜竜院跡といいます。
世間はイブなのに、イブと全く関係ない岩櫃ネタが続きます。
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岩櫃城 [隠れ郷土史]

駐車場.jpg
岩櫃幟.jpg
登城口1.jpg
岩櫃城は岩櫃山の中腹にあって、そこへの訪城路は岩櫃山への登山道も兼ねている。
私がタクシーから降りたところは平沢登山口といって、北側には集落もあった。生活道路でもあるから舗装されていました。
結果論で言うとここから岩櫃城本郭までは30分もかからないです。登山ルックではなく普通のカジュアル、できれば革靴でない靴なら楽勝です。その先は岩櫃山の山頂に続きますが(尾根通り)私は山頂までは行かないし、登山の知識は皆無なので、その方面のサイトに譲ります。登山上級者は郷原駅の方にある密岩登山口から登るそうですが、岩場難所の連続だそうですよ。
山に惹かれる人の気持ちはわからないでもないが、岩櫃山は滑落事故が起きることがある。上空にヘリが飛んでたらまず事故が起こったと思っていいそうです。
登城道1.jpg
平沢口から歩いてたら下山して来る登山客とすれ違った。
いずれもそれほど重々しい登山ルックではなく軽装でしたね。手に杖みたいなのを持ち、幾人かは熊除けの鈴を鳴らしてましたね。
(熊よりもカモシカが出るらしいです。)
私のカッコはダークスーツにオープンシャツ。ネクタイなんかしてないけど、前夜ショウさんと邂逅した夜に着た上着で、シャツだけ替えた。すれ違う登山客は私の恰好を見ながら怪訝そうな目をする人がいた。
何か誰何されたら、「私は岩櫃山には登りませんよ。途中の本丸まで・・・」と説明するつもりだったが、誰からも聞かれなかった。
登城道2.jpg
中城跡.jpg
最初は楽チンだった。
中城とある。
真田昌幸か、息子の信行か信繁(幸村)か、一族の矢沢頼綱がここで平時、居住していたのだと思う。
ここに居住してた?.jpg
そこまでは楽チンな坂だったが、その先で固まる。
縦堀道1.jpg
「!!!」
これは縦堀で、縦堀=訪城道になっている。
岩櫃城は縦堀、横堀、斜め堀と堀がやたらと多い城らしくそれが見どころでもあるのだが、藪蚊していて判別し難い箇所も多い。
この縦堀だって往時に比べて幾分埋まってるし、草が生えて丸みがあるが、往時はエッジが効いて鋭かったに違いない。
この縦堀を登るのかよ。でも他に道は無い。素っ気なく案内板があって→を指示している。
足を踏み出してみたら結構な坂だった。丸木の階段になっていて、丸木は腐ってないけど抑えてある土が固まっていません。土は流され、落ち葉が埋まってフワフワしている。
おそらく豪雨時は沢になるに違いない。
ゼェ、ゼェ、ゼェ。。。
体力が無くなったのを実感した。
城郭ファン、その道の達人から見たら嗤うだろう。この程度ならたいしたことないって。
その先へ1.jpg
その先へ2.jpg
ちょっと一服.jpg
上がってその先に簡易ベンチがあった。
ここで一服。持参したペットボトルの水をグビリ。こういうところは自販機なんて無いので、徒歩で訪城するからには水が不可欠というのをやっと最近自覚した。
秋の風景1.jpg
二の郭へ.jpg
二の郭へ2.jpg
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二の郭.jpg
二の郭と本郭間の堀2.jpg
本郭へ1.jpg
本郭へ2.jpg
本郭跡1.jpg
本郭の解説版.jpg
本郭です。
ブルーシートで発掘調査中だった。ブルーシートの覆い方を見るとどうも建物の区画のように見える。2016年大河に向けていろいろ掘り出してアピールするのだろうな。
発掘中2.jpg
発掘中3.jpg
出土品の撮影はご遠慮ください、発掘中につき撮影禁止、と掲示してあったけどそんなモン撮りゃしないよ。
六文銭が出て来たら拾うかもしれないけど。
本郭の居館跡.jpg
腰郭の錆びた解説版.jpg
本郭土居上を歩く2.jpg
本郭土居上を歩く1.jpg
北を望む風景.jpg
やなこった.jpg
岩櫃城は真田太平記にも当然出て来る。真田昌幸や矢沢頼綱(昌幸の叔父)が忍びから情報を得る場面とかで登場する部屋は何処にあったのだろうか。
真田氏が、ウチの祖先は海野氏、または滋野氏の流れであると称していること、滋野氏が修験の神たる白鳥明神を奉じていたこと、滋野氏は修験者を束ねる大檀家だったことは述べたが、岩櫃山周辺、郷原、東の観音山辺りは修験者が潜むに恰好のロケーションともいえる。
真田氏には常に謀略、調略の影が垣間見える。ここでも角田新右衛門、弥津潜竜斎昌月(後述します)とかの名が伝わっている。それらは黒装束の忍びではなく、修験者、山伏の出で立ちで、そういうのを従えた真田氏が後年の講談で多少の誇張を持って取り上げられ大衆の喝采を呼んだ。
それらは全くの空想ではなく、修験場に相応しい岩櫃山周辺の伝承、裏付けがあってのことに違いない。
本郭背後を見上げる.jpg
降りる1.jpg
降りる2.jpg
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下りは下りでキツかったので、登山道入り口の小屋で休んだ。
今すぐにタクシーを呼んでも高崎上り電車まで40分あるので、小屋の中に掲示してあった歴代城主と、岩櫃、観音山、郷原の三城の縄張りを見て時間潰し。
ヒマである。
(寒いな。。。)
暖房とかもないし。
(山の中の小屋にいて熊に襲われるのはこういう時かも知れないな。。。)
小屋の中で足を伸ばしながら、これから山を上る人も、山から下って来た人も幾人か見送った。ひと組の若い男女、女性の方は街中に買い物にでも行くようなカッコで登山道に入っていった。さすがに靴はヒールでなく紐靴でしたね。
休んだ小屋の中.jpg
小屋の中に歴代岩櫃城主が貼ってあった。
吾妻助亮、吾妻助光、下河辺行家、吾妻行重、吾妻行盛斉藤憲行、斉藤行禅、斉藤行弘、斉藤行基、斉藤行連、斉藤憲広(基国)、そして、真田一徳斉入道行隆真田源太左衛門門信綱真田安房守昌幸真田伊豆守信之。。。
五代行盛の項に、
「貞和五年(一三四九年)、碓氷の里見義時に破れ自刃。。。」
里見???
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岩櫃城 [隠れ郷土史]

本郭跡1.jpg
吾妻郡の岩櫃山中腹にある岩櫃城は上田城と並んで真田の2台拠点といっていい。
遠目に岩櫃山を見ると岩の塊のような山で、大岩、奇岩、断崖、洞窟がゴロゴロしているそうですが、今日の記事の取材時、私は岩櫃山頂方面への登山道までは足を踏み入れていません。吾妻線の群馬原町駅で下車すると岩櫃山の岩々は見えないのです。正規の登山道は次の郷原駅です。

真田氏は2016年の大河に決まる以前から人気が高いが、確かな文献に表れるのは、講談で有名な真田昌幸の父で、信之や幸村の祖父にあたる真田幸隆からです。
それ以前の真田氏はよくわからない。祖先は北信濃の海野氏、もしくは滋野氏と伝えられるが(禰津氏とも)、これは信州松代藩の真田家が後年にくっつけた可能性もあるそうです。長野県上田市郊外の上田菅平IC近くに真田という地があって、そこに発祥の地と謳った館跡があるからそこの地侍だったのかも知れない。
でも、滋野氏が氏神としていた白鳥明神は修験の神なので、滋野氏自身が修験者の大檀家だったという説がある。講談の世界で真田の配下に忍びの者たちがやたらと登場するが、実際は黒づくめで手裏剣を飛ばす忍者ではなく、修験者のような出で立ちか、巫女、山伏、雲水に扮して諜報活動や情報収集をやっていた人たちではないだろうか。

真田氏は北信濃の村上義清に押されて一旦は上州に落ち延びるが、後年武田氏の旗下に入って真田領に復帰した。
その後は吾妻方面への司令官に任命され、特異の調略を駆使して吾妻の各諸城を陥とすか傘下にしていく。羽根尾、鎌原、岩櫃の斉藤といった連中である。
真田氏は上州に落ちて来て羽根尾氏に匿われたことがあるそうです。だが武田の傘下になってからは非情にもかつての恩人を攻撃する立場になってしまったとか。
吾妻郡を手中に収め、その先には名胡桃城で述べたように上州沼田がある。そこで小田原北条氏と直に接することになったのは名胡桃城事件で述べたとおり。
名胡桃城を訪れた翌日だからショウさんと飲んだ翌日、岩櫃城に向かうことにした。
その前に腹ごしらえ。
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ガラガラ-1.jpgガラガラ-2.jpg
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吾妻線に初めて乗車しました。
高崎駅から出ています。渋川駅から分れて吾妻の山間に入る鉄路。
今回、以前にUPした八高線や上毛電鉄のように、駅をひとつひとつ写真に収めるのは止めました。私が乗車した吾妻線115系統は、ドアのガラスや座席の窓ガラスに埃が付着して汚れてたのね。言っちゃぁ悪いがまぁ汚いこと。首都圏の在来線車輌のガラスの方が磨かれていますよ。
上州特有の風に吹きつけられた埃がくっつく地域だし、1時間に1本走るかどうかの吾妻線だから、ガラスを洗ったってすぐに汚れるのはわかるけどさ。
それと吾妻線は(信越線もそうだが)乗客が自力でドアを開けなきゃならない。
そんなに軽いドアではない。駅で下車しないのにいちいち人力でドアをこじ開け、写真撮ってまた閉める、こんな所作を繰り返すのが億劫だったので沿線風景は撮影していません。
それでも並行して流れる吾妻川に目を洗われ、小野上駅の側線に砂利や砕石を積む貨車が留置されていたり、小野上温泉駅で幾人かの客が降り、沿線風景はなかなかの趣でしたよ。
SUNおのがみという温泉宿があって、そこに1人で泊まったら贅沢な寂寥感たっぷりだろうなとバカなことを考えたりした。
http://www.sun-onogami.com/
中之条駅という駅があって、あのもと大臣さんのお膝元ですよ。出直し立候補して当選したけど、全てを釈明したとは言えないですよね。
ドリルでPCのHDを破壊したとか報道されてたし。何をやってんだかね。
広報版.jpg
中之条駅ホームでは真田に扮した少年少女たちが太鼓を叩いて歓迎、送迎していました。来年再来年と真田丸で盛り上がるでしょうな。
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群馬原町駅.jpg
私が降りる駅は群馬原町駅。この駅周辺をⅰ―Phoneで見たら、駅北側が区画整理されており、ベイシアがあるじゃないか。
地図で大雑把に位置関係だけ見たら、岩櫃城と距離的にもっとも近い駅はその次の郷原駅なのだが、前回の名胡桃城散策で実践したように(後閑駅→沼田駅)、一つ手前の群馬原町駅で降りた方がタクシーを拾える可能性が高いのではないか。

(郷原駅は岩櫃山の南側にある。岩櫃城が郷原駅から見て岩櫃山の向こう側なんです。ハイキングコースだと郷原駅が起点らしいが、岩櫃山をモロに山頂まで登るハメになる。)

群馬原町駅で下車したら、SUICAのタッチパネルが見当たらない。
窓口でひとりでヒマそうにしてた駅員に渡した。
「何処から?」
「高崎」
ハンディターミナルのような簡易読み取り機にあてて。
「840円」
ボソッと言いやがった。この駅員さん愛想の無い野郎だったですよ。如何にも最初っから乗車券買って来なさいよと言わんばかり。(穿った見方ですよ。)
こっちも内心で、「俺もヒマ人だがそっちこそヒマそうにしやがって」って悪態ついた。
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10月から.jpg
吾妻線は、中之条駅、長野原草津口駅、万座鹿沢口駅、この3つの駅でしかSUICAが使用できません。
それも、「3つの駅で使用できるようになりました」のポスターを見たら、利用可能になったのは2014年10月1日からでほとんど最近からだった。
駅前の情報提供所みたいなのがあって、そこに真田の幟と、ぐんまちゃんゆるキャラグランプリ1位と、ぐんまちゃんの石像があった。
2016大河は真田丸.jpg
ぐんまちゃん像1.jpg
石像だと固いね。ふんわり感がない。あまりカワイイと思わなかった。さて、タクシーは。。。???
いたいた。1台だけ停まってる。でもエンジン切ってるのはまだしも運ちゃんがいないぞ。
車内を覗きこんだら運ちゃん寝てた。シートを背後に倒して爆睡してやがる。窓をトントン叩いたら慌てて飛び起きましたね。まぁ客待ちしている間は寝てるしかないでしょうけどね。
「すみません、ええっと・・・」
「岩櫃城まで」
「温泉ですか?」
「おんせん??」
こういうのがあるんです。
http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/toppage/1204045202906/APM03000.html
岩櫃城温泉.jpg
「真田の城山ですよ」
「ああ、岩櫃城の跡ね。いい城みたいですよ」
みたいですよ?
往路タクシー.jpg
タクシーは岩櫃山の北の道をうねうね上がっていく。
「歩いて行けるの?」
「いや、遠いです。坂もあるし。下りを歩いてくる方はいますが。。。」
確かに歩いて降りて来る客が幾人かいるが、いずれも軽い登山ルックだった。
岩櫃城へ向かう道はところどころ狭い箇所もあるが、ガレれもなく舗装されています。岩櫃城は岩櫃山の中腹にあって、その先に頂上がある。山麓には平沢という集落があって、おそらくそこは往時は家臣団の根小屋だったと思われるのですが、そこの集落へ至る生活道路でもあり、その先には宿泊施設も兼ねた吾妻境温泉、コニファーいわびつという施設がある。
http://www.iwabitsu.co.jp/content.html
「行かれるお客さんを時々乗せますが、お客さんもそういうの好きなんですか?」
名胡桃城へ乗せてってくれた沼田タクシーの運ちゃんもそんな質問して来たな。饒舌だね上州の運ちゃんは。この運ちゃんはずっとマスクをしてたから風邪ひいてたのかも知れないがよう喋る。
「まぁ嫌いじゃないけど。。。来年・・・2016年か。放映されるんでしょ?」
「ええ、そう決まったみたいですね。今日からこちらに来られたんですか?」
「昨日は名胡桃に行った」
「名胡桃に行かれたんですか?そうですか。それで今日は岩櫃に。なるほどねぇ。。。」
岩櫃幟.jpg
タクシーは幟がはためく岩櫃城登城口駐車場に滑り込んだ。
「帰りにまた呼ぶから。でも帰りは5千円札しかねぇけど大丈夫?」
「なんとかします。でも帰りはお迎えの分が加算されますから」
タクシーは私を登り口の駐車場で降ろして引き返していった。
駐車場.jpg
登城口です。
登城口1.jpg
またかよ!!
くま.jpg
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那波城 [隠れ郷土史]

伊勢崎市の公用を終えて坂東大橋経由で利根川を渡り、本庄児玉ICから関越道に入ろうと社用車を走らせてたら上州のヤンキー娘(4人いるヤンキー女性社員のうち1人、私が連雀町交差点で出っくわしたオンナ)から着信があったが、くるまの一家所有数ダントツの群馬県は交通課の警察が多く、パトカーを多く見かけるので走行中の携帯はキケンなので路肩に止めて折り返した。
話はすぐ済んだが、
「ちなみに今、何処にいるんですか?」
「伊勢崎だよ。夕方か日が沈んだ頃にそっちにくるま戻すけど。何時までならいる?」
「今日は混んでるから夜7時までならいますよ」
「そんなにかからない」
「伊勢崎ってヤンキーが多いから気を付けてくださいね」
「・・・」
お前が言うなよ。
お前だって高崎のヤンキーじゃないか。俺に何を気を付けろと?どういう意味なんだ?
伊勢崎や太田ってヤンキーが多いんではなく外人さんが多いんじゃないの?内陸の工業地帯とかで就労する外国人労働者が増えて、現在群馬県内で外国人登録している外国人の4人に1人は伊勢崎市に居住しているとか。
ブラジルの人が多いみたいですね。東武伊勢崎線にも数回乗ったが、車中の女子高生は訛りのある人が多かったように思う。

朝からずーっと運転してるので腰にキタので路肩に停車したついでに幾つか着信メールをチェックして一服した。
私が運転するオンボロ社用車は高崎ナンバーで、全社で最も古い車種です。東京本社には新車が4台もあるのだが、若いお偉いさん連中がこぞって利用している。
苦々しく思ってる女性社員もいて、
「○○さん(私のこと)は東京でくるま使わないんですか?」
「使わない」
「都内では運転しない主義とか?」
「そうじゃないけど。時間が見えないからね。群馬では向こうのくるま借りてるけどさ」
東京本社から借り出して関越道を走ってもいいんだけど、本社の連中に気ぃ遣ってくるま借りるのがイヤなの。エライ役職ほどイイくるま優先みたいな社風になってるんです。それだったらこっち(上州)に来てこっちの子に「借りるぞ」って言い捨ててくるま借りる方が気が楽なのだ。
ただ、群馬の社用車はボロ車で、最初踏み込んだ加速が悪く、ワイパーなんか根本がサビている。後部座席は荷物置き場になっている。
しかもナビが付いてない。
もっともナビなんかついてなくても、赤城山や妙義山が右手に見えるか左手に見えるか。それさえ見えれば道に迷うことなんてまずない。
本庄児玉までは広いバイパス一直線のハズだが、路肩に停車したついでに確認がてら地図を見ていたら気になる地名、小学校を発見した。
伊勢崎市堀口町地図.jpg
名和??
何処かで聞いたような。。。
ナワ~ルドさん?それもそうだけど、もうひとつ何かが引っかかった。
ああ、那波無理之介宗安か。。。
安中市のローズベイカントリークラブで見たあの名前だな。上州伊勢崎出身でありながら、那波家の嫡男(長男)なのに故郷伊勢崎から出奔し、武田氏に鞍替えって雇われ部隊の尖兵で上州に逆上陸して攻めて来た曰くありげな人です。その人の発祥地に違いない。
確か那波氏の発祥地は小学校か幼稚園になっていた筈である。これは時々コメをくれる戦国Blog、るなさんトコで見たことがある。
大した寄り道じゃなかった。堀口町というところです。
名和小の片隅に1.jpg
小学校ですね。小学校の片隅に重々しい碑が屹立していた。
くすんだ解説版があったが、あまり詳細には触れていなかった。
公共の場所とはいえ、例によって無断立ち入る厳禁、不審者は通報しますの表示があったりして。でも中には入らないです。雨中で校庭がぬかるんでたからね。
名和小の片隅に2.jpg
那波城解説版.jpg
碑の他に特筆するものはない。ここにあった、という表示だけ。でも何もないよりマシである。

問題の那波無理之助ですが、この人は那波家の嫡男なのに武田氏に鞍替えって上州を攻めにやってきた?のは、この書籍で知った。
国を蹴った男.jpg
簡単に時系列に述べます。年号は省略します。
むかしむかし、ここ那波郡に入ったのは藤原秀郷系の那波氏だが、当時の一族の長は木曽義仲に組して戦死し、一族は衰亡してしまった。
次に登場するのが大江氏系の那波氏。あまり詳しく述べてもオモシろくないのだが、鎌倉御家人で那波政茂、頼広、宗元、政元といった御仁がいて、宗元という人がここ伊勢佐木の那波辺りを管理した。
南北朝時代には那波左近将監政家という人がいて、その後も掃部助、上総介宗元、部少輔勝宗、大炊介繁宗、左京亮、内匠介、頼広、幾人か武人がいて、ここ名和小学校辺りにデンと構えたのは那波宗俊という人です。この人が那波無理之助のお父さんだという。
私は無理之助は宗俊の長男だと聞いています。だが、長男であって嫡男ではなさそうなのだ。
お父さんの宗俊は、自分がしかけた近隣への戦争で戦死した説もあるのだが、そうではなくて最弱戦国大名と異名を取る関東管領上杉憲政が北条に負けて川越から上州平井城に逃げたタイミングで北条氏の傘下に入った説を採らせていただきます。でないと那波無理之助に繋がらないので。
那波城は永禄3年(1560年)に、越後の長尾景虎が陥落させ那波氏は景虎に投降しています。那波宗俊は次男の次郎を人質に差し出した。
武田に付くか上杉に付くか、家を存続させる為に選択を迫られた結果である。
(伊勢崎市の史料には嫡子、次郎顕宗となっていました。)
この次郎、那波顕宗が那波宗家を継ぐのだが、継いだが為に次男で次郎だけど嫡男扱いされているフシがある。逆に無理之助は長男でありながら出奔、牢人した。
正室の子ではなかったのかも知れない。廃嫡されたのだろうか。この辺りに那波無理之助が出奔して武田氏に鞍替えった理由が隠されていそうである。
無理之助宗安は浪人して武田晴信に仕える。24歳だったそうである。後年、永禄9年(1566年)9月に牢人部隊を率いて碓氷峠を越えて故郷、上州に表れ、武田軍の尖兵となって先導を努める。
ローズベイカントリークラブ8番ホールにある蔵人城を落とし、
あずま屋?.jpg
クラブのすぐ北にある礼応寺城を抜き、
礼応寺城推定地.jpg
雉ヶ尾峠(雉郷峠)を越え、里見の番兵を蹴散らし、
現在の雉ヶ尾峠.jpg
クリーンセンターの近くにある高浜砦を急襲し、
高浜砦3.jpg
箕輪城攻城軍へ加わった。
箕輪城碑.jpg
この小学校とは別にもうひとつ、どっかに碑があった筈だが。。。
雨中、くるまを小学校の路肩に停めて検索した。
雨に濡れる碑.jpg
そこは幼稚園jの近くだった。名和小学校の北、最初の交差点を右折した右手に幼稚園があり、近くの田園地帯にポツンと雨に濡れて立っていた。
碑に近寄って.jpg
碑の裏面.jpg
小学校の碑と幼稚園の碑と距離にして結構離れており、直線距離で200mくらいあるのではないか。那波氏の動員数はせいぜい200人か300人程度だと思うが、随分と広大な範囲である。
名和小方面を望む.jpg
伊勢崎市の史料を見たら那波城の縄張り図が載っていた。
確かに広い。平城だったようです。
那波城は平城だった?.jpg
那波無理之助宗安は長篠の前哨戦、鳶ヶ巣山で戦死する。
那波宗家を継いだ弟、次郎顕宗はここ名和一帯や、玉村町に復権したらしいが、北条氏が滅亡した後、教科書には絶対に載らない戦国最後の叛乱、九戸城の鎮圧か、仙北一揆鎮圧時に戦死したという。
何とか戦国を乗り切ろうとしたが、ギリギリ果たせなかったようです。
越後長尾家に人質になっていた時代に知り得たのか、顕宗の息子が越後安田氏の誰かに養子になり、そこで血脈は続いたとか。
碑を斜めから.jpg
私は何故、無理之助宗安が出奔して他国に仕え、故郷を攻めたのかよくわからない。
その気持ちも理解できない。余人に窺い知れない事情、感情があったとしか想像しようがない。
雨中に濡れる碑は何も語らず。
語れない事情なのかも知れない。
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地元の人たち [隠れ郷土史]

ロッジ.jpg
タクシーが迎えに来る50分まで若干の時間があるので、名胡桃城の管理棟を兼ねた資料館で時間を潰すことにしたのだ。
そこにはさっき談話した3人以外にも人がいる筈である。その前に、駐車場になっている般若郭を見てやろうと足を駐車場に向けたら声が掛かった。
「どうぞお入りください」
「般若郭を見てきます。その後で寄ります」
般若郭を望む.jpg
般若郭1.jpg
般若郭の帯郭.jpg
般若郭の堀切.jpg
名胡桃城は豪壮建築ではない。
般若郭からは建物の跡が集中してみつかったそうだが、建物は物見の櫓や守備隊が詰める兵舎程度のものだったという。各郭の位置関係は、自分の左手を広げて掌の親指が般若郭、人差し指が本城粋だと思えばいい。
本城域とは深い堀で隔たれている。
般若郭から本城を望む1.jpg
般若郭から本城を望む2.jpg
申し訳程度にロープが張ってありますが、乗り越えて端まで行ってみた。
(ズリ落ちそうだな)
落ちたらどうなるんだろう。殆ど垂直なここまで上がって来れるだろうか。
深い堀で隔たれている1.jpg
深い堀で隔たれている3.jpg
奈落.jpg
おっ、さっき、会話した3人組がいるぞ。
さっきのひとたち.jpg

般若郭は特に見るものはなかった。名胡桃城ってくるまで着いてしまえば高低差が殆どんなく、各郭は土居もエッジもなく芝生と駐車場だけで、間を隔てる堀が見所ですが、やはりこの小城で一旦は乱世の終止符が打たれたという場所としての価値だと思います。
案内所.jpg
管理棟に入った。
「お世話になりま~す」と軽く挨拶したら、、
「どうぞ史料をご覧になってください」
えぇえぇ見ますよ。でも観光用のパンフが殆どで、私みたいなヒネクレ者が見たがる史実の裏や闇を照らすような史料はないんだよな。
展示室内.jpg
史料.jpg
また声が掛かった。
「50分にお迎えが来るんですよね?」
何故、知っているんだ?さてはさっきの3人のうち誰かがここ管理棟に連絡したと見ゆる。
「よければ名胡桃城のビデオをご覧になりますか?」
「・・・」
ちょっと迷ったのね。あまり構わないで欲しい気持ちもあったのよ。長時間だとなぁ。
「7分ほどですので」
「じゃぁお願いします」
ひとり、じーっと見た。VTRの内容はまぁ基本路線だった。
「お茶をどーぞ」
お茶は熱々。好意でもありもてなしでもあるのでいただいたがお茶受けもないから指先が熱かったよ。そう言いながらしっかり写真に撮ってますが、うっかり指先が滑って床にブッこぼしたらカッコ悪いから、折り畳み椅子の上にそ~っと置いた。
VTRを見る.jpg
熱々.jpg
フロアに入った。内装は見るからに飲食店だった趣で、そこで数人の地元民が喋ってた。
女性の方から、「リンゴをどーぞ。。。」
それはかたじけない。
「あまりものですが。。。」
それは余計だろー(苦笑)
部屋の端で座ってダベ~っとしてた。「ご遠慮なさらずもっと中央にお出でくださいませ」
だんだん煩わしくなってきたな。リンゴは遠慮なくいただいたが私はデザートでも果物でも滅多に食べないのね。だからカリウムが低いです。
あまり話しかけられてばかりいても、気ぃ遣わせてばかりでも何なので、こっちから聞いてみた。
「ここって前は何だったんです?」
「ええっと・・・」
「喫茶店?」
「ええ、そうだったんです」
聞いちゃイケなかったかな?もしかしたらこの管理棟、前は喫茶店のオーナーか従業員さんで、お客が引いて閉めちゃったのかもしれないですね。ここだけでなく、沼田駅から月夜野バイパス沿いにシャッターレストランが少なからずあったのですよ。
リンゴを1個で遠慮してたら、「もっと食べてください・・・」
余らせたくないみたい。結局3個か4個喰ったのね。そしたらさっき三の郭で会った3人も戻って来て、入れ違いにタクシーが来て、最後のリンゴを頬張りながら、「お世話になりました引き上げます・・・」、モゴモゴしながら挨拶をするハメになってしまった。
処理済~地元の人.jpg
沼田地域.jpg
帰りの車中.jpg
帰りのタクシー運ちゃんはもちろん往路の運ちゃんだった。
「どうでしたか?」
ちょっと何て答えていいのかワカラン。あまり見るところは無かったような気がする。
「う~ん・・・地元の方が数人いて、リンゴと茶菓のもてなしをいただいたよ」
「あの女性はKIYOSUKUで働いてた方なんですよ」
そうだったのか。。。
それって沼田駅だろうか。だったらおそらく上越新幹線が開通してから電車の本数が減り、利用客も減ってしまったに違いない。新幹線の開通はスピードと短時間移動を欲する人には有効だが、その影でそういう悲愁もある。
「今日は東京へお帰りで。。。??」
「・・・」
今夜はショウさんと会うのだ。(もうUPしたけど。)でも高崎に泊まるってホントの事を説明するのも煩わしい。
「ど~しようかなぁ~」
ケムに撒いてしまった。よほどのヒマ人と思ったに違いない。
沼田駅2.jpg
沼田駅3.jpg
沼田駅1.jpg
沼田駅です。夕陽の陽射しが眩しい。
上り電車が来た。
上り電車.jpg
最初は車内ガラガラでまぁ長閑なこと。榛名の向こう側(西側)から照りつける夕陽を浴びながら眠ってしまったのですが、渋川駅から女子高校生がたくさん乗って来て目が覚めた。
だけど。。。
What?.jpg
ボックス席にいる俺の前に誰も女子高生が座らないのはなぜだっ!!
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名胡桃城事件の謎 [隠れ郷土史]

3人のオジさん.jpg
昨日の記事のオチ、「部下の管理不行き届き」ですが、その部下の上司は北条氏邦という人。
この人は四代当主氏政、氏照の次弟です。拠点は八高線と東武東上線と秩父鉄道がリンクする寄居町の鉢形城です。そこを拠点に北関東や上州方面の司令官だったといっていい。
名胡桃城事件は太閤惣無事令に触れるのを承知で?沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を奪取して城代、鈴木主水を殺害した事件です。これは仕掛けた実行犯、猪俣邦憲が独断でやらかしたように言われることが多いが、猪俣は北条氏邦の部下なんですよ。
猪俣邦憲とはどういう人物なのか。
六文銭の楯?.jpg
北条記という書物では猪俣邦憲を酷評しているそうです。
そうですというのは私は現物を見ていないのですが、よく言われるのが、猪俣は氏邦の配下でありながら、名胡桃城を奪取したことで、主家を滅亡に追いやったように張本人のように虚仮下ろされているケースが多い。
私もそういう人物だと思っていた。なので私が言った、「部下の監督不行き届きで・・・」・・・これはその場にいる人を苦笑させたが、知ってる人にしか通じない心無い冗談です。
真相はどうなのだろうか。
空中写真.jpg
名胡桃城自体はそれほど大きくない。
上方の秀吉の意向や、当時の小田原北条氏の置かれた立場が微妙だった。それが無ければ真田と北条の境界紛争、小城の争奪戦に過ぎない。
だがこの奪取事件が小田原征伐の口実を与えたのである。
後世の我々は、その後の作家さんの書きものや、勝った側、生き残った側からの視点で見がちである。実行犯は猪俣邦憲で間違いないが、猪俣は沼田城代を任されるくらいの上級将校。北条本家が上方に睨まれ微妙な雲行きなのは知らなかった訳ではあるまい。
知っててやったなら、彼のやったことは政治上で見たらトンデもない協定破りである。知ってて名胡桃城を奪ったのならいくら何でも思慮が無さ過ぎないか?
取り返しのつかない越権、愚を犯したと言っていい。主家を没落させた戦犯と言われても仕方があるまい。
だが、猪俣憲邦は北条氏が攻められ没落した直接の要因、口実を作ったように言われているが、事件後に猪俣が北条本家から罰せられた記載がどうも見当たらないのだ。もしかしたらもその後も沼田城代のままだったのではないだろうか。
では誰かの命令でやったのか?北条氏邦が部下の猪俣邦憲の行動を黙認したのだろうか。
氏邦か、北条家中の反秀吉派の誰かの指示でやらかしたのか、未だによくわからないところがある。
三の丸.jpg
二の丸.jpg
城内の郭、草の上で、傾きかけた西日に照らされながら、地元の人が言うには、
「そう言われてるけど。猪俣さんって、そんな巷で言われてるほど悪い人じゃないと思うんだけど」
私は首を傾げた。
「猪俣って人は名胡桃を沼田氏に返そうとしたみたいなんだよね」
「???」
「最近になってそういう史料が見つかったんだって」
沼田氏??そういう氏族がいたが名胡桃城や沼田問題の頃には凋落していた。一族の傍流が存続していたか、他から名跡を継いでいたのかわからないが、それに返そうとしたというのである。
西の山.jpg
真相がどうも見えない。
なので後世の我々は想像するだけなら自由です。故・池波正太郎さんの真田太平記では秀吉の謀略になっていて、猪俣邦憲が北条家当主、氏直の筆跡を真似た偽の指令書を受け取り、それには・・・「二日のうちに名胡桃城を奪え」・・・
別の偽書が名胡桃城代の鈴木主水にも届けられる。それには真田昌幸が、「談合したき議あり・・・上田へ参られたい」・・・
猪俣邦憲も鈴木主水もこんな単純なトリックに同時に引っかかっている。どちらもちょっと疑ってかかってもよさそうだが、指示書通り時をおかず攻めかかり、別に内応者もいて名胡桃城は簡単に陥ちてしまう。
猪俣も上司の氏邦に確認すりゃいいものを、当主氏直から直々に命令が届いたので、二日では氏邦のいる寄居町の鉢形城まで確認の意志を往復させるのはちょっと無理かも知れない。
主水は上田に向かう途中で岩櫃城に立ち寄るのだが、岩櫃城代の矢沢頼綱・・・この人は真田幸隆の弟だから昌幸の叔父にあたるのかな。頼綱が偽書を見破った。
それとは別に忍びが名胡桃城襲撃の情報を上田の昌幸に届けるのだが、昌幸はこの一連の流れが上方の謀略であることを見抜き、鈴木主水と名胡桃を見離すのである。敢えて秀吉の謀略に乗ったといっていい。
北条氏直は後で謀られたことに気付き、猪俣も散々に叱られたとあったが、見殺しにされた鈴木主水こそいいツラの皮である。
なかなかオモシロいストーリーではある。上方の謀略を見ぬいて何もしない、それも謀略の一手と全てを察して呑んだ真田昌幸であった。
以上は小説だが、もう少し史実や伝承に拠ってみて、そこで疑問符を付けてみよう。
(以下、平成26年12月13日の加筆ですが。。。)
沼田藩の祐筆に加沢平次左衛門という人が筆を執った加沢記という史料をベースに、沼田市史いわく、名胡桃城代、鈴木主人の妻の弟に中山九兵衛尉という者がいて、猪俣邦憲の家臣、竹内孫八左衛門と旧知の間柄だったのだが、この竹内が中山に内応を持ちかけたのである。成功の暁には、名胡桃城一帯から現在の上毛高原駅近くの小川辺りまでの領地を餌に誘った。
これに中山は応じた。「猪俣名胡桃城責捕事中山九兵衛心替之事」とある。
竹内は真田昌幸の花押に似せた偽書を中山を通して鈴木主水に渡した。
ここでは小説で言うところの北条氏直が猪俣邦憲に「名胡桃城を奪え」といった偽書の類は当然出て来ない。
ただ、加沢平次左衛門は沼田藩初期の頃の右筆なので、当時の沼田藩は真田信之の系統だから、ちょっと疑ってみるフシはなくもないが、あっさり奪取された背景の一部が垣間見えるのである。
吾妻郡の史料にも岩櫃城の項に同様な記載があった。おそらく同じ加沢記がベースになっていると思われます。
では現地の人が私に言った、「猪俣って人は名胡桃を沼田氏に返そうとしたみたいなんだよね」。。。
内応の餌は餌だが、中山は沼田氏の一族だったのだろうか??

更に疑問だが、私の自室にこんな書がある。
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北条と真田の沼田領有問題でよく目にするのが、太閤秀吉の決定した裁定、「真田の祖先の墳墓の地である名胡桃城は真田が領有する」というもの。
だが、この書によると、西毛新聞社の某氏が言うには、「名胡桃に真田の墳墓などない」と言う。
現地でも確かにそういうものは見当たらなかった。あったら沼田市やみなかみ町が目玉にしない訳がない。
真田の祖先は北信濃の名族、海野氏か滋野氏だが、吾妻郡にもその流を引く者がいたとはいえ、名胡桃が真田の墳墓の地であるからという裁定はあまりに真田に片寄り過ぎていないだろうか?
この辺り、上方でなかなか上洛しない北条氏に対して業を煮やす秀吉の謀略の臭いがするのである。
袖曲輪.jpg
先端にある笹郭から見た水上~沼田市の景色です。
風景1.jpg
風景2.jpg
風景3.jpg
風景4.jpg
「あれだね。秀吉は小田原を何が何でも潰しておきたかったんだろうね」
そうとしか思えない。
「仕組んだんですかね?」
というのは、名胡桃城を奪取したのが先か、20万石もの兵糧を調達する命が先に出ていたのが先か、研究者や学者さんの中ではそういう論議もあるようです。でも私は専門家ではないのでそれは他へ譲ります。要はこの小さな名胡桃城は小田原北条征伐の口実を与えた事件の場所で、この小城が有名なのは利根川を境にして真田、北条がここの領有権を争ってすったもんだした挙句、太閤秀吉の検分、裁定で真田に与えられたのに北条側がブン奪ってしまい、それが太閤惣無事令に触れて小田原攻めに至り、北条氏が終焉を迎え、学校で学ぶ教科書の範疇では戦国が一旦終焉に至るからです。
本丸堀1.jpg
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北条氏が滅亡し、真田氏が沼田領を安堵されたら名胡桃城は不要になった。軍事面で実際に使用されたのは約10年間でしかなかったのだ。
「帰りはタクシーで?」
「ハイ。50分に迎えが来ます」
「じゃぁそれまであそこ(管理棟?ロッジみたいなの)で待っててください。中に史料がたくさんありますからご覧になっててください」
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名胡桃城奪取事件は猪俣邦憲の独断でやったのか。
後世がいろいろ想像して描くのは自由だが、今の世で軍事法廷に猪俣邦憲が出廷したら、
「北条氏邦の命令でやったんだ・・・」
意外とそういう殺風景な背景だったのかも知れない。
事件後、猪俣はどうなったのか。小田原が開城した後で忽然と史上から消え失せている。その後はわからないのだ。
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名胡桃城事件の謎 [隠れ郷土史]

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ある事件でよく知られています。
現在、駐車場になっている一帯を般若郭といって、そこには旧くから住居、館があったらしいが、軍事施設としてよりも境界紛争で有名になったといっていい。
でもその注目された期間は僅か10年程度でしかない。

行ってみてちょっと驚いたのだが見学できる範囲はそれほど広く大きくない。
月夜野バイパスの名胡桃城前交差点の脇にあって、道路と駐車場(般若郭)と管理棟場(もとは喫茶店だったらしい)と各郭は殆ど同じ高さにあります。UPDOWNが無く見て回れる。楽チンな散策でしたよ。
郭も平坦で、周囲を土居が囲ってるでもない。土居は先端にある笹郭に少しあるだけでした。
この城を有名にした事件の境界に当たる利根川と赤谷川の合流地点に面した河岸段丘上にあって、般若郭と本城の間にある自然地形を利用した堀が深く鋭いのが見所です。断崖の傾斜面に狭い腰郭が幾つかあるけどあまり近づいて足を踏み外したら堀底まで滑り落ちますよ。
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城内の縄張りはシンプル、オーソドックスでそれほど目を惹くものはなく、ゴルフ場のような芝生の広場になっていた。
全部を見回っても30分もかからず。全く疲れませんでした。膝にも腰にも来なかった。有名になった事件の舞台という位置づけでしょうな。
素人目にも思うのではないか。小田原北条氏はこの小城をブン奪ったのが原因で、秀吉の上方軍に包囲されて滅んじゃったのか。さっさと上洛すればよかったのに。

名胡桃城は月夜野ICからすぐですが、最寄駅は上越線の後閑駅です。歩くならね。
昨日も書きましあが、電車の中で幾つかのローカル駅を見てたら、後閑駅よりも沼田駅でタクシーを拾った方がよさそうだなと気付いた。
沼田駅構内.jpg
実際、そうして正解だった。この日は夜に旅人の惑星ショウさんと初遭遇するのですが、午後から半休取ったんです。季節は既に晩秋、日の入りが早い。午後4時半にはもう暗く寒くなってしまうし、名胡桃城が雑木林や森だったら・・・実際は全くそんなことはなかったのですが・・・見に難くなってしまう。
タクシーの運ちゃんに行き先を「名胡桃城」と言ったらすぐに通じた。2016年の大河、真田丸に備えてここ沼田市も注目される筈。今はまだ静かな様相だが、いずれ町おこしPRに勤しむに違いない。
真田の幟.jpg
上州の運ちゃんはまず親切で饒舌である。
「沼田にお仕事で来られたんですか?」
「いや仕事は高崎で。ここはプライベート。仕事が早く終わったので」
「こういうのを見るのがお好きなんですか?」
「単なるヒマ人ですよ」
「よく乗せますよ。この間も東京から来た若い男女を名胡桃まで乗せました。有名みたいですね」
そう。有名は有名。ある事件だけで有名。
でもその事件のせいで、およそ100年間に渡って小田原にあった北条氏の関東統治に終止符が打たれることになった。
タクシー車内.jpg
時刻は15:45くらいだったかな。タクシーの運ちゃんに帰りもお願いした。
「1時間後くらいにで」
実際は平坦で広くないので、そんなにかからなかったのだが。
「では15時50分くらいでどうでしょう。それだと16:10の上りに間に合います」
タクシーは一旦は沼田市方面へ引き返したのだが、タクシーが駐車場の般若郭に滑り込む際、ロッジのような管理棟、喫茶室?そこに数人の初老の男女がたむろていて、降り立った私を見て大口開けて笑ってやがったんです。
ややムッとしながら、何だ?何か俺、笑われるようなことしたか?って口に出した。聞こえなかったろうけど、こっちが怪訝に思ったのは伝わったようである。
丸馬出し.jpg
歩道を歩いて、バイパス側から馬出郭へ。埋められて浅い堀切を経て三の郭、二の郭へすんなり入っていけます。
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三の丸堀2.jpg
二の丸堀1.jpg
二の丸堀2.jpg
縄張り図.jpg
馬出郭、三の郭、二の郭、本郭、そして笹郭、直線に並んでいます。
歩いていて風もなく、ちょうどいい気候ではある。でもこれから夕方にかけて冷えてくるんだろう。笹郭から見た水上方面の山々には雪が積もっていた。
あっち方面には一度だけ行った尚文や、17の貸切湯の龍洞がある。高崎や新前橋の平野部では晴れていたのに、渋川を過ぎて沼田を過ぎたら雪が降り出し、水上に下りたら大雪だった。
今日もここに来るまでにタクシーの運ちゃんが、「水上方面はもう雪ですから」と言ってたな。
水上方面.jpg
この小城がいつ現れたか。
明応元年(1942年)・・・室町時代ですね。この地の豪族だった沼田氏が沼田城の支城として置いたのが最初らしい。
それからは武田勝頼の指令で真田昌幸が吾妻経由で利根川の西までやってきて、北条氏の領域である沼田を伺う為の前線基地としてこの名胡桃城を拡張した。これが天正8年(1580年)のこと。
それほど技巧を凝らした縄張りではないが、利根川、赤谷川の合流地点近くのいい場所を選んだものである。
本郭へ.jpg
本郭へ登る.jpg
その後、真田昌幸は沼田城を調略して手に入れるが、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡し、今度は真田は北条氏と沼田や吾妻の領有権をめぐって直接争うことになった。
真田はこの名胡桃城と一帯の領有に拘った。徳川氏と北条氏の協定による、「吾妻郡、利根郡を北条に返せ」を拒絶し、天正13年(1585年)には上田城に押し寄せた徳川軍を撃退、その間、沼田領に攻め寄せた北条軍も撃退している。
小田原北条氏をサッサと上洛させて臣従させたい太閤秀吉は、大名同士の私闘を禁ずる惣無事令を時の天皇の命を騙って発令する。沼田問題は北条氏の上洛云々の条件にもなり、天正17年(1589年)頃に秀吉が名胡桃城と沼田の領有問題を調停しかかったが、それでも真田は名胡桃城に拘りその一帯の割譲を拒否した。
結果、「利根川を境として、沼田城を含む東の一帯は北条氏のもの、真田の墳墓の地たる名胡桃城を含む残りは真田領」という折衷案になった。
境界紛争地図.jpg
調停の後、名胡桃城には真田昌幸の家臣、鈴木主水(重則)という人が城代として入った。沼田城代には北条氏邦の家臣(もしくは北条本家の直臣)、猪俣邦憲という人が入った。
だが同年10月末、北条氏の運面を決定付けた事件がここで起きる。沼田城代の猪俣が夜陰に乗じて名胡桃城を一夜のうちに襲撃、奪い取った。これが名胡桃城事件。
本郭1.jpg
本郭2.jpg
笹郭を望む.jpg
腰郭1.jpg
笹郭の土居1.jpg
笹郭の土居2.jpg
ざっと廻って30分もかからず。バイパス側へ引きかえしかけたら、3人の初老の男性がこっちへやって来た。
(さっき、ロッジで俺を見て笑った連中だな。)
必然、彼らと私との距離が近づいた。心中、さっき笑われたことでやや心中に含むものがあった私は、軽い挨拶の後で、
「さっきロッジで何か笑ってましたね?」
「失礼しました。自分たちの知ってる先生か誰かが来られたのかと思って。」
そういう理由かよ。弱いな。ホントの理由は他にありそうだ。でも突っ込まずにおいた。
「何処から来られたんですか?」
「横浜からです」
「じゃぁ北条ですね」
そういう切り替えしが来たかい。確かにここは北条と真田の国境。でも3人のうち幾人かは沼田のご出身らしい。1人は神奈川県の某市在住だった。だから誰がどちらかの贔屓(北条びいき、真田びいき)という訳でもないらしい。
私だってヒネった切り替えしじゃ負けない。こう言ってやりました。
「部下の監督不行き届きで・・・」
この意はすぐ通じた。これで和んだ笑いになった。この意味は。。。???(続く)
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膳城北方 芝生の丘 [隠れ郷土史]

ZEN(膳城)から北東に1km、膳城の城代だった河内備前が兼務していた?別の城塞があります。
行った記録として載せますが。。。
山上城遠望.jpg
この丘がそうなんですが、膳城みたいにコンパクトにまとまってないようで見るからにダダっ広そうな丘だな。
たいした距離じゃないだろうと甘く見て歩いたら何だか遠いんです。距離としては膳城から1kmない筈だが、膳城を下ってまた丘陵に上ってまた下って、それらしき城山は手に届くように見えるのに、そこまでが遠く長い。
農道だから真っ直ぐ目的地まで伸びてないんですよ。田んぼの中を直線で突っ切るわけにいかないからね。
案内標識もなく、ダラダラ歩いてようやく着いたらそこは広い芝生の公園になっていた。公園入口に資料館か管理棟があって、その脇に立つ模擬櫓が迎えてくれます。
何だいこれは?.jpg
近年の公園化に伴い、往時にあったとは思えない模擬櫓を造るケースが増えていますね。
グリーン.jpg
ダダっ広い芝生でした。芝生に寝そべりたかったがそんなことして眠ってしまったら日射病になりかねない。
ゆっくりゆっくり歩いて何とか本郭まで行ったのですが、全体的に大味、大雑把な縄張りでした。

山上城は広大な城域ですが、大味な縄張り。単純で、広めの6つの郭を南北に、段々に並べただけ?のようです。
三の丸.jpg
二の丸.jpg
本丸1.jpg
掘切1.jpg
掘切2.jpg
虎口?.jpg
鳥瞰図です。昨日の膳城同様、余湖先生のHPからお借りしました。ありがとうございます。
鳥瞰図~山上城.jpg
何だか妙な疲れと暑さでバテてしまい、もっとも見所のありそうな西の長~い堀を見損ねてしまったのが悔やまれる。

出典もとでございます。
http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/0/42b264514188f576492573ae000f4976?OpenDocument
http://homepage2.nifty.com/mizuki55/gunma/niisatomura.htm
私は絵心がないのですが、地上散策でこういう図を描けるのって凄い世界である。

この城塞もよく落ちる城で、北条氏康に、長尾景虎に、武田勝頼に・・・(・・・まさかこの時も素肌だったのだろうか???)・・・北条氏邦(北条氏政の弟です)たちに攻められる度に陥落、開城している。如何に上州が群雄たちの草刈り場だったということです。
地元の土豪同士の縄張り争いだったらキリのいいところで和睦するんだろうけど、外敵、特に甲州、信州から来た武田軍はヒドかったようで、前回も載せましたが、「小泉 館林 新田領之民屋 不残一宇放火 其上向善之地押寄・・・」
不残一宇放火ってのは一軒残らず焼き払ったということ。そこまでするか。

やや消化不良で散策終了。
さぁ、ここまで来たからには膳駅まで戻らなくてはならない。
歩いて来た農道をまたテクテク歩いて戻るんですが、周囲を見渡しても歩いてるのは私だけで、傍らを通り過ぎる地元ナンバーの自家用車も少ない。少ない台数のくるまが脇を走り過ぎる度に、誰か駅まで乗っけてってくれ~と心の中で叫びました。
田園風景ですが、新興住宅地もあってその一画で、今風の洒落た家の庭に面したウッドデッキで青空ランチをしていた若夫婦がこっちをじーっと見てるぞ。
私は何をしている人に見えるのだろうか。会話が聞こえそうだったね。
「アイツは何だ?どっから来た?」
「さぁ。。。見ない方がいいんじゃない?」
のような会話をしてるに違いない。

位置関係はこんな感じです。膳駅北の資料館辺りが膳城で、そこかで北方の山上公園まで歩いて来ただけで、そうたいした距離ではないのですが。。。
地図.jpg
ジリジリする炎天下で暑いです。時折吹く風はもう秋の風で、天気がいいから赤城山系が一望できるハズだが、頭上は晴れているのにそっち方面は靄って見えなかった。
遠くから1時間に2本しかない上毛電鉄の走行音がカタンカタン聞こえる。
遠いなぁ。汗びっしょりで喉が渇く。何処まで行っても水分が無い。自販機が無い。軽い嘔吐も湧き上がって来た。こういう散策の時は水を持って歩くべきでしたね。
革靴なので足首が痛い。上州の城塞散策は電車~徒歩は向いてないね。後で知ったレンタルサイクルトレイン、それを利用すべきだった。
しまいに腹痛まできたのでZEN遊具がある公園のWCを借りましたよ。
この症状をジャン妻にメールしたら。。。
「二日酔いだね。(@@;)」
1時間に2本?.jpg
膳駅にたどり着いたら、ちょうど中央前橋方面の電車が出たとこだぁ~っ。
仕方がない。高崎線で帰還するのを東武特急に乗り継ぐ赤城駅方面(13:44発)に変更しました。ややゲンナリして膳駅のベンチに腰を下ろしました。
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膳城~武田勝頼素肌攻めの真相 [隠れ郷土史]

公園の模擬天守は遊具です。
膳城の城域にある公園です。
ZEN.jpg
膳城?武田勝頼が素肌攻めをした逸話の舞台ですよ。

上州には盟主はいない。
小豪族の集まりでしかない。上杉、長尾、北条、武田の草刈り場だったといっていい。
甲斐から信州ルートで武田軍が飢狼のようにやってきて西上州を席巻した。だが信玄の存命時は勢いがあったが、勝頼の代になってからは長篠で大敗してしまい、凋落の下り坂に差し掛かる。
膳城攻めはその頃で、武田家末期の勝頼の唯一のハイライトでもある。

膳城攻めは越後の上杉謙信の跡取りをめぐって二人の養子、景勝と景虎が争った御館の乱の影響で起こったともいえる。
この内乱は「天地人」ではかなり端折って描かれ私は失望したが、実際は数年間に渡って越後全体が泥沼の内戦になり、乱の終結後も恩賞のバランスで上杉家中が大揉めに揉めて越後の軍事力は大きく低下するのだが、武田家中にも影響を与えた。
この乱勃発当初、小田原の北条氏政が実弟景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼した。勝頼自ら軍勢を引き連れて信越国境へ出張ったのだが、勝頼から見たら肝心の北条氏の動きが鈍い。
氏政が差し向けた援軍は冬が近づいて景勝の故郷、越後坂戸城を抜けなかったこともあって実の弟の救援すら消極的に見えたのである。それでいながら武田家にのみ出血を強いているじゃないかと氏政への信頼が薄らいだ。
では景虎側が勝利したらどうなるか。結果的には関東と越後が北条家の血で繋がって勢力が拡大されるのは必定。あまり勝頼に益は無さそうである。
景虎に押されていた景勝と直江兼続はそれに気付いた。そして勝頼に持ちかけた講和条件の中に上州沼田領の割譲があったという。
勝頼の上州膳城素肌攻めはこの過程で起こった。

勝頼を貶める恰好の材料に、黄金2万両の提供が挙げられるが、結果的に勝頼は景虎支援から景勝支援に鞍替えったことになる。
景勝との和睦に踏み切り、自分の妹の菊姫(甲州夫人)を嫁がせた。
信玄謙信の頃ならまずありえなかった婚姻政策で、甲斐と越後が繋がったのである。
本丸2.jpg
本丸3.jpg
勝頼率いる甲州軍がここ膳城に押し寄せたのは天正8年(1580年)10月だそうです。
この時期だと泥沼だった御館の乱はそろそろ終息しかけている頃合いだが、景勝が勝頼に出した和睦の条件の一つ、上州領の割譲の余勢を駆って景虎派だった厩橋を奪い、その勢いで小泉、伊勢崎、大胡、そして膳、この辺りまで来たというもの。
では素肌攻めって何か?まさか一糸まとわぬ素っ裸で攻め寄せたのではないです。そんなことをしたら掠り傷ですらアブない。素肌攻めってのは甲冑で武装しない服装で攻め寄せたというもの。
何故、武装しなかったのか。
勝頼の軍は領民を慰撫する為に敢えて平服でこの地に差し掛かり、そこへ膳城内で宴会を開いていた家中が酒の酔いに乗じて甲州軍に攻めかかったはいいが反撃を喰らい、城内にまで攻め込まれて落城した???
領民を慰撫??
それはアヤしいな。上杉家の文書に勝頼が景勝に宛てた手紙があって、
「太田宿以下之根小屋悉撃碎 生城計被成 剰自城中執出候勇士百餘人討捕之 」
太田宿というのは太田市にある金山城のことらしい。
「小泉 館林 新田領之民屋不残一宇放火」
小泉、館林、新田領を1軒残らず焼き払ったという記述です。武士が戦争をするのは勝手だがそんなことされた領民は迷惑至極である。
この記述が本当なら領民を慰撫する為に平服でこの地を闊歩したとは信じ難い話ではある。実際はかなり荒らしまわったのではないか?
「其上向善之地押寄 則時ニ責破 為始城主河田備前守 楯籠凶徒千餘人討果」
ここで言う「善之地押寄」・・・これが膳城攻めの部分で、「千餘人討果」・・・千人も討ち取ったとは如何にも多過ぎの感があるが。それだけ大捷だったのでしょう。
甲州軍がここまで席巻できたのが意外な感もある。もう少し東へ行けば下野(栃木県)ですからね。

膳城は北側に地元の資料館があるが、そこから膳城へ誘う案内板は無い。無い代わりに堀底には遊歩道が敷かれ、車椅子でも散策できるようになっている。
掘に降りる.jpg
掘の遊歩道1.jpg
掘の遊歩道2.jpg
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掘の遊歩道を見下ろす.jpg
掘の遊歩道途切れる.jpg
東側には民家と公道があって、そこからストレートに本丸に入れるから楽チンです。ただ、夏場だったので蚊がブンブン飛んでましたね。
〇〇〇熱は持ってないと思うけど、夏場に訪城するなら虫よけスプレーは必須です。
東側の昇り口.jpg
開設版.jpg
勝頼は上州の一部を何処まで制覇したのだろうか。
上州の一部を手に入れたと言って喜んでる形勢ではなくなってくる。膳城を攻めた時、城にいたのは北条側に付いた河田備前という人で、武田、上杉(越後長尾)、北条の緩衝地帯だったのに直接干戈を交えてしまったことになる。
怒った北条氏は東海地方の徳川家康と同盟して甲斐を南から脅かす。家康の後ろには信長がいるので、勝頼は三方からの敵を迎撃する情勢を自ら作ってしまった。となると、甲斐から遠い上州に目を剥ける余裕は無かったのではないか?
この後、あまり知られてないが、駿河湾の海戦で北条水軍に惨敗、遠州の高天神城を見捨て家中が動揺し、穴山梅雪の叛心が芽吹き、強引に新府城を作ろうとして木材調達を命ぜられた木曽義昌が背き、民衆も離反し、急坂を転げ落ちるように滅亡へと向かうことになる。
本丸と二の丸間の堀.jpg
土塁1.jpg
土塁2.jpg
掘そのまま2.jpg
掘そのまま3.jpg
掘そのまま4.jpg
上州一体を勝頼が支配したという話はあまり聞かないのは、膳城を含めて北上州を手中に収めたはいいが、長篠の大敗北で将星の数が少なくなり、結局は地元土豪に任せたことや、自身が僅か2年後の天正10年に天目山で滅んだのもあると思う。甲斐府中から直接は管理できなかったに違いない。
挙句の果てにこの膳城での大勝は、御大将自ら武装しないで攻め寄せたという風に化けてしまい、後世の凡将評価を裏付ける材料にすらされてる感がある。

この膳城素肌攻めは落ち目の勝頼のハイライトの筈だが、新田次郎氏の小説で、この膳城素肌攻めの項があるかと探したが見当たらない。
小説の流れで大筋としては必要なかったのかも知れない。

鳥瞰図~膳城.jpg
鳥瞰図はこの道の第一人者、余湖先生のHPから転載しました。
現在、北郭は資料館と、冒頭1枚めの写真にある公園になっています。WCもあります。
http://homepage2.nifty.com/mizuki55/gunma/kasukawamura.htm
余湖先生の掲示版に転載をお願いした際、明日Upする膳城の少し先にある城塞の鳥瞰図の転載をお願いしたのですが、うっかり膳城を併せて依頼するのを忘れてしまいまして。。。
ここで出典元の明記と併せてお借りいたします。

本丸1.jpg
膳城はよく落ちる城で、上杉謙信が2回、武田勝頼が1回、善氏の頃に1回、陥落しています。
謙信、勝頼以外で過去に関わった将星たちは、桐生祐綱、善因幡、善三河、善宗次、大胡民部左衛門、佐野昌綱、最後の将は河田備前、そこで潰えた。
膳城を望む.jpg
武田勝頼か。。。
別に好きでも嫌いでもないけど。親父が偉大だと二代目は辛い。後世の評価も厳しい。ましてや二代目で家が滅んだらなおのこと厳しい。でも勝頼は今川氏真ほど凡庸ではないように思う。
勝頼は謙信の養子になった方が良かったのではないかと思うのだよ。膳城は勝頼が生涯最後に攻め落とした城・・・という訳ではないが、末期の武田家中にとっては滅亡前の光芒といっていいと思います。
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武州河越氏の館他 [隠れ郷土史]

味はいいけどボリュームの割に高かった武蔵高萩の生姜焼きランチの後で、目的の西川越駅に12時59分に着いたですよ。
そこから徒歩10分の行政に届出をすませないと。行政の担当官と私は顔馴染ですが、必ず事前にアポが必要なの。でも川越線が日中1時間に3本しかないので大雑把な時間帯の予約で済みます。「1時~2時の間に伺います」とかね。
書式が変わったのもあって、その場でいろいろ修正、訂正され、受理されたのが13時40分頃だった。このタイミングで私は午後半休に突入したのですが、今宵はジャン家には帰らず上州へ遊びに行きます。
ジャン妻が親戚の通夜で不在なんです。
彼女の20台前の時代は私の中でずーっと謎のままになっていて、どうもその頃は名古屋に住んでいたらしいのだが、今夜は名古屋の親戚の通夜で明日が本葬だという。
私はどんな親戚か知らない。午後は川越の延長で、故郷上州へ酒を飲みと探索に行くことにした。
入間川橋を渡る.jpg
行政を出て入間川を渡ります。
徒歩です。この先に待っているのは平城だからラクチンな訪城で済むだろうとタカをくくったのだが。
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あっ、これって8月後半のネタね。残暑が凄いんです。上州も暑かったけど武州も暑いね。晩夏の炎天下を歩いています。入間川を徒歩で渡っています。歩いているのは私だけで、傍らをくるまや高校生の自転車が通り過ぎていく。私はノーネクタイとはいえスーツに革靴です。暑いなんてもんじゃない。日陰もない。陽射しがジリジリする。
アタマから背中から汗が噴き出した。橋を渡りきってもコンビニはおろか自販機すらないぞ。
川越市の広報車から、「高温注意報が発令。。。外出を控えるように。。。」なんてアナウンスが聞こえたぞ。こっちは思いっきり外出してるんですけど。

渡ったらこの寺、常楽寺というお寺があってそこに簡単な説明がある。
常楽寺.jpg
常楽寺の碑.jpg
常楽寺の解説版.jpg
この先の草地にも解説版がある。同じような説明だった。
薄くて読み難いですね.jpg
そこから北に草むらが川越市・・・ではなく河越氏がいたところ。
河越氏なんてメジャーじゃないかも知れないが、私は前述の行政に赴く過程で、たまたまそこから近かったので発見しただけです。簡単に述べます。平安時代に勃興して地元を開墾した領主、荘園の管理人、そして豪族へ成り上がった一族です。
何代目かわからないが河越重頼という人が源頼朝に重用される。源氏と絆を強固にしようと、娘(郷御前)を源義経に嫁がせた。正妻です。
だがご存じのように義経は兄貴の頼朝と衝突、追放される過程で舅の重頼もとばっちりを喰って誅殺されたらしいのだ。「草燃える」では出てこなかったが、「義経」でタッキー滝山君が洛中に突入して木曽義仲を追っ払った後、平幹二郎さん演ずる後白河法皇に庭先から拝謁して、無名俳優の誰かが河越太郎だか次郎だかを名乗って平服した場面があったように思います。
義経事件に連座した為、河越氏は武州で与えられていた重要な地位、権限を剥奪されたのだが、豊潤な武州を収める河越氏や畠山氏は鎌倉府から警戒されていた。
河越も畠山も根は同じ(秩父党)なのだが、どっちかを粛清してやろうと企んだら畠山重忠が先に罠にかかってしまい、畠山粛清事件の後で、誅殺された重頼の三男、重員という人が復権し、ここ河越館は河越氏の居館&鎌倉幕府の武州政庁として機能していく。
その後、鎌倉幕府がグラついてきた頃になると一族が分裂し、足利尊氏が没した後に起こった武蔵平一揆という叛乱を起こし、これは説明するのも面倒くさいので省略しますが、これで敗走して没落するのである。以後、表舞台に登場することはない。関東から消えてしまったといっていい。
公園を見渡す1.jpg公園を見渡す2.jpg
館の広域を歩いてみたが、東西150m、南北200m四方ほどあった。相当な権勢があったと想像されます。
もちろん平城だから高低差のアップダウンは皆無なのだが、広い草地であまり見るポイントがなくて、ただ何となく草原を延々と端から端まで歩くハメになった。
掘1.jpg
掘2.jpg
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低い土塁や、浅い堀の跡がある。私が歩いて渡って来た入間川の水を掘に引いていただろうと言うが、そのせいで水害にも遭ったらしい。
ここにも土塁が.jpg
土塁が伸びる.jpg
道路脇の土塁1.jpg
道路脇の土塁2.jpg
館跡にある説明版.jpg
北の端の域に行ってそこにはこんな説明ブロックがあるんだけど、陽射しに反射するせいか読んでもアタマに入らない。陽射しが降り注ぐ中、じーっと見入ってられない。
要は発掘現場に上から土を被せて保存して公園化してるわけで、そこに何も無いったら無いんです。学術的には貴重な場所なんだろうけど、わざわざ炎天下を歩いて来た割にはツマんなかったのだ。広大な空き地にしか見えないのである。
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館跡一帯2.jpg
ああ、シンドい。。。
たいした距離を歩いてないですけどね。体力無くなったなぁ。武蔵高萩で喰っといてよかったよ。
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公園の北に水道があったぞ。
ここでアタマっから水をバシャバシャ被り、その辺りにある自販機で水分補給して人心地を得た。公園のすぐ傍は新興住宅地になっていて、住んでる人が私を見たら何処のヒマ人かと思ったに違いない。
水を飲まないと疲れますね。イオン飲料だったら尚いいんだろうけどね。炎天下に散策するには水が不可欠であるとこの時は覚った。
だが、学習しない私は翌日の上州散策でも炎天下に同じ轍を踏んでフラフラになるのですが。。。
自販機.jpg
だが帰途はどうする?
バス停なんかなかったぞ。まさか炎天下をここまで来た莫大な距離を西川越駅まで戻るとなると途中で行き倒れになるは必定である。
タクシー会社を検索してみた。検索してる時、陽射しが眩しく、目に汗が入って間違い電話をしてしまった。
だが最初にアプローチしたタクシー会社は川越市の中心部をエリアだそうで、入間川を渡ったこっち方面の台車が少なくて、西の別会社を紹介された。
「公園の北にいます」と訴えたのだが、メインの道路まで出てきて欲しいというのである。来た道を戻らざるを得ない。
道路に戻って、「常楽寺の近く。〇〇〇〇幼稚園の前にいます。」
待つこと10分で救いのタクシーが来た。

これは往路で歩いて来た入間川橋を渡っているとこ。
くるまだと早い。あっという間に渡ってしまった。
タクシー後部座席から1.jpg
河越氏の公園の最寄の駅は東武東上線の霞ヶ関駅なのだが、私が運転手に言った行き先は、市街地の東明寺というお寺。そこへ向かった。
東明寺.jpg
東明寺です。写真だけ撮りました。
私が歩き廻ったダダっ広い草原の河越館は、後年に北条綱成が籠った河越城ではないです。
河越城を関東管領軍が包囲し、そこを小田原の北条氏康が急襲した有名な夜戦の舞台ではないのだ。その舞台が東明寺とその界隈。
河越夜戦跡1.jpg
河越夜戦跡2.jpg
河越夜戦に関しては今回はパス。疲れて来たのでそれ以上の散策はしないで川越駅に戻りました。その界隈、川越駅に至る町並みはいい趣、風情がある街ですな。
タクシー後部座席から2.jpg
連雀町?
何処かで見たような。。。
何処かで見た町名だな.jpg
川越藩は上州前橋藩の姉妹藩ともいえる。
前橋城が度重なる利根川の氾濫に悩まされ、修復費用が財政を圧迫し、ついには本丸まで水浸しになってしまい、ゲンナリした10代めの藩主で引っ越し大名のあだ名で有名な松平朝矩という人が前橋城を放棄して川越に移転して来たからです。その松平家は幕末の頃まで前橋に帰藩しなかったとか。
だから同じような町名があるのかな。何だか川越が気に入ってきました。
水分糖分補給.jpg駅Cafe.jpg
川越駅で水分と糖分を補給します。
この後は大宮経由で上州に向かったのだよ。川越では晴れて蒸し暑かったのに、この後の上州で凄まじい豪雨に見舞われることになる。
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幻の豊岡藩 [隠れ郷土史]

先日、焼きそばで有名な永井商店の界隈が、実は上里見藩の城下町で、それは僅か一代で消滅してしまった幻のような藩であることを掲載しました。
その調査時に同じ高崎市内の郊外で偶然引っかかったのが豊岡藩です。これも僅か1万石の陣屋規模で、群馬八幡駅から東の豊岡という町一帯を領していた。
(〇〇〇〇のマスターが豊岡のどっかに住んでいるってきいたことがあるが。。。)
写真はその陣屋のあった辺り、常安寺というお寺。
参道.jpg
常安寺2.jpg
豊岡藩も上里見藩同様、詳細が全くわからない謎の藩で、市の資料には禰津(根津)という領主が二代に渡って24年、この地豊岡を領したというが。。。
『史料の不足により領主の経歴や半領域などは未詳で、内容や藩政の展開については明らかにできない』
まるで開き直ったように記載してあった。
陣屋の名称は禰津陣屋となっていて、その所在地については群馬県高崎市下豊岡町常安寺とあった。現地に行ってみたら確かに常安寺という寺院があり、そこの解説版に、豊岡領主禰津神平常安公により建立される。。。とある。
解説版2.jpg
禰津???
信濃小県郡の滋野一族ではないか。
滋野一族は海野氏、(禰津)根津氏、望月氏の三家といって、小県郡、佐久一帯にハバを利かした時代もあったが、後年、北信濃の雄、村上義清に押されて衰退する。

風林火山で禰津氏は登場していません。望月氏はいた。村上義清(演:永島敏行さん)に救援を求めて落ち延びて胸倉掴まれてましたね。
滋野一族、望月.jpg村上に胸倉掴まれる望月.jpg村上と望月.jpg

豊岡藩、禰津陣屋藩の基になる人は禰津政直という人で、この人は天文10年(1541年)、北信濃の村上義清に敗北し真田幸隆と上州に逃亡する。旧領に複せんとして天文14年(1545年)に甲斐武田に降り、武田晴信の傘下に下った。
その後、諏訪攻略、佐久侵攻、志賀城戦といった武田の勢力拡大の為に信濃先方衆として前線で酷使された。かつての信濃の同族を討つ先鋒にもされた。
いいように使われたようだが禰津政直もさる者、妹を晴信の側室に入れている。米沢に眠る武田信清の母になる禰津御寮人という女性です。
信州攻略が落ち着き、晴信の飢狼のような目が上州に向く。政直は永禄10年(1567年)に上州箕輪城の在番も務めたという。ホッと一息入れたことだろう。
政直の嫡男、禰津月直という人は長篠で戦死したそうです。その後、織田の大軍が信州甲州に攻め入って来た際、政直自信はたまたま信州川中島の北にある飯山城(長野県飯山市)というところに居て上杉景勝へ援軍を要請していた為に滅亡の難を逃れたという。
武田が滅んだ後、禰津政直は家康に鞍替えし禰津姓から根津姓に変えて家臣となった。家康の関東移封後、ここ上州豊岡に所領を得た。
当初は5000石だったのを、慶長7年(1602年)、根津政直の子、信政が5000石加増され、僅か1万石でこの地に上野豊岡藩を立藩する。
関ヶ原で東軍に属したのでその褒賞らしい。自室にある史料、戦後の諸侯配置で封土加増一覧の末席に近い位置に載っていた。
常安寺1.jpg
その後、政次という人、その死後に養子となった信直(吉直とも)という人が継承するがいずれも短命で、寛永3年(1626年)4月に病死したら根津家は継承者がいなくなり、上野豊岡藩は廃され公収された
真田氏も海野氏の支流と謳っているが、その真田氏と根津氏だけが近世に藩として存続した・・・かのように見えたが、真田家はともかく根津氏は長くはない。僅か三代で終わった。

豊岡藩という藩があったのは間違いないが、最近、豊岡藩で検索すると京極家の但馬国豊岡藩が出てくる。
但馬国だから兵庫県で、豊岡藩とは豊岡市らしい。どの辺りかなと思って豊岡市で検索すると、この人が出て来るのは困ったもの。
号泣議員さん.jpg
ええっと、すみません、この議員さんは上州豊岡には無関係でございます。
現地に行って確認したのですが、高崎市下豊岡町の常安寺近辺は平地で要害性は全くない。それでも旧中山道が近くを通っていたのもあって、近世にあった代官所規模の雰囲気を醸し出していた。
それっぽい場所1.jpg
後世の石垣.jpg
それっぽい場所2.jpg
史料から.jpg
市の史料には根津陣屋となっている。
常安寺そのものを陣屋の図として載せてあったが、他に史料が無いのだからそれしか載せられなかったの違いない。
藩の事績も家臣団も全くわかっていない。
わざわざ行く人はいないだろうけど、最寄駅は群馬八幡駅です。だからというわけではないが、この日の夜はこの店に行きました。
縦看板.jpg
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幻の上里見藩 [隠れ郷土史]

上里見藩は高崎史にも載っている。
存在したのは寛延元年(1747年)~明和4年(1767年)の僅か20年たらずだが、永井商店のある上里見にあったのは間違いない。
でも情報が少ない。事績もそうだが、何処に藩庁、陣屋があったかがわからない。

永井商店のばあちゃんに言われた道筋をたどる。
高台に向けて坂を上ると、そこに公園らしき場所があった。
公園入口.jpg
上里見丸山公園.jpg
何となくいい雰囲気です。だがここで政務を執ったのだろうか。街道からやや高いこの場所に置くだろうか。
上里見の町.jpg
やきそば永井商店のある上里見は江戸中頃には神山宿という草津街道の集落だった。中山道の脇道のようなものです。この辺りを江戸中期に上里見藩が統治していた。
烏川対岸にも室田という宿場町があっていろいろ争った面もあったらしいが、支配した陣屋があったのは川のこっち側(南側)の街道沿いです。

信号機の交差点表示が薄くなっていますが、上里見の交差点です。左折すると安中方面へ。
上里見交差点.jpg
市史から抜粋すると、上里見藩主は松平忠恒という人です。この人一代きりです。
忠恒は奥平松平家(長篠城で頑張って籠城した奥平家)の系譜にあたる。家康の外孫から続いている。
幕閣中枢にもいた人だが特に目立った事績はなく、国庫の出納役、西の丸諸事、日光東照宮修理、東照宮150回忌法会への参与、朝鮮通信使節の諸事、徳川家基元服儀式といった雑事を担当していたようで、幕閣の総務のような人だったらしいのだ。
その松平忠恒が上野邑楽郡篠塚藩・・・(これも謎でどういう藩で何処に藩庁があったかさっぱりわからない)・・・からここ上里見にやってきた。上里見の神山宿付近に東西50間(90メートル)、南北40間(72メートル)の陣屋を作って、離御殿、藩士屋敷、的場、道場、倉庫、牢屋、刑場まであったという。
だが陣屋でも藩庁でもいいが、神山宿か上里見のどの場所にあったかが明記されていない。
古図もなさそうだし、誰かが発掘したというのも聞かない。今の地図、番地を見ても神山という地名は明記されていないので余所者の私にはわからない。
この辺りの何処かいろいろ探ってみたのだが、集落の南にある伊勢山という場所とか、私が立っている丸山公園がそうだとか・・・。
公園の最頂部.jpg
何かの供養塔?.jpg
上里見城の記載.jpg私が立っているこの公園も某サイトに載ってたというだけです。そのサイトにも松平忠恒の陣屋という記載はなかった。長野業政の娘婿、里見宗義という人のものだという。上州侵攻を阻もうとする長野氏の防衛ラインの一画の一部のようです。

里見橋台散策時に地元の果樹園のオバちゃんから「里見の郷」という小冊子をいただいた。
裏面に新田氏~里見市の散策MAPがあって、そこの②に上里見城がちっちゃく載っていた。だがこれは南北朝時代の里見義時という人の要害だという。(左写真)
この上里見城=上里見陣屋?と混同しがちだが、写真を見ると草ぼうぼうの山の斜面に見えますね。泰平にダレた江戸中頃に、近世の陣屋をこのような場所に置くだろうか。
どうも上里見城、神山陣屋、上里見陣屋とあって、南北朝時代の里見義時の要害、近世の上里見陣屋が混同されているようなのだ。
上里見藩、陣屋は里見氏とは全く関係の無いものです。
MAP.jpg
帯郭?.jpg
段差1.jpg
付近は果樹園か雑木林になっていて、帯郭や腰郭のような段差が如何にもそれっぽく見えるが、泰平になってずいぶん経った江戸中頃の陣屋にそういうのは不要です。
街道から見てやや高い台地の中腹にあって、江戸中頃の政庁があった場所としては微妙です。
だからここがそうだという確証はない。候補地に立ったというだけの記載に留めます。

松平忠恒は幕閣にいたので参勤交代もなかった。ということはここ上里見にどれだけカオを出したかはわからないです。家臣の誰かを派遣して統治していたんでしょう。
前述のように上里見藩は松平忠恒一代きり事績20年足らずで終わった。何で僅か20年だったかというと、近隣の甘楽郡小幡藩の織田家がポシャったからです。
小幡藩はご存じ信長の二男織田信雄さんの系譜だが、信雄の次に織田信良、信昌、信久、信就、信右、信富と六代続くのだが、七代めの織田信邦という人が明和事件に巻き込まれて出羽高畠に移封させられる。その後に松平忠恒が送り込まれた。
小幡藩の松平家は維新まで続くが、上里見は一代で廃藩になってしまったというわけです。その後は天領になったと思います。
所在図.jpg
上野国はやたらと藩が多かった国です。それは戦国期に武田北条長尾の草刈り場だたこと、一国を纏める大名が現れなかったこと、江戸から近かったので譜代藩と天領がゴッチャになっていたこと等の理由が挙げられる。
明治維新を迎えた藩は、高崎藩、前橋藩、沼田藩、安中藩、伊勢崎藩、七日市藩、吉井藩、小幡藩、館林藩。。。
バブルのように消えた藩は、総社藩、那波藩、板鼻藩、矢田藩(吉井藩の前身)、上野豊岡藩・・・(高崎市豊岡の常安寺らしいが詳細不明)・・・大胡藩、白井藩、青柳藩、篠塚藩。。。
そして里見藩。。。いずれも小さい藩だった。
里見氏については研究者もおられるようだが、それよりずっと近世に近い江戸中頃の上里見藩とその庁舎・陣屋は何処にあったのか。上里見神山三町付近にあったとだけの記載しかなく、その場所、全貌は幻に包まれている。
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織田宗家七代の墓 [隠れ郷土史]

飲み記事が続いたので、今日の記事は酒を抜きます。

富岡市と高崎市吉井町に挟まれた甘楽町に小幡の城下町がある。
上州にトバされて最初の頃、都落ち気分でややクサってた私の無聊をなぐさめてくれた。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-21
はためく幟.jpg
藩祖織田信雄がこの上野甘楽郡小幡を貰うまでには紆余曲折あった。
小田原北条氏が降伏して、信雄は家康の旧領、東海地方への移封を拒否して美濃を改易された。拒否した理由は織田家が世に出た尾張美濃から離れたくなかったというもの。
秀吉はそれまで信雄を侮りながらも織田宗家だから幾分立てていたと思うが、この転勤拒否で怒った。信雄の美濃尾張を没収して、常陸の佐竹家に預けた。
信雄はその後、秋田に配流された。(烏山、那須、伊予にも移されたという史料もあった)
秋田の安東という大名は信雄に冷たかったという。織田家がどういう者なのか知らなかったのではないか。信雄を城内に住まわせず、領内の琴丘という地に放り出し、土地の肝煎に遇させたという。
朝鮮役のドサクサに家康がとりなして、信雄は秀吉のお伽衆に加わり、大和国に領地を貰った。

だが、関ヶ原の参戦武将一覧に信雄の名がないのです。
家康に取り成して復帰したのだから東軍についたかというとそうでもないらしい。でも信雄が石田三成と親しかったという話も聞かない。
どうも大阪か京都にいたらしいのだが何をやっていたのだろうか。傍観してたのか。
そして関ヶ原戦後の諸侯配置一覧を見ると、西軍の名簿には載ってない織田秀雄という人が越前大野5万石を没収されている。
秀雄は信雄の嫡男なんです。信雄が秀吉に許されてお伽衆に加わった際に越前大野に封じられていた。どうも戦後、親子揃って改易になったようですね。これで信雄の改易は二度めです。
後世の我々からしたら結果論だけど、信雄さんは時節を見る目がなかった、二度も何やってんだと。空気が読めなかったとしか言いようがない。もったいないことをしたものである。
その後の行動も不可解で、豊家の大阪城に出仕していたが、開戦直前にトンズラしたと囁かれている。その噂のもととなるものは、大阪戦後の元和元年(1615年)、大和国とここ上野甘楽郡小幡で計5万石を与えらているからです。
確証はないが、織田有楽斎とは別ルートで間者みたいなことをしてたのかも知れない。
織田宗家ゆかりの里.jpg
この目印はバイパス沿いに建っています。
上州にいた頃、東京のお偉いさんを乗せてこの界隈を走った時、そのお偉いさんが助手席でこう叫んだものである。
「○○さんっ(私のこと)、織田信長がここにいたんですかっ?」
はぁ?って思ったよ。いるわけねぇだろって。腹ん中でアザ笑いながら、相手に丁寧に説明した。
「いたのは信長の二男信雄ですよ。秀吉が家康を関東に入れて、その後の東海地方へ信雄を動かそうとしたら信雄はヤダって拒否したんです。そしたら秀吉が怒って信雄の領地を没収してどっかにトバしちゃって、そのあとかなり経ってから、捨て扶持じゃないけどこの地を貰ったんですよ」
「へぇ。そうだったんですか」
「まぁ転勤を拒否したんだから当然ですよね」
これは上州転勤の私に引っ掛けて言ったイヤミなんだけどお偉いさんは爆笑してましたね。後部座席にいた私とソリの合わない別の上役は何の話かわからず苦虫潰してたけどね。

織田宗家の墓に行ってなかったので、先日、ちょっとだけ寄り道しました。
入口.jpg
案内板.jpg
車両は行き止まりだよ.jpg
この先にある.jpg
右手、遠くに写ってるのは菩提寺です。
右奥が菩提寺.jpg
お墓は撮影していません。この石段を上った平場にあります。
階段を上がったところが墓地.jpg
小幡藩は信雄を藩祖としているようだが本人はここ小幡に在住していたかどうか・・・。
二代藩主織田信良は信雄の四男です。三代信昌、四代信久、五代信就、六代信右(のぶすけ)、七代信富(のぶよし)と続き、八代信邦(のぶくに)が明和事件に巻き込まれて出羽高畠にトバされる。その後、天童に移って天童藩となる。
虚けの舞.jpg
家に一冊の小説がある。
主人公は信雄なんです。出家して常真と号している。
何故か準主役に北条氏規という人です。氏規が立て籠もった伊豆韮山城を包囲した上方軍の総大将は信雄だった。もっとも総大将といっても木偶に過ぎない。
賢い人に描かれてはいない。時の権力者秀吉に怯えるサマは読んでてしのびないくらい。
安土城の一件で、「焼かずともよい城を焼いたのか」という記載もありましたね。でも落魄しようと織田宗家の血は消えない。秀吉の死後も生き、豊家が滅んだ後も生きた。
生きて血族を残すのが信雄の勝ちいくさだったのである。
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狡兎死して走狗烹らる [隠れ郷土史]

後半に入りましたね。同じ軍師モノで風林火山に比べたら軽いですが、観てはいます。
主役.jpg
官兵衛が土牢から救出され、それまでの爽やかな人格から少しは軍師らしく陰険な人格に変貌するかと期待したのだが、思ったほど変貌してないみたいですね。
今後も岡田准一さんのイメージでいくのかな。
笑っちゃったのが、餓死寸前の三木城に出向いて、「地獄からの使者・・・」
コケおどしてどーするって。(笑)
それでいて小寺を見逃しちゃったし。
(小寺の息子は後年、黒田家の家臣か客分で養われるそうですね。)

「だし、また出るの?回想で?」(ジャン妻)
「さぁな」
悪い予感がしたの。案の定これもコケおどしでしたな。桐谷美玲さんが口から血というか紅をたらしてた。あの人は化粧品のCMにも出てたから余計に笑えた。
安っぽいホラー以下ですよ。どなたが演出してるのか。。。

光秀への伏線かと思いますが、佐久間信盛の追放場面で、
「佐久間って何したの?酷じゃない?」(ジャン妻)
「佐久間はねぇ・・・勝家秀吉光秀たちが、やってアタリマエの戦果を挙げられなかったか、遅かったんだろうな。それと恩賞として分け与える領地が無かったから粛清されたんだと思うよ」

でもこれから村田雄浩さんが演ずる宇都宮鎮房(城井鎮房)も出て来る。炎立つでもそうだったけど、村田さんって中央政権に抵抗する役が似合ってる。これは期待しています。
でも、あの謀略、騙し討ちは描かれるのかな。

さて、黒田家のネタで私が気になることがある。
ジャン自室の史料棚にあるGakken書籍の一つをパラパラめくってたら、「在地系城郭と支城体制の終焉、家臣団統制に利用された元和城割令」という長ったらしいタイトル、難しい記事があった。
流し読みでも疲れたのでトバそうとしたら妙な一覧表があった。黒田家が筑前(福岡)に移封されてからの家臣団のその後というようなもの。
タイトルを見たら、「福岡藩・黒田家の六城主および万石クラスの大身の粛清」、という穏やかならぬタイトル。
その内訳が異様である。
粛清された家臣たち.jpg
まず六城制の重臣たち。

井上之房、黒崎城。。。17600石、忠之時代に知行没収、無継嗣断絶など
これって高橋一生さん演じる九郎右衛門のことですよ。
高橋一生.jpg
三宅家義。。。若松城、2700石、忠之時代に大幅減封。

母里(毛利)友信。。。鷹取城、14000石(18000石とも)、忠之時代に知行没収、立退き
速水もこみちさん演じる太兵衛ですね。随分な仕打ちですな。
速水もこみち.jpg
手塚光重。。。鷹取城、2700石、忠之時代に知行没収、召放ち
この人は後藤基次が長政との確執で出奔した後、前述の母里友信が益富城に移った後に鷹取城に入った。

そして後藤基次。。。益富城、14000石、長政時代の慶長11年出奔
これは有名ですね。二代目の社長、長政とソリが合わなかったということ。

中間(黒田)統種、松尾城、2500石、忠之時代に知行没収、立退き

栗山利安、麻氐良城、15000石、忠之時代に黒田騒動により南部氏預かり
濱田岳さん演じる善助の子です。主君忠之を幕閣に訴えたんです。
濱田岳.jpg
城持ちではないがまだいます。
黒田直之、12000石、長政時代に知行没収、牢人
加藤(黒田)一成、12000石(16000石とも)、万石クラスの者では唯一存続
黒田政成、10000石、長政時代に知行没収
黒田利則、10000石、長政時代に知行没収
彼らは黒田一門です。直之、利則は官兵衛の異母弟で、政成は官兵衛の実弟兵庫の嫡男だから甥にあたる。
黒田一成という人は官兵衛が有岡城で幽閉された時の牢番の息子で、藩祖を生き永らえさせた恩人だからこの家だけ別格扱い。

最期にもうひとり、小河之直、10000石、光之時代に知行没収
裏付けはないが、おそらくこの人は磯部勉さんが演じた小寺の重臣に連なる者かと思う。

この無情な仕打ちは官兵衛ではなく、二代長政~三代忠之~それ以降の仕置きです。知行を減俸か没収され、放逐されたか自ら身を引いたかです。
後藤基次みたいに長政とソリが合わず自ら出奔したのはさておき、これはどういうことなのか。

関ヶ原の恩賞で黒田長政が大領筑前を貰って福岡に本城を築いた際に筑前六端城の制を敷いた。
それは豊前との国境6ヶ所。そこに井上、母里、栗山他、創業時の重臣を据えた。同じ領国内に小大名が蟠踞してるように見える。
外城を与えられてたのか.jpg
だが慶長20年(1615年)に一国一城令が布かれる。大名の領国・・・すなわち後の藩に、大名が居住するか政庁とするのは一つの城郭のみで他は破却せよというもの。一部の例外(加賀藩、伊達藩他)を残して施行された。
それまでは黒田家に限らず、大身の一門や上級家臣、創業の功臣たちが実質上の城館の主だったのだが、それらを幕閣から出た命令だからという名目で没収、減封したのではないか。
これは幕府側からみたら諸国の大名勢力、軍事力を抑制して、徳川家の支配強化するのが目的で、その対象は外様大名の多い西国を睨んだに違いない。
だが案外とこの干渉に対して言い渡された大名側は迷惑に思わなかったのではないだろうか。長政や、黒田騒動で知られる忠之からしたら、創業以来の重臣が煙たくなっていて、国境に万石以上の家臣が6家もいてももったい限りだと。でも領主の意志だけで重臣たちの勢力削減を行うといろいろ面倒なので、幕府からそういう触れが出たのを幸い、分散してた上級家臣の持ち城をなくして力を削減、一国一城に纏めたのではないだろうか。結果、家臣団や領民が城下町に集まるという大名での中央集権、発展も進んだのである。
そして前述の表のようになった。もちろん明治まで存続した家もあったが、タイトルのとおりではないか。
ドラマではそこまで描かれるか。描かれまい。官兵衛が亡くなってからの話である。
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三河野田城・信玄狙撃事件一考察 [隠れ郷土史]

影武者DVD.jpg
~その壱~

影は耳を澄ました。
笛の音が聞こえた。
ここ数日、殆ど毎夜のように笛の音が流れている。その笛の音は前方の闇の彼方、甲斐軍の重囲で今にも押し潰されそうな小城、三河野田城内から響いて来た。
影は床几から立ちあがった。警護の兵が「何処へ?」と誰何したが、「陣中見回りだ」、言葉短く言って歩き出した。幾人かの兵が付いて来た。
(こヤツらは自分を御屋形だと思っている。)
馬場美濃や山県三郎兵衛からあまり歩き回るなと釘を刺されているが、影は今日まで影で通して生きて来た自信、慢心があった。笛の音のする方へ歩き出した。

影は諏訪の某村の出身だが、御屋形に似ているという理由だけで有無を言わさず村から連れて来られた。それ以来、故郷の村には帰っていない。
幸い村に残した家族には厚い手当が施されていると聞かされている。だが自分は甲斐府中の片隅に押し込められ、衣食住には不自由しないものの単独の外出は禁じられ、気鬱を散じる為に遊ぶことも許されず、平時はただそこにいるだけの日々を重ねて来たといっていい。

御屋形には何度か対面した。
初回に目通りして面を上げた際に「なるほど自分と瓜二つだな」とは思ったが、御屋形が自分を見る視線に身震いした。
その目は、こんな者を使うのかと言う蔑んだ視線でもあり、何かの折に役立つだろうという安く買い叩いたような視線でもあった。いざとなれば使い捨てにすればいいとも感じられた。
側近の駒井という家臣から、御屋形の癖、声音、表情、立ち振る舞い等を口やかましく習得させられた。それは農村出身の影には堅苦しい世界で理不尽に感じたが、影たる自分に諸将や側近が上辺だけでも自分を敬うような物言いに酔う時もあった。
弱体化した今川氏を狙っての駿河侵攻辺りから影は従軍した。
時折は軍議に出るようにもなった。それは緊張と退屈と、「己は一体何者なんだ」の自問自答の繰り返しだった。
軍議では黙っていればいいところをつい調子に乗って出過ぎた真似をしたら幕僚の馬場、山県らに叱責された。酷い時は陣幕の陰で打擲された。
それでも慣れというものがある。将としての立ち振る舞いや重い鎧にも慣れた。

影は自分以外にも影がいるかどうかは聞かされていない。御舎弟の逍遙軒信廉を見た時、「自分より似ている」と思ったが、信廉も影を努めているようでもある。
影を努めてここ数年で気付いたことがある。
御屋形の体調が優れないらしいということ。
自分の出番がやたらと増えて来たのである。特に今回の西上作戦はこれまでにない回数で引っ張りだされた。
(御屋形は病に違いない。。。)
御屋形自ら出張っている時の影は、御屋形の周囲を護る警護のいち兵に過ぎない。護衛が主なので決して最前線に出ることはなく気楽だったのだが、三方ヶ原、二俣城、そして目の前にある野田城攻めと出番が続いたのでいささかくたびれてもいた。

ここ数年間は緊張と退屈の繰り返しだったが、今回の野田城攻めでは焦燥と今までにない不安が加わった。攻囲軍が積極策に出ないのである。
こんな小城を何故一気に潰さないのかと思う。影は所詮は影だが、それでも長年の従軍の経験で城の規模やそこに籠る兵数ぐらいは影なりにわかるようになった。
包囲してからもう二十日あまりも経過している。その間、金堀衆が城内に向けて坑道を掘り進み水の手を絶ったと報告があった。
報告を受けても影は影だから無言で頷くだけである。次に打つ策は馬場、山県、原、土屋、内藤といった諸将が合議してそのうえで影に下知を乞うてくる。だがそれも形式に過ぎない。
影は御屋形ではない。風貌が御屋形に似ているだけの置きものでしかないのだ。力攻めでも開城待ちでも、積極策でも持久策でも「応」と頷いてればよい。否は許されない。
それでも影が思うのは、野田城に籠城する兵は近隣の農兵も入れて500人足らずしかない。力攻めを避ける習慣の甲斐軍にしても慎重過ぎはしないか。

影は御屋形が病臥に伏していることを気付いてはいる。思い至ったのは御屋形の病状が重いのではということ。健勝なら自分の出番は必要ない筈だから。
(御屋形の病は重い。。。)
それを口にするのは許されないが、確実に影は影でなくなりつつある。村から連れて来られた当初は理不尽に感じたが、今は、
(影も悪くはない。。。)
そう思うようになった。だが影は御屋形があってこその影なのだ。
(もし御屋形の身に何か起きたら。。。)
自分は必要とされなくなるのではないか。背に冷や汗が流れた。

影は数人の徒歩兵を連れ、笛の音のする方向へ歩いて行く。
攻囲陣の先端は台地が切崖になっている。そこから先、笛の音が鳴る方向を見た。
笛の音は未だ続いている。
だが、その笛を鳴らす者の傍らで、ひとりの狙撃兵が火縄に点火した。影は仄かに点った火に気が付かない。
かがり火が不用意に影の上半身を闇に浮かび上がらせたその瞬間、轟音とともに影の身体は後方に斃れた。

~その弐~

信玄は臥所から起き上がった。
上体のみ起こした。身体がひどくだるい。発熱と、胸につかえのようなものがある。
今日も吐血した。量は多くなかったが、侍医の高白斎にうるさく言われ今まで寝ていたのである。
何処かで笛の音がしていた。
(また今宵も誰が吹いている。。。)
ここ数日、笛の音が続いている。だが陣中の笛の音ではない。10倍以上の数で包囲されている野田城、本丸郭の西の一角から聞こえてくる。

信玄は笛の音を耳にすると、過去に傍に置いた女子たちを思い出さずにはいられない。
京から来た正室、三条夫人も笛をよくした。
諏訪の姫は信玄への憎悪を夜毎、自ら奏でる笛で逸らしていた。
諏訪の姫はもうこの世にいない。自分の家を滅ぼした信玄に、勝頼という子を残して他界している。
他にも側室は数多くいる。いずれも多少の笛や管楽の嗜みはあった。
笛にはいい記憶も忌まわしい記憶もあった。普段は思い出さないが、野田城攻城陣中で夜毎に流れる笛の音と併せて昔を思い出すのである。

信玄は海が欲しかった。
だが海を手にするのにかなりの歳月を費やした。甲・駿・相の三国同盟が足かせになり、併呑した後の信濃から先へ目を向けた。
信州川中島の先には海がある筈だった。だがそこから先は長尾景虎という難敵が立ち塞がり、長い長い戦いを強いられた。
信玄は己と正反対の将、景虎がよくわからなかったのだが、その景虎のせいで北の海を目指した信玄の侵攻は川中島で止まった。あの激戦で舎弟信繁、隻眼の軍師・勘助、老将両角豊後他、多大な犠牲者を出したことで景虎とまともにぶつかる愚をようやく覚ったのである。

それでも海が欲しい。
田楽狭間で三国同盟者の今川義元が敗死したのを機に南へ目を剥けた。反対する嫡男・義信を廃し、それに同心する者を粛清して三国同盟を一方的に破棄した。そして当主義元が敗死した後の駿河に火事場泥棒同然に押し入り、今川家を追いやって海を手に入れた。
長かった。
(だが、あの三国同盟は必要だったのだ。)
現実主義者の信玄は過去を無駄だと悔いたりしない。今は西に目が向いている。不治の病と闘いながら齢五十三で西上作戦の途に就いている。

「今宵は信廉か?」
影は誰か尋ねたのである。返ってきた答えは意外にも、「信廉様は背後から襲って来るやも知れぬ三河勢に備えております」というものだった。
(信廉は後方におるか。)
三方ヶ原で大敗させた三河勢にそのような余力があるかよと思う。信廉もひとかどの戦はできるがどちらかというと武より文の方に抜きんでている。あまり前線に出たがらないのである。
(では今宵は・・・ヤツが影を努めおるのか。)
そう思ったら重い胸が更に悪くなった。
信玄は己の影を努める者を初めて引見した時、このような者が俺の分身になるのかと嫌悪感を抱いた。何故だかわからない。己と似た者、己を初めて見て嫌な気持ちになっただけである。
その後は気に留めなかったが、症状が重くなるにつれて、その者、影の出番が増え、己は奥に大事に寝かされることが増えた。三方ヶ原に快勝した頃から病状が重くなり、信玄が病臥に伏したことで武田軍の進行も遅くなった。
三方ヶ原から先は三河へ攻め入るのか、その先へ進むのか。たかだか500の兵が籠る野田城を包囲してもう一月近くに停滞している。
諸将は側近の駒井を通じて形勢を報告してくるし、その先の指示を仰いでくる。今は病臥中の信玄が言った方策を軍議にかけ、それに影が頷くことで全軍が動いている。
信玄の意志で動いてはいるのだが、演技とはいえ表で決断するのは影なのである。情けないことに今はその影がなくては軍勢が機能しないところまできている。
「今宵もヤツが努めておるのだな」
「御意」
「では夜風に当たることも叶わぬか・・・」
「夜風は御体に障ります故・・・」
何か胸の奥に塊のような異物感がある。病の症状とは別に、この期になって心のつかえが取れない。

信玄は胸に手をやった。その所作と同じくして、病室の闇に嫡男義信の顔が浮かんだ。
(義信・・・)
自害に追いやった。義信の妻女は今川家の女だった。表だって駿河侵攻に反対したから廃嫡した。
残された勝頼はまだ若い。諏訪家という微妙な立場もある。
(あと10年、せめて5年あれば。。。)
ここ数年の焦る気持ちと裏腹に、病魔は確実に信玄の身体を蝕んできた。信玄は己の最後の攻城戦に臨んでいることを知らない。

闇に浮かんだ義信の顔が消えた。
次の瞬間、笛の音が突然途切れ、同時に轟音が響いた。
陣中が慌ただしく騒いでいる。
「見てまいります」
宿直の兵が出ていった後で信玄も自ら起き上がりかけた。だがその時、胸の奥底にあったつかえが巨大な血の塊となって込み上げてきた。
ドッと吐血した。
かつうてない大量な血の塊だった。咳き込んだ。器官が詰まる。
「御屋形が撃たれた」という声が遠く聞こえた。違う、俺はここにいる、誰かいないか。。。
意識が遠くなっていった。

〜そして〜

信玄の死因は労咳(肺結核)とも胃癌とも言うが、ひとつの異説がある。
信玄の生涯最後の攻城となる三河野田城を包囲中、信玄が野田城内にいた村松芳体という人の奏でる笛の音に毎夜聞き入っていたら、鳥井三佐衛門という鉄砲の名手・狙撃者が放った弾丸が信玄の耳を撃ち砕き、この銃創がもとで死亡したというもの。
勝ち戦でありながら武田軍が甲斐方面へ撤退したことや、その行軍の遅さもあってそういった伝説が起こった。
これが有名になったのはカンヌ映画祭で最高賞を受賞した黒澤明監督の影武者の影響かも知れない。私も高校生の頃に見たが、意外な死因と驚いた記憶がある。
サントラ.jpg
この出典は三河後風土記、野田城の城将定盈の一族が後年表した菅沼家譜他、徳川方の幾つかの文書に現れているそうだがいずれも後世のもので。武田側の記録には表れないようです。

私は前述のように、野田城攻囲陣中で狙撃されたのは信玄の影ではないかと思ったりする。
信玄その人は病臥に伏して病状が悪化しており、陣中には影がいて、(武田逍遙軒信廉だったかも知れないが)その影が撃たれたということはないか?
というのは、野田城は籠城戦1ヶ月で金堀衆により水の手を絶たれ援軍もなく降伏開城、城将菅沼定盈は捕われるんだが、後日、人質交換で三河に帰還するんです。生かされてた。
信玄本人が狙撃され死亡してたら城将菅沼定盈の命は助からなかったような気がするのだ。捕えただけなのは信玄にしては甘い処理のような気がするのである。
野田城碑.jpg
野田城へ行くには、東名高速豊川ICで降りて国道151号線(伊那街道)に沿って走ります。
ナビに飯田線の野田城駅を入れた。
「そういう駅があるの?」
そう。あるんです。飯田線は沿線集落に一つひとつ駅があるので駅と駅間の距離が短い路線で知られている。その飯田線の駅です。
豊川方面から来ると、野田城駅まで行かなくても途中に案内看板が立っています。
「野田城って山じゃないでしょうねぇ。。。」
「小さい城だよっ」
例によってブツクサ言うジャン妻である。山だったらアタシは付き合わないよと。過去に韮山城、狩野城、後閑城、春日山城、あの程度の標高の山でブゥブゥ言われた。
ここに来る前、「浜名湖が見たい」と言うから見に走り、「どっか洋食店はないの」と言うものの、浜名湖周辺の飲食店は鰻だらけで諦め、結局は野田城近くの太田家という寿司屋さんなのか居酒屋なのかわからん大きい店で鰻の釜飯を喰ってから野田城へ訪城。
ランチ.jpg
寿司屋か居酒屋か.jpg
鰻釜飯1.jpg
鰻釜飯2.jpg
鰻釜飯3.jpg
伊那街道に入口の掲示版があって細い路地に入る。
左手の雑木林に幾つか案内板があって、入口の表示がある箇所だけくるま1台何とか停車できます。
雑木林の先に.jpg
三の丸も雑木林.jpg
二の丸は雑木林.jpg
城域へ.jpg
新城市教育委員会1.jpg
新城市教育委員会2.jpg
縄張り図.jpg
国道方面から郭が横一列に連なっているような縄張りだった。
大きくはない。この程度の城に籠って1ヶ月も耐えた菅沼軍に感嘆する。それとやはり信玄の病状は重かったに違いない。
空堀1.jpg
空堀2.jpg
空堀3.jpg
切崖.jpg
城内1.jpg
城内2.jpg
井戸.jpg
城内3.jpg
「中に入るの?」
当然じゃないか。
「信玄を撃った場所が見たいんだよ」
「・・・」
それは西側の一画にあった。
狙撃した方面に木々に隠れて寺が見える。
「あの寺かな・・・」
「・・・」
ジャン妻は、この亭主は次に寺の何を見るのか、まさかお墓じゃないでしょうねぇといった怪訝そうな表情である。
狙撃場所1.jpg
狙撃場所2.jpg
狙撃した先には.jpg
「さっき見えた寺に行く」
「お寺ぁ???」
「撃たれた場所が見たいんだよ」
「・・・」
信玄を撃った場所は見た。そこは加害者側である。信玄が撃たれた場所、被害者側の現場を見ないとストーリーが中途半端じゃないか。
野田城と法性寺.jpg
その寺は法性寺という。
寺の東側は野田城、西側も切崖になっている。低地にあるんです。察するに野田城の自然の濠跡に建てられた寺ではないだろうか。
その寺の門は野田城からの移築だという。だとしたら相当古い門ではないか。
野田城の城門1.jpg
門の説明.jpg
撃たれた場所はこちら.jpg
この階段を上る.jpg
参道の脇に信玄が撃たれた場所とあった。そこは切り立った崖の斜面に階段があって、
「上るの?」
「うん」
「ホント、アナタって人は何かそういう目的があると行くね」
「・・・」
上がった平場は民有地の一画で工場や倉庫が建っていて、撃たれた現場はそこにあった。
狙撃された場所.jpg
狙撃された場所説明版1.jpg
狙撃された場所説明版2.jpg
そこから野田城方面を望んでみたら直線距離にして100mあるかどうか。火縄銃の殺傷射程距離は50m~150mくらいだろうか。充分届きそうである。
野田城から見て、撃った辺りで「御屋形が撃たれた・・・」といった騒ぎ、ざわめきが聞こえたという。
撃った野田城を望む.jpg
狙撃した側でありながら、撃った相手を信玄と呼び捨てにしていない。信玄公と謳っている。
「歴史上の英雄を撃ったって謳うのもどうなんだろうねぇ。」(ジャン妻)
でも宇喜多直家のように誰かを鉄砲で暗殺したような暗いイメージは薄いように思える。それは攻城戦の最中であること、万余の大軍で僅か500人の小城を包囲したこと、狙撃事件がなくても信玄が病魔に侵されていたこと、たった一発の狙撃で西上の夢が絶たれた無念、様々な背景が集まってのドラマが創造されたからだろう。

この辺りに蟠踞した菅沼一族や奥平氏はいずれも小領主で武田家が席巻する南信濃の国境近くにあり、松平家に付いたり武田家に通じたり微妙な位置にいた。
野田城将菅沼定盈は菅沼氏の支流だが、野田城開城で武田軍に捕らわれたとはいえ松平家に対しては鉾を構える事が無かったのである。一度も裏切らなかった。
家康側から見て甲州軍の脅威が去ったのは結果的に信玄の病死だが、菅沼定盈が野田城を死守した、開城したがその後甲州軍が撤退した、そのことで菅沼氏の功は高評価され、江戸政権下においては粗略にはされなかったという。
家康の関東移封で菅沼一族は上州にも来たことがある。家康は譜代家臣にはケチなので、最初はいいとこ1万石程度だったのではないか。
野田城を東から.jpg
野田城は信玄生涯最後の攻城戦でもある。そこで狙撃された銃創が元で死んだ・・・の真偽は定かではないが、野田城はその場面のみ光芒のように現れて消えて行く城なのです。
影武者1.jpg
武田軍は甲斐に戻って行く。
元亀四年、のちに天正元年になる1573年1月11日、引き上げる途中の信州伊那駒場において4月12日永眠、享年53歳。
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名和無理之助・・・他 [隠れ郷土史]

上州で私が関わった歴ネタはおそらく今日の記事で一旦はお開きになるかと思いますが。。。

高崎市郊外にある清掃工場、クリーンセンターがドーンと建っている。
クリーンセンター1.jpg
私が上州滞在時におじゃました安中市のローズベイカントリークラブゴルフ場。。。
グリーン3.jpg
ゴミ焼却場とゴルフ場がどう関係あるのか???
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-13
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-02-12
あずま屋?.jpg
このゴルフ場には蔵人城という上州一揆衆(盟主は長野業政)の小城があた。説明版は8番コース内にあり原則、ゴルフプレイヤーしか見学できない。
私は支配人さんに手紙で見学を申込み、運転するカートに同乗して行ってみたら、コースの片隅、あずまやに碑と解説版があった。ゴルフをやらない私はその後も数回食事だけ利用して、上州を去る前に見学のお礼に蔵人城を知った小説を贈ってお別れした。
国を蹴った男.jpgその小説の主人公は武田軍の正規軍ならに傭兵の頭だったナワ~ルドさん・・・ではなくて・・・名和無理之助という人。名和さんはゴルフ場の蔵人城を落として次なる標的は冒頭の写真、ゴミ処理センター近くの高浜という小塞へ向かうのだが、そこへ行くには峠を越えなければならない。

名和無理之助とは名前からして創作小説の主人公のような名前だが、実在の人物です。名和宗安といいます。(那波ともいう。)
小説では雇われ部隊長のような位置づけで実際は外様の家臣だったらしい。もとは伊勢崎市堀口町名和の名家の出身だが、永禄年間に長尾景虎に攻められ城を脱出、武田家に流れた。

武田信玄は上州一揆衆の盟主、長野業政亡きあと好機と攻め込み、ナワさん・・・無理之助は甲州軍の先手となる。
「お前は上州出身だから地理に詳しいだろう」とでも言われたのだろう。
無理之助は長野氏の本城、箕輪城を目指す過程でゴルフ場の蔵人城(守備隊長・島崎蔵人)、ゴルフ場すぐ目の前の礼応寺城(守備隊長・赤見藤九郎)他を抜き、僅か200の手勢で安中アルプスの雉ヶ尾峠を越えた。 [バッド(下向き矢印)]
現在の雉ヶ尾峠.jpg
安中アルプスには長野や里見の哨戒兵が守備していたが、無理之助はその名の通り夜間に無理して
雉郷峠を突破。烏川を越えて対岸の高浜クリーンセンターに渡り、センターすぐ隣にある高浜砦に攻めかかった。
烏川から.jpg
前述の小説では高浜は単郭の小城だったという。
そこには鷺坂常陸守介長信というローカル武将が守備していたが、放火されて兵が動揺、反撃しようにも単郭だけに退去するしかなく、無理之助の無理強い作戦は成功した。

無理之助率いる牢人部隊は誰よりも先に奥深い高浜まで単独で送り込まれたので殆ど捨て石に等しい。
だがこの無理な奇襲が成功したことで、高浜の前衛で雉郷峠の守備兵は、北の高浜から上がった炎でいつの間にか背後に回られたと気付いたのです。
その後で甲州軍は峠の正面から悠々本隊を送り込む。雉郷防衛ラインの守備兵はいつの間にか背後に敵に廻られ、高浜が炎上し、前から甲州軍の本隊に押し寄せられ、峠の薄い防衛ラインはロクに抵抗できず四散した。
この時、里見も落ちている。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-10-30

無理之助の敵中突破はたまたま成功しただけなのだが、このクリーンセンター傍の高浜陥落が、ここからすぐ西にある長野氏のナンバー2・鷹留城兵を動揺させて陥落させ、箕輪城陥落を早め、長野氏は滅んでしまった。

小説では、無理之助率いる牢人部隊は川窪兵庫助信実(信玄の弟、信虎の十男)に外様以下、牢人の寄せ集めのように上から目線で扱われている。
無理を押し通すように峠を突破したが、上司に無理強いさせられたのかも。無理なのは名前だけだろと思われたくなかったのかも知れない。

高浜の記述はクリーンセンター近くにある高源寺の一画に一枚あった。
この寺と、道を隔てた高台に赤いお堂があって、その一帯が無理之助が攻め込んだ高浜の激戦地と推定されます。
高源寺.jpg
高源寺由来1.jpg
高浜砦1.jpg
高浜砦2.jpg
クリーンセンターの巨大煙突が見えます。
高浜砦3.jpg
クリーンセンターは市の運営で、市内で発生した一般廃棄物のみ搬入できる。
料金は100kgから1kg辺り15円+消費税額で有料になるが、100kg以下だと無料だとか。
もう時効だから書いちゃいますが、2012年春に上州に赴任した最初の頃、ウチの社の市内の現場で、20台半ばの女性写真が自分の車(軽)に支店ゴミを大量に積み込んでるのを目撃した。
「何処へ持って行くのさ?」
「このゴミをセンターに持って行くんです」
助手席、後部座席、小さいながらもハッチバックに、ビニール袋にぎゅうぎゅう詰めしたゴミがパンパンに積載されていた。
「自分のくるまで持って行くの?」
「そうです」
「往復どれくらい?」
「時間ですかぁ?45分もあれば戻ってこれますよぉ」
当時は今ほど信頼関係ができてなかったので面倒くさそうに返ってきましたね。その後、「ゴミ出しに行くガソリン代って清算されないんですか?」と言って来たので、東京の社内規定を流用して、キロ数×〇〇円で清算できるようにした。
でも自分のゴミでもない産廃ゴミを自分のくるまに積むってのは抵抗ないのかな。紙ゴミだけではなさそうなので夏場なんかニオわないか?
業者と契約すればいいのに。でもそういう発想もないまま数年間自家用車によるゴミ搬送を繰り返して来たというんだな。

後日その女性社員が新人後輩社員にゴミを持って行かせる指示を出した。私は幾つか持って積んであげたんです。
「いつも自分で持って行くんか?」
「そうです。アタシにばかり言い付けるって思う時があります」
そりゃぁ新人だから仕方がないだろ。でも哀しそうな物言いだった。
私はその子のくるまが出るのを見送った。そしたらその子に「持っていきなさい」を命令した先輩女性社員が私の傍らに来て険のある言い草で、
「○○さん」
「何だ?」
「あの子ちゃんと全部積んでった??」
後輩を疑うような文言、私は仮にも上役なのに、友達に話しかけるような言いぐさに私は眉を険しくした。
「積んでったよ。でもこういうのはよくない。業者と契約するから」
「何スか?何の業者スか?」
「ゴミを回収する業者だよ」
「???」
わからなかったみたいなので契約しました。なので現在はセンターへの自家用車による搬送、搬入は特別なことが無い限り停止しています。
口の利き方がなってないこの子は登場しています。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-03-30-3
クリーンセンター1.jpg
このクリーンセンターから東へ1km辺り走ったところに景忠寺というお寺があって、どうも人の名前らしいので調べてみたら、長尾氏がいたのを知った。
長尾氏はもとは神奈川県横浜市戸塚区長尾台という地にいた。九つ井戸(レストランではなくホンモノの井戸)の隣にある高台の出身だが、ここにいたのは長尾景忠という人。
知らなくても日常生活に全然、影響のない人。
ただ、景忠という人は2人いて、長尾台にいた鎌倉時代の御家人の景忠と、南北朝時代の左衛門尉景忠と二人いる。ここにいたのは後者で、長尾氏中興の祖と言われてる人。
中興というからには没落していたのだろうか。まさにそうで長尾氏は宝治合戦(北条氏が目障りだった三浦一族を滅ぼした戦闘)に巻き込まれて一族は四散する。景忠さんは唯一の生存者の流れで名跡を継いだ。中興の祖と言われるのはこの人から幾つかの長尾氏が分かれて世に出て、その中にはあの長尾景虎に繋がる家系もあるからです。
長尾景虎.jpg

このお寺は高台にあり、標柱が建てられていた。
由緒はかなり古いようだが詳しい来歴がわからず。周囲をウロついてみたのだが、困ったことに保育園の敷地なんです。お寺が経営してるみたい。
標注.jpg
寺の周囲.jpg
土塁がわかりますか?.jpg
平日の午後だった。中に踏み込むのも躊躇われる。お迎えのお母さんも来だしたのでウロウロしてたら胡乱なヤツと見られる。ぐるっと一周してそそくさと退散しました。

何だか今日の記事はカテゴリがゴッチャになってしまった。
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火祭り~多胡羊大夫のこと [隠れ郷土史]

九州の別府八湯温泉祭り開催中、別府警察署に外国人が駆け込んだそうですね。
その外国人が言うには、「山が燃えている」[あせあせ(飛び散る汗)]
事情を聴いた署員は山が燃えているのは扇山の火祭りであることを察し、英語で、「ノーノーフェスティバル」と説明して帰したそうだが、観光PRにはなったに違いない。その別府温泉火祭りは京都大文字焼きほど有名ではないが、上州富岡にも火祭り行事がある。
これです。
大島の火祭り.jpg
富岡市の大島というところで例年8月16日、日没になると文字が点火されます。その山の斜面は上信越道甘楽富岡IC~下仁田ICの間辺り。
文字は縄で作られるが決まった文字はなく今年に相応しい一文字を決めるんだと。1200年だか1300年以上続く伝統の行事だとか。
1300年前といったら平城京の頃ではないか。

盆に火を焚くのは先祖の霊を迎え、送り出す行事。ウチでもその時期になると売ってる盆グッズを買って迎え火、送り火をします。
祭りも同じです。大島火祭りの当日は大島地区の各家から1人ずつ道具を持って山に登って文字をカタチ作ります。
この火祭りが起こったのは1300年前だから遠い奈良時代まで遡る。
大化の改新後、都から離れた東国は大小様々な戦乱が繰り返され、それは東国の豪族同士だったり、中央からの討伐軍相手だったりする。史上に現れないのもあるだろう。その戦乱で亡くなったモノノフや民人の霊をなぐさめる為、大島の山の斜面に火を焚いて供養したことが始まり。
大島の火祭りは、吉井町に有名な多胡碑(日本三古碑、上野三古碑のひとつ)という碑文があって、それに因む部分がある。
多胡碑.jpg


この碑が有名なのは、日本書記に続く「続日本紀」に記載される多胡郡の存在を裏付けるからだが、そこにはこうある。

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊

意味は、都の弁官局(朝廷の政治最高機関)からの命令で、上野国片岡郡、緑野郡、甘良郡の三郡から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せるというもの。

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
郡の名前は多胡郡としなさい。布告年月日と発令者の名前、官位が記されている。

碑文2行め最後に、「良郡并三郡内三百戸郡成給羊」←羊とあるが、これは動物ではない。多胡羊大夫(タゴヒツジダユウ)という人のことです。
この多胡羊大夫は実在の人物なのか伝説上の人物なのか、今でも様々な伝承の域を出ないが、上州のあちこちに伝説、伝承が多くあるから実在したと見ていいのではないか。もしくは何かモデルがいたかも知れない。
私は学者さんではないので間違った記述があったらご容赦願いたいのですが、碑文では上野群多胡郡の郡司を賜った人となっている。多胡郡の戸数は300戸、任命した高官の名前も刻まれている。
多胡羊大夫という人は、古代にこの地を治めた人だが、ある方面からの讒言により朝廷から疑われ、最後は官兵に討伐された。ここ大島もその戦乱に巻き込まれ、近隣の小幡、天引といった要害も落とされる。
多胡羊大夫は自害し、その魂魄は大島に舞う蝶となった。大島の火祭りはこの多胡羊太夫をなぐさめる祭りが発祥だという。
高橋克彦さんの小説で、陸奥の豪族が東夷と蔑まれ、中央集権に馴染めず反乱を起こし、結局は討伐軍に攻められるストーリーがあるが、多胡さんが討伐されたのもそれと似たようなものかも知れない。
大島の火祭り2.jpg

写真は多胡羊太夫の要害があった大島地区です。現在は畑になっている。畑を耕していた人に聞いてみた。
「ここって何か館があったのですか?」
「いや、そういうのは知らないなぁ」
言葉を濁されちゃったんです。
「浅間山が噴火して、門が埋まって。。。」
全く会話にならず。だがここの集落には小間(コマ)さんという姓が数軒あって、小間姓の先祖は多胡羊太夫一族の生存者もしくは遺児、男子だというんだな。
火祭りの斜面を望む.jpg
長閑なもんです.jpg
この近隣に大島鉱泉という温泉があって、それもあって事前に調べてこの地に来た。(入りませんでした。)調べなければここが多胡羊太夫の要害だったなんて絶対にわからない。
これが大島鉱泉です。大島鉱泉も小間さんです。
大島鉱泉.jpg

この石垣は後年のものか1.jpg
以上は古代の話だが、ここ上州が武田北条上杉長尾、各氏の草刈り場だった時代も長いし、その小間氏がその時代もこの地で館の主だったという記事も見た。今は畑だけで要害に見えないがそれは後世に成らされたに違いない。館跡の南端部は吸い込まれそうな深さ、広い幅の水堀になっており、鏑川とその支流、舟川の合流部近く、二つの河川に挟まれた段丘、細長い台地にあった。
自然の堀.jpg
そういえば上州は各地に多胡姓が多い。私の知人にも2人いた。それもご先祖さんが多胡羊太夫だったという伝説にちなむのではないだろうか。
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陸軍中野学校終焉の地 [隠れ郷土史]

富岡高校(七日市藩邸跡)2.jpg
七日市藩邸のあった県立富岡高校にはもう一つ秘められたネタがある。
昭和史です。それは陸軍中野学校終焉の地というもの。

陸軍中野学校の創始~詳細についてはその筋の専門家に譲ります。簡単な表現をすれば諜報機関養成所のようなものです。
諜報・・・情報収集のこと。
謀略・・・情報操作。誤った情報や宣伝工作で敵を攪乱する。
防諜・・・敵の仕掛けて来た諜報、謀略を探知し、こちらが偽情報を流して混乱させること。裏の裏を掻くわけですよ
戦争末期には以上3つに実戦として遊撃が加わる。本隊とは離れた奇襲、破壊工作、いわばゲリラ戦ですね。

今年になってからご逝去されましたが、昭和49年(1974年)ルバング島から帰国された小野田寛郎元少尉は陸軍中野学校二俣分校の卒業生だそうです。だが中野学校は軍内部でもその存在が極秘にされ、卒業生は学歴や軍歴を伏せなくてはならない。なので退校という名目で事実上の卒業をされたとか。
日本軍の通常教育とは異質で、捕虜になってもいいから生き残って任務を遂行するよう徹底教育されたという。それもあったから小野田元少尉は島内で生き延びられたのかも知れない。

中野学校の学生は、自分は諜報に向いているからと志望して入校したのではないらしいのだ。
いろんな士官学校出身者からも選抜されたが、それより一般大学生や高等専門学校の出身者が多かったという。如何にも叩き上げでバリバリの軍人らしい人は諜報活動に向いていないということだろうか。
私の素人考えですが、外見や醸し出す雰囲気で正体がバレてしまったら諜報任務にならないと思う。むしろ軍人に見えない、ホントは軍人なんだけど民間人にしか見えないような人、例えば表向きは新聞記者とか、商社マンとかなら情報を得やすいのではないか。

昭和41年に映画化されています。
DVDで復刻されてます。
DVD2.jpg
DVD1.jpg

ここ七日市藩邸跡、現富岡高校が陸軍中野学校終焉の地だというのをさる資料で知った。
くるまを学校敷地内の正門入った正面の駐車場に仮停車。平日なので校内は学生さんが闊歩している。富岡高校の学生さんは大変礼儀正しく、「こんにちはぁ」、と挨拶してくる。こちらもぎこちなく、「お、おう、こんちは・・・」と返すが、現在の学生さんに「中野学校を示すものって何処?」と訊ねるのもなぁ。躊躇した。
存在を示すものが何処かにあるのだろうか。ウロウロ探し廻って不審人物に見られて通報されるのもイヤだし、手っ取り早く受付を尋ねた。
富岡高校.jpg
私は上州に関わる者として敢えてこっちの名刺を見せた。
「個人で訪ねて来たんですが、陸軍中野学校の跡というのはここでしょうか?」
ハッキリ言いました。男性の職員さんが2人出て来られ、
「池の周囲の道が雪で倒れた松で通り難くなっているんですが、そこにこれくらいの(腰の辺りを指す)低い碑が建っております」
「行けばわかります?」
「すぐわかりますよ」
「ではサッと見てそのまま引き上げます」
塞がれている.jpg言われた通りの場所へ向かったら、池を廻る散歩道は折れた松の枝や赤いコーンで塞がっている。

学生さんの安全対策で通行禁止の様子だったが無理に分け入った。そしたら土塁跡か櫓台跡のような土盛の手前に「陸軍中野学校終焉の地」碑があった。国道を背にして正門を入って左です。

折れた松で通行止め.jpg
散歩道の脇に.jpg
これぞ陸軍中野学校終焉の碑.jpg
陸軍中野学校はいつ、何故?ここに移転して来たのか。
移転してきたのは米軍が沖縄に上陸した昭和20年(1945年)3月~4月頃です。陸軍中野学校の学校本部、学生隊本部、見習士官学生、将校学生、実部隊の一部がここ富岡に移転、疎開してきた。
全部は収容できず、当時の富岡町を中心に甘楽郡や現在の高崎市吉井町といった上信電鉄沿線に職員や将校学生600人が分宿した。
移転した目的は米軍が本土上陸して来た場合を想定して遊撃戦(ゲリラ戦)を関東平野各地で展開するというもので、東京の大本営も移転する構想だった。東京から撤退後の大本営移転先は信州松代で現在でもその遺構がある。
写真は信州松代舞鶴山に設けられた大本営移転候補地、天皇の御座所と地下トンネルです。(日本史謎解き史跡探訪から)
大本営トンネル.jpg御座所.jpg
ここ富岡が選ばれた理由は何か?
製糸場があったから?違います。大本営移転予定地、信州松代と東京のちょうど中間地点だからだと思う。
富岡に移転後、泉部隊、関八州部隊といった作戦部隊が新設され、関東を席巻するであろう米軍の後方攪乱、民衆の武装蜂起、遊撃戦の展開を目論んでいた。
だがすぐ終戦になる。昭和20年(1945年)8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を中立国に打診、8月15日、昭和天皇による玉音放送により日本の降伏が国民に公表されるが、その数日前の8月11日には中野学校で解散準備が発令され、機密重要文書は焼却処分にされ、通信機器は開発中の兵器も破却されたという。
戦後、前橋に駐屯した進駐軍の追及があったと思われるがその詳細はわからない。
地下に潜って活動を続けた隊員もいたのではないか。
これぞ陸軍中野学校終焉の地.jpg
現在、その存在を示すものはこの碑だけのようです。
いつ誰が建立したのか訊くのを忘れてしまった。私の腰より低いその碑はあまり目立つことなく静かに建っていた。
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小さな前田藩 [隠れ郷土史]

上州に加賀前田家の支藩がありました。
加賀102万石の分家です。七日市藩、加賀藩祖前田利家の五男、利孝が藩祖です。
金沢城内の家系図にも小さ~く載っていた。
1万石です。(寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石)
系図.jpg
藩祖・利孝の母は「利家とまつ」ではなく、お幸和(明運院)という人です。だが、「利家とまつ」のまつ殿が養育したという。

加賀藩祖・前田利家が死んだ後、家康は豊政権の諸大名に難癖を付けるのが常套手段になっていくのだが、家康が前田家に謀反の嫌疑をかけた時、まつ(芳春院)が人質になって江戸に下る。
その時まつは利孝を連れてった。江戸で養育した。
江戸で暮らした時期の長い利孝は大阪の陣で何かの戦功をたてたらしいが、その功と、おそらくは養母、芳春院の口利きもあったと思われるが、本藩と比べて僅か1/102とはいえ、独立した藩として七日市藩を興した。(元和2年、1616年)
金沢城2.jpg
上が本家です。
下が分家、七日市藩です。
比べるのもヤボだが城持ちと陣屋の違いは歴然。
富岡高校(七日市藩邸跡)2.jpg
越中富山藩や大聖寺藩と違って本藩から分知されたわけではなく幕閣から直々に与えられたので、厳密に言えば加賀藩の支藩でないという意見もあるようである。
僅か1万石の小藩なので内情が苦しく、加賀本藩の援助を受けていたことや、本藩が江戸出府の折は中山道を通るので中継地として利用されていたので、本藩から見たら支藩扱いだったといえそうである。
おそらく藩ご用達商人からの借金も、加賀本藩があってこそ可能だったのではないだろうか。

天明・天保飢饉に悩まされたが幸い何処へも転封、移封されずこの地上州七日市に代々根付いた。藩祖・前田利孝(としたか)の次からは、利意(としもと)~利広(としひろ)~利慶(としよし)~利英(としふさ)~利理(としただ)~利尚(としひさ)~利見(としあきら)~利以(としもち)~利和(としよし)~利豁(としあきら)~利昭(としあき)と続く。

1万石で加賀藩の支藩的な扱いだった為、城主格ではなく陣屋だった。現在は富岡高等学校の敷地になっていて、製糸場に至る旧国道を西に走ると「七日市藩邸」のデカい縦看板が目につく。
富岡高校(七日市藩邸跡).jpg
入ると当時の陣屋が建っている。
東には当時の黒門があってそこは生徒が自転車で出入りしていた。
陣屋の建物3.jpg
黒門.jpg
他にも民間に払い下げられ移築された門が幾つか残存しているそうである。

これは藩邸の土塁跡の土盛り。
陣屋は東西方形だったそうです。
陣屋の土塁跡1.jpg
陣屋の土塁跡2.jpg
1万石とはいえ、長く続いていたので多少のお家ゴタゴタはあった。
第9代藩主、前田利以という人がいる。利以=トシモチと呼びます。
この辺りから世情の不安定もあってゴタついて来る。
利以という人は、天明6年(1786年)・・・というと天明の大飢饉の最中に加賀大聖寺から七日市に転籍(といっていのか?)して来た殿様です。この人の代になって加賀本藩からの援助が受けられなくなったというのだ。
駿府加番(駿府城に派遣され駐屯する役)以外はさしたる実績が見当たらない人だが、文化5年(1808年)に隠居した後も藩政の実権を離さず江戸に別邸を建設して贅美な暮らしに甘んじた。
利以さんはどこのお家にもいる困った殿様だが、いろいろな史料を見ると江戸詰の家臣が隠居した利以と10代藩主利和(利以の養子)との仲を裂こうとしたという陰謀説に必ず行きつく。でも、二人の仲を裂いて、誰を擁立しようとしたのかはわからないのだ。

困ったご隠居様で、浪費癖で藩財政が逼迫した。これが加賀本藩を怒らせ、藩主利和の本家出入りを禁じた。
利和は困った。
養父の浪費癖に手を焼いているが自分は何も悪いことはしていない。でも当主として藩政不行届のように見られたのである。
何とか本藩との関係を打開しようと文化9年(1812年)4月、御側御用人格の須藤という家臣が諫言の遺書を書き夫妻で自害した。辛いことではある。
これで本藩出入り禁止は解けたのだが、隠居した利以の贅沢はその後も続き、文政11年(1828年)に死去するまで藩財政が再建の方向に向かなかったそうである。
そしてその後を継いだ10代藩主の利和は聡明だったらしく、文化13年(1816年)に藩内から集めた6万両を基金として貧民救済への手当、妊娠や4人以上の子供のいる家族に手当したという説がある。これを「生育講」というそうです。農民が他領へ逃散すると人口減が収入減になることを知っていたか、君側が具申したのを取り上げたのだろう。

次が11第藩主の前田利豁という難しい漢字の名前の人。としあきらと読みます。
この殿様は天保11年(1840年)2月に家督を継いだが翌12年に七日市藩は火事で殆どが焼失してしまった。そこへ追い打ちをかけるように大阪城警護を命ぜられ、翌13年(1842年)に無理して成器館という藩校を創設し、焼けた藩邸を再建した。
現在、富岡高校敷地内と各所に現存している建物はこの時の再建です。
嘉永2年(1849年)2月には領内が旱魃に見舞われた。本家加賀藩から援助を受けている。

幕末、元治元年(1864年)11月15日、水戸天狗党が上州七日市にやってきた。
僅か1万石の七日市藩兵力だけでは抗しがたい。かといって領内本街道を通すのを潔しとしなかった横尾鬼角という家臣が。。。
「僅か1万石の小藩とはいえ弓矢もござれば、手をつかねてお通しもなり難し!!」
と啖呵を切り、間道を案内して僅かに面目を保った。
その後、下仁田で戦火になる。七日市藩は参戦しなかった。単独で戦った高崎藩は撃退される。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-17

天狗党を間道に案内した横尾はこの時は藩を救ってカッコいいのだが、その2年後の慶応2年(1866年)、藩内部の陰謀に加わって失脚するから世の中どうなるかワカランものである。
この事件は江戸詰留守居役の芝塚助八とその党派が藩主利豁(トシアキラ)を廃立し、若年の利昭という幼君を擁立して藩政を独占しようとしたもの。芝塚は横尾鬼角を派閥に誘った。
だが一連のアヤしい動きは本藩の知るところとなる。芝塚と横尾は俸禄を剥奪され永蟄居を命ぜられ、その後すぐに明治新政府の時代になって明治6年1月に最終処分が言い渡された。内容は、放免される代わりに民籍に編入されたというもの。士族を剥奪されたのである。
でも時の司法省にしえは寛大な処分ではないだろうか。
横尾にしてみれば派閥を間違えたとしか言い様がないが、天狗党を七日市に入れなかったことで罪一等を減じたのかも知れない。

七日市藩内が佐幕派と尊攘派に分かれて抗争したかどうかは私の調査では不明のままに終わったが、藩としてはいち早く新政府側についた。

最後の藩主前田利昭は七日市藩知事になるが、やはりここでも加賀本藩の後見を受けている。
藩創始時には江戸幕府から直々に領地を貰ったが、その後は本藩あっての七日市藩という位置づけでしかも1万石の小藩の悲哀も感じられる。本家加賀藩はある時はトテモ頼りになるが場合によってはいろいろ容喙もあっただろう。でも本藩があったのは七日市藩にとってはうるさいながらも幸運ではなかったか。そういう後ろ盾が無い小藩は直に商人から借金するしかなかったのだから。。

(本家加賀藩が江戸出府の折に七日市に宿泊したら大勢の一行を饗応したのだろうか。宿泊費はどっち持ちだったのかな?)

七日市から北に群馬100名山のひとつ崇台山(そうだいさん299m)があって安中市と接する境です。その山の中腹に長学寺というお寺がある。
長学寺入口.jpg
長学寺1.jpg長学寺2.jpg
創建以来1000年、曹洞宗の古刹で七日市藩前田家の菩提寺です。
そこへ至るまでの里と一本道の周辺には人家は殆どない。人もいない。対向車ゼロ。この道はその寺へ行く為だけの道といっていい。
里の風景.jpg
そこへ至るまでの道1.jpg
そこへ至るまでの道2.jpg
前田家と七日市藩解説版.jpg
前田家の墓所解説版.jpg
前田家の霊廟案内.jpg
七日市藩前田家の廟所は山の斜面の段にあった。お墓なので写真は撮っていません。
前田家の霊廟へ.jpg
墓所入口.jpg

七日市藩は富岡高校の敷地になっているが、ここにはもう一つの史話が眠っている。
それは昭和史、秘匿された軍部のものです。
これぞ陸軍中野学校終焉の碑.jpg
陸軍中野学校??
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