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軍用列車 岩鼻軽便鉄道 [廃線]

群馬の森では花や木々を眺めることを全くしないまま、公園よりも周辺のアヤしい建造物を見て回りました。
思ったのは、ここで製造された弾薬をどうやって運んだのだろうかということ。
ダイナマイト碑他には、明治の創業時には水運云々と記されていたが、時代とともにそれじゃぁ追いつかなくなったに決まっている。
鉄路ではないだろうか。
ここへ来る途中、ぐるりんで通過したアヤしげな踏切、引き込み線を思い出した。。。
引き込み線?-1.jpg
途切れているぞ?.jpg
公園を出てぐるりんバス停を見たら本数が少ない。右足も痛いしタクシーを呼ぼうと決めた。
でもあの踏切、高架の単線が気になる。右足を引きずるようにして徒歩で踏切まで戻ったんです。ここまで来たのだし、後で机上で調べるにしても写真がないと恰好がつかないからね。
(仕事もそこまで執念燃やせばいいのにね。ジャン妻)
うるさいっつーの。アヤしげな単線、その先の高架で突然途切れる単線の踏切は第三栗崎踏切という。JA岩鼻と岩鼻小学校の先です。
第三栗崎踏切1.jpg
第三栗崎踏切2.jpg
途切れた単線を渡る踏切。この単線は何の意味があるのだろうか。

引き込み線?-3.jpg
踏切に立って東方向を見たら、踏切を通り過ぎてから徐々に高架で鉄路が上がって行き、途中でプツッと切れている。周囲の地形が粕川の河原に向かって下がっているので鉄路を高架にしたようである。
何だか未成線に見える。
高架は近代的なコンクリート橋で、昭和56年の竣工だそうです。
高架1.jpg
高架2.jpg
高架3.jpg
高架4.jpg
西方面を望むと高崎線の倉賀野駅方面です。
ここからだと倉賀野駅は見えない。広々とした貨物操車場が見える。構内をディーゼル機関車がせっせと働いているのが遠目に見えた。
倉賀野方面1.jpg
ヤード1.jpg
ヤード2.jpg
再度、目を東に向け、未成線のように見える高架先端方面を目指した。
途中、道が高架から逸れたので、高架を潜って反対側に出て眺めて思いついたのは、この高架はここまで造って「作るの止~めた」・・・というものではない。現在は途切れている先端部まで貨物列車を牽引し、一旦は停車して連結部を外し、別の機関車が西の貨物の先端に引っ付き、スイッチバックのように構内に入れ替えて戻る為に必要な長さなのではないか。
歩いて見てこの辺りの地形は粕川に向かって下がっているので、地べたに敷設したら下り坂で暴走してしまうだろう。だから高架にせざるを得なかったのである。
ではその為にわざわざ土地を買収したのか。いやそうではあるまい。もともと鉄路があったに違いない。先刻見物した火薬製造所へ向かう引込線だったのが、現在は貨物列車引き込みの為に高架に化けたものではないか。

でもその先へ散策する気力が萎えた。足首が痛みこれ以上の散策に耐えられなかったのである。倉賀野駅付近に待機しているタクシーを呼んだ。
「岩鼻JA、小学校の正門前・・・」
タクシーは5分で来た。最寄の駅は新町駅か倉賀野駅だが迷わず倉賀野駅にしたのはこの引込線が倉賀野駅で本線に接続するからです。その現在線こそ岩鼻火薬製造所から火薬を運搬していた貨物鉄道の名残ではないだろうか。
他に近隣の駅で北藤岡駅がある。でもそれは本線から分岐した八高線のみの単線ホームしかない。
新町駅だと烏川を渡らなくてはならない。敷設するのは余計な金がかかる。
倉賀野駅に決まっている。

途中で踏切で待たされた。さっきヤードで働いていたディーゼル機関車がタンク車を率いてゆっくりゆっくり倉賀野駅方面へ去っていく。
タクシー帰路途中で.jpg

倉賀野駅で待つ間のこと。
東京方面から電気機関車に牽引されたタンクの貨物列車が長々とやってきた。それらは倉賀野駅の4番線ホームか?・・・横づけ停車した。
東京方面から来た貨物列車.jpg
停まった際の列車の金属音の凄いこと。ガシャガシャガッシャーンという音が構内に響き渡った。ここは都心部と違って暗騒音がないので余計にヤカマしく聞こえた。
そういえばあの踏切、高架引込線のすぐ傍には住宅もあったから、中途半端な高架とはいえ住んでる家の裏でこんな激しい金属音が響いたらヤカマしくてしょーがないだろう。
運転士もそこは配慮して静かにゆっくり走行すると思うが、夜なんかに家の裏手の窓を開けてみたら幽霊列車みたいに停車しているのだろうな。
引き込み線?-2.jpg
東京方面から来た貨物列車、タンク車には多くに「根岸駅常備」と銘打ってあった。
根岸駅ったら私の地元、公用圏でもある。おそらく武蔵野貨物線経由で高崎線に入ってここまで来たのではないか。

後日、年明けの根岸駅ヤードです。 ↓ ここから倉賀野駅まで貨物が出発する。
根岸駅構内.jpg

倉賀野駅に戻ります。しばらくしたらまたまた働き者のディーゼル機関車がヒョコヒョコ走って来て貨物列車の東京方面の先端に連結した。健気にも一生懸命に引っ張って岩鼻方面へ消えていった。
岩鼻火薬製造所の時代もこの流れで空車が搬送されていったに違いない。
ディーゼル機関車が来た.jpg
岩鼻方面へ.jpg
戻って机上で調べてみたら、JTBキャンブックス、鉄道廃線跡シリーズⅨに岩鼻軽便鉄道というのが載っていた。会津鉄道の湯野上温泉~芦ノ牧温泉の次頁に掲載されていた。
要点を抜粋すると、明治27年(1894年)、倉賀野駅が開業され、岩鼻火薬製造所で製造された火薬類は倉賀野駅まで荷馬車でトコトコ搬送され積み替えられたが、火薬生産量が増大したので地元の人が「岩鼻軽便鉄道株式会社」を設立、大正6年(1917年)4月に開通する。
軽便鉄道だが軌間は1067mm、2.6kmのミニ私鉄、途中駅は無し、倉賀野駅~火薬製造所方面、上州岩鼻駅の始点終点のみ。
複線区間なし、電化区間なし。

岩鼻軽便鉄道株式会社は社員数10人ほどで自前の機関車も貨車も運転手も車掌もいなかったそうです。
列車運転と管理はその頃は鉄道院といった国鉄に委託していた。鉄路を測量するのにも鉄道院のノウハウを借用したそうである。地元で出資しただけみたいですね。
一般貨物も僅かながらあったらしいが一般乗客は無かったようである。でもまぁアタリマエか。アブない火薬類を搬送する軍の専用鉄道といっていい。
本社は上州岩鼻駅の駅舎を間借りしていたそうです。

軽便鉄道だと軌間が762mmのケースが多いが何故に軽便なのに軌間1067mmなのか。
理由は簡単。わざわざ鉄路を敷いたのに軌間が二種類あると、倉賀野駅構内まで運んで来たアブないモノをそこで積み替えなきゃならなくなるからでしょう。
私が倉賀野駅構内で観察したように、同じ軌間の方が搬送が容易だからに決まってる。

史料の地図で見たら、廃線跡と現在の引き込み線が重なっているのがなんとなくわかる。
岩鼻軽便鉄道廃線MAP1.jpg
当時は現在のような高架ではなく少しずつ下がっていき、粕川を渡って右にカーブして上州岩鼻駅構内に滑り込んでいたようである。でも川に橋脚の残骸とかは無さそうとの事であった。
現在の地図を見ると高架線が途切れた先に細い道がカーブしているのがわかるからおそらくこれがそのラインでしょう。
その先、上州岩鼻駅は現在の日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所内の何処かにあったそうです。
岩鼻軽便鉄道跡MAP1.jpg
運ぶモノがモノだけに会社経営は順調だったそうだが、製造所敷地が拡張されたことで上州岩鼻駅が施設内に取り込まれてしまった。
現在の日光例幣使街道が東西に食い違っているのもそのせいです。そしたら軍部から、「軍用施設に私鉄が乗り入れるのは機密保持上如何なものか」という堅い達しにより国に買収される事になった。でもその前に終戦になり、運搬するモノ自体がなくなって鉄道そのものの存続意義を失ってしまったんだな。
廃止するしかないが、その前に買収して誰かが鉄路を管理しなきゃならない。幸い終戦後に予定どおり買収され、鉄道敷地は大蔵省の管理下に置かれた。正式には昭和20年(1945年)に廃線になったらしい。

鉄路は15年ほど草に埋もれて眠っていたが、昭和35年(1960年)以降、倉賀野駅構内が幾社かの貨物基地として整備することで岩鼻軽便鉄道は鉄路の赤錆を落として蘇る。
亜細亜石油、これは現在のJX日鉱日石エネルギー社、他にも関東電工、昭和石油、太平洋セメント、日本ケロッグの各専用線が分岐していく。
幾つかの専用線、自動車基地、飼料基地は廃止されたが、石油基地とコンテナ基地が現在も稼働している。岩鼻軽便鉄道旧鉄路上を毎日貨車が通過しているといっていい。
戦時中までの使命を果たし、平和な現代に軍用鉄道の一部が蘇ったというわけ

岩鼻の風景.jpg
今回の散策はこれで終わり。ジャン妻を同行させなくてよかったです。結構歩いたし、同行させたら、「まだ歩くの?」、「何処まで行くの?」、「早く帰ろうよ」、「コーヒー飲ませろ」ってブゥタレるに決まってっからね。
ぐんまちゃん.jpg
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旧陸軍岩鼻火薬製造所跡 [隠れ郷土史]

群馬の森の周囲を歩いていると、アヤしい廃墟、建物が公園の周囲に幾つか散見される。
これらは一切が侵入禁止、立ち入り禁止である。
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駐車場側から見た廃墟.jpg
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群馬の森は昭和49年(1974年)、明治百年記念事業の一環で開園された。
明治百年という響きに何を感じますか?明治維新後の富国強兵政策が日清日露を経て昭和の大戦に繋がり、もうあの時代を繰り返さないという願いがあり、100年経っての平和維持への決意表明と受け取れる。
だがその半面、群馬の森開園事業の裏には、日本を戦争に突入させた軍部の”あるモノ”が秘められているのだ。

とはいうものの、この地を訪れる県内の人は皆、ご存じだと思う。詳細はともかく、ああ、あの公園には・・・程度かもしれないが。

この公園は、かつてこの地にあったものの多くが解体撤去されてその跡地に整備された。それは軍部の黒い霧とまでは言わないが、何だか後世に憚るものを感じる。
何があったのか。この森のある地域を岩鼻というのだが、群馬の森とそれに隣接する「日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所」、「日本化薬(株)高崎工場」、これらを含む広大な一帯には陸軍岩鼻火薬製造所という禍々しい施設があった。
正式名称は幾度か改称している。
明治15年(1882年)11月~「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」
大正12年(1923年) 4月~「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」
昭和15年(1940年) 4月~「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」
いずれもいかめしい名称である。本文中では「岩鼻火薬製造所」と統一させていただきます。
ここでは昭和20年(1945年)の終戦まで、黒色火薬、軍用火薬、民間用産業火薬、ダイナマイトといった火薬類を生産、保管、供給を行なっていた。アブない施設といっていい。

その一部が黒い柵で覆われた雑木林の中に、外来者の侵入を拒むように残存しているのだが、私には建物が招いているように感じた。
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 ↑ これは柵の隙間からカメラを伸ばして撮影したものです。決して柵を乗り越えたのではないので誤解のないようにお願いします。

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公園内南側の一画には、「ダイナマイト発祥の地」の碑がある。
その碑に刻まれた文言は難読と逆光で全文判読できなかったが、富国強兵、産業の振興、近代国家の確立、明治政府が火薬類の軍需民需急増に応える為など重々しい文言が刻まれていた。要は明治政府が諸外国列強と並び、諸外国からの脅威を撥ね退けんとして軍艦はもちろん、弾薬を国内で大量生産すべく起こした軍事政策の一環で建設されたのです。
明治12年(1879年)5月、薩長閥の大物たち、陸軍卿西郷従道(西郷隆盛の実弟)、海軍卿川村純義(薩摩)、陸軍参謀次長大山巌(八重に撃たれて負傷した人)が現地を視察している。彼らがここに決めたんです。
何故この地に置かれたのか。当時、明治の動力源は水運、水車だった。利根川支流の烏川、そのまた支流の井野川や粕川が流れていることが挙げられる。
後年、弾薬を運ぶ鉄路が敷設されるがそれは後述します。

ダイナマイトの碑、その他、史料から。
明治13年に建設が始まって15年に竣工、黒色火薬の製造を開始した。施設は増設、製造技術も革新されていく。
日本は西南戦争で国内の内戦が終焉し、それ以降は海を隔てた外国との戦争に突入するのだが、明治27年の日清戦争から黒色火薬を前戦に供給している。
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日露戦争中の明治38年12月18日、幾万人の血を流した旅順要塞攻防戦の終盤、東鶏冠山北堡塁に向けて日本陸軍が坑道を掘るのだが、そこに仕掛けられたのがノーベル社製のダイナマイト2300kgだった。これは外国社製だから当然、輸入品だが、このダイナマイトが要塞堡塁を大爆破して歩兵の要塞占領に至ったことで俄然注目される。
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加えて戦時中の鉱業用爆薬需要が増加したことで、ここ岩鼻火薬製造所敷地内にダイナマイト工場も建設された。ニトログリセリンそのものを製造するのである。

ダイナマイトの主成分ニトログリセリンは僅かの衝撃で敏感な反応を起こして極めてアブない。安定性や起爆性を保持する為に改良を重ねられたのが珪藻土ダイナマイトというモノ。史料によっては「明治38年岩鼻火薬製造所で珪藻土ダイナマイト製造開始・・・」とあるので、もしかしたら旅順要塞攻防戦の時にも使用されたかも知れない。
他にも膠質ダイナマイト(ゲル状のもの)が製造された。

火薬製造所は岩鼻の他にも、東京板橋、目黒にも存在したが、日本国内でダイナマイトを初めて生産したのがここ岩鼻なので、ダイナマイト発祥の地、日本で初めての国産爆薬製造発祥地、となっている。
ダイナマイトの碑2.jpg
火薬、弾薬、ダイナマイト(爆薬)には凶々しい響きがあるが、現代でも活用されているのは民間の産業爆薬で土木工事や炭鉱用です。ハッパの発祥地と思えばいい。
だが爆薬大量生産を深く考え掘り下げると軍事爆薬に辿りついてしまう感はどうしてもぬぐえない。発明者のノーベルは安全な爆薬として発明したつもりだが、世界で多くの人名が失われる結果になってしまった。

ダイナマイトの碑文は結びに向かってこうある。
『昭和20年第二次世界大戦の終結による閉鎖に至るまで64年間ここで生産された火薬類は軍需の他民間需要に応じ我が国近代産業史に残した足跡は大きい・・・』
『群馬県は明治100年の記念事業としてこの地に群馬の森を開設し新しい時代の役割を担う地を計画する・・・(この辺りが判読できず)・・・この地にゆかりあるもの相計り由来を述べて建碑の記とした』
若い人たちは気に留めないかもしれない。だが製造所で勤務、携わった人々、OB、ご遺族にしてみれば後世に訴えたいものがあるに違いない。
それでも現代平和社会への刺激を避けたいようにも感じた。
日本化薬側の廃墟3.jpg
日本化薬側の廃墟4.jpg
公園敷地外の黒い柵で立ち入りを禁じられているエリアに残るアヤしげで朽ちかけた廃墟、建造物は火薬工房の跡といっていい。現在は隣接する日本化薬(株)が管理している。

(日本化薬(株)という会社は日本最初の火薬メーカーらしいが、今は医薬品その他が主になっている。私は職場でオダインという抗がん剤を手にとったことがあります。)

興味を惹かれても黒い柵を乗り越えて中に立ち入るのは止めて下さいね。せめて5秒以内の反則で黄色いロープを越えて柵ギリギリまで立ち寄って見て欲しいのだが、朽ちかけた建物の周囲は高い土居で囲まれているんです。もしくは囲まれていたか。。。
土居を抜けるトンネル1.jpg
左に土居と右に廃墟.jpg

工房らしき平屋の建造物が、土居に囲まれているのがわかりますか?
土居に遮られてるのがわかりますか.jpg
公園南側のサイクリングコースに沿って残存している土居には工房へ抜けようとしているトンネルもあったりする。
サイクリングロードに沿った土居.jpg
ダイナマイトや火薬類は処置を誤れば当然のように爆発するので、これらの土居は爆風を避ける為のものです。土居に植えてある木々もそうです。

土居の断面です。
遊歩道を通す為に後年、切り開いたもの。
土居の断面.jpg

となると、前記事のわんぱく広場、丘に上がったら四角い土居で囲まれた一画一画の意味もおのずとわかるというものです。私は製造された火薬類が保管されていた一画だと推定しています。
土盛で囲まれている1.jpg
土盛で囲まれている2.jpg

爆風除けの高くてブ厚い土居に囲まれ、工房内で作業していた人たちの日常、胸中は如何ばかりだっただろうか考えた。緊張を強いられ、閉塞感で息の詰まる日々だったと思う。
事故はあったのか。
無いとはいえまい。あったとしても闇に葬られただろうか。
ここで働いていた人たちは地元岩鼻村や滝川村等、周辺の村々の人々が多かったそうです。その人たちは自転車や徒歩で通勤していたという史料もありました。

東側の立ち入り禁止区画.jpg

公園東の無整備地区にはこんなのがあるぞ。
そこにも何かがある.jpg
何だこれは?.jpg
巨大な土管??.jpg
デカい土管?
水道管?
潜水艦の化け物みたいだが、さにあらず。散歩中の老婦人に訊いてみたの。
「何ですこれ?」
「ああ、これはねぇ。昔の自衛隊・・・軍隊の防空壕よ。昔、ここで爆弾作ってたの」
ハッキリ仰っておられましたね。ただ、防空壕といっても空からの爆撃から退避するものではなく、同じ敷地内での爆発事故による爆風から逃れる為のもの。そこが異色ですよね。
ズームしてみる.jpg
土管の継ぎ目.jpg
形状が異なっている.jpg

「岩鼻火薬製造所」は終戦とともに解体される。
終戦前に米軍のB29によって偵察写真が撮られ、空襲標的にもなったが爆撃が実行されなかった。
敗戦時の敷居面積は1072500㎡だから東京ドームの23倍で、就労していた従業員は3956人、4000人近かった。

跡地をどうするか。現在隣接する日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所や日本化薬(株)高崎工場以外に払下げ先がなかったとか。
だから公園にしたのかも。別に珍しくない。横浜市青葉区奈良町にある「こどもの国」もそうです。あれは東京陸軍兵器補給廠田奈部隊填薬所という難しい名前の軍事施設の跡地です。田奈弾薬庫ともいいます。

惜しむらくはこれらの残存物が放ったらかしのままで何の説明書きもなされていないこと。現在休館中の博物館にも触れられていないようです。でも明らかにしたらしたでいろいろ差し障りがあるらしい。
壊すにも壊せない、整備しようにもできないこれらの旧施設は黒い柵で遮られ、そこから先は原則近づけません。囲った黒い柵は「施設に入るな」と言わんばかりだが、柵で閉ざされたアヤしげな建造物が草ぼうぼうの中から見えてるとやはり気になる。
柵は訪問者を拒むが、建物は何かを訴えたがっているように、訴えたい者が潜んでいるように感じるのだ。

私は理性が自重したので柵内には立ち入らなかったが、蛮勇を奮い、罰せられることを覚悟で中に入った人もいるようです。
ここに掲載した施設は公園と隣の境界ギリギリから垣間見えるものでしかなく、奥に入り込めばまだまだアヤしい建造物が眠っているらしいのだ。
この種のカテゴリは”廃墟”です。その筋のサイトを探してみたらもっともっと詳しいものに辿りつけます。オイオイ、ここまで入ったのかよ、っていうアブなそうなサイトもありましたよ。
心霊スポットと位置付けたケースもある。公園という場所柄、夜間は立ち入り禁止だが、夜回りでもしたら不気味でしょうがないだろう。昼間だって何かがこっちを見ているかのようである。

芝生広場に戻った。
いろいろ見ているウチに惹きこまれ、右足首踵の痛みも忘れてたのだが、平和な広場に戻ったらまたズキズキ痛み出してきたぞ。
芝生広場に戻る.jpg

青い空のもとで遊ぶ子供たち。
憩うお年寄りたち。
走り込むランナーやサイクリスト。
それを横目に見ながら歩く私はダークスーツ&コートに革靴、そんなカッコしてるのは私だけだった。知らない人が私を見たら、公園にそんなカッコして何しに来たの?と思っただろうな。

長閑で平和な「群馬の森」は平和の象徴である。だが全てを語っていない。周囲に眠るものを敢えて何もせず、見る者、訪れる者に無言で対比させ、語るでもなく放置してあるようだ。
都合の悪いものに蓋をして隠すのでもなく公開するでもない。見て察しろよと言わんばかり。だからそのまんまになっているのだろうか。
公園は年中無休です。4月~9月は7時30分~18時30分まで、10月~3月は8時00分~17時30分まで開園です。
群馬の森入口2.jpg

公園の出口に向かう途中で考えたのですが、ここで製造された火薬はどうやって何処まで運ばれたのだろうかというもの。
そしたら前々記事の踏切、単線鉄路を思い出した。。。(続く)
引き込み線?-1.jpg
途切れているぞ?.jpg
これはもしかして。。。???
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群馬の森にあるもの [風景]

群馬の森入口.jpg
県立の総合公園、群馬の森。。。
4haある芝生広場では、簡単な球技、太極拳か体操するお年寄りの集団、散歩する夫婦や親子連れ、トラックを走るランナー、サイクリングロードを行る人。。。
(4haは40000㎡、東京ドームの広さが46755㎡)
芝生広場も広いが、他にもわんぱくの丘、かたらいの丘、名前の付いていない広場や丘、鬱蒼たる森がある。
群馬県近代美術館や歴史博物館も併設されている。私は美術には造詣が無いし、歴史博物館には興味があるが、来春まで休館中だった。
(その歴史博物館には、この公園内で私が探す“あるもの”は展示されていないらしい。園内に飲食店があるかどうかはわかりません。)
美術館と博物館.jpg
群馬の森MAP1.jpg
広場1.jpg
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澄み渡る冬の青空、枯れた薄い芝生、老若男女を問わず健康そうに身体を動かすひとたち。金のかからない健康的な家族サービスといった感だった。
それを横目に見て、私は公園内で薄暗い場所、段差のあるエリアを探し歩いている。

実は私、この散策日の数日前、公用中に右足を痛めてるんです。踵の外側からクルブシにかけて筋を痛めたらしい。
でもってこの日は革靴です。足首に鈍痛がするのでゆっくり歩いた。何とかこの散策時間中だけ痛みがブリ返さないで欲しいと思いながら歩いている。
朝飯後(もりや食堂)後にロキソニンとテルネリンを服用しました。そうまでして散策、探しているものって・・・?
後で呆れないでくださいね。

正面入り口から左エリアを歩く。
方位的には公園の北側です。左手に美術館、休館中の博物館を横目に見て歩くと、前方は樹木が増えてきた。
その森は何だかジメジメして薄暗く、わんぱくの丘、かたらいの丘という標注はあるものの、遊んでいる腕白小僧なんかいないし、語らっている人たちもいないし、佇んでいる人すらいないぞ。
公園に造り損なったエリアにしか見えない。日差しがあまりあたらないんです。
遊歩道を散策している人たちも、間違ってこの薄暗いエリアに迷い込んだかのような表情で、こんないい天気なんだから明るい広場へ出て陽ざしを浴びようよとでも言いたげに急ぎ足で歩いていた。
薄暗そうな森へ.jpg
なんとかの丘、という表示に妙な違和感を持った。
丘は丘なんだが、高さが揃っているんです。殆ど同じ高さ。低くて一定なのである。これは自然の丘ではないし、山を削った丘でもない。
その丘に上がる階段は土が崩れないよう丸木で補強、固めてある。
足がやや痛む。階段を上がって丘の一画に上がってみて愕然とした。
上がってみる.jpg
上がって見ると1.jpg
上がって見ると2.jpg
土盛で囲まれている1.jpg
土盛で囲まれている2.jpg
そこは平場になっていて、一部にベンチが設置されていて確かに公園なんだが、周囲は人工的な土盛で四方を固められていた。
その区画が複数並んでいる。一画一画が、まるでこれから分譲される住宅建設予定地のように規則性がある。方形になっているようなのだ。
土盛の上を歩いてみた。
土塁上を歩く1.jpg
土塁上を歩く2.jpg
土塁上を歩く3.jpg
十字土塁1.jpg
十字土塁2.jpg
土盛は途中で十字クロスしている。歩道に見えるが公園だとしたら異様である。
ところどころに空間が空いていて橋が架けてあったりするので土盛上は歩いてもいいようである。途中、空間、切れめがあったりする。
橋があるから歩いていいみたい.jpg
入口跡だろうか.jpg
何だか異様である。
公園化の為にわざわざこんな土盛をして平場の周囲を固める必要があるだろうか。
前はここに何かが建っていて、それが取り除かれ、方形の土盛だけ残存しているように感じた。
何かがあったのだろうか。
だが群馬の森の異様な光景はこれくらいではまだ序の口なんです。

丘・・・というか台地から北側に下りました。右足が痛んできたぞ。上がったり降りたりでブリかえしたみたい。
降りたそこにも遊歩道があって、今まで私がいた丘の先を見ると人工的な切崖になっている。どう見ても自然地形ではない。
何やら近代要塞か中世の館跡、平城の土台が残存しているように見える。
遊歩道に下りる.jpg
人工的な切崖1.jpg
人工的な切崖2.jpg
このような切崖というか土台みたいなのは公園内の至るところにあって、幾つかはブッ太い土盛(土塁)で囲われていた。何かの施設、建物がこの区画にあったのは間違いない。
現在は森だが、もともとの自然の森ではないのではないか。もちろん私はその正体、森の前身を薄っすらと知ってはいますがもったいぶりながら先を急ぎます。薄暗い遊歩道を東に向かって歩くと、左手(北側)は公園化されていない雑木林、そこは厳めしい黒い鉄柵で鎧われていて侵入者を拒んでいた。
柵1.jpg
柵2.jpg
この柵は延々と続き、東側の出入り口、駐車場まで続いているようだった。何故、柵の向こう側は公園化しないで雑木林のまま放ったらかしにしているんだろう。
その先、柵の奥、雑木林に何か見えるぞ。
そこにあるものは。。。
何だこれは?-1.jpg
???
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ぐるりん [コラム雑記帳]

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高崎市内循環バス、コミュニティバスです。路線バス各社、群馬バス、上信電鉄、群馬中央バス、関越交通他が受託している。
群馬バスは少林山線、高経大線、新町線、岩鼻線、巨大城塞の箕輪城線、小栗上野介のいた倉渕線、榛名線、都心循環といった市内全域です。
群馬中央バスは京ヶ島線、群馬の森線
上信電鉄は倉賀野線、観音山線、都心循環線
関越交通は大八木線、かみつけ線
(他にも高崎駅と大胡駅を結ぶ日本中央バス、永井バスがあるがそれは割愛。)
運行状況や時刻表はバス停に行ってみないとわからないと思い込んでいたが、バスナビゲーションシステムが導入されていて、パソコンや携帯から検索できるようにはなっている。
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大型バスもあるのかも知れないが、走ってるバスは殆どがマイクロバスに見える。停車中はアイドリングストップバスです。
車内はガラガラ。営っていけるんだろうかと余計な心配したら、市が欠損補助をしているらしいです。

一昨年の春に上州に住み始めた頃、都心と比べてしまい、こっちはくるま社会とはいえ車の本数やバス路線本数が少ないのに驚いた。
上州で社員との最初の飲み会で、
「支店を廻るのってくるまじゃなきゃダメそうだね。バスがないんだね」とジャン妻。
「ぐるりんがありますよぉ」って言ったのは現地のヤンキー社員の女の子。
「ぐるりんとは何です?」と私。
今だったら伝法口調で、「ぐるりんとは何だぇ?その辺を子犬みてぇにぐるぐる走り廻ってんのか?」と放つところだが、この時は地を出さないようにしていた。
「ぐるりんってのはですね・・・」
ヤンキー社員から簡単に説明を受けたのだが、どうもマイクロバスのような。。。そんなイメージを持った。
「タクシーみてぇに手ぇ挙げたらそこで停まって拾ってくれるのか?」
「バス停がありますよ」
だが滞在中の支店ラウンドでぐるりんは一度も利用しなかった。1時間辺りの本数が少ないんです。
車内1.jpg
ぐるりんとは平成9年から運行を開始した市内循環バスです。
路線バスではないです。市内循環だから市の施設、病院、学校や郊外の住宅団地を結ぶように設定されている。
あっちこっちの施設をぐるりんぐるりんと走り廻るのでなかなか目的地に着かないのだ。直線距離で結んだ私の想定時間より遥かに時間がかかるんです。
その名の通り、本線から逸脱して施設へ向かって農道を走り、そこをグルッと廻ってΩのように本線に戻ってきたり、折り返しやUターンも多いです。

前述のヤンキー娘は「バス亭がありますよ」って言ってたが、そのぐるりんのバス停と路線バスのバス停が重なることがあって、大抵は同じ場所にあるのだが場所によっては離れてたりする。昨年、路線バスに乗ろうとしてヤンキー娘から教わった某バス停で1時間に1本しかないバスを待ってたらそれはぐるりんのバス停で、しまったと気付いたら路線バスが遠目に見えるじゃないの。
これを逃したらもう1時間先になってしまう。ダッシュした側を路線バスが追い抜いだがそのバス、待っててくれたんです。まぁ牧歌的ではある。
教えて貰って文句を言うのも何だがさすがに後で言いましたよ。「あれは路線バスじゃなくってぐるりんのバス停じゃねぇか」って。
「ええ?そうでしたっけぇ?」
そうでしたっけ?って・・・(絶句)・・・本人もぐるりんは利用しないそうです。「くるまの免許を取ってからは使ったことないんでぇ。。。」
「いつ免許を取ったのさ?」
「高校三年生の時・・・」
余談ですが、高校生の時に免許を取らないと就活も大学も短大も行けないって言うから仰天した。「免許取る費用はお婆ちゃんから貰ったんです。すぐ中古車を買ってぇ。。。」
そういう地なんですね。家の敷地に家族全員のくるまが停めてあって、都心からしたら考えられない坪数だった。桁が違うんです。どこに家族5人のくるまとお爺ちゃんの軽トラがあって、知らない人が見たら売れない中古車屋みたいになっているという。
前述のヤンキー娘は入籍したが、新居を建てるそうです。20台のついこの間までの小娘が、実家から土地を分筆してもらってその土地坪数は・・・止めとくワ。

ではくるま社会のこの地で誰がぐるりんを利用するのか。
主にお年寄りでしょうな。
私がそのぐるりんを利用したのは上州を去ってまた再訪してからです。だってもう社用車がないから。天気のいい今日の記事取材日、私が駅の東口ロータリーから乗ったのは群馬中央バスが受託しているぐるりん群馬の森線バス。
私は最前席に座ってた。なるほど車内はお年寄りばかり。もしくは私みたいなヒマ人。この日、某病院へ行く婆さんがいて、ぐるりんに乗ったはいいが、「座ったり立ったりがキツイから、このまんま立ってるから・・・」って言うんだな。
運ちゃんは困惑した。発車しようとしない。バス車内でお年寄りの転倒事故が少なくないからである。急発進や急ブレーキで転倒しかねない。
「お婆ちゃん、すみませんが危ないから座って貰えますかぁ」
「ああ、そう。。。アタシゃ腰がキツいんだよねぇ。。。」
これが都会だったら私なんか「早く座れよっ、バスが発車しないじゃないかっ」と心中でヨロシクないことを思ったりするっがここは上州である。私はそんな理不尽なことは思ったりしない。手を貸すまでもないが心配だけした。
車内2.jpg
その婆さんが何処かの病院前停留所でヨタヨタ下りてその先、ぐるりんは市内の幹線道路を走る時は慎重な安全運転だが、狭い直線農道で突然スピードを上げ、田んぼの中にある今日は休館日の養護施設内を猛スピードで回転Uターン、また公道に飛び出し、今しがた走って来た農道へ戻り、その先にある唯一の行き違い可能スペースまでスピードを上げて走り、あぜ道ギリギリでダンプとすれ違ったりしてた。
どうもぐるりんは民間事業者のバス路線廃止の代替ルートを走っているんじゃなかろうか。よくある話である。

そういえば、金沢市内でも循環バス、コミュニティバスを見かけた。金沢ふらっとバスだったかな。

ぐるりんはΩルートが多くてなかなか目的地に着かない。
途中、異様な光景があった。
踏切があるのだが、その先は引き込み線で途切れているのである。
天空に向かって電車を発車するのだろうか。これについては後で取り上げます。
引き込み線?-1.jpg
途切れているぞ?.jpg
目的地に着いた。
ぐるりんは利用距離にかかわらず1回200円です。子供は半額。(路線代替バスは距離制の運賃らしい。)
ぐるりんは勢いよく回転して公道に戻っていった。
去って行くぐるりん.jpg
群馬の森バス停.jpg

私が降り立ったのは。。。
群馬の森入口.jpg
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迫るXデー [呟き独り言]

上信越道サンセット.jpg
上州担当から外される日が刻一刻と近づいて来た。
それは避けられない。大規模な組織改編が予定されていて私はその体制に入っていない。2年ほど関わった上州の窓口から外れることになる。

私は次の担当者に引き渡す準備に取り掛かっている。
次の担当者は私の嫌いな女性で永年ソリが合わない。ものの言いぐさがカチンコチンとするんです。ジャン妻もよく彼女の態度にムッとしている時がある。
私は彼女と普段は必要最低限しか会話しない。食事に行ったこともない。私の態度は当然、相手に伝わってるので、前に向こうも、「自分は○○さん(私のこと)に嫌われてるから」って言ってたって第三者から聞いたことがある。
上州の子たちをその女性に引き渡さなきゃなんない。その女性は私と違って感情交えずその他大勢のように事務的に接するんだろうな。
でも昨年末に年賀状に書いたの。「上州の子たちをよろしくお願いします」って。

毎年1月はアドレナリンが出ない月なんだが、税務署に提出する法定調書、源泉徴収票添えて上州の各市町村に提出する給与支払報告、1年間の実労時間管理や有給休暇取得データの作成に取り掛かってたら気分が下がってしまった。
各人のデータを拾いながらひとりひとりの子たちのカオが浮かぶんだな。
私とジャン妻が関わった2年間は誰も辞めていないんです。辞めたいって言ってきたヤツが3人ほどいたが私は個別に対応して辞めさせなかった。
今、私は内心、「皆2年よう辛抱したな。俺が担当窓口から外れたらもう辞めてもいいぞ~、無理すんなよ~」って思ったりもした。

私が外れることを上州の子たちは未だ知らない。
案外、外れたら外れたでアッサリ、「ああそうですか」ってなるかも知れないけど。
家でややフテくさりながら、「窓口から外れたらもう上州とは関わらん」って毒づいたらジャン妻は怒った。
「そういう投げやりな言い方は止めてっ!!嫌なのっ!!」
「中途半端に関わらない方がいいんだ」
「だったらもう二度と行かないのっ??」
そうは言ってない。僅かに限られた職務で関わらないこともない。でも私は組織改編の説明会=宴会に呼ばれていない。次期体制に入ってないからです。
(普段からそっぽ向いて上役と付き合ってないからこうなるのかな。)
前もそうだった。ヤンキーっぽい小娘社員から「今度の説明会&宴会、〇〇さん(私のこと)外されたんですか?」、「○長と仲悪いから外されたんですか?」って突っ込まれたし。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-09-25
一昨日、上記過去記事のヤンキー小娘社員から業務携帯で久々にメールが来た。
「今週は風邪ひいたよ」
これだけ。(-”-;)
私に対して完全なタメ口じゃないか。(-”-;)
「誰だこのメールっ!!○○だな?風邪ひいただとぉ・・・おまえは朝起きてそのまんま寒いカッコでくるま通勤してっから風邪ひくんだよっ」
って突き放したらその後は途端に丁寧口調になった。
電車でなく自動車通勤だと着替え、メイク、そういうのがめんどくさくなるみたいですね。運転しながらドアツードアだと電車通勤のように誰に見られてるってわけじゃないから。
でも、風邪ひいたよ・・・ひいたよってのはどう考えても「ひきましたよ」の変換ミスじゃないですよね。ナメとんのかぁ。。。[爆弾][爆弾][爆弾]
こういうバカも引き渡さなきゃなんない。(-”-;)

ジャン妻はそのタメ口メールに苦笑しながら、「上州の子たちとアナタとの関係は、社員対会社の関係とはまだ違うでしょ?」
「・・・」
「寂しいのはわかるけど、もう俺は関係ねぇなんて突き放したらダメよ・・・っていうか、まだ言っちゃダメ」
それに耐えなきゃなんないのか。そういえば黒木 為楨という軍人さんが言ってたな。「軍人とは戦争が終わってしまうとつまらないものなのだ。それに耐えなきゃならない」って。
私は軍人じゃないが、仕事の終わりという意味では同じなのかもしれない。

スミマセン今日は愚痴めいて。では行って来ます。
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加賀大聖寺藩雪中行軍顛末記 [隠れ郷土史]

yossyさんのご先祖が加賀藩支藩、大聖寺藩の家中と知り、そういえば書棚に一冊、大聖寺藩が主役の書があったのを思い出した。
1999年9月10日に発刊された文庫本です。15年ぶりに見開いた。四十七人の刺客、四十七番目の浪士、島津奔る、を著した故・池宮彰一郎さんの作です。
受城異聞記1.jpg
私は大聖寺藩の現地を訪れていないので机上での検討しかできないがそこはご容赦。

宝暦8年(1758年)12月のお話。
岐阜県美濃郡上八幡藩の金森家が藩政不行届で改易になり、改易に繋がる事件(宝暦一揆)に関わった隣りの天領、飛騨高山の陣屋も公収することになった。
天領だから改易ではない。代官を更迭するだけで配下はそのまま公務に付いてて良いのだが、高山には廃城、高山城というのがあて、それも接収することになった。

誰が受け取りに赴くのか。
境を接する隣国の手勢を以て行うのが定法で、飛騨の隣だと加賀藩の支藩、大聖寺藩に白羽の矢がたった。行って接収して来いという出張命令が下ったのである。

当時の幕閣老中首座、堀田相模正亮が加賀本藩当主、前田重教(前田家10代、9代藩主)を呼び出し、高山陣屋と古城受取日は厳寒の1月1日というトンでもない期日を指定した。
旧暦である。現代でいうと1月29日くらいにあたる。地図で観れば隣領だが、大聖寺藩と飛騨高山の間には2700m級の白山がそびえ立っているのだ。極寒の山中へ分け入れと言われたのである。
加賀と飛騨の位置関係.jpg
大聖寺藩が槍玉に上がったのは理由がある。
藩主が飛騨守だからか?
そうではなく加賀大藩故の贅沢な悩みがあった。

大聖寺藩は加賀本藩三代、前田利常が三男に7万石で分知した藩で、同じく次男に分知されたのが越中富山10万石だが次男と三男の差の3万石がネックになり、家格に差がついてしまったまま歳月が過ぎている。
何でそんなことが気になるのか。単純に収入の差というのでもなく、大名家格のボーダーラインが10万石でそれ以上とそれ以下とでは江戸城中の扱い、例えば控の間とか、諸侯との交際でも格の上下で扱われ、対応が違って来るというのだ。大聖寺藩は肩身が狭かったのである。
この問題は加賀本藩の方でも気にした。大聖寺藩を10万石にもっていきたい、本藩の領土を分けても家格を上げたいという願い。支藩なんぞを持たない他藩から見たら他人事だが、加賀藩はそれを渇望し、五代将軍綱吉の頃から改元される度、もしくは幕閣の老中首座が交代する度に大聖寺藩の高直しを願い出ていた。
10万石と7万石、その差3万というビミョーさ。これが双方5万石か、5万石と3万石だったらこんな思いはしなかったかも知れない。

大聖寺藩は城はない。
館というか、陣屋だった。大聖寺藩主が休息した長流亭という建物が現存している。(HPから)
大聖寺藩主休息所長流亭.jpg

だが、飛騨高山を1月1日に受取って来いと峻烈な命を下した堀田正亮が老中首座に就任してからはその願いを遠慮していたらしいのだ。堀田正亮は自分の前任者、酒井忠恭と昵懇にしていた諸大名に意趣返しをするくらい底意地が悪かったと記載されていて前田家も睨まれた。
しかも大藩である。堀田正亮の心証は悪く、堀田の方から、「引き続き大聖寺藩の高見直しを望まれるのだな」と念を押されたうえで、その願いはOKでもNGでもないまま有無を言わせず飛騨高山陣屋接収の命令が下された。
これだと堀田正亮の意地悪だけで決まったみたいだが実は過去にも同じようなことがあった。元禄5年(1692年)、金森家は出羽国上山藩への国替えにより、高山城は加賀本藩の4代藩主、前田綱紀が預かっているのである。
ところが金森家は5年後の元禄10年(1697年)に美濃郡上に転封される。郡上と飛騨は離れてはいるが同じ岐阜県なので、何だか戻って来ちゃったみたいに見える。
何故、こんな無駄な引っ越しをさせたのか。
幕閣は飛騨の森林が欲しかったのだというのだ。だが金森家は戻って来た?郡上で、冒頭にあるような問題を起こしてまたまた改易される。その後始末を大聖寺藩が請け負ったワケである。
老中堀田も底意地が悪いが、周囲も加賀藩に好意的ではなく、大藩の我儘と見られてたのも事実であろう。

本文中にはこうある。
「富裕な大聖寺藩にて、高山陣屋と廃城高山城を接収願いたい」と。
冗談ではないよと。実際は富裕どころか、陽射しの少ない北陸地方の冷害に見舞われ、大聖寺川の氾濫や凶作続きで物なりが少なかったとある。
選ばれた損なリーダーが群奉行の生駒弥八郎という人。
この人が弁当を喰っているシーンがある。
250石の群奉行が七分三分の稗飯で、おかずは梅干と大根鉈割漬2片だけ。大聖寺藩は名うての貧乏藩と書かれていた。

だが逆らえない。大聖寺藩は山に詳しい郡奉行の生駒弥八郎をリーダーに、山方、郡方、郷方に通じた25人を送り込むことになった。城の接収で25人とは少な過ぎるが、大半は極寒の山中で脱落、凍死すると想定したうえでの最小限の選抜であった。猪突猛進型ではなく慎重な者どもを選んだという。

生駒はルートを模索し、なるべく大聖寺領内を通るよう選定した。途中8か所か9か所に事前に糧秣を配しておいて赤い幟を立てておいたのだが、一行は2ヶ所しか発見できなかったようである。
12月5日に出立した。

生駒弥八郎率いる大聖寺藩一行が越えたルートを地図上で辿ってみたのだが、加賀市の大聖寺を出立して国道8号線沿いに那谷寺(なたでら、小松市那谷町)に向かい、県道8号線沿いに東南方向の山を目指し、小松市赤瀬町の赤瀬ダム北にある荒俣境に分け入ったと思われる。
そこから先は山道。赤瀬ダムの南西にある動山(604m)の麓をぐるっと廻り、大杉峠を目指したとあるが・・・
一行はここで吹雪に遭い道に迷った。
吹雪の山道.jpg
荷もろとも落伍者、滑落者が続出する。犠牲者はうち捨て、行方不明者や荷を積んだ橇は二重遭難になるので捜索できなかった。

私も机上で探したが大杉峠が見つからない。大聖寺藩と金沢本藩の境界らしいのだが、地図で見ると石川県小松市と加賀市の境に大杉町が延々南北に点在している。小松市丸山町との境目、牛ヶ首の辺りに43号線の九十九折の峠道っぽいのがあるがその辺りだろうか。
大聖寺藩一行はそこから大日川の渓谷に分け入り、手取川の上流から白山に踏み込んだようだが現代の地図で見ても凄そうな山々である。
手持ちの食料も少なくなる。接収なので本来は軍装で行かなければならないのだが、積んでいた甲冑、具足、槍、鉄砲、旗指物は食料や灯油、酒類の大半もろとも失った。
そこから先、どうやって白山を越えたのかそのルートは全くわからない。積雪、猛吹雪、地吹雪、冷寒地獄、雪濠、断崖、渓谷、稜線、疎林の急斜面、運次第、寒気、疲労、睡眠不足、凍死といった語が次々に出て来る。
艱難辛苦の末、僅かな生存者はかろうじて1月1日に飛騨高山に辿りつく。間に合った。
飛騨高山古城.jpg
だが、そこで見たものは何か。
25人中、生存者は何人だったか。

大聖寺藩首8代利孝(トシヤス)は文政4年(1821年)、念願だった7万石から10万石への高直しを行った。
その差3万石は新田開発1万石、加賀藩からの支援が2万俵という内訳であったが、加賀藩の1俵は5斗で、10斗で1石だから2万俵は1万石に相当します。1万石の米は領地2万石に相当するというわけ。
何だか無理くり捻出したようだが、城持ちでない10万石の藩は異例だったようである。
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決してハッピーエンドではない重たい本です。
大聖寺藩家老の名前で、前田靭負、佐分儀兵衛という名が散見されます。
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ノドグロ [グルメ]

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昨年は近江町市場まで出向いて土産物を物色したが、今回は天候がイマイチなので、帰京する前日、帰りの特急を購入する際に金沢駅構内にある百番街(今月末で一旦、閉館、夏に復活予定)で探しておいた。
「ノドグロノドグロ・・・」
ブツブツ口走りながらキョロキョロ物色。声掛けされても一切無視。
「のどぐろのどぐろ・・・」
ブツブツ言ってたら「十字屋」という看板の出店があって、そこにノドグロの大小干物(真空パック)があったあった。
干物たち.jpg
可愛らしいお店の女の子と視線が合う。でも帰るのは明日、今日買うわけにはいかないので女の子に訊いた。
「明日はお店何時から開いてます?」
「8時半から開いております」
傍らのジャン妻に、「明日、しらさぎは何時だったっけか?」、女の子に聞こえるように言った。
「10時49分だったかな」(ジャン妻)
女の子に、「明日帰る前に来ます」
ニコッと微笑まれたが、彼女は内心、ホントに来るかしらこのオヤジと思ったに違いない。
だがそこは義理と口約束を守るので日頃っから定評のある私。ホテルをチェックアウトしてから十字屋に真っ先に立ち寄りました。昨日の女の子がいたいた。私は内心で、連チャンシフトかよ。小売業とはいえ土日祭日働いてタイヘンだなぁと思った。彼女は、あっ来やがったこのオヤジ、と思ったか少しだけ微笑んだ。
「ノドグロ」
「大きいのと小さいのとございますが」
「両方」
「お帰りの時間は?」
「横浜だから5時間かな」
保冷剤の小さいのを入れてくれた。お会計しながら、「来ると言ったら俺は来るんだ、約定は違えない」と大見えを切りたかったが、滅多に来ない金沢市内、出店の女の子に胸を張ったってしゃーない。どうせ一期一会だろうし。
のどぐろ.jpg
初めてノドグロ(アカムツ)を見た時、これは金目鯛かと思った。身が赤いからです。
ノドグロというからにはノドが黒いのかな。クロと名が付き、身が赤いけど白身のトリといふ。それでいてクセがない。
今回の旅でも焼いたのを二匹喰ったが、お品書きには価格が表示されず時価になっていた。刺身と煮付けは見なかったですね。
「刺身はなかったな」
「あれだけ水分と脂が多いとすぐ傷んじゃうんじゃないかなぁ」(ジャン妻)
のどぐろ.jpgまたしてものどぐろ.jpgアンコール.jpg
寿司屋さんで炙りを喰ったけどそれには価格が表示してありましたよ。
処理済~味の十字屋.jpg処理済~近江町出店.jpg
近江町市場の手押し棒寿司、「舟楽」の出店らしきものを発見したぞ。
「ノドグロノドグロ」
「焼き鯖がいいなぁ」(ジャン妻)
両方買いました。
「これって今夜の晩ごはんでいい?」
「いいけど・・・」
口ではOKしたが、内心で、今夜はこれだけかよ、足りねぇぞって思った。
でも贅を尽くした食事が続いたので少しはカロリーを落とすかせめて今夜だけでも品数を減らさないと。
土産物たち.jpg
金沢朝餉.jpg帰京する金沢での朝飯は吉野家百番街店で。
何で吉野家か。単に魚食が続いたので無性に肉が喰いたくなっただけです。
店のスタッフは男女合わせて6人もいましたよ。そんな広い店ではないのだが、10時の時間帯でそれだけの人数いるのは珍しい。
東京神奈川とは比較にならないくらいにいい接客だったが、味がイマイチ薄かったな。


カフェ.jpg「コーヒー飲みたい」
(またかよ・・・)
コーヒー好きのジャン妻は、朝、コーヒーを飲まないと1日が始まらないというくらいのコーヒー好き。
まだ時間がある。百番街にある舌を噛みそうな名前、カフェ・アルコ・スタツィオーネという店。この店の接客もトテモよかった。

しらさぎが来た。金沢始発です。
往路より復路の方が遠く長く感じた。ケツや腰が痛くなったからね。
帰りのしらさぎ.jpg米原行.jpg

帰京したその晩、のどぐろを焼いて喰った。棒寿司は冷えて固まっちゃったのか、箸で取り分けようとしたら寿司飯がボロボロって崩れちゃったけど美味しい。
ノドグロ.jpg焼き鯖.jpg
美味っ!!
ノドグロ焼.jpg
喰ってしまえば想い出は美しくなるばかり。誰がノドグロを何で高級魚にしたのかワカランが、東京関東では殆ど見たことないので、私の中では金沢だけで喰える幻の魚になってしまった。
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長連龍 [気になる人物]

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上級武士の武家屋敷が並ぶ一帯です。
ご子孫の家々でもあります。居住されているので中を覗いたりしないようにお願い致します。
歩きながら、観てまわりながら、「いい家にお住まいだが維持管理や補修整備がタイヘンだろうな。下手に建て替えもできないだろうし・・・」って思いました。
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長町武家屋敷跡5.jpg
長町武家屋敷跡6.jpg
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この一帯を長町というのですが、長町の“長”に纏わる話です。
舞台は一旦、能登へ飛びます。
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昨年訪城した七尾城に上杉謙信の越後軍が攻めて来た天正4年(1576年)、七尾城内の能登畠山氏は名門凋落の末期的症状で、遊佐、温井、三宅、長(チョウ)といった重臣たちの内輪もめがピークに達していた。謙信に付くか信長に付くか、日ごろの家中不和が沸点を超え、誰が敵で誰が味方かわからないくらいの状態だった。
謙信に付こうとする遊佐続光、光盛、温井景隆、三宅長盛は信長派で不仲の長一族をターゲットにする。危険を感じた長一族は信長と繋ぎをつけようとした。
一族の三男、長連龍という人がいる。
この長連龍がこの記事の主人公です。僧籍にあったのを還俗してチョウツラタツか?・・・一族は長連龍を七尾城外に脱出させ、海路安土へ向かわせ信長と繋ぎをつけるのに成功した。

後年、この長連龍の家系が前田家の重臣筆頭に据えられ、長氏他、上級家臣の邸宅を配し、長の姓に因んで長町武家屋敷といふのだがそれは遥か後年。。。
そこに至るまで長連龍の前半生について。

柴田勝家率いる織田の北陸方面軍は七尾城に間に合わず、天正5年(1577年)9月15日、長一族と不仲だった遊佐続光、温井、三宅らが上杉軍に内応し、遊佐の手引きで七尾城は陥落した。この時、果敢に抵抗する長一族の長続連、綱連他一族百余人は全滅する。
ひとり生き残った長連龍は安土で慟哭。遊佐、温井、三宅に対して復讐を期した。

以下の城内マンガに、長、遊佐、温井の屋敷跡が表示してあります。 ↓
七尾城マンガ頂上拡大.jpg
これは仇役にされた遊佐氏の屋敷跡 ↓
遊佐屋敷跡.jpg
ところがご存じのように謙信がその後死去する。
遊佐、温井らはこれ幸いとばかり、図々しくも内応して越後軍を導いたクセに、七尾城を奪還して我が物とし、長連龍に対して詫びと誓書を兼ねて和睦を求めてきた。
だが長連龍はザケンナとこれを蹴り、織田軍を後ろ盾に、あるいは単独で以後数年、能登を転戦することになる。
仇敵からの和睦を許さなかった長連龍の頑な態度を安土の信長が気にした。「意趣残すべからず」と。織田軍の北陸線戦は天下布武の一環でお前の私戦ではない、自重せよと諭したという。

能登畠山の七尾残党軍の他、加賀一向一揆も蜂起して柴田勝家軍と交戦しその中に長連龍も従軍している。信長や柴田にしてみればそっちが主戦場なのだが、長連龍は七尾残党三軍(遊佐、温井、三宅)にどうしても目が向いてしまい果敢に戦闘を挑む。
ここでまた信長は長連龍に「自重せよ」という書状を送り、信長にしては珍しく温井景隆からの降伏を許した。事態の早期収拾を図ったか、長連龍の私怨に構ってられなくなったのであろう。
だが長連龍は収まらない。私戦のように七尾三軍と交戦を繰り返し、局地戦とはいえ殆ど連戦連勝で止まらなくなった。信長は最初は長連龍を北陸戦線の案内役程度にしか思っていなかったのだろうが、長連龍の戦意(私の)の度が過ぎていたのでちょっと困った部分もある。
仇敵・温井らにしてみれば、自分は信長に降伏した筈なのに、信長の旗下にある長連龍が休戦せず戦いを挑んで来るのはどういうことかと思ったに違いない。

記録では能登の菱脇で大規模な戦闘があった。菱脇とはおそらく現在の石川県羽昨市にある菱分という地ではないかと思うが、この地で長連龍は遊佐続光、温井景隆、三宅長盛の七尾残党三軍を執念で撃退した。温井、三宅は越後春日山まで逃げたという史料もある。
長連龍の執拗さにたまりかねた温井景隆は信長のもとに再度使者を送り、自分らが奪還していた七尾城の明け渡しを願い信長もこれを容れ、またまた長連龍に対して諭すように、「温井らへの宿憤を残さず我が命に従え」と命ずる。
それでも信長にとって困ったことに長連龍は頑として命令に従わないのだ。従うどころか信長に向かって、「温井らを誅殺して仇を報ぜん」と願った。口答えするかのような態度に困惑したか、信長は温井らへの誅殺を許さぬ代わりに菱脇戦勝の恩賞として、鹿島郡(現在の石川県穴水町、七尾線の能登鹿島駅辺りか?)を領地として与え、居城はどこそこがよいのではないかと慰撫するように指示している。
信長にしては相当な気の遣い方である。頭を冷やせと言いたかったのであろう。でも長連龍に対する信長の気遣い、鷹揚な態度は意外でもある。

信長から貰うものを貰ってしまったので長連龍は七尾三将の降を受け入れるフリをしたようだが許す訳がない。天正9年3月、信長が菅谷長頼という将を七尾城代に派遣したら遊佐続光・盛光父子は逐電し、取り残された温井景隆・三宅長盛も七尾城を明け渡して退去して遁走した。
そしたら長連龍は逃がしてなるかと遊佐父子とその一族を草の根分けて探しだし全員を誅殺した。この時信長はもう七尾残党三将は用済みと思ったのであろう。

長連龍が遊佐一族を討ったのを知った温井景隆らは怖気を奮って越後に亡命する。天正10年6月、信長が本能寺で横死するが、長連龍は復讐の念揺るがず。信長不在で楽観したか温井・三宅が能登に攻めて来たのを前田利家軍が撃退する。温井景隆と三宅長盛はこの時に敗死した。この時、長連龍は利家の寄騎になっていたが、利家が成敗したか、長連龍に成敗させたかはわからないが、七尾城脱出から4年か5年で長連龍の“復讐するは我にあり”の大願は成就した。

それ以後、ターゲットがなくなった長連龍は付き物が落ちたようにおとなしく前田利家の旗下になった。利家は信長も辟易した扱い難かったであろう長連龍を上手く使いこなしたらしい。もしかしたら利家は己の若い頃を見たのかも知れない。
七尾城の旧臣で唯一、復讐を成就させることで生き残った長連龍の戦歴数は40数回、最後の戦闘は大阪の陣だという。74歳まで生きた。
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前田家は地元豪族だった長氏を筆頭に据えて家を残すことで、最初は能登、越中、越前一帯の信頼を得ようとしたのだろうか。
信長から慰撫するように与えられた鹿島郡に居城を与えられ穴水城という。前田家が藩になってからも穴水城代として据え置かれ3万3000石、殆ど大名だが、もうこの頃になると能登半島の城砦は機能しておらず殆ど廃城同然だったのではないか。
長連龍の曾孫、尚連の時代にお家騒動を収拾できず、前田家四代藩主・綱紀は長氏の領主権を取り上げた。でも金沢城下在住の前田家重臣で禄高はそのまま。長氏は存続する。それが長町武家屋敷になるのだが、何処に長さんが住んでいたのか、今でもご子孫が居住しているのかはわからない。

余談だが、東京の紀尾井坂で大久保利通を暗殺した首魁に長連豪という人がいて、この人も末裔のひとりである。
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長連龍の肖像画はない。
名前からして僧籍にあったのを還俗したのは間違いないが、還俗してからの執拗さ、信長を困らせるくらいなブレない生き様、執念には惹かれる部分もある。
知らない人の方が多いだろうし、私も最近知ったくらい。大河ドラマにも登場しないだろうけど。
復讐の鬼、長連龍を主役に描いた著書はないようだが、作家の伊藤潤さん辺りが描いてくれないかな。

さぁ、この辺りでジャン妻は疲れて来たらしいぞ。
「幾つ見て廻ったっけ?」
「尾上神社とぉ、兼六園とぉ、金沢城公園とぉ、武家屋敷とぉ、足軽とぉ・・・」
「随分、歩いたよね」
「おまえにしてはな」
「誉めて誉めて」
「大儀!!」
「さぁて、何かご褒美が出るのかなぁ、コーヒーとか、ケーキとか」
「・・・」
私は憮然とした。いつもこうである。まだ歩くの?何処まで歩くの?後でコーヒーとか飲ませて貰えるの?この類の不法な要求は、会津田島の鴫山城、伊豆の狩野城と韮山城、上州安中の後閑城、会津若松の小田山、いっつものことだが。。。
私も疲れた。寒い。何処か一服できる喫茶店はないか。

喫茶店が見当たらないので、長町近くの金沢ニューグランドホテル2階でお茶。
(金沢はホテルの多い街です。)
どれになさいますか?.jpg
手前ジャン奥ジャン妻.jpg
ジャン.jpg
ジャン妻.jpg
私も付き合いで珍しくイチゴショートを頬張った。ケーキなんて詳しく知らないから安全パイでショートケーキ。
金沢城下の散策が終わった。
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足軽屋敷は一戸建 [隠れ郷土史]

足軽資料館1.jpg
諸藩は軍役の原則として、幾人の武士を抱えていたのだろうか。
大雑把に見積もって、1万石につき250人という数字がよく知られている。慶安の頃に定められた軍役規定だと5万石で士分281人、足軽352人、その他(小荷田、槍持ち、鎧持ち他)342人、計975人だという。
では大藩の加賀藩だとおおよそ100万石だから単純計算で25000人かというとそうでもないのだ。規定の比率だと102万石の金沢藩の場合は士分5733人、足軽7181人、その他6977人、計19891人となるが、明治元年に士分7077戸、足軽以下が9474戸、合計16551戸という数字が残っている。
士分が超過していて、足軽以下が足りないが、これには足軽より下級の“その他”が含まれていないからかも知れない。明治2年の「士族・卒族等人口戸数当調帳」には5382人いたという。士分も多いが足軽も多いのです。
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加賀藩は大藩だから裕福だったかというとそうでもなかったようである。小藩には小藩の、大藩には大藩なりの台所事情があった。
武士階級の収入は米に依存するから米の値段が下がれば収入が下がる。それでも大藩だけに家格を維持する為や諸物価の高騰に合せて出るものは出る。
だから三大お家騒動の一つ、加賀騒動みたいなのが起こったりするのだ。あれをデッチ上げと書いたのは故・海音寺潮五郎さんだが、あの騒動の要因は本田家他、万石クラスの家老たちの合議制に反発した六代、吉徳という殿様が藩主独裁体制を進めようとしてコンビを組んだ側近、大槻伝蔵が足軽出身だった為である。
大槻伝蔵は鉄砲足軽の三男坊だが、他藩の足軽は長屋住まいだが加賀藩は大藩だけあって足軽といえども立派な一戸建てだったのだ。
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長町武家屋敷のちょっと先に足軽資料館というのが2棟あって、木造平屋建、石置き板葺の平入り切妻造りの家を高西家と清水家という。
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清水家の説明.jpg
幕末に4607戸(維新後に卒族とされた戸数)、加賀藩直属の割場附足軽や定番附足軽と人持組、藩の上層部の家々が抱えた足軽の住宅は2689戸もあったので、加賀藩の武士数で最も宅地数が多いのが足軽たち。今あるのはそのうちの2つで、平成6年頃まで子孫が居住していたそうである。
この足軽資料館では合計5382家となっている。士分の数は5579家。
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なかなか立派な平屋である。
入ると廊下はなく、玄関から座敷に続く部屋と、台所や茶の間、納戸(寝室兼?)の生活部屋が並列した間取りになっている。しかも庭付きである。庭といっても屋敷の周りに土塀ではなく生垣を回し、内側の庭は野菜や果物の実る木を植えていたので、陽気のいい日に縁側に座って庭を観賞したりすると為ではなく、自給自足で喰う為の実益用スペースだった。
小物や女中、中間はいない。家族だけで住んでいた。
足軽の住居説明1.jpg
足軽の住居説明2.jpg
足軽の俸給.jpg
俸給の半分は主食.jpg
足軽の給料は安かった。
足軽の年棒(給与)はわずか25俵で年2度、12俵を春に、13俵を暮に支給された。切米という。切手を貰って必要な時に米やお金に換える。
当時の人々は現代人より米を多く食べていたと思うが、ひとり当たり年間米消費量が2俵、1家4人で8俵、6人だったら12俵、俸禄の半分が主食費で消えてしまうのだ。
米1升が32文、現代の物価だと640円。米1合×10倍が1升。1升×40倍=1俵として640円×40=25600円だが、それの30倍だと年収80万にもならないじゃないか。現代の給与に換算すると幾らの年収かちょっとわからないが、主食だけでは生きていけないので非番の日には家族揃って内職に励んだ。
幸い住居はお上からの拝領なので、家賃というものはなかったようである。
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足軽は本来は軍事組織に連なる歩兵なので、日ごろは武術の修練、弓・鉄砲・刀槍の稽古に勤しんでいたが、武術の訓練以外に警備、工事場の人足、他、文官としての様々な雑務のサポートや、江戸や上方への飛脚、または情報収集などの役目があった。
隠密みたいなのもあったかも知れない。または、足軽といえどナメんなよと密かに秘剣を伝える家系や、藩主直々に上意討ちを仰せつかるお闇討ちの家系とか。。。(時代小説の読み過ぎかな。)
江戸詰めは楽チンだったらしいです。国許にいるとあれやこれやコキ使われたそうです。日常、殆どが職務と内職、武道の訓練だったが、時間を割いて漢学、史学、計算といった勉強もしていた。
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足軽は殆どが世襲だが、足軽株のような権利があり、売買によってその職に就くこともできた。定員があって原則それ以上は増えないんだと。大相撲協会の年寄株みたいなもんだろうか。
お金次第で.jpg

加賀騒動の主役は.jpg
あったあった加賀騒動の主役、大槻伝蔵の説明がちょっとだけ。
確かに大槻が20俵25俵の世界から、4000石近い高禄の上士まで成り上がったのは周囲からは異様な昇進に見えたに違いない。
大槻がやった改革そのものはこの時代なら何処にでもよくありそうなプランで、それで財政悪化が止まりかけたはいいが劇的な黒字には転換しなかった。加えて異例の抜擢、早過ぎる昇進、頻繁に与えられた禄高加増が続き、成り上がりだけに抵抗勢力が多過ぎ、既得権を奪われた門閥派の重臣たちや、倹約奨励で窮屈な制限を課された保守派の家臣たちに弾劾され、吉徳が病死した途端に失脚した。
主君吉徳を弑逆したの、吉徳の側室だったお貞の方(真如院)と密通証拠の手紙が出てきたの、イロんなスキャンダルが浮説しているが、列藩騒動録や悪人列伝では、それらは全て○○○○守のデッチ上げた疑獄と言い切っている。
だが地元金沢で擁護するものは見当たらなかった。
加賀騒動の本1.jpg加賀騒動の本2.jpg
小間.jpg
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お座敷へ.jpg
茶の間.jpg
割と広いです.jpg
こういう家々が組毎にギッシリ立ち並んでいた。団地といってもいい。坪数に規定があって平足軽が・・・確か50坪だったかな。その敷地内に10~25坪ほどの平屋が建っていた。今の間取りだと4Kか5Kといったところではないかな。
「なかなかいい家じゃねぇか」
「・・・」
「贅沢な平屋がいいって前に言ってたっけか」
「・・・」
「角部屋でないので若干、暗いな。左右から外の陽射しが入ってこない」
「・・・」
「ウチより広いぞ」
「そんなことはないっ!!」(ジャン妻)
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利家公の履歴書~金沢藩余話 [隠れ郷土史]

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金沢を散策して未だ初詣に行ってなかったのを思い出したぞ。
いつも行くのは富士宮市の浅間神社。いずれ行く予定ですが、その前に金沢市内を散策中、規模的にちょうどいい神社を発見した。
尾山神社。どなたを祀っておられるのかと解説版を見たら、前田利家公とおまつ殿でした。
境内に利家公とおまつ殿の像がある。
お松の方像2.jpg
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贅沢なお願いはしません。
家内健康安全を祈願しました。
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加賀藩主二代目の利長は父利家を神として祀ろうとしたが、大藩の外様大名なので幕府から睨まれているのはわかっている。大っぴらにできない。
東照宮に家康が神君として祀られているので憚りもある。まさか加賀大明神とかハデに祀るわけにいかず、最初は金沢城内に遠慮がちに祀った。別の場所にあった八幡社を勧請(神霊を分けること)して合祀(合わせて祀ること)した。尾山神社の創立許可が出たのは幕府が瓦解した明治になってからだそうですよ。明治6年(1873年)3月、前述の目立たぬよう城内に祀ってあった利家の神像を遷座した。
ご神信は誰?.jpg
秀吉に天下を取らせたのは黒田官兵衛なんてノリの平成26年だが、それは官兵衛よりも前田利家ではないだろうか。
賤ヶ岳の戦線離脱が秀吉を信長の後継者たらしめる重要なポイントだったと思うのです。利家を弁護するなら、北陸方面の司令官だった柴田勝家の家臣ではなく寄騎だったこと。(※)
家臣なら裏切りだが、寄騎というのはその方面の主将の軍団に戦略上の増援目的で付けられた幾つかの軍団集合体の一将です。利家以外にも佐々成政他、不破、金森、蒲生といった寄騎が10人以上いた。

軍団は戦線が終結したら解散、寄騎も寄騎でなくなるが、信長の横死によって北陸線戦は休戦状態になっていた。その間に勃発した右大臣信長の後継者争いに巻き込まれた場合、どちらに付くかは家臣ではないので勝手次第ともいえる。
(※賤ヶ岳の秀吉側でいえば中川清秀や高山右近もまだその時は寄騎だったんじゃないかな。)
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利家は天正9年(1581年)に能登一国の国主になっていて七尾城にいた。
地理的に見たら柴田勝家寄りでなかなか旗幟鮮明にできなかったのはわかるが、それでも賤ヶ岳に幾千の軍団を連れて陣を張っているの、小早川秀秋のように攻めかかってはいないが、まぁ消極的な裏切りには違いないかも。
(小早川秀秋も毛利の家臣ではないぞという反論が聞こえてきそうですが、秀秋は秀吉の養子ですぞ。松尾山を下って西軍に攻めかかった秀秋は裏切り、寝返りの印象が強過ぎるのだ。)

「アナタは利家はどーなの?」
どう思っているの?という質問です。そういえば、あまり前田利家で会話をしたことがないな。
「賤ヶ岳でサッと兵を引いたからなぁ」
「アナタは勝家寄りなの?愚直な、愚直な、あの愚直な。。。」
何を言ってやがる。そうそう亭主を愚直愚直言うものではないぞ。秀吉とソリが合わなかった勝家は近年、見直されてつつあるのだよ。
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「利家とまつ」は見なかったので賤ヶ岳の撤退がどう描かれたか知らないのだが、秀吉と勝家双方と昵懇にしていた利家も迷い迷って陣取ったのであろうか。
後年耄碌しまくった秀吉が死んで、内府(家康)に対抗できるただひとりの人物と目され、病魔に蝕まれた体躯を引き摺って内府との会見に臨む姿は悲壮、凄愴感が漂う。
豊家関係者やファンは後年、利家さえ後数年生きていればと思っただろう。だから賤ヶ岳で撤退したことはあまり言われないのでしょう。
前田家は生き残った、勝った者はその後を編纂し、賤ヶ岳の辺りは曖昧にされたともいえなくもないが、良い意味で上手に生きた利家公がご神体なら、贅沢さえ言わなければ願い事は叶うでしょう。
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利家公が藩祖、金沢城です。
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加賀は大藩である。
諸侯最大の102万5000石、越中富山、加賀大聖寺の支藩を合わせると120万石を超える。小松城と併せて一国二城、外様の藩では別格扱いだった。支藩、城代が多いのも他藩と違うのがわかる。
家臣の数も多い。
加賀八家、もしくは前田八家という年寄(人持組頭)を最高に、上士身分の人持(ヒトモチ)70家、平士1400家、平士並(数不明)、与力300家、御徒300家、御徒並400家、そして足軽5000人。。。
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筆頭家老は家康の傍で策謀を巡らす本田正信の二男、政重から続く本田家です。
この家は幕府から派遣された目付、監察のような位置づけもあったようで、この家が最高禄で5万石。
他の7家も、能登畠山の旧臣で七尾城にも立て籠もった長家、この家は穴水城主で3万3000石。
富山城代の横山氏が3万石。
藩主一門で越中守山城代の前田対馬守家が1万8000石。
末森城代の奥村河内守家が1万7000石。
松根城代の村井家が1万6500石。
奥村内膳家が1万2000石。
前田利家の二男系列で小松城代の前田土佐守家が1万1000石。。。
大大名の家中に小大名クラスが8人もいたようなものである。
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人持組でも1万石クラスが4家、8000石~5000石クラスが11家、5000石以下が24家ほど確認できた。
その中にはいろんな連中がいて、前田家の閨閥に属する家々、旧織田家の家臣、織田有楽斎系の流れ、旧徳川家の家臣で出奔した者、越前朝倉氏の旧臣、上杉景勝の次にいっとき春日山城主だった掘秀政の弟の係累、かつて藩祖利家と一緒に柴田勝家の寄騎だった不破家の末裔、さらさら越え佐々家の旧臣、関ヶ原で小早川秀秋につきあって土壇場で寝返った4将のひとり赤座直保の子など様々な履歴書をお持ちです。

でも門閥中心の藩政治だったと思う。だから大槻伝蔵のような加賀騒動も起きたのだろうか。
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金沢城は復元工事が進んでいる。明治維新後に陸軍の連隊や師団司令部が置かれたり、金沢大学の敷地になったりしたので、公園化事業は平成になってからです。

城内が広く、吹きっ曝しで寒いので休憩所に入ったら、イロんな説明版があって、そこにこんなのがあった。
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上州七日市藩!!
おおっ、あったあった。名前だけで詳しい説明はないが、利家の五男、利孝の家系です。
私は七日市の陣屋前を数回、社用車で走ったことがあるが、地元高校の敷地内なのでちょっと立ち入れなかった。旧道なので停め難かったのもある。
七日市藩は城ではなく陣屋で、金沢城内とは比較にならない。たったの1万石です。あまり裕福な藩ではなかったらしい。
金沢本藩の一行は参勤交代時に立ち寄ったという。本藩からの援助もあったろうが、本藩が立ち寄った時は行列一行を宿泊させててんやわんや。旅館に泊まるのと違って宿泊費用は七日市藩の自前だったに違いない。やはり本藩は支藩より威があるものなのだ。
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余談ですが、このダダっ広い金沢城公園で昨年12月10日未明にクマが現れたそうである。
クマは城内の一部でもあった尾崎神社で目撃された。宮司さんが就寝中に警報機が鳴ったので外に様子を見に出たら、体長1mのクマがいた。クマは柵を越えて逃げた。
110番通報があった地元警察官や地元猟友会がクマの足跡を確認、その後、隣接するここ、金沢城公園内でフンが見つかったという。
だがその後、クマは見つからなかった。金沢城公園、兼六園は10日は閉鎖されたが、捜索しても見つからなかったので11日に開放された。
このネタはジャン妻には黙っていた。喋ると堪え性が一挙に失われると思ったの。挙句にホテルへ帰るだの、何処まで歩くんだの、せめて喫茶店でコーヒー飲ませろだのグダグダ言いだすに決まってるからね。
案の定、そろそろ飽きてきたらしく、「まだ何処かへ行くの?」
「足軽長屋が見たいのだよ」
「足軽ぅ??」
行ってみたら長屋ではなく一戸建てだったんですよ。さすがに大藩だけのことはある。
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兼六園異聞 [隠れ郷土史]

昨年、金沢へ初めて来た時、ジャン母に「兼六園は行ったの?」と聞かれ、「行ってない」と答えたら、「金沢まで行って何故兼六園を見なんだの」と呆れられた。
それを見ずして他に何を見たのかと執拗に問われ、七尾城、くるまで走れる砂浜、近江町市場、と答えたのだが、「兼六園を見なさい」と命令口調で言われたものである。
観光嫌いで歩きたがらないジャン妻も、「今回は行かないとね」肚を括ったようで。そんな決意声明が必要かねぇ。。。

日本三大名園、兼六園、偕楽園(水戸)、後楽園・・・恥ずかしながら私、後楽園っていうのは文京区の何処かにあると思ってた時期があった。それはともかく、兼六園は最初っからこんな広い庭園だったのではなく、延宝4年(1676年)に五代藩主の前田綱紀という殿様が作り始め、歴代の藩主がいろいろ追加したり広げたりして十三代藩主前田斉泰(ナリヤス)が現在ある形に完成した。
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広い庭です。
こういう庭は大藩、雄藩だけにできる趣味ともいえる。でもまぁ作ってしまえば維持管理修理費が多少はかかるにせよ、殿様道楽のヘンな遊興で藩費を浪費するより遥かにいい趣味ではある。
でも兼六園は後楽園や偕楽園と違い、最初っからこれだけ広大なお庭を作りましょうと意気込んで作られたものではないらしいのだ。
兼六園の水は何処から引いているのか。
辰巳用水という人工河川だという。取水場所は市の西南にあって、上辰巳という地から兼六園まで11km、途中トンネルもあるそうです。
だが殿様の趣味、庭の池に水を引く為だけにそんな大事業をするだろうか。
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後でUpする金沢城で年表を見たら、「随分、火事に遭っているのね」(ジャン妻)
金沢城は度々火災に見舞われる城で、兼六園の池を満たす水は、城内城下火災発生時の防火用水が発端だったという説がある。
慶長4年(1599年)落雷で天守が焼失。
寛永8年(1631年)寛永の大火で本丸等が焼失。
辰巳用水はこの翌年に引かれている。それでも火災が発生していて、
宝暦9年(1759年)に宝暦の大火。城内大半が焼失。
文化5年(1808年)に二の丸御殿が焼失。
明治になってからも14年(1881年)に二の丸から出火している。明治14年はまだしも、それ以前の約200年で4回の出火を多くみるか、そんなもんだろうと見るかは諸兄に委ねますが。大藩だけに目立つ。
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私らは兼六園を真弓坂口から入ったが坂を延々上るんです。庭園だから池ぐらいは当然あるだろうけど、何で高台にわざわざ庭園を造ったのかなと。
それは、もとは金沢城の外郭だったからです。

兼六園券六園内の高い位置に霞ヶ池があって、その先からは城下が見下ろせる。兼六園のある高台に水を引いたのは、城下に水を落とす高低差が必要だったからではないか。
では城下を見下ろすくらいの高台に水を引くにはどうすればいい?川の上流、金沢城や兼六園よりもっともっと高いところから水を延々引くしかない。
兼六園の池の水は殿様のお庭趣味の為ではなく、城下で出火した際の消防用水の為、高台から水を落とすのが当初の目的だったのではないか。庭園は後から付随するように出来上がった???
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防火用水を引いたついでと言っては何だが、せっかく水を引いたんだから池を作り、噴水を作り、滝まで作り、雅やかな庭になり、その水は城下に流して城の堀の水になった。今ある金沢城下の瑞々しい姿は、城まで自然に水を引く為の過程で歴代の藩主、特に雅やかな趣向を持った藩主や、土木技術に関心があった藩主たちが投資して現在の形にほぼ出来上がった。。。
(城下には辰巳用水の他に大野庄用水と鞍月用水があります。)
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私は公園の美、そのものを楽しまずに、モノができあがった背景、経緯、隠されたものをジロジロ炙りだすのが好きだが、ジャン妻は兼六園については、「義母さんへの義理を果たした」程度のものらしい。

残雪が残り、園内はそぼ降る雨で足元がグチャグチャ。でもこの時点ではジャン妻は、「早くホテルへ帰ろうよ」とは言わなかったのだが。。。
そのウチ、それがカオに出るは必定である。。。
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金沢市内有名寿司屋 [グルメ]

近江町市場に幾つかある出口のひとつ、十間町口からほど近いところに1軒のお寿司屋さんがある。
昨日載せた有名居酒屋の主人と長いお付き合いだそうである。主人が「11時前には入った方がいいですよ」と言われるので、タクシーで直行した。
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小さい店でカウンターが10席のみ。後ろに変な形をしたテーブル席があるがそれはWAIT席らしい。予約が2組入っていたそうだが、時間差で滑り込んだ。
握り鮨は1050円(平日のみ)、2100円、3150円の3コース。
「2100円も3150円もお出しする数はそれほど変わらないです」
迷わず3150円コースにしました。日頃、平日のランチじゃないんだし、滅多に来れない金沢寿司だし、この値段なら上を狙うしかないでしょう。
ホッコリした主人が言う。「牡蠣とか、苦手なものはございますか?」
あるわけない。「ないです」
お任せだが、食べられないものを言えばアレンジしてくれる。
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朗らかな女将さんが、「お飲み物はお茶でよろしゅうございますか?」
同行者2人は、ハイ、お茶でいいですと。私もお茶で良かったんだけど、我が道を行くジャン妻は迷わず言った。
「ビール!!」
同行者は唖然。私も固まった。他がお茶でいいと言ってるのに己だけビールかよ。
「だって休日よ」
「???」
私は仕方が無く言った。「じゃぁ俺もビール・・・」お追従である。
同行者は苦笑いである。
梅コース3150円の途中で私はもう1本ビールを飲もうかと思ったのだが、ジャン妻が、
「日本酒にしなさい」
「日本酒ぅ??」
昼間っからかよ。確かに外は寒いし、こっちは観光客だから昼酒喰らったってオカシかないけどさ。
「ビールもう1本ダメ??」
「そういうみっともないことは止めなさい」
何がみっともないのか。何でビールがダメで日本酒ならいいのか。その遣り取りを横目に同行者は目を更に点にした。日本酒?このオンナはアル中かという表情である。
処理済~仕事中.jpg処理済~主人.jpg冷酒.jpg
私は寿司屋は居酒屋ではないから、基本は寿司しかないという概念があるが、カウンターで寿司を喰った経験は数えるほどしかない。
ここ何年かだと、上州T市、社宅マンションの近所、すぐ隣にあった江戸吉寿司くらい。(ショウさんが行かれてましたね)
寿司屋のカウンター経験が薄いままこのトシまできてしまった。(テーブル席やお座敷で、何も考えずに特上!!を喰ったことはあります。)
ロクに寿司屋に行かないクセに、天ぷらや焼き物がある寿司屋さんだと、「???」と思ったりする。
海鮮居酒屋で寿司を喰ったことはあるけど、大抵は締めに喰う巻物かなぁこれまでは。
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ヒラマサと・・・ヒラメだったかな.jpg
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では余談です。
最近の若者は偏食傾向が強く、肉しか喰わない、肉が喰えない、野菜が大嫌い、そういう子が少なくない。
タマネギが嫌いなんて子がいて、ピザからタマネギを外してました。カレーからもタマネギを取り分けるという。カレーにタマネギ入ってなかったらどんなにマズイか。。。
寿司が喰えない子もいました。刺身が全くダメで、玉子や巻物しか喰わないんだと。
同行者とそんな会話になった。
「そういう場合、こういうカウンターのお寿司屋さんはどう対処するんでしょうね。3150円のコースと2100円のコース、出る品数は殆ど変らないって言ってたからネタで調整するんだろうけどさ」
「そういう子は、量を増やすしかないんじゃないの。」
でも数を多くしたって量にも限度があるだろう。その逆もあって、信じられない話だが、白いご飯が食べられない若い女性社員がいましたよ。食べれるのは丼もの、ピラフ、炒飯、釜飯、混ぜご飯、ドリアといった味が付いている飯しか喰えないんだと。
私はその子が昼に喰っていた出前の寿司(安いヤツ)に難癖をつけるように、「この寿司のネタを外したらもう喰えねぇんだろ?」って言ったことがある。
そしたら返って来た返事は、「外したネタを載せれば食べれますよ」というものであった。
「そ、そりゃそーだな・・・」
私はスゴスゴと引き下がった。1本取ったつもりが取られてしまったのである。
慣れない寿司屋のカウンターだが、リラックスできたのでそんなしょーもない話題を出したんだが、居酒屋ならまだしも寿司屋でする会話じゃないですねぇ。
結局、私は寿司屋さんを知らないモンだからどういう会話をしたら粋なのかワカランのですな。酔っぱらって声高に話すわけにもいかないしさ。
酒は1本で抑えた。居酒屋じゃないんだから。寿司屋や蕎麦屋で酔っぱらうなんて愚でしかない。
味に集中しました。小さい店だから握りの提供時間は早く、供されたらグズグズしないで即座に口ん中に放り込んで咀嚼する。粛々といただく。儀式のようなコースが終わったところで、「他に何かございますか?」
同行者は、いや、もう充分いただきましたと。
私は足りない。「のどぐろ!!」
アンコールは軽く炙ったのどぐろ。同行者がいなかったら玉子焼き(美味しいらしいですよ)や鉄火巻もいったんだがな。
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合計7皿、プラス、アンコールしたのどぐろで合計8皿。
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時間にして40分もいなかったけど、妙に居心地のいいカウンター席だったな。主人と女将さんがホッコリして朗らかだったからでしょう。
ネタに大満足したが、店を出てから、「あれでご飯何杯分の量なんだろうな?」としょーもないことを言ってしまったぜ。
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後で知ったのですが、予約無しで入れたのが奇跡なくらいの人気店だそうな。
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金沢市内有名居酒屋 [居酒屋]

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金沢では有名な居酒屋です。
本店、香林坊店ともう1店あってタクシー運ちゃんにもすぐ通じる。「あの店、よく入れましたねぇ」なんて言われたこともあるくらいの超人気店。
名物大将のいる本店は週末や土曜、もしくは3連休の土日なんか満員御礼で、かなり前から予約しておかないと難しい店。「いらっしゃいませ」より「もうしわけありませ~ん」、断る声の方が多い。
yossyさんに「この店、ご存じ?」と聞いたら、「息子なら知ってるかも」とのことであった。
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私らはこの人気居酒屋の常連者さんと知り合い、その方の配慮で昨年もおじゃました。その常連者さんはいつもはカウンター席で名物大将とTALKしながら飲む喰う語るそうです。だが1人2人だとお腹に入る料理が限定されちゃうし、私らを誘うとイロんなモノが種類多く喰えるという目論見でお誘いが。。。
2回めの訪問ですが、同行した常連者さんは夏、秋と1回ずつひとりでこの店に来て、今回の予約時に「昨年お連れした方2人(私らのこと)を再度、お連れ・・・」
そう予約したら大将は覚えてたらしいのだ。「ああ、昨年お連れになった方ですね。あの方々は随分お飲みになられましたねぇ」と返されたそうで。そんなに飲んだか俺たち?
常連者さんが言うには、「もう大将は○○さんたち(私たのこと)のカオ、覚えたようですよ。2人で来ても大丈夫です」と言われるが、
「いやぁ、そうそう金沢まで来れないですよ」
「大丈夫、新幹線が通るから東京からなら仕事が終わってからでも来れます。21時に着きます。」
「そうなのかな。東京から3時間で来れます?」
予定では2時間半らしい。
(余談ですが、新幹線が開通すると在来線が廃止になったりする。その辺りは大丈夫なのかな。
北越急行なんか大丈夫だろうか。あれはトンネルが多く、相当な建設費がかかってるし、松代町はなくなると困るだろう。)

2夜連チャンで行ったのですが、最初の夜の会計時に大将はその常連者さんに向かって私を指しながら、「あのコワそうな人・・・」とかヌカしてましたよ。こっちも酔ってたから不問にしたけどそこだけ覚えてるんだな。翌日の夜、奥へ通される時、大将に向かって、「どーもおひさしぶりぃ」って言ってやったよ。

この人気店、2回めの訪問なので私も着眼にややウルサくなってきた。
私の率直な印象はですね。。。
美味くて突出してるものは寒ブリ。脂がノッて舌上でトロける。(冬場のこの時期ならアタリマエだが。)マグロなら大トロといっていい。この店で喰ったせいで他でブリ刺を喰わなくなったモン。
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ブリしゃぶもいただいた。ひとり用の小鍋です。見たら、刺身のブリと鍋のブリと部位が明らかに違ってるんですよね。脂のノッたブリは刺身だけだと飽きてくるというが、私はブリしゃぶよりも刺身がいいな。
ブリカマも美味かったです。でもそのクセこの店にはブリの塩焼き、照り焼きといった小さい焼き物はないようですな。
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憧れのノドグロ。ノドグロは東京神奈川であまり見かけないし、稀にあっても小さかったりする。連夜で一匹ずつ、ノドグロを計二匹喰いました。
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白子焼きも美味かった。私はシラコなんてなくても生きていけますが、焼いたのが美味かったね。
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肉料理は鴨治部煮以外は皆無といっていい。加賀野菜を使った料理も幾つかあるけど脇役程度の位置づけで、やはりメインは海産物ですね。
注文する料理によってはアタリハズレの落差があるなと思う時もある。期待が高いからです。ハズレてもフツーの居酒屋程度のレベルはあります。

価格は・・・高いようなリーズナブルなような。値段は数字が100円単位で表示されてるのでまぁまぁ明朗会計ですが、4人の桶盛が60、すなわち6000円です。小桶26、すなはち2600円もあります。
他は、じ、と書いてあってそれは時価なんですな。それはノドグロだったり、その日の煮魚だったり。でも何でアジが、じ、なのかワカラン。アジはアジではないのか。どんな凄いアジなんだろう。
カレイ煮付け.jpg
鯵タタキ.jpg
蟹味噌グラタン.jpg
お品書き1.jpgお品書き2.jpg
お品書き3.jpgお品書き4.jpg
お品書き5.jpgお品書き6.jpg
それとメニューを見るとわかるんだけど、店側からして自身満々なのは太いフォントで表示されています。反対に店側からしてどーでもよさそうなもの、たとえば、じゃがほく、私はこれがおそらくジャガイモのフライか素揚げであろうと推測し、酒のお代わりを持って来た若い男性の店員さんに向かって、「この所在無さげに遠慮して小さく書いてあるじゃがほくをくれ」言わずともよい余計な比喩を付けながらオーダーしたらこれが手早くすぐに来た。同行者さんは何で金沢くんだりまできてジャガイモのフライをという胡乱な目をしてましたね。私もポテトフライなら、加賀だったら里芋か蓮根を潰して揚げたら?と思ったモンです。
自信なさげに書いてあった刺身に、カジキ、があった。
これはイマイチだった。脂のノリが悪いマグロみたいでした。
北陸団子、これはさつま揚げみたいなもの。これはhttp://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-11-20に似た味だった。金沢も新潟も同じ日本海に面してるからでしょうか。

左がじゃがほく、右が北陸団子です。
ジャガイモ.jpg北陸団子.jpg

生きたままの箱蟹を酒に浸けておいた酔っ払い蟹、これが冬場の名物でこの大きさで2300円だったかな。これは酒飲む合間に舐めるアテで、腹が膨れるアテではないです。
酔っ払い蟹.jpg

ジャコ茶漬け.jpgチーズだしまき.jpg
もずく雑炊.jpg蟹の混ぜご飯.jpg
鴨治部煮.jpg甘海老唐揚げ.jpg
蛸唐揚げ.jpg加賀蓮根蓮蒸し.jpg
またしてものどぐろ.jpgカジキとたこ.jpg
今回は4人で鯨飲鯨食したのだが、一品一品が割と高めなのと、飲んだ酒の本数を覚えてないくらいにガンガン飲んだので、こりゃぁ勘定が相当行くなぁと思いきや案外そうでもなかったりする。
ガンガン飲んだのは体調が良かったからなのもありますが、何だか金沢の酒って美味しいんですよ。スイスイ飲めちゃうのね。今回飲んだのは成政という純米酒です。私はなんとか大吟醸の類を飲まないのと値段が安かったから。
(大雪の中をさらさら越えして三河へ向かった佐々成政はお隣の富山です。)
焼酎がお好みの方もいるでしょうけど、このアテ、氷見の寒ブリで焼酎ぅぅ??もったいないと思うのだ。
満員御礼です.jpg
暖簾を潜るジャン妻.jpg
この店の○○ログ評価は乱高下している。
金沢で一番、という高評価もあれば、何故この程度のレベルであんなに混んでるのかわからない、期待した割には・・・、という評価が分かれているところ。
人気店なのは間違いない。私は通い続けるクラスとしてはビミョーなのですが、連れてっていただいた同行者(超常連さん)と酒や会話の手が合うので、また機会があれば。。。
「夏にまた行きましょう」って言われてるんですよ。
「夏は何がウリなんです?」
「ホタルイカ。△△も誘って5人で」
「△△もぉ???彼女は無理じゃない?」
「いや、○○さん(私ら)がいれば大丈夫」
どうも私らは、意中の△△を誘う為のダシみたいですねぇ。△△は登場していますが今回は伏せます。
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yossyさんと邂逅~招龍亭 [グルメ]

手毬(ホテルで).jpg
金沢手毬です。
20年以上住み、あと4~5年でローンが終わるウチには絵画や書、置物といった飾り物が全くない。毎年毎年のカレンダーがひとつブラ下がっているだけ。
「家にこういうもの飾るの初めてじゃない?」(ジャン妻)
この手毬はyossyさん奥様の手作りなのです。

金沢には昔ながらの伝統工芸品が多い。加賀毛針、二俣和紙、和傘、竹工芸、加賀提灯、桐工芸、茶の湯釜、加賀象嵌、そして手毬。。。
手毬は金沢城内の姫君や奥御殿の女中達の間で絹糸の雅やかな手毬が作られた。それが城下に広がり、女性たちが競って作るようになり、それは母から娘へと伝えられた。武家家中の女性の内職かもしれない。
工場での大量生産じゃなくって手作り。毬の芯から細糸を丁寧に巻き固めて作るスグレモノ。器用繊細な手先や、美への探求がないと作れないんじゃないかなぁ。
yossyさんの記事http://yossy218.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302822965-1にはご自宅に200個あるそうですが、それらは全部奥方の手作り。現在、新築中の事務所兼邸宅にゴッソリ運ばれるのかな。

今回も急に決まった金沢行は、同行者夫婦と夜に合流するので別々に向かった。私らは朝8時に出て金沢着13時前着になるよう設定した。
飛行機でなくて金沢に行くには何線で行くのが近いか?
アンサーは東海道新幹線なんです。米原で乗り換え、特急しらさぎで2時間で金沢に着く。この情報は故・宮脇俊三さんの著書で知った。
北陸新幹線が開通するのは平成26年の春です。
しらさぎ1.jpg
yossyさんは金沢駅改札に立っておられた。事前にお互いがわかるように風貌を確認しあっての初顔合わせ。
「私は黒い上下で髪がありません」
(無いわけではない。スキンヘッドに近い。)
「私はオールバックです。わかるように首にマフラー巻いてます」(yossyさん)
オールバックか。私もそういう時期があったなぁ。最初っからこんなアタマしてんじゃないですよ。
寒いのでマフラー巻いてる人は幾人もいるだろうけど私は自信があった。そういう対面ってのは何となくわかるもんなんですよ。

レクサスに同乗させていただいた。
デカいくるまだなぁ。幅が広いんです。
「これであの四国のなんとか温泉まで行かれたんですか?」
「旅館の人にも、よくこれで来られましたねぇって。道が細くてガレて、至る所に落石があって。宿側も最初から言ってくれりゃぁいいのにね」
ところによっては駐車場に入れない場合もあるそうな。くるまに関してはディーラー以上にお詳しいようです。
招龍亭1.jpg招龍亭2.jpg
会場1.jpg会場2.jpg
3人でランチ。
この店、「招龍亭」は入口が重厚で、構えは大型旅館?、一歩店内に入ると何だか竜宮城に迷い込んだような異な空間だった。
地元の名士yossyさんのカオで何なく丁寧に案内された。(奥様がお知り合い?)

これは前菜のバイキング。
前菜バイキング.jpg
海のランチ。
海ランチ.jpg
山のランチ。能登ポークの酢豚。
山ランチ.jpg
これはおまけ。店員さんが海と山を間違えてお詫びに持って来たの。何で間違えたの?って突っ込みたかったな~。
山ランチのおまけ.jpg
点心。私はこの揚げた点心が気に入った。
点心.jpg
ご飯ものとスープ。
炒飯.jpg
スープ.jpg
和風中華と謳ってるだけあって上品な味付けで。東京や横浜中華街みたいに油っ濃くないのです。yossyさんは「横浜なんだから中華街よく行かれるんでしょ」と仰るが、私らは中華街って殆ど行かないのね。何だか人が多くてギラギラして、地元っちゃぁ地元なんですが、ここ30年で職場の宴会で4回ほど利用したけど店の名前忘れちゃったモン。
これは招龍亭のHP
http://www.saikohrou.com/index.html
YouTubeにもありました。
http://www.youtube.com/watch?v=EUmw8Rz2Cs0
私らが最後の客になったんだけど、駐車場にはまだたくさんのくるまが。どうも2階に宴会場があるみたいですね。大きい店のようです。
後でお店のHPを見たんだけど、店にあったパンフとずいぶんギャップがあるんですよ。
これはお店のHP ↓                          ↓ 以下、お店にあった和風パンフ
HPから.jpgパンフ1.jpg
パンフ2.jpg
パンフ3.jpg
パンフ4.jpg
パンフ5.jpg
私らはテーブル席でしたが、和室やお座敷で違和感を感じながら中華をいただくのもいいでしょう。

その後、某ホテルでお茶。
某ホテルは地下駐車場に入れるのではなく、ボーイさんが正面入り口前に誘導してましたよ。デカいくるまだから入らないというレジェンドを確認しました。
ボーイさんのかしこまったカオを見て、yossyさんっておカオが売れてるんだなぁとヘンな感心をした。

お茶しながらの話の内容は、プライベートなこと、仕事のこと、Blogのこと、記事のこと、建設中の新邸のこと。。。
私が内心で唸ったのは、yossyさんは息子さんと会話をされているということ。それも対等な、もしくは友人感覚で会話をされていることです。
世の中の父子って会話が無かったり、少なかったり、つっけんどんだったり、親がエライと息子にプレッシャーがいったり、息子が物心ついたら自我が芽生えて反発しがちだけど、yossyさんトコはお互い認め合っているからでしょう。

処理済~yossyさんとジャン妻の後姿(この体型の差を見よ).jpgyossyさんがどんな方かって?
ええっと、細身で長身、羨ましいくらい髪フサフサの好紳士、穏やか~な方でしたよ。ハンドル握るとちょっとだけ地が出たけどね。2回くらい。(笑)
どうやって繋ぎをつけたのかって?
まぁそれはいいじゃないスか。ちょっと乱暴だけど直球ストレートでいきなり本丸にアタックしたんですよ。金沢は遠いからなかなか行けないし、こういう時でないとね。

yossyさん、今回はすっかり下駄を預けてしまいまして恐縮です。ありがとうございました。
手毬(家で).jpg
手毬(TV下).jpg
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鎌倉ハム異聞 [隠れ郷土史]

前に呟きⅠでよく登場したTさん(肉子さんと呼ぶ)という小柄小顔の美人な若主婦はお肉が大好きで、
「前に、やっぱお歳暮はハムだよ、ハムにしましょうよ~って言ってたよね」
「お歳暮じゃなくってお中元だよ」
「何でハムなんだよ?」
「ハムったって薄く切る前のハムだよ」
「結局、自分も喰いたいんだろ」
「うん。○○さん(私のこと)、アタシにハムちょーだい」
「何で俺が・・・朝から焼肉喰ってんじゃないの?」
「朝はハム、ソーセージ、ベーコンだよ・・・」
この子は日本のハム発祥のいわれなんか知らないだろうな。
それが鎌倉ハムです。
ハム.jpg
現在、鎌倉ハムは富岡商会さん他、幾つか名乗っておられるようだが、発祥地は鎌倉市ではない。
横浜市戸塚区柏尾町です。だが明治の頃の戸塚区柏尾町は鎌倉郡だった。だから鎌倉ハムと言っても決して間違いではない。

そのハム工房跡と伝わるものが横浜市戸塚区柏尾町にある。
場所は渋滞で有名な不動坂バス停の裏手にあるレンガ造りの建物がある。これが明治初期の鎌倉ハム製造業工房、日本人によるハム製造の最初の工房です。
明治時代、斉藤角次郎さんという人がいて、英国人ウィリアムカーティスという異人さんから製造法を知り得て日本人でハム製造会社を設立した。
だが日本で初めてハム製造を始めた英国人ウィリアムカーティスの前歴は謎でよくわからないのだ。
ハム工房跡1.jpg
近年、ドブ板がなくなって再開発された戸塚駅西口の商業施設、トツカーナ地下1階にお肉屋さんがあって、「肉のさいとう」という有名なお肉屋さん。再開発前は旭商店街の一画にあった。
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さいとう2.jpg
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この「肉のさいとう」・・・斎藤さんという姓が鎌倉ハム発祥の人と同一家系なのか裏付けが取れなかったのだが、今なお残る柏尾不動坂の鎌倉ハム工房跡地に隣接して同姓がある。店舗案内も無造作に貼ってあったのでまず間違いないと思う。
http://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/tmtnl/003.html
おや?.jpg
凄い屋敷である.jpg
有名だが謎の英国人ウイリアムカーティスが創業したハム製造業の工房はこれではなく、ここから遠くない王子神社(護良親王の御首を洗って埋葬したと伝わる。)近くにあった。
カーティスが忽然と現れてこの地ででハム製造を始めたのには幾つかワケがある。
何故、この地に作ったのか。
横浜は西欧文明が入って来た地だから???確かにそうだが、それは理由の理由の理由に過ぎない。
ハム工房跡2.jpg
カーティスはここに来る前は横浜の外国人居留区にいたと思われるが、当時の外国人は日曜日になると馬で、馬車で東海道を散策し、鎌倉や江の島方面まで出かけていた。
その過程で旧東海道の権太坂を越えて戸塚の地に通りかかり、横浜から近い内陸部の柏尾村に豚を飼育するのに丁度いい環境、広さがあったというもの。近隣農家から豚のエサになる薩摩芋の屑が得やすいというのもあった。
水も豊富だった。
だがそれらもこの地にハム工房を作った理由の理由でしかない。ホントの理由は日本人女性が絡んでいる。

戸塚宿の外れ、吉田元町に茶店があって、その店に加藤かねという美貌の娘さんが雇われ女中をしていた。当時、40台だったカーティスがこの茶店(茶屋ではない)の看板娘、加藤かね当時19歳に懸想したというもの。
度々来店するカーティスに加藤かねも惹かれた。逢瀬を重ね、親は猛反対したそうだがそれを押し切ってカーティスのもとへ走り、柏尾に家を建てて住み始める。
住んだ家は増築を重ねて外人専門のホテルを創業した。
何でこの辺りにホテルなんぞを作ったのか。まだ東海道線が開通しておらず当然、戸塚駅もなかったからか・・・
これだけでは理由づけとして弱いですね。ちょっと詳しい理由はわからない。東海道を歩いた時代、戸塚宿は最初に宿泊する街だったからだろうか。
ホテルの名前は「異人館」「白馬亭」だったそうである。

前述の王子神社近くの窪地に牧場を作って牛やら豚やらを200頭も飼育し、加工場を新設してハムやバターを製造し始めたのが鎌倉ハムの起こり。
凄い財力である。カーティスは俄か成金なのか。英国は薩長新政府に協力した国だからその筋で利権や資金を得たのだろうか。推測の域を出ない。
王子神社周辺.jpg
上の航空写真は現在の王子神社周辺です。この界隈は県営柏陽台団地や住宅地に開発されているが、まだまだ緑も残っている。
すぐ近くには柏尾川が流れている。川の流れは今と違うかも知れないが、瑞々しい郷で、農業や畜産に適していたかもしれない。この何処かにカーチィスさんの牧場があって牛豚が飼育されていたのでしょう。

工房で雇われていた使用人はALL外国人だった。10数人程度いたという。商品は外国人街や山下町で外国人相手に売られた。
戸塚図書館史料にはこうある。近隣の村人にある噂が広まった。ここで作られて売られたハムは、「木箱一杯で100両ほどになる」というもの。
村人は製造法を知りたがった。良く言えば自分らで製造産業を興したいという願いだが、悪く言えばやっかみであろう。だがカーティス以下の外国人使用人は頑として教えようとせず、製造場に村人を絶対に立ち入らせず、薬品にも手を触れさせないよう目を光らせた。警戒したのである。

ここで前述した斉藤角次郎さんが登場する。
斉藤家は代々村の庄屋だったが、斉藤角次郎は牛豚の飼育係としてカーティスに雇われていた。現在のトツカーナ、「肉のさいとう」のご先祖さんと思って間違いない。
カーティスのもとに走った加藤かねは斉藤家の奉公人だったという。そのつてもあって斉藤角次郎は加藤かね女史の取り成しもあってカーティスの信用をまずまず得た。作業場の鍵を預かるようになり、工房に自由に出入りを許されたのでハム製造の秘密を掴むことができたというもの。それは塩、砂糖、胡麻で味をつけ、硝石で肉の変色をとめて燻す方法、燻製のようなものだった。
謎の英国人カーティス氏.jpgかねさん.jpg斉藤各次郎氏.jpg
斉藤角次郎は仲間と明治14年にハム製造会社を興す。これが鎌倉ハムのホントの発祥で、現在残るレンガ造りの建物は当時の工房の一部だという。
ハム工房跡3.jpg
冷蔵庫の無い時代なので夏場は休業状態。それでも儲かった。日清戦争後に売上が増大したのは海軍が力を得たからではないか。当時はハムとは呼ばず熏脂、熏豚肉とか呼ばれていた。難しい漢字だが、燻製の肉という意味でしょうな。

現在、鎌倉市岩瀬にある株式会社鎌倉ハム富岡商会はこう語っている。
鎌倉ハムは明治7年(1874年)にイギリス人ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行っていたが、明治10年(1876年)に現戸塚区上柏尾町でハム・ソーセージなどの製造を始めたことに端を発する。
明治17年(1884年)に起こった地震の際に工場が出火し、消火にあたってくれた近隣住民に恩義を感じ、カーティスは益田直蔵らに秘伝の製法を伝授した。またカーティスの妻かねが奉公人時代に世話になっていた地元の名家・齋藤家の当主にも製法を伝授した。
齋藤家は不動坂(戸塚区柏尾町)にレンガ造の蔵や表門、土蔵、母屋などが残る。明治20年(1887年)にハム工場を設立し、鎌倉ハムを創業した。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、その復興の中、先々代社長の高橋照之助により、地のりのいい東海、関西への進出を考え、大正13年(1924年)、名古屋市に進出した。
戦後になって、昭和21年(1946年)に、アメリカ人の貿易商、J・D・ミラー氏との共同経営を受け入れ、鎌倉ハムJ・D・ミラー商会として復興をすることになった。その後、昭和30年(1955年)に株式会社鎌倉ハム(名古屋市)になっている。
鎌倉ハム富岡商会の創業者・富岡周蔵は、大船駅が開業した明治31年(1898年)に駅構内での営業申請を出し、大船軒を始めた。翌明治32年(1899年)には、その後延々と販売され続け大船軒の定番商品となるサンドイッチ弁当を発売した。このサンドイッチ弁当は、サンドイッチの一般化にもつながり、また関連事業として鎌倉ハムの製造販売を行う鎌倉ハム富岡商会の設立(明治33年(1900年))につながった。大正2年(1913年)から発売している鰺の押し寿司も大船軒の定番の駅弁である。
鎌倉ハムのブランドは、このほかに、益田氏の流れを汲む鎌倉ハム(横浜市南区)、鎌倉ハム村井商会(横浜市瀬谷区)、鎌倉ハムクラウン商会(横浜市磯子区)、鎌倉ハム鎌倉クラシコ(熊谷市)が使用している。
レンガの壁と窓.jpg
伝授されたのは富岡商会の祖、益田家と、地元の斉藤家だと。ウチが本家とも取れる反面、斉藤家他、枝分かれした他家にも気を遣ってるように感じる。
他にも会社を興したのは斉藤角次郎の息子、満平だという異説がある。柏尾の鎌倉ハム工房は吉田元町に移転してまた柏尾に戻った経緯もあるのでその時に新たに興したのかもしれない。

私はこの逸話、何か見落としていないか、隠されている秘事はないか気になった。現在の富岡商会さんも触れているが、カーティスの工房が明治17年(1864年)の火災で消化にかけつけた近隣住民に恩義を感じ、ハム製造法を伝授したというが・・・
私はこの火災の際にカーティスが「ハム製造方を盗まれた」、もしくは「見られた」、「売り渡した」とハッキリ記載された史料を子供の頃に見た記憶がある。
その時の記憶が気になってジャン実家の書棚をガサ入れしたら、出典はこの本だった。
学校教材.jpgハムの頁から.jpg
これは昭和48年に横浜市教育委員会が発行、横浜市郷土教育委員会編集の学校教材で、昭和48年だから小学校高学年の時だと思う。教科書とも違っていて、必須ではなくサブ教材だったように記憶している。
この教材の76頁から、「工業の発達」という大分類項目で、現在の石川町にあった横浜製鉄所、南区万世町にあった日本で最初の石鹸工場の次、79頁に「ビールとハム工場」とあって、山手のビール工場の次にカーティスのハム製造について触れられている。
そこには、『わが国で西洋野菜をさいばいしていたカーチスは。。。』 。。。カーティスではなくカーチスとなっているが唐突に現れる。
『カーチスはハムやバターのつくり方を知っていた。明治十年、戸塚でホテル業をしながらハム製造をはじめた。ところが、つくり方をひみつにしてだれにも教えてくれなかった。この工場が火事になったとき、これを消し止めたふたりの使用人が、塩づけにしたぶた肉や薬品のことをつきとめた。ハムの製造法をぬすまれたと知ったカーチスは、明治二十年、斉藤満平に製造法を売り渡した。満平は柏尾に工場をたてた。』
斉藤満平は斉藤角次郎の息子ですね。

ここでは小学生対象の教材とはいえ、横浜市教育委員会が監修した上で、「ハムの製造法をぬすまれた」とハッキリ言いきっているのだ。日頃っから探ろうとした側(使用人)が、火事を消し止めた際に消火現場を見てアッサリつきとめたのだろう。
ハムに限らず工業技術ってのは盗まれるものだが、セキュリティが無い時代とはいえ、火事やぬすまれたという表現は穏やかではないし何やらアヤシイニオイがしないでもない。当時のしたたかな英国人の商売人が無料で譲渡したとは思えないし、そこは金銭が動いたであろうよ。その辺りは大人のビジネスということで敢えてこれ以上は触れないでおく。

その後、カーティスと加藤かねはどうなったのか。
明治20年頃に東海道線が開通して汽車が走り、戸塚に駅ができるともう東海道を馬や馬車で散策する人も減り、ホテルが左前になって傾いた。前述のようにハム製造法も売り渡したのもあってか、明治23年頃、借財を残したままカーティスは上海に渡った。
加藤かねも借財、家財を整理して2人の子供を連れて後を追ったが、日本を去って上海に渡ったウイリアム・カーティスの晩年と、後を追った加藤かねのその後はよくわからないが、二人とも渡航した地で亡くなったそうである。

鎌倉ハムは、創業の斉藤さん富岡さん他にも、益田、藤岡、板島、岡部、小泉、清水、富岡、どんどん拡大していく。
現在ではカーティスが飼育していた豚飼育も県内でブランド化され、県内で売ってる高座豚、綾瀬豚もその流れだそうです。

先日、このトシでようやくにして鎌倉ハムサンドを買った。
ワンコインでしたよ。それがこれ。
鎌倉ハムサンド.jpg
パッケージをこじ開けると中身はこんな感じ。
封を開くと.jpg
ミックスサンドじゃないんですね。ハムとチーズだけか。
(株)大船軒となっていて、原材料表示を見たら、パン、ハム、粒辛子、半固体状ドレッシング、チーズ、マーガリン、乳化剤・・・以下省略。
処理済~控室で.jpgこのサンド、朝から外回り日の午前中に買ったはいいが、さてこの日の工程で何処で喰おうかと。
まさかこのクソ寒いのに、駅のホームのベンチで喰うのも何だしな。今日は本社には行かないし、どっか途中の支店の控室借りて喰おうかと。
都内の某支店の控室を借りた。たまたま旧知の女性社員2名がお昼時だったのでその子らと一緒にね。そしたら写真右の子が、
「それ、先日食べましたよ」
「???」
都内在住のクセに何故このサンドを知っている?
「何処で喰ったのさ?このサンドは鎌倉や大船辺りにしかないぞ」
「踊り子の中です」
踊り子ぉ?
ああ、伊豆急か。さては彼氏と伊豆方面へ温泉旅行でも行ったなと思ったがそこまでつっこまなかった。
左の子に、「何でそれ買ったんですか?それだけで足りますか?」と言われて返答に窮した。
「足りるわけねぇだろ。でも今日は時間に追われてその辺の店で喰えそうになかったのさ。その辺の公園とかで喰ったら変な目で見られるし・・・」
爆笑する2人である。別に笑いを取ろうとしたのではないぞ。
「電車の中で食べるとか」
「ボックスシートだったらまだしも、通勤電車のロングシートで喰えるかよ。でもひとりで恥ずかしげもなく喰ってる女いっけどな・・・」
写真左の子は呟きⅠに登場しています。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-11-15-2

手に取ってみる.jpg若い子にからかわれ悪態つきながら喰ったサンドのお味の方は、近年のコンビニやサラリーマンご用達の駅前にあるお急ぎコーヒーショップチェーンのサンドに比べるとアッサリしたものだった。ツナ、ユデタマゴとマヨソース、キュウリ&トマトといった脂っ濃いミックスサンド系ではありません。
現代のサンドイッチの味とは違いますね。
でも何処かで過去に喰ったような記憶が。
[ひらめき]
遠い昔、ジャン母が幼い私に持たせたサンドイッチの味は、辛子こそ入っていなかったが、ハムだけ、チーズだけだったな。
前にいるウチの若い子はその辺のコンビニで買った脂っ濃いサンドをかじり、それじゃ足りないのかカップラーメンなんぞを喰ってやがる。私はこれぞ明治のサンド、これが鎌倉ハムかぁ。。。と思いながら噛みしめた。
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大船軒 [グルメ]

鎌倉市に住んでたことがある。湘南モノレール沿いです。
だがジャン父(故人)が倒れたので1年ちょっとしかいなかった。その僅かな期間、大船駅は根岸線への乗り換え駅だった。根岸方面の湾岸埋立地に通勤してたんです。
それから20年近く時が経って、居酒屋探しに大船駅ホームに降りたら駅がリニューアル化され、構内に多様な店がひしめいていたのに驚いた。すっかり様変わりしている。
でも自分が降りた東海道線下り3番線4番線ホームの狭くて小さい立ち食いそばスタンドは健在じゃないか。
東海道線下りホーム.jpg
大船軒です。
私が中学生の頃に初めて駅そばを喰った店でもある。このホームのスタンドです。今は建屋になっているけど当時は吹きっ晒しになっていたかも。
藤沢市、鎌倉市、横浜市戸塚区や栄区に住んで東海道線や横須賀線で通勤してる会社員なら、蕎麦アレルギーでもない限り一度は喰ったことあるでしょう。

大船軒は日本で最初のハムサンドイッチや鯵の押し寿司でも有名。シウマイも出したがさすがに崎陽軒には適わなかったようですね。

現在の大船軒スタンドは大船駅以外だと東海道線藤沢駅、茅ヶ崎駅、横須賀線では鎌倉得、逗子駅くらい。
根岸線の本郷台駅にもある。(前はなかった。)本郷台駅に出店したのはベッドタウン化して人口が増えたからかもしれない。
私は昨今、横須賀市や鎌倉市に公用が増え、逗子駅で久里浜行を待ってる間に大船軒で蕎麦を喰ったが何処か味が違う感じがした。やはり大船駅3番線4番線ホーム店に勝るものはないと思うのだ。
東海道線下りホーム2.jpg

これは逗子駅店。なんか違うんだよな~。気分の問題かな~。
逗子駅店.jpg

立ち食いはいつから始まったのか。
高度成長期、昭和30年の何処かで始まったらしい。でも当時は駅に出店するには旧国鉄時代の難しい取決めや業界の縄張りがあったようです。
何で立って喰うのか。
そりゃ忙しいか急いでるかに決まってる。

今は規制緩和の時代で大資本が小さい会社を吸収する時代でもある。近年、JRの立ち食いそば屋はJR東日本の連結子会社日本レストランエンタプライズ社(以下、NRE社)に吸収、統合されつつある。
営業権が譲渡され、もしくは買収され、車内販売、駅構内販売を牛耳っているわけ。
オモシロくない。個性がなくなってしまった。一社独占ってのは経営する側、支配する側にとってはいいが、利用する側にとってはあまりいいとは思わない。大きい資本が入ると効率化が優先されて味の努力をしなくなるからです。

JR圏内でよく見られるスタンドは同じようなもので、私も時間が無い時にあちこちで喰ったが、どれも無難で同じような関東風の濃い味でしかないなぁ。
元祖大船軒・・・私が勝手に思っている大船駅ホームの店と何かが違うんです。ただ、数だけ増えた。どこが飛びぬけて美味しいというものではない。
そのNRE社の傘下にある立ち食いスタンドは店の名前が違ってても、「あじさい。。。」、品川駅の「しながわそば」、総武線錦糸町の「本所そば」、大崎駅の「あずみ」、錦糸町他の「大江戸・・・」も同系列だと思う。
「あじさい。。。」なんか同じ店名だからどこでも同じものを提供するのかというとそうでもなく、駅名は載せないが「何だこれは?」というシロモノに出会ったこともある。濃い味ならまだいいけど薄い味ほどマズい。

(余談:品川駅常盤軒、我らが崎陽軒は営業権を渡してなるものかと頑張っている。それと上野駅に蕎香という店があって汁がかなり美味しいのだが、その店は立ち食いではない立派な蕎麦屋さんだったのでこの稿からは外れる。)

立ち食いで私がハズレなしと信用してるのは大船駅3番線4番線ホームの「大船軒」立ち食いそばだけ。
味は中学生高校生だった頃と変わらない。先日、久々に行ったらやはり昔ながらの懐かしい味をキープしているのが嬉しい。
かき揚げそば380円。
かき揚げそば.jpg
やや黒いそば.jpg
やや色が黒いそば。機械で打ち出されたものだが、汁が美味い。大船軒独特の甘塩な汁です。
しっとりしあかき揚げがまた美味い。かき揚げは人参や玉葱の野菜中心で海老の香もする。揚げたてではなくバットに置いてあるのでカラッとしてないが濃い汁にジュワ~っと浸みてなかなかいい感じ。

「油は調理の道具ではなく味付けのひとつでもある」と言ったのは門前仲町の名居酒屋「浅七」の店主だが、しっとりしたかき揚げから出た油がそば汁と混ざり合い、かき揚げがクタクタになればなるほど何ともいえない旨味が引き出された。
ついつい汁を飲み過ぎてしまうぜ。

もし可能なら小田急線の「箱根蕎麦」のように保温器具で保管し、揚げ置きでもなるべくカラっとした食感を維持できたらいいのかも知れない。
でも大船軒ファンは、何言ってんだい、しっとりしたこれでいいんだよって言うだろう。

この油と汁を見てください。美しくないけどこれが旨味です。
この油を見よ.jpg
立ち食いカウンターではなく、大船駅の高架乗り換えコンコースに椅子席やテーブル席のある店もあるが、やはり行儀が悪いと言われようと、立ち食いなんだから立って喰った方が美味しい。
座って喰うモンじゃない。短い時間で立ち喰いして電車に駆け込むのがカッコ悪くても粋なんですよ。

次にこれ。
鯵の押し寿司です。
私が初めて喰った寿司でもあります。
押し寿司パッケージ.jpg
小学生の頃だったと思う。ジャン父(故人)が時々買ってきた。ジャン父は鯵のタタキやカツオのタタキといったものが好きだったとジャン母から聞いたが、ジャン母は青魚、匂い魚が嫌いで食卓に一度も出なかった。出たのはマグロの赤身とゆでダコだけ。

押し寿司は刺身での寿司ではなく、大船軒曰く、「大正二年販売開始よりの伝統製法を継承し鯵の薄皮が付いたままの調理法が特徴です」と鼻息が荒い。要は酢締め、酢で洗って締めた寿司でしょう。

ジャン妻は寿司飯を好む。丸井なんかで魚屋の出店を漁ってたりする。でも寿司なんか買わせたらそれだけで腹いっぱいになるし他のオカズが減る。だいたい私自身が酢を好まないのでなるべく買わせないようにしている。
「酢は身体にいいのよ・・・」(ジャン母)
そんなこたぁわかってる。耳にタコ。でも寿司が身体にいいって聞いたことないぞ。ご飯と魚だけですから。
私は日ごろ、「寿司が喰いてぇ~っ」って思わないのだが、この鯵の押し寿司も子供の頃に初めて喰った寿司という意味では懐かしい。
日頃、ワタシのせいで寿司飯がなかなか喰えないジャン妻に、「押し寿司、買っていいよ」って言った。
「ネタにするの?」
それもある。でもそういう返し方はなかろうがよ。アナタの為にOKしたんです。
ネタとしては、大船軒の大船駅東海道線3番4番ホームの立ち食いスタンドの記事がずーっと眠ってたので、どうせUPするなら立ち食い、寿司、どちらも懐かしの鯵じゃなかった懐かしの味というコンセプトで纏めようとしたので購入許可を出しました。

大船軒のHPだと、大正2年の販売開始当初は江ノ島近海で鯵がたくさん獲れたという。もちろん今でも獲れるかもしれないけど。それより大正2年だと1913年だから、今年2013年-1913年だと100年ぴったりになる。1世紀商品ではないか。
「押し寿司、お皿に盛っていい?」(ジャン妻)
「ダメ、その木箱のまま出してくれ」
「そう言うと思った」
八貫入り.jpg
子供の時は、何て酸っぱいメシだと思ったが、大人になった今ではさほど酸っぱく感じないななぁ。

ジャン妻のプライドのひとつに、鮮魚店や精肉店で買った“パック”のまま膳に出すのを極端に嫌がるのだが、押し寿司を皿なんかに盛ったら風情がなくなる。
押し寿司の発想は駅弁で駅のスタンドが発祥なんだから、駅弁を皿に盛って喰うヤツはいないだろう。
大船軒.jpg
大船軒には日本で最初のサンドイッチというのがあって、それは押し寿司よりも前から有名ブランド。サンドイッチは大船軒創業の頃、明治32年まで遡るので大正生まれの押し寿司より前なのだ。
これまで私は一度も喰ったことなかった。
たかがサンドイッチじゃねぇかって見向きもしなかったの。地元民として恥ずかしき限りではあるが、私はサンドイッチよりも、サンドイッチに使われた鎌倉ハムについて世情、流布される内容について異論がある。
というか、鎌倉ハムという名が多いように思うのだ。大雑把な紹介だと、鎌倉でハム製造を初めた・・・とあるが、ホントの発祥は、現在の鎌倉市ではなく、横浜市戸塚区柏尾町です。
今の鎌倉ハムとは別ものらしい。
これです。
鎌倉ハムサンド.jpg
明日の記事で封を開けますね。

鎌倉ハムを名乗る会社は複数あるが、時代をさかのぼればひとつの逸話にたどり着く。
あるHPには明治の頃、外国人が製造していたハム工場が火事になり、消化に参加した村人へのお礼にハム製造法を伝授したともありましたね。
はて、そうなのだろうか。それについてちょっと異論がある私です。(続く)
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カジュアル4号店 [居酒屋]

京急上大岡駅改札を出ていつもは右に向かうのですが、今夜は左へ。
アーケード商店街を抜けて大岡川の手前十字路の角に雑居ビルがあって、ゴロ看板が並んでいた。
ゴロ看が並ぶ.jpg
2号店1.jpg2号店2.jpg
4号店看板.jpg
外の非常階段を上がる。エレベーターを使ってもいいんだけどその店は2階なので使うまでもない。外階段にもちゃんと表示がある。
外階段の踊り場.jpg2階廊下の看板.jpg
店の入り口.jpg
その店の扉を開けた。
そしたら本店から異動した?店長のKさん(男性)と、見知った若い女性スタッフがお出迎えしてくれた。2人とも「あれぇ?」目を見開いてた。
入って見たら天井が高くて広いフロアだった。内装はBARかCAFEを思わせるカジュアルチック。何だか俺みたいな野暮天が居座るにはちょっと落ち着かない内装ではある。若者か女性向け。
こっちはひとりなのでオズオズとカウンターによじ登るようにして座った。
店内ちょっとだけ.jpg
お客は誰もいなかった。火も入れてないし店内がやや寒いぞ。
「来ていただけるとは。。。」
「うん。今年になったら最初はこっちに来ようと決めてたの」
「ありがとうございます。本店は行かれました?」
「いや、今年はまだ行ってない」
私は年明けになったら本店より先にここへ来ようと決めてたの。昨年最後に本店に行った時、隣りの常連さんが、2号店と新店の女の子の電話対応がイマイチだったというボヤきを聞いた。新店だからまだ不慣れなのかなって思った。
私は一度だけ2号店に行ったが大岡川に面した細長く薄暗い店で、川に面した焼き鳥屋という触れ込みだった。新店はその2階にあるが、方形で広くて明るい。他店とは全然違う雰囲気である。

だが、この店は相当な難産だったらしい。
昨年10月20日(日)にOPEN予定で、仕込みもリハーサルも万全とはいえないまでもそれなりにスタンバイし、17:00開店に向けてカウントダウン3、2、1、ゼロ、お待たせしましたぁ~開店~と謳う直前。。。
換気扇がブットンだ。
その事件はHPにも載っているし、店長のKさんからも聴いたが、Kさんいわく、どう長く見積もってもOPENから壊れるまで3分も経ったかどうか。。。
換気扇は焼き鳥屋の命でもある。換気ができなかったら厨房も店内も煙モクモクで、下手したら事故につながりかねない。その日(日)が定休日だった1階の2号店を急遽開けてそこで焼いた。スタッフは1階の2号店とここ、4号店を上がったり降りたり、たいした運動量になったそうである。
笑うしかなかったと思うがHPには「明日からどうなるんでしょ?」ノホホンと載っているが翌日から開店休業に相成った。
プロペラの破損とは何たることか。新規開店でどういう資材、いつ頃の型を用いたのだろうか。下手したら損害賠償モンではないの?
年末に向かって部品の在庫がなかったようで製造待ちになり10月の営業再開は断念。この日の為に新規採用したスタッフも茫然自失、唖然となったに違いない。

10月28日の段階でまだ修理行程が未定の中、研修が続いたという。
HPにはこうある。
『正直なところ、オープン日までは内装などのハードウェア面の完成に手一杯で、スタッフというソフトウェア面での準備が全くといっていいほどできていませんでした。この機会にいままでできていなかったシュミレーションをガンガンやって、リニューアルオープン(?)ではお客様に安心して楽しんでいただけるサービスを提供します!』
シミュレーションってのはやらないよりはやった方がいいが所詮はロールプレイングに過ぎないのだ。客がいないからである。本番で、目の前にお客がいて、緊張して身体に叩き込んでその日の営業が終わり、そこで反省してまた翌日からの実戦積み重ねを繰り返していかないと身につかない。
ハード面のトラブルによる開店延期もあって、2週間遅れの11月7日にOPENした。新店なのに1日営業しただけでもうリニューアルOPENということです。
OPENにこぎつけたがやっぱりオーダー面でのミスとかが少なくなかったそうである。まぁ最初は仕方がないかな。すぐに来なくて良かったと思った。
最初はこんな感じ.jpg鳥ネギ.jpg
ツクネ.jpgレバ.jpg
店員さんは7人いた。
うち2人は焼き場のリハーサルが続いている。このシミュレーションは私がカウンターに座ってる間、若い子とずっとやっていましたね。
例えばネタの確認。
「これは何?」
「ええっと。レバ?」
「ハツだよ」
ネタなんてすぐには覚えられないだろうがやや心もとないぞ。ままごとみたい。他にお客がいなくて私だけだから微笑ましく見えるけどさ。
「鳥佳セットと別に単品でレバーがオーダー来たらどーする?」
「ええっと・・・」
女の子は答えに詰まった。この場合はセットから単品レバーを外すんだそうです。いろいろなケースを想定してシミュレーションしているが、この場には私以外にお客がいないし、私は焼き物を3本しかオーダーしなかったのでトレーニングにならない。
「悪いなぁ」
「・・・???」
「俺が焼き物をもっとオーダーすればちったぁ練習になるんだろうが。。。」
焼き鳥は本店と違って何処か上品なお味でござんした。
アルミチロリ.jpg
この店の燗酒はどうかな?
「すみません、群馬泉も錫のチロリもございませんが・・・」
「いやいや、こっちでそんな贅沢は言わんですよ。あるものでいい」
若いのは燗の浸け方を知らない子も多いので、K店長自らお燗してくれた。
「アルミのチロリってどうですか?」
「アルミねえ。悪くないんだけどさ。やっぱ錫のチロリを一度使ってしまうとねぇ。」
錫のチロリは高い。通販でも1万5千円~2万円くらいする。アルミも悪くはないけど酒によっては匂いが気になる時がある。
「缶ビールより瓶ビールのや生ビールの方が美味いのと一緒かも・・・軽いからコテッと倒しちゃったりするんだよね」
「ああなるほど。ウチでも錫のチロリを置きたいんですよねぇ」
錫は高いのよ。換気扇修理で修理費が余計にかかったんでしょ。それに本店にだって1個しかないのに本店を差し置いて4号店で錫のチロリを多く置くわけにもいかないだろう。
「昔はお燗版っていうそれだけやってる人を置いた店もあるんですよね」
今でも探せば下町にあったりします。「だけど錫のチロリなんか置いたら俺みたいなウルサい客が増えますよ」
「本店で一時期、錫のチロリが行方不明になったことがありましたよね?」
「あったあった。あん時は冗談だけど俺が持ち帰ったんじゃないかって疑われたんだよ。あんな重たいモン上着の内ポケットに入れて持って帰ったら破れちゃうよ。そのウチひょっと見つかったんだよな」

しかし誰も客がいないぞ。来ないぞ。
お店の人は7人いて、うち3人が私と談笑して、他はリハーサルを兼ねてはいるが、緊張を和らげるからか、殆ど私語に近い。
もう18時半だぜ。大丈夫なのかな。
「今んところいつも出だしから1時間2時間くらいはこんな感じなんですよ。」
「そ、そうなの?じゃぁ今頃、下(2号店、一火)はどーなってんのかな」
「下はたくさん入っていると思います」
「こっちに呼びこまないの?」
「う~ん・・・」
「2号店の前に立って、2階は空いてますよとやってもいいが、そうすると客の取り合いで内輪もめになるかな。同じビルで二つの店の名前からして営業1課2課みたいなもんだからな。」

「どうもまだここが下の2号店と同系列ってのがわからないみたいで・・・」
同じ番地のビルに2号店と4号店があって、3号店が金沢文庫にあるのだが、2号店はまだしも他は同系列という風に伝わっていないようです。
「下に2号店とこの店のゴロ看板が仲良く並んでたな。2つ並べても別々の店にみられてるのかもな」
「店を1階2階って分けない方がよかったですかねぇ。2号店、一火を2階にも広げました、ってやった方がよかったかな~」
そういう店もある。でももう開店したんだからこのまんまやるっきゃないだろう。

「煮物系を充実させようと思っています」
「ウチに高野豆腐が嫌いっていう子がいる・・・」
「何でですか?」
「噛むとジュワ~って染み出て来るのが嫌なんだと」
「そ、それが美味しいんですよねぇ」
煮物.jpg
ポテサラ.jpg
「このポテサラ、チーズかバター入ってんでしょ」
「よくわかりましたね。クリームチーズが入ってるんですよ」
やけに量が少ないなと思ったが、隠し味のクリームチーズのおかげでコッテリしている。量はそんなになくて正解でこれくらいの量でいい。珍味とまでいえないが、酒盗に近い。

煮込み.jpg
19時過ぎたらようやくお客、若い女性2人連れが入って来られ、スタッフの目が真剣になったシャンとした。それまでは私イコール本店から流れて来たお客さんで最初は緊張させたと思うが、後半はやや慣れ親しんだ空気で弛緩してたのに、やっとコイツらプロのカオ、眼差しになったぞ。
私はお会計した。

Kさん、板場の男性、本店から来た女性、3人が私の話相手になって、私もやや饒舌になりそれなりに楽しいひと時ではあったが、店の混雑時の雰囲気を体感、目撃しないままお会計して出たので、この店の真の姿は未だわからないのだ。
Kさんと、本店から来た女性が見送ってくれた。
「いやぁ、でもこっちに来ていただけるとは思いませんでした。ありがとうございました。どうでしたか?」
「本店にないもので差別化を図るのはいいことだと思うし(※)、何せここだと気兼ねなく本店の“悪口”を言えるのがいいよな」
[わーい(嬉しい顔)]
錫のチロリと群馬泉を置いてくれたら常連さんになってあげよかなって図々しいことを言いかけたが止めた。

(※)この店にはグリーンカレーという隠し玉があるらしいのだ。

私は一度だけ2号店の記事をUpしています。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-06-13-1
この後で私は結局、本店の右暖簾に戻っちゃったのだが、今宵は寄らないで帰った。何となく新店の名残を消したくなかったのである。
前述の過去記事で、「意中の彼女が焼き鳥が好きだったら本店は避けて2号店へどーぞ」と書いたが、4号店もなかなかいい雰囲気ですよ。
鳥火1.jpg鳥火2.jpg
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名前を知らない海鮮居酒屋 [居酒屋]

今日、危うくUPを忘れるとこでした。

刺盛.jpg
写真の刺盛は上州某地方都市で開催された社内接待時のものです。
ややボケた写真ですが、なかなかの盛り合わせでした。大トロ、赤身、しめ鯖、ウニ(デカい塊だった)、ヒラメ、隠れてるんだけどヒラマサ、イワシ、カニ、鳥貝、北寄貝、ツブ貝、シャコ。。。
ホントにここは海無県かって思ったくらい。よくありがちなイカ、タコ、サーモン、甘海老といった盛りの脇役たちが一切無いのがいい。

私が発見した店ではない。関係者の一人がたまたまフラッとひとりで入ったんだそうです。
「上州とは思えんですね」
「でしょう?」
「飛び込みで入ったんですか?」
「そう。何となく店構えはイマイチだったんだけど、ネタの種類が凄く多いんでビックリした。絶対○○さん(私のこと)好きそうだと思ってさ」
接待された主役は私ではないんだけど、開催者は何故か私に気を遣ってくれたみたい。

舌舐めずりしながらも、盛に載ってないネタがあるなとチェックする私。
ホタテと赤貝が盛になかったので別皿でオーダーした。
赤貝とホタテ.jpg

これはお通し。
おとおし.jpg

白子の天ぷらです。
白子天ぷら.jpg

フグの唐揚げ。塩味が効いてました。
フグ唐揚げ.jpg

御新香
御新香.jpg

塩辛
塩辛.jpg

ポテサラ。
ポテサラ.jpg

何故か締めのカレー煮。。。
カレー煮.jpg
広くない店で雑多。小洒落た雰囲気は皆無の海鮮料理居酒屋だったが、ネタと料理と酒がすこぶる良かったので記録という意味でUPしました。
酒は私の大好きな群馬泉だったのも感激した。

同行した若いのは私に、「〇〇さん(私のこと)、鶏の唐揚げとかメンチカツとか頼まないんですか?揚げ物お好きですよね?」なんてこの場で私をハズカシめるようなことを言いやがってからに。
「あのなぁ。。。」
「食べないんですか。ありますよメニューに。」
「(ガキじゃあるめぇし)これだけのネタが出た後でそんなん頼むかよっ!!」

海が無い県だから逆にいい加減なネタを出せないってのもあると思う。海が近いとたくさんある中からそこらにあるの出しとけよっていう乱暴に考える店も中にはあるからね。
冷凍保存技術が発達したか、高速幹線道路があちこちで繋がり鮮魚の流通が早くなったか。

締めのカレー煮はおそらくランチの残りかとは思いますが、最後はカレーで群馬泉を呷る暴挙。
大船の酒場でビーフシチューで日本酒を呑んだり、スパゲティで冷酒を流し込んだり、もう最近は何でもアリになってきた私。。。
店の入り口.jpg
お店の名前は忘れました。私個人はこの店とは残念ながら一期一会で終わりそう。東武線某駅、南口がディープな地方都市、郊外にある居酒屋です。
駅から離れた住宅地にある居酒屋は地元に支持されてるから強いのだ。
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和ふじ [居酒屋]

世田谷区役所近く、線路向こう側のボロ市通りにある代官屋敷を見に行ったら休館日でやんの。
引き返した。
12:00だったのでランチ。
店の外観.jpg
この店、前に来たことある。
部下の男性と二人で夜に来たんです。上州に行く前だった。
その男性は同格のリーダー、当時の管理職候補計3人と私らの別れの宴を開催してくれた。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14-1
『その席上、私は、「お前ら、2年後には俺を(地位を)超えていけ。ハードルは決して高くないから」、だって自分が育てた後輩に抜かれても悔いないじゃない。』
随分とカッコいいこと言ってますね俺。
当時のコメント見たら、「美味しいね」のみーさんに言われてる。映画みたいだって。^_^

上州から戻ったらその会にいた男性2人は私と同格になった。昇格したんです。本人の昇格は本人の為に喜ぶが、詳細は言えないけど私はある地位を蹴って降りてるんです。私が下がって彼らが上がって同格になったの。
だから相手も気を遣うというかやり難いようでもある。

男性2人のウチの1人は正月4日に私の家に来て飲んだ。過去にいろいろあって面倒みたんですよ。もう1人の”彼”は今回の記事、世田谷代官屋敷近くにある店で飲んだ。呟きⅠで時々脇役のように登場してます。
昨年末に、「またあの店に行きましょうよ」と水を向けられたが私は「年内は無理だよ。年明けにね」
その店に入り、ランチをオーダーしつつ前と同じ席、カウンターに座った。
店内1.jpg
周囲から俺んとこに入って来る”彼”への雑音はやっかみもあってかカシマシイったらありゃしない。「彼の言い方がキツい」というのもあった。
でも若いウチに出世するとそうだよ。私だってそうだったモン。現場からクレームが上がってよく当時の上役に呼ばれて叱責されたしね。
彼は周囲から、「アイツは出世が望み」そのように思われてるみたいだが別に構わないんじゃないか。当人が望んでるのかどうかは聞いてみないとわからないけど。

その”彼”について今は疎遠に・・・そうでもないけど距離を置いている某女史(過去に再三登場しました。ヒロ兄ぃと同郷の女性・・・)からこんな話を聞いた。
「最近、彼が派遣したスタッフ、これよこれ」
彼ってのが今回昇格した男性ね。彼は私の後任でその女史を担当してもう2~3年くらいになる。
「これよこれ」と言いながら、女史は両手を腰にあててパンツの前でVの字を作って斜めに動かした。昭和に流行したコマネチ。女性の仕草としては品が無いので私は眉をしかめて「止めなさいよ」と制したが、女史が言う「これよこれ」の意味は、彼が手配した問題のスタッフは職場に短パン履いて出勤するという。
「短パぁン??」
「そうよ、これよこれ」と言いながらVの字、コマネチをする女史に目のやり場に困った私は、「今どきの若い女性は大胆な服装してっからな」とケムに撒こうとした。
「だって短パンよ。普通有り得ない。生アシよ生アシ。太股!!」
「それは注意すればいいんじゃないの?」と言ったんだが、そのスタッフは正社員じゃなくって臨時の派遣だという。派遣の場合は現場で当人に言ってもいいのだが、派遣会社の営業さんを通して注意した方がいいケースもある。
「彼には言ったの?」
「言ったわよ。そしたら彼、何て言ったと思う??」
「さぁ??」
「年配の女性は若い子のそういう服装が許せないんですよねとか言われたのよっ!!年配の女性ってアタシぃ???」
(そうだろうがよ。。。)
その言い方が失礼だと言うんだな。野郎・・・地雷踏みやがって。
後日その女史は今回の彼の昇格で、「ああいう人でも上の覚えが良ければ抜擢されるのね」とかプンプンだった。
女史は後日、私を本気で怒らす失言をしたので私はそれ以降、彼女と距離を置いている。

彼にどこかで個人的に言わにゃならんな。「昇格したら下から見られるよ。その地位に相応しいかどうか部下はシビアに見てるんだよ・・・」
・・・このセリフを飲んだ席で言いたいのだが、機会があるかどうか。
この店でランチを喰いながら、彼とどういう立場で飲みに行けばいいのかなって考えた。対等は対等だが勘定はどーする?こっちが奢らなきゃなんないのかな。
いわゆる出世払いというものはこういう時ではないのかなって。
ランチ.jpg
プラス茶蕎麦.jpg
脂のノッた塩焼きの焼き加減がGOOD!!
塩辛も美味しい。
茶蕎麦もついて来るんです。CP良しです。

夜のメニューをパチリ。なかなかソソるでしょう?
お品書き1.jpg
お品書き2.jpg
この店でその彼と喰ったかき揚げが忘れられない。デカいんです。小さいピザ並の大きさだった。しかもカラッと揚がってアツアツ。ガシガシ食べました。
アジとろ丼というのがあって、鯵丼のやまかけになってるヤツ。「とろろなしで貰える??」にも対応してくれたな。
ボード.jpg
主人は高齢だがまだまだ大丈夫でしょう。
外観は和食系の居酒屋ですが、地元の客ばっかりで駄弁ってる店です。気を遣うほど高級店じゃありません。
この店で呑んだら出世するぜ~、アイツ(彼)がそうだモンって言いふらしてやろうか。。。
いや、やっぱやめとこ。
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とりき [居酒屋]

とりき.jpg
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-10-20
 ↑ 過去記事です。
この店は前にも紹介しましたがその後、調理は玄人でも店全体のさばき方がシロウトだな~という評価に一旦下落したんです。
店内、カウンター、小上がり、奥の座敷、満席で、後から来店されたが入れなかったお客さんが数組いたくらいの盛況ぶりだった時があってマスターもややテンパっちゃったのね。「こんなの初めてです。いつもはこんなことないんですが」ってボヤいてたけど、それを客の前でボヤいちゃ来てくれたお客さんに対してマズイよね。
オーダーが滞って渋滞し、オーダー入る毎に「順番にやりますから」って言ってた。
でもそれも言い訳に過ぎない。順番にやってたらさばけっこないんです。「お料理によってはお待たせすることがございます」、「順番が前後することがございます」でいいんですよ。合間合間に出せるものから出せばいいんです。
私の場合、焼き鳥で小1時間待ったのよ。
見てたら一つ一つの注文毎に焼いてましたね。一度に焼けないのかな。焼き上がりのポイントをマスター自ら見定めてもいたし、奥さんには未だ任せられないんだろうな。
焼っ放しで焦げちゃったらマズイけど、そこを見極め、その間に他のアテを調理するのがプロってもんです。
天ぷらや逸品料理の方が早く出ました。でもその間は焼いてなかったし。複数の調理が同時進行できないのかなって思ったですよ。
順番にやっててはさばけない。合間合間をぬって複数同時にやらないとね。
予約席.jpg
つくね.jpg焼き鳥.jpg
前に載せた群馬八幡の酒場、「和が家」では、店が混んでも店主が焼いて、炒めて、茹でて、もしくは揚げて、3つ4つの調理を同時にさばいてたので渋滞が全くなく、「凄ぇ要領いいな」って感服した。
その店は焼き場、揚げ場、煮る場がL字型で殆ど一体化していた。厨房の動線がいい。横に半歩ずれるだけで全部できてしまうんです。(この記事は待機中です。)
反面、この店は細長いので往復運動でバタバタする。つい走ってしまう。お客の前で走るのもよくないんです。
チーズオムレツ.jpg
グラタン.jpg
美味しいんだけど、こういうメニューがあるからママさんや子供さん連れも来店する。だから混む。
オムライス、天ぷらそば、うどん、焼き鳥丼、親子丼。。。
この店は何屋さんじゃい?(笑)
豊富なメニュー.jpg
ジャン妻は焼き鳥の好みはしっとり系が好きで、この店のパサパサ系がイマイチだったらしい。これは上大岡や大船の店と比べちゃってるんだろうけど、
店を出た後で、「もういいかなこの店・・・」(ジャン妻)
「う~ん・・・」
私は唸った。気になるんですよ。この要領イマイチなところと店主ご夫婦の年齢と、料理内容や雰囲気が上州の酒場に似ているので。
マスターやママの人柄もいいしね。

ジャン妻が大残業で例によって「今夜は先に済ませて」の無情な夜、もう一度この店にチャンスをあげましょうと思って私ひとりで行きました。
駅から歩いたんです。
駅から歩く道.jpg
最初の一杯.jpg
さすがに平日でガラガラ。
現場作業を上がった労務者さんばかりだったが、おや?お座敷に高校生がいるぞ?男性教師が教え子を連れて来たっていう雰囲気。
依怙贔屓じゃないか。
俺の高校生時代なんてそんな先公・・・失礼、教師はいなかったぞ。
ツナサラダ.jpg
ナポリ.jpg
粉チーズドバドバ.jpg
さぁ喰うぞ.jpg
空いてるだけあって料理の渋滞なし。
ナポリは・・・喫茶店の味でした。私がズルズルすすってたナポリを見てガタイのいい親方が食べたくなったらしく追加オーダーが出てた。
でも、ナポリとビールはまだしも・・・
ビールには合います.jpg
ナポリと冷酒・・・???
またこういう組み合わせに.jpg
上州安中市の「なすび」でもスパゲティ&冷酒の組み合わせになりましたね。
私もこういうのに抵抗、違和感なくなって来たのかも。

チーズ揚げと冷酒・・・!!!
チーズ揚げ.jpg
ポテトフライと冷酒。。。@@@
ポテトフライ.jpg
子供が好きそうなモノばかりですね。
焼き物は一切オーダーしなかった。

厨房からプチン、パチン、プチンっていう弾けるような音が連続してするぞ?
「マスターは爪でも切ってんのか?」
「いえ、銀杏の実を向いてる(割ってる)んです」
「随分、長ぇ爪だなぁ。指が何本あんのかって思った」
「笑」
程度のフザケた会話はする間柄になった。
あんどん.jpg
「何処へ行ったの?上大岡?」(ジャン妻)
「とりき」
「行ったの?どうだった?」
「空いてたので問題なし」
店主とは道端でバッタリ会ったこともあってどうも同じ生活圏にいるらしい。
となると見捨てられないのが私。。。ガンバ!!
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