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八重の先祖は山本勘介なのか? [会津]

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山本八重の先祖が山本勘助だという説がある。ホントだろうか。
何だか大人げない気もするが、一応の考察を簡単に述べます。

近年になって山本勘助は実在の人物、山本菅助だという一石が投じられている。
昭和44年(1969年)、長野県下水内郡栄村志久見にいた豪族、市河氏の末裔が所蔵する文書の中に、弘治4年(1557年)の武田晴信の書状があって、それには山本菅助という人物が使者として当地に赴いたことが記されている。この文書の真贋を問うたら紛い物ではなく、当時の書簡だと証明された。
これで実在性は高まった。平成19年(2007年)の大河第32回で紹介された。

それまでは例の甲陽軍鑑がアヤシイと見られ、勘助は実在したのか、一兵卒だったのか、信玄の傍らにいる軍師だったのか、それとも伝令将校か使者のレベルだったのか、足軽大将クラスだったのか諸説あった。

だが勘助の子孫となるとこれまた伝承の域を出ない。
長篠で戦死した山本勘蔵という人物が勘助の長男で、次男もいて、他に娘がいたという伝承に加えて、武田家遺臣を抱えた後世の大名の家来に山本某がいたり、徳川直参の旗本にも山本某がいたり、越後長岡藩の家老にも山本家があって、それらが山本勘助の流れに繋がると言っている。山本五十六もそう。結構多いのである。勘助本人の実像がわかっていないから幾らでも名乗れる。
山本勘助は実在したのは間違いないが、後世の誰かが「子孫です」と言ってるのは如何なものだろうか。

では八重の山本家の先祖はどういう者なのか。
山本家が砲術指南役になったのは八重の祖父、左兵衛の代だという。
左兵衛は江戸に出て高島流の西洋砲術を習得し、国もとの会津に伝え、藩士たちに小銃や大砲の操作法を教授した。それまでは代々、兵学をもってお仕えしていたというから、山本勘助先祖説もこの辺りから出てきてるのではないか。

八重の山本家の先祖は山本道珍という裏千家の茶人で、道珍は小堀遠州に茶道を学び、信州高遠城主の保科正之に仕え、正之が会津藩主となるとそれに従う。この道珍が山本勘助の子孫で、覚馬、八重の兄妹は更にそのまた子孫だというのである。
では茶人(茶番頭というらしい)の家系がどこでどうなって兵学でお仕えするようになったのか。このタイミングで山本勘助を引きずり出したってことはないか。誰にどんな軍学を習ったんだろう。
茶人が軍学になって、砲術になって、女だてらに鉄砲を放ったというワケ?

確証と裏付けが取れないのだ。
山本勘助が八重の先祖というのはまぁひとつのロマンではあるが、伝説のレベルである。
でも、ひょっとしたら?
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山本家の禄高と身分は? [会津]

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鶴ヶ城のすぐ西、現在の会津若松市米代2番地に八重の生家があった。
この辺りは一方通行の細い道で見つけ難いのだが、ぐるぐる走ってるとそこだけ駐車場があり、建売分譲住宅にあるような看板が立ち、幟がはためいていた。
小屋みたいなのがあって、ヒマそうなお婆さんが「説明させてください」と言ってくれたのだが、急いでたのもあってお断りした。それでも「この辺りでこう撃ってたんですよ」というお話を頂いた。
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八重生家のすぐ東隣には白虎士中二番隊、伊東悌次郎宅(300石)があった。八重が鉄砲を教えたが目を瞑ってしまうので、臆病臆病と何回も叱りつけ、挙句の果てに悌次郎の前髪を切ってしまったあの少年である。
すぐ近くに日向ユキの日向佐衛門宅(400位)、高木時尾の高木盛之輔宅(300石)があって、向かい斜め3軒めに150石の永岡権之丞宅がある。永岡家から婿入りした八重の父、権八はここの家の出かもしれない。

まるでゼンリンの住宅地図みたいになっていてご丁寧にも禄高がいちいち記入されている。だが山本家は禄高が書いてなかった。
永岡家は150石、日向家は400石、高木家は300石、他にも100石~300石の家中の屋敷が建ち並ぶこの界隈で、砲術指南の山本家の家禄はどれくらいだったのだろうか。
住宅地図?.jpg
一説に10人扶持か15人扶持だというもの。
武家の家禄の与え方には、知行取り(直接年貢を取るもの)、切米取り(蔵から春、夏、冬の3回に分けて俸禄を米、または換算した金で支給される)、そして扶持取りなどの方法がある。山本家が仮に15人扶持取りだったら、例えば10合で1升、10升で1斗、10斗で1石のこの時代、1日5合の米を喰うとして5合×15人扶持×12ヶ月=年間270斗、27石の収入でしかなかったという説。
この収入だと多いとはいえない。
150石程度だったという説もある。幾ら何でも27石だと少な過ぎる。身分差がやかましかったこの時代、この界隈で山本家だけ一桁少ないっていうのも不自然だろうと。

だが仮に27石クラスの扶持取りだったとしても家格が低いというのではなく、山本家は黒紐席という上士だったという。だから白虎士中二番隊の伊東家の隣であり、奉行経験もある日向家と同じ町に屋敷がある。
待遇は上士だった筈である。でなければ梶原や大蔵が27石風情の山本家にそうそう気軽に訪ねてくるだろうか。一目置かれていた筈である。
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当時、鶴ヶ城の西には日新館があった。現在の日新館は昭和62年(1987年)に総工費34億円を費やして会津若松市河東町に完全復元されているが、当時は鶴ヶ城の西側、現在の米代1丁目にあった。殆ど同じ町内といっていい。
となると、山本家では、日新館のすぐ近くでバンバン銃砲を放って稽古、試し打ちをしていたわけか。
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明治編、後半になってちと困ったことが。。。
覚馬が京都で時栄とデキてしまい、山本うらと離婚してしまう次回予告にジャン妻は烈火の如く怒った。アタマから湯気が立ってる。
一升瓶を手元に惹きつけ、胡坐をかいてた俺の左膝に片手で持った一升瓶をガツンと打ち付けやがった。
「オトコは勝手だぁ!!」
行く行くはそういう関係になっていくのがわからなかったのかね。「大丈夫だよ。八重がオトシマエつけてくれるよ」ってなだめた。
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切ない権兵衛 [会津]

本人には失礼だが、この大事な役を柳沢慎吾さんが演るって知った時は驚きとともにガッカリした。神保内蔵助と田中土佐、林権助と比較して重みがないのである。
初回を観たら更にがっかりした。上から目線で改革拒否した場面でのあの言いグサ。時代台詞は棒読みだし、この人は現代ドラマならまだしも時代劇は似合わないんじゃないかと思った。ファンの方には悪いけど、配役ミスって思ったモン。

案の定、出番も少なかったが、萱野権兵衛は重要なポイントが必ず二つある。
一つは中野竹子以下の娘子軍が従軍を願うシーン。だけんじょこれも食い下がる竹子に向かって、「ならぬ」「許す」これだけだったし。
もう一つの重要なポイントは。。。
昨夜の場面ですね。会津戦争責任を一人で担って自刃するのである。
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本物の権兵衛長修(ナガノブ)は会津藩家老千五百石。会津藩中屈指の剣士、一刀流溝口派。兵学にも通じ、藩校日新館で教官も勤めていた。文は漢学、史学、謡曲、茶道、何でもできちゃう人だった。
権兵衛は籠城戦より自ら城外に出、郊外で戦闘を指揮していた。

籠城軍は後半戦になると要人が足りなくなり、急遽、抜擢したりして家老が13人にもなるのだが、その顔触れは。。。
田中土佐玄清(9月23日自刃)
神保内蔵助利孝(9月23日自刃)
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太輔兼教(寄合隊を士中に昇格させた人)
内藤介右衛門信節
諏訪伊助頼信(新任)
一瀬要人隆知(一ノ堰で戦死)
原田対馬種龍(新任)
山川大蔵重栄(新任)
佐川官兵衛直清(新任)
海老名郡治季昌(ドラマではテロップが出てたような)
そして、放り出された西郷頼母。。。
田中土佐と神保内蔵助が自刃、西郷頼母が城外に出されたので戦時中は筆頭家老になってしまった。なので降伏開城時には藩主容保とともに降伏文書に署名した。

容保公が家中に開城を宣言した時、綾野剛は梶原、山川大蔵、秋月、八重の方を向いて頭を下げ、この時点では筆頭家老だった権兵衛=慎吾さんにはケツを向けてたからね。

八重が「お殿様は生きていただかなければなりませぬ。」って家臣にあるまじき絶叫。
予告編でも頼母が、「ワシは生きっぞ。わしらの会津を踏み潰しってたヤツらがどんな世の中つくんのか。この目で見届けてやる」
何だか無理くり持ってったようだが、これで二人とも生き延びたのが正当化されたじゃないか。では誰が戦争責任を取ったのか。

新政府軍は会津藩戦争責任を追求する動きになる。会津藩から首謀者を出頭させろと命が下る。それは首謀者は既に死んでても構わないというものだったが、田中土佐と同神保内蔵助が自刃、西郷頼母がこの時点では行方がわからず、萱野権兵衛自ら申し出て出頭した。番付でいったらそうなる。梶原、山川、佐川は家老になった期間が短くカオじゃなかったってことです。
「こんな大事な役目、ヌシらに譲れるか」ってこと。
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会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受け、明治2年(1869年)5月18日、切腹を命じられた。
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容保から親書が届いた。
「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。その方の忠実の段は厚く心得おり候」
それまでろくに主従の会話も描かなかったのにね。
照姫からも和歌が届いた。
「夢うつつ 思ひも分す惜しむそよ まことある名は 世に残れとも」
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慎吾ちゃん権兵衛は泣いてたが、静かに終わった。享年41歳。
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若松市内の天寧寺と、東京都港区白金の興禅寺に墓がある。
興禅寺に行って驚いたのは、権兵衛さんの墓は、鳥羽伏見で詰め腹を切らされた神保修理の墓と並んでいたのです。
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修理が詰め腹を切らされた時、ジャン妻は怒ってましたね。「何で修理が切腹しなきゃなんないのよ」って。
権兵衛さんの墓には顕彰碑があるが、神保修理の墓にはその様なものはなく、説明文もない。墓碑は諱の長輝となっていた。
原則、お墓は撮らない主義だが今回は1枚だけ。
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柳沢慎吾さんはこのドラマで時代台詞は棒読みだし大根でパッとしなかったが、最後の最後でいい場面を魅せてくれた。目に涙を浮かべてたし。
他の場面はどうでもよく、この場面だけの為に出演したと言っていい。しばらくは記憶に残るだろう。
権兵衛は今でも会津救国の士として敬われている。
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会津と土佐 [会津]

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「此ノ日若松城ヲ奪ハント欲シ第一ニ兵ヲ率イテ郭内ニ入リタルハ土州藩中島信行ナリ、城兵連リニ銃ヲ発シテ近ヅクヲ得ズ、城ノ前面ニ広壮ノ邸宅アリ此ノ中ニ入リテ射撃ヲ避ケント欲シ試ミニ銃ヲ発スレドモ応ズル者ナシ、乃チ進ミテ内ニ入リ長廊ヲ過ギテ奥ノ間ニ入レバ婦人多ク刃ニ伏シテ死セリ、中ニ嬋娟タル一女子アリ歳十七八未ダ絶息セズ足音ヲ聞キ少シク身ヲ起シタケレドモ視ルコトハ能ハズ、声微カニ我ガ兵カ敵兵カト問フ、信行故ランニ答ヘテ曰ク、我ガ兵ナリト、之ヲ聞キテ女子ハ身辺ヲ探リ短刀ヲ取リ出ス、信行ハ之ヲ以テ命ヲ断タンコトヲ欲スルナラント察シ直チニ介錯シテ出デタル」(会津戊辰戦史)

鶴ヶ城城門前にある会津藩家老西郷頼母邸に甲賀町他郭門を破った土佐藩兵が殺到、土佐藩士中島信行が北出丸からの銃撃を避けんと邸に入ったら集団自刃直後の現場に立ち会い愕然とした。
絶命せず苦しんでいた少女は頼母の長女、細布子(16歳)とされている。
中島は「味方だ」と偽ってからとどめを刺した。
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会津武家屋敷の第二資料館「自刃の間」にも、西郷一族婦女子の集団自決の現場が再現され、中島信行が抜刀している。
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だが中島信行という人は土佐を脱藩して長州藩の遊撃隊、坂本竜馬の海援隊や陸援隊に参加。こ8月23日の城内突入時に帰藩してたとはちょっと考えにくいという説もある。
弘化3年(1846年)生まれだから慶応4年(1868年)だと22歳。充分参戦できる年齢だが人違いではないかと。

でも現地では中島信行で通っている。ドラマでは板垣退助自ら介錯していたがあれはショートカットのやっつけ脚本でしかない。この西郷邸での美談・・・(と言っていいのだろうか)があるからか、会津側が薩長に含むような感情論は土佐藩へは薄いように思うのだ。「土佐とはまぁまぁ何とか。。。」というもの。

幾つか理由を考えてみた。
土佐藩の実質上の藩主、容堂公からして親幕府寄りの側面があり微妙な立場。京都守護職時代は仲間でもない代わりに対立する筋でもなかった。鳥羽伏見でも土佐藩主力は参戦せず二個か四個小隊のみ参戦している。あまり積極的ではなかったように見える。
若松城下に一番で攻め入ったのは参戦が遅れ、新政府軍内の主導権で薩長に対して巻き返したかったからだと思う。

板垣退助が日光東照宮に立てこもった大鳥圭介軍を穏やかに退去させた逸話があるが、日光口には山川大蔵も出張っていた筈である。日光口に出張った山川大蔵は前線にいた土佐藩士、谷千城と対峙し、お互い何か記憶に残ったか才能を見抜いたか。戦後、大蔵を明治政府に出仕させたのは谷千城なんだと。
西南戦争時、熊本城に籠城した谷千城へ、大蔵は包囲網を突破して入城して救援している。さすがに熊本では二度目の彼岸獅子はなかったようだが。

弾正ヶ原.jpg中島信行は後に自由民権運動の主導者板垣退助が結成した自由党の副総理になる。会津では千数百人の農民が結集した喜多方の弾正ヶ原が自由民権運動の発祥地とされ、その対象は薩摩藩出身の福島県令、三島通庸がすすめた「会津三方道路開削計画」への反対派弾圧に対してです。
この時、会津の農民が弾圧に抗した行動は自由民権運動=板垣&中島=土佐藩と重なっている。


それやこれやの逸話、背景で土佐藩への感情論はゼロとまで言わないが薩長に比べたらやや薄いように感じられる。
ただし、薄いだけです。

細布子を介錯したのが板垣でなく中島なら伏線の可能性もあった。中島は新島襄と出会い洗礼をススメられた。だが1回きりの出会いかも知れない。親交までいったかどうかわからない。
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細布子を介錯したのは誰なのか。中島違いか信行違いの別人なのか。でも会津人の心中秘めたる本質からすれば中島でも板垣でも誰でもいいのかもしれない。
この西郷邸での逸話だけ、僅かではあるが救われる。
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また会津藩兵の悪癖が。。。 [会津]

「今回は墓ばっかじゃん」(ジャン妻)
「・・・」
確かに寺や墓が多かった。ジャン妻がくるま下りて見たのは「なよたけの碑」だけ。他はくるまを降りなかった。
目的地に着くと、
「どーぞいってらっしゃい」
「・・・」

それでも大河ドラマ館に行った。衣装が展示してあり、ロケの撮影風景のVTRが流れているが、他は見た画面、場面ばっかりだったのでツマランかった。家で毎週見てるんだったら行く必要ない。見てない人が行けばいいというのが私の感想です。

若松市内から湯野上温泉、湯神へ向かう。
熊倉古戦場を見て、会津坂下の法界寺へ立ち寄って、昼を軽くすませたらもうジャン妻は「早く宿へ行こう」と言わんばかりである。だけんじょ、宿入りは3時で今は1時前。2時に宿入りするのはちと憚られる。せめて2時半くらいなら問題ないだろうと思い、時間調整も兼ねて道を迂回した。

南若松から国道118号線を下ったが、芦ノ牧温泉駅手前から右へ逸れた。県道23号線から131号線(大内こぶしライン)を快走する。
この辺りを会津美里町という。
湯神の若の新居がある町でもあるが、熊がよく出る地域でもある。
前夜、麦とろのオヤジさんから聞いた。美里町の山ん中で山菜採りをしてた婆さんが熊に襲われ死亡。遺体を搬出しようとした警察官数人も襲われた町です。
「会津は熊だらけ。もう鈴なんかじゃぁダメ。熊に出会ったら・・・」という昨夜の話題を思い出した。

ジャン妻は寝てやがる。この緑の風景を見んかいと言いたい。おこさないようスムーズに運転してたら、何やら碑と説明版が目に入った。
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路肩に停車。
「また何か変なモンを見つけたの?」(ジャン妻)
これが毎日更新を続けてるBloggerの妻の台詞である。
「アタシは降りないよ」
「・・・」
「くるま左に落ちないようにね」
「・・・」
降りてみたらそこは関山という地で、会津美里町教育委員会の説明版にこうあった。
『慶応四年(一八六八)正月三日、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の端緒となり、会津藩は西軍を相手に戦う羽目に追われて行きました。戦いは会津にも及び、日光・田島口の交通の要衝にあった関山でも、同年九月二~三日にわたり激しい攻防戦があり、双方とも死傷者が続出、東軍では野村梯之助・渥美守太郎以下四十名が戦死しました。』
日光口、田島、大内と引いて来た会津藩兵が、ここ関山で防衛せんと陣を張ったようです。昔は下野~会津旧街道道だったここを抜かれたら南若松まですぐに来てしまう。
問題は次の箇所。
『また関山の民家は敵の進撃を阻止するため、全戸兵火にかけられました。』
またかよ。
説明版を読んで私はうんざりした。くるまを降りなきゃよかったとも思った。
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会津藩兵がやたらと村々を焼いた記事は前にも載せた。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-06-09
これで幾つめだろう。よく焼く藩である。癖になってるとしか言いようがない。会津藩は村を焼き過ぎないか。しかもここは城下に近い村ではないか。
南隣にある栃沢集落も焼失したそうです。こんな山間の小村を焼いたって大局に影響なかろうて。

村人たちも優しいというか、自分らの家々を焼いた会津藩兵の戦死者を懇ろに弔ったのがこれ。まぁ放置しておくわけにもいかんかったのだろうが。
『このあたりに凄惨な戦いがあった名残を止めるが如く、その墓が立っています。 朝敵・賊軍の汚名を着せられたため、最初の墓石は自然石で祀られましたが、後に現在のものに再建されています。会津美里町教育委員会』
で終わっている。

憮然としてくるまに戻った。
とてもジャン妻には話せない。会津が嫌いになったらどーする。
大内湖を眺めて、湯神2時半着を目指してくるまを走らせた。
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会津藩へ。
もう戊辰のような悲劇はコリゴリだろうけど、時を戻してもう一度、新政府軍と戦うなら村々は焼かないでください。
会津領内はもちろん、敵の領内もですよ。
焼いたって人心が離れるだけ。住民が迷惑です。八重さんが言う「会津すべての戦いだ」が虚しいものとなってしまうじゃないか。
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麦とろで八重を観る [会津]

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会津甲賀町口門の裏、酒処食事処「麦とろ」のTVに八重が流れている。
籠城戦3回目の生放送。
「この店で八重を観るってのはある意味、凄いシチュエーションですねぇ」
「ガハハハ(笑)。ここは激戦地だったかんなぁ。三千人くらい埋まってるんだ」
これは聞き違いではない。
麦とろの旦那さんは確かに三千人って言った。実際は300人くらいだと思うが。
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「この間、ここ甲賀町が映ってさ」
「観ました。あっ、麦とろの門だって声に出したから。もうちょっと堅固な陣地かと思ったんだけど」
「今日でようやく会津終わりだから。これから京都編やんなきゃなんないからね。でも会津は八重効果で客が昨年の2割増しくらい来てっけど、京都は八重が行かなくたって普段から客くっからさぁ」
八重さん効果で、昨年の2割増の観光客が若松市内を訪れているそうです。

「あまり会津を美化し過ぎてもっていう意見も出てるみたいだね。殿様も家老(頼母)も結局は死ななかったんだからさ。宮司様か何かになったんだべ。宮司様ってのはやっぱ神様と同じなんだよな。それと八重はあんな美人じゃない(綾瀬さんみたいな美人じゃないということ)。お笑い芸人の何とかってのよりちょっとマシなくらいだよ。やっぱ八重よりも竹子の方が有名なんだよな」
「会津訛りはどうですか?」
「う~ん、まぁまぁかなぁ。あれっ?って思う時もあっけど」
「さすけねってどうです?あんな感じ?」
「さすけねぇって強い言い方じゃないの。さすけねってサラッと言うんだよ。でも会津訛りがキツいと、また視聴者が、何喋ってんだかわかんねってなんだよなぁ。」ニシン山椒漬.jpg
 ↑ ニシン山椒漬です。
会津は山に囲まれている。今は流通が発達しているけれど、昔は海の幸、特にナマモノは絶対に無理だった。
乾物や干物が発達した。棒鱈とニシン山椒漬が有名。
身欠ニシンを醤油、酒、酢、砂糖を混ぜた漬汁に2週間くらい漬け込む。ニシンと山椒の葉を交互に重ね合わせて漬け込むと臭みが抜け、ニシンのイノシン酸が旨味を醸し出す。
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厚さ12mmぐらいあるシメサバと、15mmぐらいあるホタテ ↑ 
太田氏が日本一と謳う馬刺 ↓
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ビッグコミックの太田和彦氏の記事に山菜採りのプロだって掲載されてた。
「ビッグコミックに載った後で礼状にご協力ありがとうございましたって届いたんだモン。ご協力も何も取材受けてねっからさ」
次に、太田和彦氏のイケイケ居酒屋というコーナー。
今週号百二十六話は「ニシン山椒漬」というテーマで、会津の「麦とろ」と、すぐ近所の「籠太」が載っていた。
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「これにはマムシを手で捕まえるって書いてありますよ」
山菜は崖のアブない場所に生えてるので、崖を這い登ったら目の前にマムシがペロペロペロって舌を出してたのと睨めっこになった。
「雀がいるところには必ずマムシがいっから。足首噛まれねぇように長靴、暑くても長袖、長ズボン、これは必需品なんだ。」
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「会津の山は熊だらけなんだ。この間も山で爺さんが熊に襲われて死んで(実際はお婆さん)、助けに行った警察官もヤラれて・・・」
麦とろ旦那の言うこの事件は今年5月28日、会津美里町の山中で山菜採りをしていた無職男性(78歳)が熊に襲われて死亡した事件。
27日に山菜採りに出掛けたまま帰宅しない男性を、県警3人と男性の息子、4人で山中を捜索した。午後にその男性の遺体は見つかっただが、その15分後、遺体搬出作業中に体長約1.5mの熊に襲われ、県警会津若松署の警部、同署分庁舎の警部)、会津美里町警察官の消防交通係長、遭難者の息子の男性会社員、4人が重軽傷を負った。
全員が熊除けの鈴を装着していたという。だが熊は逃げずに襲ってきた。「鈴やラジオの音を出していても平気な熊が増えている」
他にも5月11日、猪苗代町の山中を歩いていた70代の女性が熊に襲われ重傷を負った事件と、7月18日、またまた会津美里町の住宅街の路上で新聞配達の男性が体長約1mの熊に襲われ、叫び声で異変に気づいた近隣に住む54歳と28歳の母娘も玄関先で熊に襲われた。
今年の会津は熊が多く、5月以降、熊に襲われた事件は8件、1人が死亡、12人が重軽傷を負っている。
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処理済~ご主人Iさん-1.jpg処理済~お婆ちゃん.jpg
「熊除けの鈴なんかダメ。熊は爆竹でないと。こうやって手をかざして風がどっちから吹いてくるか風向きを見て爆竹を鳴らすの。音にびっくりするんじゃなくて火薬の臭いを撒くのよ。熊は鉄砲の臭いだと思うからね」
「爆竹なんて売ってるんですか?」
中国産の爆竹がコンビニで売ってんの。こーんなちっちゃいヤツだけど。福建省だったかな」
「気を付けてくださいね」
「うん。大丈夫。もう婆ちゃん山深いところには連れてかないから。でも奥深いところにいい山菜があんだよね。この間も何か気配を感じて振り向いたらカモシカがじーっとこっち見てるの。一定の距離を空けて付いてくんだ。こっちが立ち止まっと向こうも止まるってじーっと様子を伺ってるの。同じの狙ってんだべ。こっちが先か向こうが先かって」

熊に遭遇したら傘をバッと開くのも効果的なんだそうです。「小さいものが突然、大きくなっと熊は驚くんだ」
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TVでは八重の籠城戦が流れてる。
小田山から飛んでくる砲弾がヒューヒューいっている。
店の窓外は日暮が鳴いていてときどき遠雷が鳴る。遠雷がアームストロング砲の砲声に聞こえたりする。

山川大蔵の妻女、登勢が吹っ飛んだ。
お婆ちゃんがそっと目頭を拭った。
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若者が4人、食事に見えた。
4人とも麦とろ定食を「美味い美味い」って喰ってる。
「普段、都会で美味しいもんばっか喰ってっから、ウチで出すこういうのが美味しくなんだべ」
???
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戦い未だ終わらず [会津]

9月22日、会津藩は降伏、鶴ヶ城は開城した。
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だが、その報が遅れ、開城後も数日間に渡って戦いが行われた地域がある。
伊南から只見方面の南会津郡である。
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会津街道を田島方面へ走る途中、野岩鉄道と並行します。ここまでくればもう勝手知ったる慣れた道。
これまで見向きもしなかったのだが会津荒海駅(荒海宿)の手前、会津山村道場という駅近くに「山王茶屋」、「奥会津博物館」、「戊辰戦争展開催中」の大看板があったので、そちらに向かってハンドルをきった。
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以前は資料館だった。いつの日か博物館に昇格した。奥会津の有形民族文化財を展示しているが何があるのか細かく調べてみたら、農具570点、養蚕用具130点、山樵用具180点、染織用具140点、木地用具600点、杓子へら打ち用具120点、木羽打ち用具30点、下駄作り用具240点、桶屋用具160点、屋根ふき用具40点、石工用具140点、鍛冶用具120点、蹄鉄用具190点、藁仕事用具290点、太鼓胴作り用具40点、狩猟や川の漁業用具160点、運搬用具480点、その他52点、屋外に復元民家数棟。。。
だけんじょ、私の興味ないものばかり。(笑)
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では大看板にあった戊辰戦争展開催中とは何が展示されているのか。鶴ヶ城下から遠く離れたこの地、南会津の戊辰特集とはどんな内容なのか。
館内にこんなレリーフがあった。
「戊辰戦争時の会津というと何が思い浮かぶでしょうか。鶴ヶ城、白虎隊、娘子軍、西郷頼母一族の自刃などではないでしょうか。戊辰戦争では会津の各地で戦闘があり、この南会津地域も例外ではありません。会津戦争といえば会津若松市での出来事と思われがちですが、そうではないのです。・・・(途中省略)・・・会津戦争は慶応5年9月22日に会津藩の幸福により集結しますが、知らせが届かなかった南山では9月25日頃まで激しい戦闘が行われ、この地の戦闘終了を以て会津戦争が終結します」
9月22日の鶴ヶ城開城後も戦闘が継続されていたのである。

会津と名の付く地域は広範囲で、現在の南会津町や檜枝岐村、伊南、伊北、只見方面も会津は会津。この辺りは南山御蔵入領といってもともとは幕府の直轄地だった。会津藩預り支配が5回、幕府直支配が4回と交互支配が繰り返された。
文久三年に会津藩に編入される。これは京都守護職の役料(報酬)で与えられた。だが長年幕府の直轄地だったので会津藩士がいなかったので、軍事的緊張が高まる頃に農兵を募集することになる。

誰が募集したのか。
蘆名時代の旧会津四家のうち、伊南の旧領主筋だった河原田氏が登場する。久川城主だった河原田盛継の末裔で河原田治部信盛、嫡男包彦である。
久川城は麓まではこれで4回めの訪城。城内については呟きⅠで取り上げました。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-01-23-1
久川城大看板.jpg
南会津地方は旧河原田氏の領主筋たる治部信盛と嫡子包彦が指揮役を負い、かつての旧臣に宛てて「我が宗の大事」と結集を呼びかける檄文を発した。
南会津(伊南)の農民達は土着した河原田家臣団の子孫が多く、会津藩の中では珍しく(旧領主の)藩士と農民のつながりが培われていた地区だった。南会津は天領だった時期が長かったので、会津藩の為というより自分らの土地を守る為というスローガンが強い。だから士気も旺盛だった。
糾合した伊南郷農兵を編成して郷兵隊(河原田精神隊)と名付け農兵訓練を開始する。砲術、進退、駈引等の訓練です。

越後長岡を抜いた新政府軍が会津叶にやって来たのが9月2日。伊南川を遡るように只見、黒谷、小林、布沢村、と遡行して来る。
一旦は、田島、下郷までの南山全域が新政府軍の占領下になったのだが、新政府軍兵士の暴虐ぶりにアタマに来た農兵たちが田島陣屋を襲撃。鶴ヶ城から城外に出ていたあの佐川官兵衛が河原田軍と共同戦線を張った。

9月9日、農兵隊による田島陣屋奪回。
9月10日、佐川官兵衛が田島陣屋にやってきた。
9月18日、舘岩で農兵隊を公募。300人集まる。
9月20日、伊南、落合で戦闘。
9月21日、伊南、朴木向、古町道城で銃撃戦。戦局は会津藩優勢、新政府軍は下郷や田島から一掃され、伊南から越後口まで後退しつつある。
9月22日、鶴ヶ城は降伏開城する。だが南会津は遠く、報が届いたのは25日だという。だが佐川官兵衛は会津藩降伏の知らせを聞いても戦闘を止めないのだ。

河原田父子は先んじて戦闘を停止したようである。現在、駒止峠を越えて坂を下り、国道401号に接するT字路の辺りを山口村というのだが、河原田父子は農兵を連れて舘岩と駒止峠から山口にいた新政府軍を挟撃して敗走させたらそこで開城の報を受けたという。

だが、佐川官兵衛は戦いを止めない。
9月23日、入小屋(南郷)の戦い、木伏の戦い
9月24日、只見町滝原の戦、昭和村大芦の戦い、
9月25日、只見の叶津で銃撃戦。
9月26日、戦いを止めない官兵衛に容保公から親書が届いてようやく戦闘を停止する。南会津の会津藩兵が武装解除して引き揚げたのは鶴ヶ城開城から1週間後の9月29日だという。

戦闘詳報は、まずは館内に置かれた3枚の屏風に目を引かれる。
これは新政府軍富山藩に従軍した絵師によるもの。長岡城下での戦いを描いたと思われていたが、近年、南会津の戦を描いた屏風であることが明らかになった。
9月23日~24日の戦いの屏風です。
屏風.jpg
館内、3枚の屏風に描かれていたものは、越後八十里口から叶津を越えて進行してきた加賀藩、富山藩、信州高遠藩、飯山藩と、会津藩&仙台藩との戦い。
ここで「えっ!!」って思いませんか?
信州高遠藩は会津藩祖、保科正之の出身藩です。河原田軍はこれに激昂して標的にした。説明には会津藩祖出身の藩兵が攻めてきたとはさすがに表示されていなかったが。

23日に行われた南郷の入小屋の戦闘。
入小屋の戦闘1.jpg
入小屋の戦闘2.jpg
入小屋の戦闘3.jpg
木伏村の戦闘。
木伏の戦闘1.jpg
木伏の戦闘2.jpg
木伏地区は、久川城のある現在の古町(真っ赤な湯の出る古町温泉)辺りから東の山間のようです。入小屋もそう。
木伏の辺り.jpg
続いて24日の滝原戦争。
滝原は会津高原の滝の原ではなく、花泉Cafeのある南郷からもっと只見寄りらしい。
滝原の戦闘1.jpg
滝原の戦闘2.jpg
私も初めて知る話ばかりであった。

博物館内には男性の職員さんが一人だけさびしそうに勤務してた。
館内に「撮影をご遠慮願います。職員に声をおかけください」と貼ってあった。撮影禁止とまで強く謳ってなかったので図々しくも聞いてみた。
「館内撮影はNGかい?」
「いえ、撮影はどーぞ。していいですぅ」
ちゃんと許可を得ました。

「南会津戦争だけの書籍ってないの?」
「ないです。各町の町史には載ってるんですが」
やはりそうか。田島町史や伊南、伊北の町史をパラパラめくって調べてたらタイヘンだし日が暮れちまう。集めるのがめんどくさいので一冊に纏まったものはないか短絡的に質問したんだがな。
「あまり知られてなくてですねぇ」
そりゃそうだろうよ。私だってここに来て初めて知った。来なきゃ知らないまま通り過ぎてそれっきりになっただろう。ここ館内だけで、「会津戦争は会津若松市内だけではないのです」って謳ったって来た人しかわからない。私みたいにたまったま興味があって立ち寄った閑人ならともかく、現状のPRだと絶対に全国区にはならないだろう。
『会津戦争といえば会津若松市での出来事と思われがちですが、そうではないのです。』
それはよくわかった。私も興味津々。これから時間を書けて調べます。もうちょっと中央に向かってアピールすればいいのにと思う。

そういえば。。。
佐川官兵衛が開城後も南会津で戦ったのは、例の長命寺出撃暁前の寝過ごした失態が尾を引いていたのではないだろうか。
あれはバツが悪かった。前夜、主君にお酒を頂き感極まって飲み過ぎ・・・とも思えなかったが疲れてたんだろう。未明に出撃する予定が大幅に遅れ、陽が昇ってしまい出撃の機会を逸した。
「なにこれ!!これってあり?」
ジャン妻は呆れた。
「マズイじゃないの!!これってホント??」
史実を捻じ曲げた脚本?とも思ったようです。
「何で部下が起こさなかったのよっ!!」

だが官兵衛の寝過ごし事件はどうも事実らしいのだ。何だか憎めないくらいに熱く可愛いキャラだったが、現代のサラリーマンならともかく、戦時中の一国を担う家老の一人がこれはマズいだろうよ。だから開城後も汚名挽回や贖罪の気持ちがもあって、郊外で戦ったってことはないか。
官兵衛さん起きて下さい.jpg
官兵衛慟哭.jpg

開城後の南会津戦記は知られていない。
この地に来ないとわからない。許されるのなら何日か逗留してみたいものである。
伊南の風景2.jpg
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もう一つの白虎士中二番隊 [会津]

副題としては、最強少年兵、白虎寄合隊といったところです。

白虎隊旗.jpg白虎隊の旗印です。
TVや漫画でよく「白虎隊」ってそのまんまズバリ書きなぐった旗指物が映る時があるが、あれは全くのマチガイ。もうちょっと考証をちゃんとして欲しいね。
この旗印を見ると、身分別に三つの隊に分かれている。士中、寄合、足軽です。この三つは別々の隊に分かれ、混合では編成されない。
それは当時の封建制度に基づく身分階級が厳しく区別されていたから。
士中と寄合は、一番隊、二番隊と二小隊あった。



会津藩だけではないが、この時代は何処の藩でも上士、中士、軽輩、身分の差が大きかった。
日新館では上士の子弟が学ぶ。寄合(中士)や足軽が学ぶのは別の学校である。当時の封建制度では少年といえども下士の子弟が上士の子弟と道で出会えば道を譲ったり頭を下げたり、土下座で挨拶しなければならないほどの身分差があったのだ。
白虎士中一番隊、二番隊は容保公の傍に置かれ、実戦では越後口に派遣された寄合隊に先んじられ、それを悔しがった。それでいて寄合、足軽との合同演習を嫌ったという。
お互いの交流は全くない。
(二本松少年隊は少年同士は隔てがなかったらしい。)

最初に戦闘に出たのは、白虎足軽隊の誰かか、寄合隊です。ただ、足軽隊は隊として行動していないようで諸隊に付けられた可能性が高い。だから記録に殆ど残っていない。
寄合隊は二隊あって記録が残っている。7月12日に越後口に出発。初戦は一番隊が8月14日、二番隊が8月10日、9月22日の降伏まで寄合隊は城外で戦争に明け暮れる日々が続く。その間、若松城内に戻れという命令は出なかったようである。
何故だろうか。

幕末では戦闘は既に遠い過去のものになっている。
会津藩は京都守護職で砲煙の中を掻い潜った。だがそれは大坂の陣や島原の乱以降の泰平の時がゆったり流れてから久々の戦闘だった。京に滞在した会津藩兵は蛤御門や鳥羽伏見で実戦を経験したが、それより先に薩長二藩は諸外国と交戦済みだし、長州藩に至っては蛤御門の後で征長軍を撃退している。
それに対して会津国許、ましてや少年に至っては、戦闘というものは忘れ去られていた筈である。講談や物語でしかなかったのだ。

二本松少年隊の生存者、水野進という人が大正六年に語った談話では、出陣が決まった時、
『銃ヲ放リ上ゲ抱キ合ッテ出陣ヲ喜ビ、ソノ夜ハ両親カラ門出ヲ祝ッテ貰イ、夜半過ギテモ興奮シテ眠レズ』
まるで選抜されて試合に臨む学生の光景である。
白虎士中一番隊の生存者、永岡清治という人の談話では、越後口から帰還した時(戦闘には及んでいない)、『白虎隊士ハ十中ノ九ハ初メテ旅舎ニ淹留シタルコトナレバ奇談笑談限リナク笑イ興ジテ・・・』
戦闘にはならなかったとはいえこれでは修学旅行の土産話気分である。外泊というものがそれまでなかったのであろう。
永岡清治が所属した士中一番隊は越後口では戦闘になっていない。甲賀町口門の市街戦が初戦である。生存者は何とか城内に帰城した。だが越後口に寄合隊の少年たちを置いて来たのである。

白虎士中二番隊は会津戦争悲劇の象徴だが、飯盛山で自刃したのは戸ノ口原初戦翌日である。士中隊は一番隊、二番隊とも、実際の城外戦闘は2日間でしかないのである。
二番隊は隊長の日向内記がどっかに行っちゃって少年たちだけが山中を彷徨し、飯盛山の悲劇に至る者、農民に匿われて生き残る者、何とか城内に帰還できた者とバラバラに動いた。そこに隊の規律は全く見られない。
それでもからくも城内に帰還した一番、二番隊は合併して再編成され、開城まで籠城戦に参加することになる。

知らない人の中には、白虎隊といえば飯盛山で自刃した少年だけという誤認がまだ残っているようです。上士、寄合、足軽と別れていたのが知られていない。
自刃した少年隊士も気の毒だが彼らは上士の子供らなので、学者さんの中にはこういう事を訴える人もいます。長いのでちょっと訳しますが、
「自刃した隊士が上士だから顕彰に値するというきらいはないか。寄合(中士)や足軽だったら、自刃ではなく一人でも多く敵を倒すべしといった言動にならなかっただろうか」
「幕藩体制は身分制だから上士を手厚く扱うのは仕方がない。だが寄合や足軽にも戦死者はいる。取り上げられるのが上士に偏りがちである」

越後戦線に置いてかれた白虎寄合隊はどういう過程、戦績をたどったのか。
会津若松城の開城は9月22日だが、7月18日から開城まで二か月間も城外の戦場にいた。寄合隊も一番隊二番隊とあって、一番隊は98名。二番隊は62名。彼らは士中白虎隊に出動命令が出る前から越後戦線の砲煙の中にいた。

では何故、彼ら寄合隊だけ先んじて戦闘命令が出たのか。
理由は簡単、冒頭に述べた身分差です。端っから使い捨ての戦闘員扱いだった。
寄合隊より身分の高い士中白虎隊も戦意は旺盛だが、彼らは上士の子弟なので最初は容保公の御側に置かれたのは当時の身分社会だから仕方がないともいえる。まさか容保公の周囲を寄合隊や足軽隊で固めるわけにはいかないだろう。おそらく8月22日の戸ノ口出動までは、容保公の周囲にいた士中白虎隊は近衛兵、儀仗兵のような位置づけではなかっただろうか。
嫌な推測だが、上士子弟は城内に入れ、中士軽輩は城外で敵を喰いとめろ、城内への補給路線を確保しろというスタンスではなかったか。

白虎寄合隊は7月12日に出動命令が出て15日に越後口の国境戦線へ出動する。少年隊単独ではない。幾つかの諸隊とともにです。。
八重の旦那、尚之助は、「まだ戦場に出る年ではない」なんて言ってたがトンデモナイ。尚之助は常識論を口に出して八重を安心させただけだが現実は違っている。

最初の戦闘は二番隊で8月10日、阿賀野川左岸の左取村の胸壁で新政府軍と遭遇し、彼らは実戦と武器の性能差に愕然とした筈である。杉浦という砲兵隊長の手記に、『砲兵、白虎ノ両隊、佐取西胸壁ヲ退キ、村先ニテ応戦・・・(省略)』
14日か15日まで戦線が膠着し、砲撃や銃撃の応酬に終始したが、この間に前にも書いたが星勇八(16歳、寄合隊最初の戦死者)、小松八太郎(16歳)、百瀬外次郎(17歳)、3名の戦死者が出ている。
(現在の石間、左取は、磐越西線の咲花駅近郊、阿賀野市と五泉市の境辺りです。)
石間村と左取村.jpg

一番隊の初戦は8月14日、赤谷というところで戦闘が始まった。赤谷戦線諸隊の標的は新政府軍に寝返った新発田藩だったのだが少年兵を加えず赤谷の守備を言い付けられたという。さすがに年齢的体力的に、兵力としては如何なものかという懸念があったようである。
だがその8月14日、赤谷戦線は豪雨で冷え込んだ。新政府軍は火を焚いて野営をしていたが、その火を見つけた会津藩の遊撃隊が斬り込んで攻勢する。緒戦は会津藩兵の斬り込みで優勢だったのだが、一旦引いた新政府軍に元込めライフル銃スナイドルを所持する最強部隊が現れる。
長州藩奇兵隊!!
形勢が逆転した。会津藩の火縄銃は豪雨で全く使い物にならなかったのである。諸隊は退却するが、そこへ後方にいた白虎寄合隊が健気にも救援に駆けつける。子供だからとも言ってられなくなったようである。
だがこの時も一番隊で最初の戦死者が出ている。佐々木新六郎(16歳)、既に掲載したが父子揃ってこの地で戦死した。

白虎寄合隊は一番隊と二番隊とも麒麟山温泉のある津川まで引いてそこで合流し、諸隊とともに阿賀野川に沿った狭隘な街道に伏兵を置いてゲリラ戦を展開した。川の増水もあって膠着状態になり小戦闘が繰り返される。
だが、8月21日に母成峠を突破された敗報が届き、越後口の防衛戦線に撤退命令が出され、津川から若松城下への退却戦で幾人かの少年兵が戦死した。この撤退戦はかなりキツかったらしく、もともと兵力が少ないので彼ら少年兵も嫌がおうにも実戦に立たされ、撃ちながら退き、押しては引きを繰り返し、野山に伏し、泥濘にまみれ、砲煙、硝煙だらけになって揉まれ鍛えられ、幾人かが戦死し、生存者の少年兵たちは急速に戦力になっていかざるを得なかった。

越後戦線防衛軍は会津盆地の平野部入口まで撤退した。そこへ家老萱野権兵衛(演:柳沢慎吾さん)が峻烈な命令を下す。
「城中は各方面からの引き上げ兵で足りる。越後口防衛軍は城外にとどまり、新政府軍に只見川を渡河させるな」というもの。
萱野は会津を追われた家老の誰かと違って城外戦線に居座り、戦後は責任を取って自刃した家老です。
少年兵たちは「城に帰るな」と言われたのである。

白虎寄合隊は新政府軍が渡河してくると踏んだ越後街道、船渡の防衛を命じられた。8月27日から阿賀野川を挟んで砲撃戦が続き、およそ10日に渡って食い止めるが、ジレた新政府軍が迂回したか、若松方面からの別軍か、船渡防衛軍の背後から挟撃され、白虎寄合隊と防衛軍は陣地を放棄せざるを得なかった。

(この撤退で白虎寄合隊の一部が城下へ向かい運良く入場して三の丸土手の守備についている。
それだけでなく彼らは城外へも出撃して城下で戦闘におよび、また幾人かの少年が戦死している。)

城外に留まった白虎寄合隊の戦いが続く。
ここまで連戦連敗だったのだが9月10日、愁眉を飾る勝利を挙げる。喜多方の東方、米沢街道の熊倉という地で、油断して東進してきた新政府軍に十字砲火を浴びせて伏兵と挟撃。喜多方方面へ撤退しようとする新政府軍の背後から斬りこんで撃退した。
熊倉は喜多方の東.jpg
熊倉は米沢街道の宿場町である。
熊倉宿.jpg
宿の説明版にも『敗走戦争のなかで唯一西軍を撤退させた戦場にもなっている』とある。
この街道を、土方歳三や、追放された西郷頼母も歩いて米沢に去っていった。
訪問時、農道を北上したら、くるまのリアウインドに写る会津坂下方面の空は快晴なのに、前方の喜多方、熊倉の米沢街道沿いには暗雲が立ち込め、降りたら滝のような豪雨になった。
「降りるの止めたら?」
「いや、降りる」
「墓は見ないからね」
大雨の水たまりの先に墓地があった。
雨の熊倉.jpg
赤谷戦線からここまでどれくらいの距離があるのだろう。寄合隊士も雨に濡れたに違いない。

9月15日。。。
白虎寄合隊は阿賀野川を渡って鶴ヶ城南の郊外、一ノ堰村という村に布陣していた。
ここが最後の戦場になる。兵站ルートを確保しようとした寄合隊と諸隊の会津軍だが、それを阻止せんとする新政府軍が遭遇する。緒戦は小倉藩、砂土原藩のみだったが、戦闘途中から薩長と宇都宮藩が投入され大規模戦闘になった。
戦闘直前.jpg

一ノ堰は現在の南若松駅周辺、向羽黒山城の北東である。その地に立ってみるとわかる。平坦地で遮蔽物が全くない。この平原で激戦二連戦になった。
一ノ堰付近.jpg
一ノ堰の風景.jpg
この戦闘で、白虎隊長長原早太他、若林八次郎16歳、鈴木五郎16歳、樋口勇次郎16歳、好川滝三郎16歳、池田勇太郎17歳が戦死した。
城外戦闘1.jpg城外戦闘2.jpg
隊長が戦死したので、望月辰太郎という者が引き継いだ。
中1日空いて17日、新政府軍が押し返して来る
『コノ地遮蔽物ナク弾丸脚下ニ達ス』という地形。一ノ堰と名がつくからには灌漑の堰があったのかも知れないが、白虎寄合隊士は遮蔽物のないこの地に伏せて応戦する。
会津戊辰戦史から。
『白虎隊ハ弾丸雨ノ如ク下ルヲ事トモセズ、皆敏捷ニ行動シテヨク射撃シ、望月以下ノ将校モマタ決死シテ戦ウ』
赤谷戦線では補助要員程度だった少年兵が躍動している。
『我ガ兵望見シ喊声ヲ発シテ益々猛撃ス。朱雀寄合二番隊モマタ山上ニ上リテ白虎隊ヲ援ク』
朱雀隊が、「子供らを討たすな」と援護射撃するサマが目に見えるようである。
更に驚く記述があって、
『白虎隊半隊長原四郎八(早太)、七連発の後装銃ヲ執って俯撃シ兵モマタ連発ス。』
七連発の後装銃!!
兵モマタ連発ス!!
この記述をどう解釈すればいいのか。スペンサー銃以外に考えられないではないか。
白虎寄合隊は新式銃をどうやって手に入れたのだろうか。新政府軍の死体から分捕ったらしいと想像に留めておこう。
射撃操作は八重が教えたわけではない。たまたま知っていた大人の誰かが教えたのだろう。
この第二戦でも新政府軍を撃退した。

熊倉、一ノ堰二戦、この三連戦は会津城外戦唯一、いや、唯三の勝利。
これが最後の戦いになる。緒戦の赤谷戦線から二か月が経った。最も多くの戦死者を出したのが彼ら寄合隊で、わかっている者だけでも、白虎寄合一番隊98名中、戦士14名。。。
二番隊、62名中、戦士7名。。。

山本八重の父、権八はこの戦いで戦死した。南若松駅近く、光明寺境内に墓がある。
光明寺.jpg
権八の墓他.jpg
一ノ堰戦争説明版.jpg
最後に劇的な展開になる。
ここまで隊長が戦死して幾人か交替しているのだが、上田学太輔という家老の立ち合い他、居並ぶ将校たちが戦勝式のようなものを執り行った。
最後の隊長、望月がまず表彰された。
『白虎隊今日ノ戦功ハソノ指揮宜ヨキヲ得タルニヨル』という最大級の賛辞を賞された。
白虎寄合一番隊84人は、何と三階級特進で、近習一ノ寄合席に。藩主に単独で謁見可能に昇進する栄誉を受ける上士に昇進したのです。
その隊名は、白虎士中二番隊と改称された。
(白虎士中一番隊と士中二番隊の生存者は合併され、城内で白虎士中一番隊と称しているからです。)

当時の身分制度を考えるとお堅い会津藩幹部も粋な計らいをしたと思う。彼ら寄合少年隊はこの昇進をどう思っただろうか。
いっとき栄誉に感激し、これまでの労が報われたと思ったかもしれない。だがそれは藩が存続してこそであって、明日はどうなるかわからない戦場なので、すぐに目の前の現実に立ち返り、それほど歓喜したとも思えないのだ。
この栄誉を受けたのは越後戦線から今日まで二か月経っている。城内にも家にも帰れず家族とも遭えず、城外戦場を砲煙硝煙にまみれて駆けずりまわって、表彰時に彼らの脳裏に浮かんだのは家族であり、斃れてうち捨てた仲間の面影ではないか。

戸ノ口原や甲賀町から逃げ帰った士中隊とは違い、白虎寄合隊は歴戦に次ぐ歴戦で鍛えられ、隊員の死を受け入れ乗り越え、後年、白虎最強部隊と呼ばれるようになる。
士中昇進は降伏開城5日前のことである。

写真は向羽黒山城から一ノ堰方面を見た風景。
向羽黒山城から一ノ堰方面を望む.jpg

最長で城外で野戦に明け暮れた寄合少年兵たち。
身分が低い故か取り上げられる機会が少ないのを残念に思うのと、若松城下の敗戦の悲劇をアピールするだけでなく、熊倉、一ノ堰二連戦、局地戦ではあるが、この城外三戦の大勝利をもっともっと取り上げてもいいのではないか。
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娘子軍秘話 中野家と八重は交流があったか。 [会津]

涙橋の戦闘.jpg
斬り込む娘子軍.jpg
慟哭する中野母娘.jpg
中野竹子が銃弾に斃れ、母、考子が介錯しようと懐剣を当てたシーンでジャン妻は固まった。
「えっ、これってやったの?」(ジャン妻)
愛娘の首級を持ち帰ったのかと驚いてた。
介錯はできたのだろうか。諸説あって、妹、優子が三度刀を振り下ろし、首級を小袖に包んで会津坂下に落ち延び、前夜泊まった法界寺に葬ったという説と、上野という農夫か農兵が首級を持ち帰ったとも言われている。
慟哭する中野母娘2.jpg
中野竹子の戦跡は3つあって、
①娘子軍が大垣藩兵と遭遇して白兵戦になった涙橋。
②竹子の像と碑、これは涙橋から数百メートル北の工場脇にある。
③竹子が葬られた会津坂下の法界寺。前夜、照姫が会津坂下に退いたというのが誤報とわかり、落胆して泊まった寺。竹子と母、妹、最後の一夜となった。
法界寺.jpg
法界寺説明版.jpg
竹子さんと再会す.jpg
奮戦の地.jpg
前にも載せたが、妹、中野優子の後年の回顧録には、
『ワラワ共ノ戦場ハヨク判リマセン。憎キ敵兵ト思フ一念ノミデ敵ニバカリ気ヲトラレ、何処ニドンナ物ガアッテドンナ地形デアッタカ等トイフ事ハ少シモ念頭ニ残ッテオリマセン。タダ柳土堤ニ敵ガ多勢オッテ盛ンニ鉄砲ヲ撃チ、味方モ之ニ向ッテシキリニ撃チ合ヒマシタガ、ナカナカ埒アカナイノデ一同マッシグラニ斬込ンダ事ハ覚エテ居リマス。ワラワハ母ノ近クニテ少シハ敵ヲ斬ッタト思ヒマスガ、姉ガヤラレタトイフノデ母ト共ニ敵ヲ薙ギ払イツツ姉ニ近ヅキ介錯ヲシマシタガ、母ト共ニ一方ヲ斬リ開キ戦線外ニ出マシタ。コノ時農兵ノ人ガワラワト共ニ一緒ニ戦ッテ坂下ニ帰ル途中ハ首ヲ持ッテ呉レタト記憶シテ居マス。斬合ッタ場所ハ乾田デ橋ノ東北方六丁位離レ湯川ニヨッタ所ノ様ニ思ハレマス』
(途中、省略してあります。)

斬り合った場所の記憶は定かでないらしく、『柳土手に敵が多勢おって盛んに鉄砲を撃ち。。。』、『斬合ッタ場所ハ乾田デ橋ノ東北方六丁位離レ湯川ニヨッタ所ノ様ニ思ハレマス』
涙橋1.jpg
涙橋2.jpg
現在でも戦場と伝わる涙橋の土手には柳の木が植わっていた。東西の位置関係から推測すると、前夜、泊まった法界寺を出た竹子たちは城内に戻ろうと東南へ向かい、神指城のある高瀬方面から涙橋に向かったのではないだろうか。
鶴ヶ城はその先にある。城内への補給路を遮断していた大垣藩を中心とした新政府軍に遭遇する。鶴ヶ城方面を向いていた新政府軍は竹子たちに向かって反転したと思われる。
『斬合ッタ場所ハ乾田デ橋ノ東北方六丁位離レ湯川ニヨッタ所ノ様ニ思ハレマス』この談話にある湯川という地名は今でもあって、柳橋のすぐ東北隣です。
竹子は「お城はもうすぐですっ」と叫んだ。その通りで直線距離で2km程度。あと少しだったのだが被弾に斃れた。
竹子撃たれる.jpg
娘子軍隊士に依田菊子という女性がいる。
演じたのは吉谷彩子さん。この女性は姉、まき子(演:小出ミカさん)と姉妹で娘子軍に加わり、八重でも冒頭にその他大勢でテロップが流れた。
依田姉妹?.jpg
登場した女性たちのどれが依田姉妹なのかわからないが、この女性の談話に、娘子軍集結の模様と、涙橋前夜の緊迫した光景が語られている。
城下に集結した朝、西出丸の大手門が閉ざされていたので西へ避けたら、中野竹子、母考子、妹優子と出会い、他、数人が合流してに娘子軍が集結したというのである。
そこへ竹子の運命を決した誤報が伝わる。ある藩士が「照姫様は坂下宿へ御立退きになった」と。だが会津坂下へ向かうと照姫一行は来ていなかったので、竹子らは坂下にある法界寺・・・(現在、竹子の墓がある寺・・・)で一夜の宿をとる。
では、出撃前夜の緊迫した光景はどのようなものだったか。

『其夜夜半ノ事、秘々話ガ聞コエマスノデ耳ヲ澄マセマスト、中野竹子様ト御母様ガ優子様ヲ殺ソウト云フ相談ヲシテ居ラレルノデアリマシタ。』
母考子と竹子が、優子を亡き者にしようとしていたというから驚く。

『中野ノ三人共世ニ勝レテ美シイ方々デアリマシタガ、殊ニ十六ノ優子様ハオ年モ一番若イ上ニ一層美シテ稀ナ美人デアラレマシタノデ、若シ敵ニ押ヘラレテハ恥辱ダカラ、寧ソ今夜ノ中ニ殺シテ了ハウト云フ御相談デシタノデ、私共ト姉(まき子)トガ飛起キマシテ御二人ニオ話シテ、殺サナイデモト申シテ、暫ク思ヒ止ツテ戴キマシタ』

これとは別の談話にも、
『考子サンハ側ニ寝テ居ル優子サンヲ、呼ビ起コシテ自刃セシムベキカ、イヤソレヨリハカクセント太刀ヲ抜キ將ニ優子サンノ寝首ヲ掻カントシマシタノデ、ココハ大変トスグトビツキテ其手ヲ抑ヘ其訳ヲ聞キマスト御両人ハ異口同音ニ、優子ガ居ツテハ思フ存分ニ働ケマセンシ皆サンノ御邪魔ニモナリマスカラ冥途ニ先立タシタ方ガヨロシイトオモヒマス』
優子は母と姉に殺されかかったのである。これを武士の情と取るかどうかの是非はともかく、緊迫した遣り取りが目に浮かぶ。

中野優子は戦闘の回顧があり、依田菊子は戦闘前夜の回顧がある。優子には前夜の回顧はない。だって何も知らずに寝ていたのだから。
竹子22.jpg
中野母娘と八重との交流はあったのだろうか。
城下で有名なトンガリ娘同士、見知った関係ではあったらしい。お互いが何処まで意識してたか想像の範疇の域を出ないし何を演出しても自由だが、竹子が「八重さんに鉄砲を教わりましょう」と言ったにせよ、城内に戻った考子がそれをそのまま八重に伝えたのにはドッ白けた。中野家側が八重に配慮してどうする。出来レースみたいなオチでオモシロくない。
甘いと思う。実際、後年、八重の談話によると、
『籠城六日目ニ中野コウ子さんガ入城サレ、妾ヲ見テ、何故娘子軍ニ加ハリマセンデシタト。妾ハ鉄砲ニテ戦スル考ヘデ居リマシタ』
何故貴女は娘と共に娘子軍に加わらなかったのかと詰め寄ったというのである。それでも八重は、城内に入った中野優子に鉄砲を貸し与え、共に狙撃をしたともいう。交流はあったのだ。
竹子.jpg
辞世の詩.jpg
どうしても謎が解けないのだが。照姫が会津坂下にいるという運命の誤報はどっから流れたのだろうか。
こればっかりは永遠の謎である。
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西郷家婦女子が入城しなかった理由 [会津]

西郷邸の婦人たち.jpg
西郷頼母邸の一室で、女性たちが全員白装束を纏い、輪になって正座している。
歌が幾つか詠まれる。
四女の常盤(4歳)が言うセリフ、「今日は何をするのですか?」
脚本の山本むつみさんは、八重と竹子の関係には甘ちゃんだが、この四女のセリフには胸打たれた。子役さんの短いセリフだけに余計に迫るものがある。
四女常盤子.jpg
当主、頼母と嫡男吉次郎は城内にいるので邸内には女性だけ。死にきれなかった長女、細布子(16歳)を土佐藩士中島信行が「我ハ味方ナリ」と言ってとどめを刺すこの場面は会津戊辰ものには必ず描かれる。
女性が多いなぁといつも思う。

自刃した西郷一族は21人いて、うち西郷頼母の家族で自刃したのは、
母・律子58歳。。。
妻・千重子34歳。。。
妹・眉寿子26歳。。。
妹・由布子23歳。。。
頼母の長女・細布子16歳。。。
次女・瀑布子13歳。。。
三女・田鶴子9歳。。。
四女・常盤子4歳。。。
五女・季子2歳。。。
老幼を含む9名。
西郷邸跡.jpg
西郷邸は鶴ヶ城北出丸の堀端にある。
8月23日、甲賀町口門を突破してここまで攻め入ったのは土佐藩兵。自刃直後の場面は、中島信行という土佐藩士の談話で、
『若松城門ノ前ニ大キヤカナル屋敷アリ。ソレニ向カヒ発砲スレドモ応ジルモノナシ。内ニ入リ長廊ヲ過ギテ奥ニ婦人多数並ビテ自刃セリ。其ノ内ニ齢十七八ナル女子ノ嬋娟タルガ未ダ死ナズアリテ起キカヘリタレド、其ノ目ハ見エズ声カスカニ味方カ敵カト問フニゾ、ワザト味方ト答ヘシカバ、身ヲカイ探リ懐剣ヲ出セシハ、コレソモテ命ヲトメテヨトノ事ナルケド、見ルニ忍ビネバ其ママ首ヲハネテ出ル』
介錯を乞うたのは長女の細布子16歳。
懐剣は九曜の目貫。九曜紋は西郷家の家紋。
涙の介錯.jpg
西郷邸の自刃は飯盛山での白虎隊自刃と並んで戊辰の悲劇の象徴であり、会津武家の婦女の志魂であり、現地では礼賛すら感じられる。

だがちょっと待って欲しい。
自刃そのものは悲劇以外のなにものでもない。では自刃に至った真の理由は何か。
捕われの恥辱を受けぬが為?
いや、そういうことではないんだな。女性が多いのが気になる。妙齢の女性が多いからこそ悲劇性が高く感じられるといえなくもない。
ではその訳は何だろう?

15歳で嫁ぐこの時代に、何故、西郷家にはこの時、15歳以上の独身女性が3人もいたのだろうか。妹・眉寿子26歳、妹・由布子23歳、頼母の長女、細布子16歳。。。
次女の瀑布子13歳だってこの時代なら嫁入りの声がかかってオカシくない年齢である。独身女性がこの記事を読んで不快に思ったら申し訳ないが、二人の妹はこの時代では適齢期を過ぎている。
たらればを承知で敢えて言うと、他家へ嫁いでいたらこの自刃劇は犠牲者が3人減ったかも知れない。数が減ったからって他の女人は救われなかったかもしれないが、筆頭家老で1700石の高録、西郷家との縁談を望む家々は無かったのだろうか。

当時の婚儀は家同士で決める。嫁ぐ側も迎える側も家柄が重視される。西郷家は藩祖、保科家に繋がる名家だが、当主、頼母はドラマでは京都守護職お役御免を進言して退けられたことになっていて、その謹慎期間は文久三年(1863年)から慶応四年四月(1868年)までのなんと5年間の長きに渡る。
当主が妻子や家族と別居して謹慎中なのに、主君に疎んじられた家に縁談を持って来る家中がいたとはちょっと思えないのだ。
城外で謹慎、イコール、家にいた女性たちは5年も独身だったという訳である。

家老に復職してからは白河口の防衛軍事総督を任されるが、戦争が下手だったのか小峰白河城や白河戦線を支えきれず大敗し、二度目の家老職御免(罷免)になる。
もう戦時である。婚姻願いをどうこう言ってる場合ではなくなってしまった。

頼母が容保公へ進言した京都お役御免、朝敵にされてからの恭順、白河から戻っての講和論の主張、容保にしてみたら、一方の提言、意見具申として聞きおくとしても、家老が家中で浮いてしまった。結果、内命を受けて城外に出されたのだが実質は追放処分であろう。
山本むつみさんの甘い脚本では容保公が「頼母、生きよ」と呟いてたが、実際は二名の暗殺者が主命を受けて後を追っているのだ。

西郷家は藩祖、保科正之従兄弟、正近から出ていて、頼母は十一代目だという。藩祖に繋がる血筋という意味では、他家からの養子、容保より血脈が濃い。
それをかさに来てかどうか、最後まで諫言したのは事実らしい。だが生来の傲岸不遜だったという逸話もあるし、函館戦争が終結してからの感心しない逸話も幾つかあっていちいち書かないが、主従の仲はよくなかったのではないか。いくらなんでも5年間の謹慎は長すぎる。

会津戦争で城下の自刃者は、わかっているだけで二百三十余人。
家族、婦女子の自刃は、捕われの恥辱を受けんが為であり、鶴ヶ城内に籠城する家の当主や男子の足手まといにならないよう、後ろ髪引かれるようなことのなきようと願う為。
実際、そうだったと思う。だが、西郷家の婦女たちの自刃は前述のような別の側面があるような気がしてならない。「今日は何をするのですか?」には一掬の男の涙なきを得ないが、気の毒だが西郷一族の女性たちが入城できるわけがないのだ。入城したら周囲から白眼視されるに決まっている。当主と嫡男が籠城戦闘員から外され城外に放り出されたのがその証である。
入城に遅れたのではなく、入城できなかったのだ。
墓は撮らずに案内板のみ撮影.jpg
なよ竹の句碑と、二十一人の墓は善龍寺という寺の境内にある。若松市内の東方、小田山の麓です。
葬られた経緯は、例の「戦没者の埋葬を許さず」という例の怨恨150年に繋がりそうなので、今は敢えてここでは書きません。
境内に来たら雨になった。
善龍寺境内.jpg
西郷千重.jpg
頼母の妻、千恵が最後に詠んだ歌。「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
細い竹にも曲がらぬ節があるように、か弱い女にも固い信念があるという意味。
「会津は罪もないのに罰を受げ、無念を飲み込んで敵に恭順しだ。それでもまだ足りなぐで敵は会津を滅ぼしに来た。そんな非道な力には死んでも屈しねえ。この事、命を捨てて示すのが西郷家の役目だ」
ドラマでは宮崎美子さんが目力を込めて言っておられたが、現代まで残る150年の恨みが言わせたセリフである。
なよたけの碑.jpg

中島信之.jpg
会津若松の武家屋敷第二資料館に、西郷一族の集団自決の現場が人形で再現されている。
(写真は和田義男氏のHPから)
舎熊を被って抜刀して立っているのは長女、細布子を介錯した土佐藩士、中島信行だが、近年、彼ではないという説がある。
それについては項を改める。
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知られざる足軽少年兵 [会津]

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会津若松市内に相生町という町があって旧町名を博労町という。蒲生時代に形成され、軍役や荷役を扱う重要な通りだった。
町内に、自在院という寺院がある。
新政府軍は城下に攻め込んだ8月23日、この境内でひとりの少年兵が自刃した。
白虎足軽隊、古川深松十四歳。
だが、墓碑はないようです。(会津在住の飯盛様から墓碑は飯盛山上にあるとのご指摘を頂きました。)
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甲賀町口門攻防戦で敗退して城下を駆け抜けた白虎士中一番隊や、戸ノ口原で敗れて飯盛山で自刃者を出した士中二番隊は上級藩士の子弟たちである。十六橋をあっさり突破された八月二十三日に慌てて前線に駆り出されるまでは滝沢本陣で容保公の周辺を固める近衛兵の位置づけが強かった。
だが彼ら上士の子弟以外に、およそ二か月に渡って越後戦線から若松城外で戦い抜いた筋金入りの最強少年戦闘集団、白虎寄合隊(中士、現在執筆中)と、殆ど無名で資料が少ない白虎足軽隊、そして入隊できなかった十四歳以下の少年兵たちがいるのだ。
イヤな言い方をすれば彼らは端っから戦闘員扱い、使い捨ての一般兵士だったのだ。入城するに及ばず、城外で敵を食い止め糧食の補給路を確保するよう過酷な命を受けていたのだろう。上士の子弟は若松城内での戦死者が多く、寄合や足軽は城外での戦死者が圧倒的に多いのである。

以前、白虎隊最初の戦死者は足軽隊の森という少年兵で、二人めから四人めの戦死者は寄合隊から出たのを書いた。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-06-18
森は戦死者だが、ここ自在院でひとり自刃した古川少年十四歳は最初の自刃少年兵の可能性が高いのだ。戦死ではなく自刃です。

彼には記録があって、「古川深松ハ足軽白虎隊ニテ、八月二十三日城中ニ馳セ入ラント滝沢町ヨリ博労マチニデレバ、味方ト思シキ人影モナクテ前後コドゴトク敵ナリケレバ、コレマデナリト刀ヲ抜キ、間近ニ打チ向カイタルモ手甲ヲ射ラレテ働キ得ズトテ、自在院ニ馳セ入りテ自刃シタリ」
これは柴五三郎という会津によくある姓の藩士が後年に記載した文書にある。この模様だと、甲賀町他、各口門から侵入した新政府軍に取り囲まれてしまい、少年ひとりで抗せず、かわいそうにこの境内で一人ぼっちで自刃したのではないか。
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年齢は十五歳に足りないが、白虎隊に憧憬を懐いて年齢をゴマカして入隊した少年兵も少なくない。
中村彰彦氏は言う。
『白虎入隊に憧れ、年齢を偽って夢を叶えた。夢の実現が死に直結するとは。。。』
古川少年は隊とはぐれたのか単独行動だったのかはわからない。白虎足軽隊の一員だったのは前述の記録から間違いないが、もしかしたら単なるいち少年兵だったのかも知れない。
おそらく元服前で前髪も落としていなかったと思われる。だがそういう少年兵に対しても、城下に乱入したばかりで殺気立った新政府軍兵士は容赦なかったのだ。

古川少年が自刃したとほぼ同じ頃、すぐ近くを士中一番隊が城内へ還ろうと駆けていた筈である。士中一番隊も自分たちが生還するのがやっとで、自在院境内で自刃したいち足軽少年兵など知る由もなかった。士中、寄合、足軽、この身分差は現代人の我々が考える以上に大きく、お互いの交流は全くなかったのである。

何故、足軽白虎隊は記録が少ないのか。
士中隊、寄合隊と違い、足軽隊は足軽だけで単独の隊を成していないからです。足軽は足軽でしかなく、一個小隊編成でなはく各諸隊に付けられていたのだと思う。
それと穿った見方だが、やはり当時の身分差が150年経った今も影響を残していて、飯盛山をメインに身分の高い上士の子弟に光が当たっているからではないだろうか。
それでも寄合、足軽隊士については近年の研究者の方々が無名の少年兵の名を掘り起し少しずつ世に表れてはいるようです。
私は瞑目した。
後日、調べたり検索したが、古川少年の記録は自在院境内で果てたという事実しか見つからなかった。
自在院2.jpg
境内を歩きながら思うのは、飯盛山で日本人の心に訴えるのはそれはそれで結構だが、彼ら上士子弟以外にも無名で墓碑すらない少年兵の方が多いのではないだろうかと。
無名の少年兵を顕彰すると、飯盛山他に眠る上級藩士子弟の悲劇が霞んでしまうからだろうか。そう勘ぐりたくなる。
(この箇所、私の勘ぐりについては飯盛様からコメントをいただきました。飯盛様のお気持ちを尊重しますが、私と飯盛様との会話に至った部分なので、敢てそのままにしておきます。)

寺の番地は福島県会津若松市相生町2-18です。
今宵は甲賀町の「麦とろ」で飲みながら、旦那さんお婆ちゃんと八重を観た。
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マグロモーニング [グルメ]

朝帰りの交差点です。時刻は6時半。
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昨夜は自費で泊まったんです。これから東京に戻らなきゃ9時までに。余裕で戻れます。早過ぎるくらい。
遅れて出社しようものなら何か勘ぐられるからね。俺を上州に飛ばしておいて、今は会社命令で上州に行け、すぐ戻って来い、経費節減で日帰りが大原則、みたいな空気なんですよ。会社ってそういうところがあります。
昨夜は上州の開発会議みたいなものが開催されたんですが、散会後、私は会社連中を撒きました。連中は1台のくるまで4人相乗りで帰ってましたね。その方が経費節減になるから。でもその4人は都内在住だから相乗りでどっか最寄駅で降ろすんだろうけど、私は神奈川在住なのでいちばん遠いから、「電車の方が楽ですからお気遣い無用に願います」って逃げたのよ。
ヤダよ狭い車内で。上役に迎合したり、おもねるような会話なんかしたくないしね。
21時半頃から2軒ハシゴ。23時過ぎにはホテルで寝ました。そしたら朝5時に起きちゃったんです。寝なおしたら寝過ごすから寝なかった。
6時37分発の新幹線MAXたにがわだったかな。寝不足なので注意力が散漫で、車内窓側座席の上にある荷物置きに思いっきり額をぶつけました。
アタマをぶつけた.jpg
ゴツッって衝撃音がした。
「痛ッ!!」
声が出ました。アタマん中で火花が飛んだよ。前後の乗客は内心、ドジな客だなと思っただろうが、皆、知らん顔してた。2~3日、鈍痛が残ってましたよ。

モーニングを東京駅で喰った。
エキナカのお寿司屋さんです。前のBlog、Ⅰでも載せた「寿司清」の朝限定の定食です。
この店は朝から寿司(お任せではない)が喰えるのと、接客が大変ヨロシイ。
マグロ丼と豚汁定食。800円!!
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鮪丼.jpg
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お店のHPから1.jpg
田舎味噌の豚汁。豚肉もしっかりした大きさ。箸でほぐれるニンジン。
マグロは赤身です。調子に乗ってワサビを多くつけたらツーンときた。
隣席にいた出張族さんが喰ってた鯛の出汁がけ(茶漬け)も美味しそうだった。

マグロモーニング、オマケにこの店を。
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この店は上野駅。上州から高崎線で早帰りした時、上野駅のエキナカのフロア、エキュートにある「まぐろ一代」というスタンド。
この店も前に載せたな。カウンターだけの超狭い店です。まだ営ってたんかいこの店って思った。
店が狭いから当然、カウンター幅も狭く、お盆ギリギリです。カウンターから私の目線で見上げたらこんな感じで圧迫感がある。正面にいる筈の板前さんは上から客を見下ろすような感じで立っている。定食も上から下に降ろすんです。
目線の先には、「本日、大とろ入荷少量のため、セット販売のみとなります」という白けるような貼り紙がいつ来ても貼ってある。
いつも入荷少量.jpg
私は大とろなんか一つあればいいと思ってるからいいけど、この店はいつ来ても大とろが品薄だなって思うんだよ。大トロ単品だと出る数量が読めないから、セット販売のみで数量を設定して、こういう変な文句を謳ってやがるんだなって勘ぐった。
前述の「寿司清」の朝定と比べてどうか。
正直、イマイチです。安いんだけど。
焼き魚定食のシャケがショボい。なんなんだいこの細く痩せた鮭は。
鮪納豆定食のマグロは全く旨味がなく醤油の味しかしなかった。
痩せたシャケ.jpg
飯は大盛りだよ.jpg
ご飯(写真は大盛り、50円増し)は固めで私の好みだが、これは寿司飯になるから固めなんでしょうね。いただけないのは味噌汁の具が海苔だけ。
お茶は茶葉から入れていないです。不自然で人工的な緑色。
まさか自動給茶器ってこたぁないだろうけどね。粉茶をお湯で溶いただけだな。こういうコストの下げ方はどうだろ。よく営っていけるな。
安いし。お腹は満足したけどね。
しょぼいマグロ.jpg480円.jpg
8時に出社した。
こんな時間に既に来てたヤツがいる。ジャン妻の上司さんです。ニヤニヤ笑いながら、
「昨夜は飲まれたんですか?」
私は人差し指を唇に当てた。
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ダブル出張が続く [居酒屋]

かつては私の部下だった女性社員(雪子)とのダブル出張が続いた。

同じホテルなんですよ。
しかも、部屋が同じ階で、廊下を隔てて向かい合ってた。
「お向かいさんですね。じゃぁ」
雪子は部屋に入ってった。私は内心、やや憮然とした。
俺は安全パイかよ。ちったぁ警戒しろっての。
駅前交差点.jpg
現在の上州との関わり方ですが、
①私が昨年1年いた大好きな職場と子供たち。
②雪子の関わる新しい現場。①とはエリアが全く違います。
③私が関わりつつあるこれまた別の新しい現場。

私は③と①の兼務で来ている。
当初、「アイツは第一印象が悪いから③には一人で行かせないように」という変な暗黙のお達しがあった。単独では出入り禁止だったのである。
だが、提出期限が迫った。社長に直談判した。
「もう時間ないから一人で行きますよ」
「・・・ええっと。そうですか。そうですねもう行かないと間に合いませんね。□□さん(私の上役で③のあやふやな責任者)、○○さん(私のこと)が③に行くから、事前にこういう人が行くからって一報入れといてください」
何だそれは。
こういう人とはどんな人なんだ。
上役は③の現場責任者に連絡入れようとしたら、傍らにいた別の上役がニヤニヤしながら、
「○○さん(私のこと)ってのは一見、〇〇ザみたいだけど実はそんなことないから安心って言った方がいいですよ」
笑えないこの模様は事実です。私が如何にアブなく見られてるかってのがおわかりでしょう。恥ずかしいったらありゃしない。
そこまで上役に気を遣わせてるんか俺は。見ためなんてこのトシでそうそう直しようがないさ。
「そうさせてるアナタの不徳だよ」(ジャン妻)
「・・・」
「アタシも③に行くけど。アタシが同行してあげようか」(ジャン妻)
「いい、時間が合わないから」
自己弁護ですが、1度、接点を持ってしまえば、掌握するヘンな自信はありますっ。

今回は2泊した。
先方の行政担当者が翌日の11時までしかいないので時間が限定されたからです。横浜から上州某所に11時に行くのは不可能ではないが、その前に現地で取り揃えなきゃならないのがあって前夜入りする許可を貰った。そしたら雪子とかち合った。
当然、「じゃぁ晩飯でも」って流れになるじゃないか。

NANA.jpg
イワシフライ.jpg
辛ネギ味噌炒め.jpg
傍らには雪子がいる。
リーダーになったばかりなので交渉、調整、何か不測の事態への応用対処、タイヘンだと。そういうのは全部経験するしかないのだが、いろいろ吐き出させたり、アドバイスしたり。
抜擢されたことで周囲や先輩への気遣いとか、気ぃ遣うんだと。
明るく笑いながらも、時折ため息ついてた。

22時には出ました。
マスターに「これからまたどっか行くんですか。幸盛(深夜そば)とか」って言われたが、「いやいや。明日は11時までって時間指定されてるので今夜はこれで・・・」
ホテルに戻りました。そして冒頭の苦々しい場面へ。

翌日、今回の③への出張は、たまたま③に知り合いがいた①の女性社員で私のシンパが内々に私の援護射撃してくれたので、先方から変な警戒されずスムーズにいきました。

2泊めの夜。
別件で出張してきたジャン妻と合流しました。前夜、私はシングルだったのだが(これは会社清算します)、今夜は自費でツインに変更。帰ろうと思えば帰れたので。
部屋の階が変わった。雪子と真向いの部屋だったって白状したら、
「プププププッ(笑)」
「・・・」
亭主モテずと言わんばかりであった。

その夜は3人で。
2軒いきました。
新サンマ刺身.jpg
山芋磯辺揚げ.jpg
牛煮.jpg

ジャン妻はうさ子とは上州を去って以来の再会です。
うさ子が「痩せましたねぇ~」なんて言うもんだから。ジャン妻は感激してた。
私は、「うさ子さん、ウソを言うてはいかん」と毒づいた。
処理済~うさ子1.jpgうさ子2.jpg
ストリート1.jpg
ストリート2.jpg
翌朝は6時に起きて9時までに東京に出社しました。朝帰りですね。
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おおぎや [ラーメン]

これはお蔵入りしかけてた昨年のものです。
おおぎや1号店.jpg
昨年の1年を振り返ってみると、どうも上州にはご当地発祥ラーメンというのが無さそうだなと思った。
藤岡市には藤岡ラーメンがあって市内にラーメン屋がたくさんあるが、手打ち麺と鶏ガラ豚骨ベースのあっさり醤油味が共通だが、ここ上州というインパクトは弱く、統一された内容ではないようです。
佐野ラーメンっぽいのは何回か喰ったことがあるが、それはお隣の栃木県からの流れだろうし。。。
そしたら、新島襄さんの実家があった安中市に、上州のご当地ラーメンがあると聞いた。
個人商店ではなく創業40年のおおおぎやラーメンです。現在、株式会社おおぎやフーズで展開してるラーメン店。
ロードサイドにあるファミレスっぽい。それでも関東や信越エリアに展開する店舗数は60店舗に届く勢い。
だが、東京にはない。

このファミレスみたいなおおぎやが上州ご当地ラーメン?
ちょっと疑問符がつくが、第1号店が上州安中市店なんだそうです。安中城を分断した国道18号沿いにある。
メニューを見てみる。
定番はいきなり味噌ラーメンなんです。味噌コーン、味噌バターコーンと出て来る。
次に辛味噌、ネギ味噌、ネギ味噌バターコーン、そしてスタミナ(黄身が載っている)
味噌を喰えと言わんばかりである。塩や醤油もあるが、何だか肩身が狭そうに見える。
みそ.jpg
辛みそ.jpg
塩.jpg
醤油1.jpg
醤油2.jpg
こんなのもある。
あさり.jpg
上州でアサリねぇ。東京の深川ならちょっとした名物になって値段も張るでしょうねぇ。

問題は次。
これを見たらあの方がブチキレるは必定である。
ぶっかけ納豆.jpg
このぶっかけの写真データだけなかなかアップロードできず相当な時間を要した。もしかして納豆の天敵たるその方が、こんなのを載せるなぁぁぁぁぁっ!!という強い意志、フォースかと思ったですよ。

おおぎやはネギもアピールしているが。
『ネギの効能!ネギに含まれる硫化アリンが食欲を増進させるので、風邪の引き始めなど、体力をつけたい時に最適!またセレンの抗酸化作用で、老化防止、生活習慣病の予防にも効果的!』
ネギを殊更にアピールしたところで、この程度の知識は私にだってありますよ。私自身が長ネギ大好きだからね。ネギを摂取すると風邪を引き難いんです。
何だかアヤしげな雰囲気がプンプンしてきたな。
ネギの効能.jpg

私の経験上、味噌ラーメンがメインな店は危険が伴う。
濃い、しょっぱい、バターやもやしで甘さを加えてごまかさざるを得ない、店を出てしばらくしたら水が欲しくなるというもの。
おおぎやはもとは味噌ラーメンの専門店だったのかも知れないが、味噌こそお客様支持率ナンバーワンと謳っている。実際、そうなんです。店内では味噌がバンバン出る。醤油や塩はあまり出てなかった。
私も無難に味噌ネギ。保険の意味でバターを載せた。
味噌ネギバター.jpg
結果、どーだったか。
濃いです。
一口すすって、こりゃぁ濃いなぁって思った。
濃そうなスープ.jpg
ここで店内を見回したら、店内の客層はお年寄りがかなり多く、爺さん婆さん家族連れが味噌ラーメンをアタリマエのように平然とズルズル喰っていた。大丈夫かよこんなに濃いのを摂取して。

おおぎやには厳しい口コミも多く、まぁここまで酷いこと書いて大丈夫かよってくらいのコメも散見される。一つだけ紹介すると、「首都圏では絶対に通用しない」とかね。
私はそこまで言わないが、イカンせんスープがぬるい!!
最後までバターが溶けんかった。これは改善してほしいものです。
溶けなかったバター.jpg処理済~いつも満車.jpg
結局、これ1回きりで二度と行かなかった。
おおぎやの支店に行ったことがある地元社員に訊いたら、
「子供が好きな味ですよ」とのことであった。
それにしては妙にお年寄りが多かったな。
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箕輪城 [隠れ郷土史]

箕輪城の大空壕.jpg
この巨城を訪れたのは2月初旬です。
あと2か月で東京に戻される、それまでに見に行かないと・・・かなり焦って見にいった。
行ってみたら重機が出入りしてまさか造成地にするのかと思ったらそうではなく単に公園化整備の為だった。樹木を伐採して見やすくなっていた。
重機の大きさと空壕の大きさを比較してみて下さい。
重機と比較してみてください.jpg
この後も載せますが、如何に巨大な箱堀かがわかるでしょう。人力で掘った当時は相当な労力だったと想像できる。

現在はどうなってるんだろう。
工事看板には平成25年2月28日までとなっていたが、市のHP関連にはこんな見出しがあった。
戦国時代の城門復元で最大級にという仰々しい見出しで、『高崎市教育委員会は、国指定史跡箕輪城の城門を井伊直政が城主をつとめた戦国時代末期の姿に復元する計画を5日に発表した。』
井伊直政??
赤備えか。別に嫌いじゃないけど、讃えるべきは長野業正ではないのか。

どんな門を復元するのか。
『郭馬出西虎口門は幅5・7m、高さ6・3mの2階建て櫓門(やぐらもん)。戦国時代の関東地方の城郭として規模が確認されているものでは最大級。南側から登城する3本の道がこの門に集約されるため防御上極めて重要だった。徳川家康の家臣として最も石高の高い12万石の領地を与えられた井伊直政の城にふさわしい荘厳な城門となっている。』
また井伊直政かい。家康の関東入府の時から8年いたんだったかな。
郭馬出.jpg
その先は略すが、気にとまった箇所がこれ。
『国指定史跡における建造物の復元は根拠が明らかになっていないと文化庁の許可がおりず、現存する文献が少ない戦国時代の城郭では復元が難しいという。門の礎石が全て残っていたため、全国の現存する城門や城絵図面を分析し上部構造を考証した。今回の復元は、国史跡の戦国時代の城門として6例目、「郭馬出西虎口門」は、その中で最大級の。。。』
何かしっかりした根拠がないと認められないんですね。
http://www.takasakiweb.jp/news/article/2013/06/1101.html

百名城の一つです。
榛名山麓のやや斜めになった台地上にある。たまたま工事中だったので大手からではなく搦手から上がったのだが結果、いいコースを歩けた。
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城内のあちこちで工事をしている。
郭を見下ろす.jpg
一見、道路から見るとそれほど要害堅固には見えないが、自然地形に大規模普請を加えている。見学できる城域だけでも広い。
箕輪城碑.jpg
本郭2.jpg
本郭1.jpg
土居が伸びる2.jpg
土居が伸びる5.jpg
空壕に降りてみると工事普請の凄さがわかる。深さ5~6mほどか。
業正の工事ではなく、井伊直政の大改修かも知れない。
ではその空壕に下りて歩いてみましょう。
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井伊直政もいいが、ここには上州一揆衆を束ねた盟主が長野業正がいた。
彼は信玄に勝てずとも負けなかった。撃退数は6回。もっともこの説には異論があって、業正の没年は永禄4年。川中島にケリをつけての上州侵攻がその後だから、信玄と業正の直接対決は無かったんじゃないかという説がある。
その前、弘治3年(1557年)から信玄の西上野侵攻が始まっている説もある。この辺りは私は学者じゃないのでその道の先生方にお任せするが。

前に鷹留城の項でも書いたが、業政には12人の娘がいた。
娘たちの名前は一切、わからないのだが、12人の娘さんを周辺の豪族達に嫁がせ、ホントかどうか数えたことがないが300近くある支城、砦、烽火台を繋いで防衛ラインを繋いだ。
その中には数十人規模の守備兵程度の小塞もあったが、要の婿たち12人は。。。
長女、小幡城主小幡信貞室
次女、国峰城主小幡景定室
三女、忍城主成田室
四女、山名城主木部定朝室
五女、大戸城主大戸左近兵衛室
六女、和田城主和田業繁室
七女、倉賀野城主金井秀景室
八女、羽尾城主羽尾修理亮室
九女、浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室
十女、厩橋城主・長野氏室
十一女、板鼻鷹巣城主・依田氏室
十二女、室田鷹留城主・長野業固室

この娘婿たち十二城のうち、私が訪城したのは長女、次女、四女、六女、十女、十一女、十二女、半分だけだったのが心残りだった。婿たちの要の城塞、例えば十一女の婿である鷹巣城や十二女の婿の鷹留城の防衛ラインには、安中、後閑、里見、雉ヶ尾、ローズベイカントリークラブゴルフ場にある蔵人といった中塞、小塞のネットワークが構成されていた。

野戦になると婿たちや他の国人衆を糾合して大軍を編成する。だが業正は上州衆から選ばれた盟主であって主君と主従ではない。連合軍なので各将の足並みが揃わず、野戦では甲州軍に打ち負かされるが、撤退戦や奇襲で甲州軍にジャブのようにダメージを与え、最終的にはここ箕輪城の防衛戦で受け、結果、上州制覇を諦めさせるのを繰り返す。
勝てなかったが負けなかったのである。
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三の丸石垣1.jpg
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亡くなる前、嫡男の業盛を呼び寄せ、凄まじい遺言を残した。
「小さい墓でいい。法要は要らんから敵の首を墓前に持って来い。敵に降伏するな。運が尽きたなら討死しろ。それが俺への孝養。これに過ぎたるもの無し」
業盛は「死ね」と言われたに等しい。

業正が没して信玄は喜んだ。
永禄四(1561)年、次女の嫁いだ国峰城を攻略。
永禄六(1563)年、六女の婿、和田城主の和田業繁が武田に寝返った。
永禄七(1564)年、松井田城と安中城が陥落。
永禄八(1565)年、七女の嫁いだ倉賀野城が陥落。
永禄九(1566)年、に十一女の嫁いだ鷹巣城&十二女が嫁いだ鷹留城ラインと箕輪城が分断され、鷹留城陥落。

両軍主力は9月28日に若田ヶ原という場所で激戦となった。若田ヶ原はJR群馬八幡駅の北、若田町で、里見橋台2号がある八幡霊園の辺りです。
29日に箕輪城は落城する。業盛は遺言通り自刃した。

その後は内藤昌豊、内藤昌武(昌月?)、北条氏邦、滝川一益、再び北条氏邦と内藤昌武と城主、城代がコロッコロ変わり、赤備えの井伊直政が最後の城主になる。
直政は後年、和田城(高崎)に移転するので、箕輪城下と高崎市街地には同名のバス停が幾つかある。本町、田町、連雀町です。箕輪城下では本町と田町は箕郷本町、箕郷田町になっている。
石垣1.jpg
石垣2.jpg
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大堀切1.jpg
大堀切2.jpg
大堀切と土橋.jpg
この箕輪城を見た翌日に伊香保のぴのんに行ったのだが、バスで再度この城山を望見した。
箕輪城に行く人が一人いて、バスの運ちゃんに「このバス、箕輪城に行く?」って訊いてた。運ちゃんは帰りの便も含めて丁寧に教えてた。
「箕輪城行きますよ。箕郷営業所で乗り換えないと。近くなったらまた案内します」
箕郷営業所バスロータリーまで来たら、「もう乗り換え出ちゃったですね。次が30分後に出るよりこのまま城山入口までいきますか。そこから歩いて30分くらいですから」と相成った。
城山入口に向かって走る運ちゃんは、箕輪城から市内に戻るバスの便をマイクに通してその客に丁寧に説明してたが、説明熱心が昂じて降ろす予定だった城山入口バス停をうっかり通過してしまったのだ。
「ああっすみませんここです。ここから歩いて300mぐらいです」
途中で降ろしちゃった。そのお客は箕輪城に向かってった。歩いて300mぐらい先に搦手口がある。
一連のTALKは車内アナウンスで丸聞こえで流れたので、1人を除いた乗客全員に箕輪城の名前が刻まれた筈。
その1人とは誰か。
ジャン妻です。
ZZZ。。。寝てたんですよ。
激戦だった辺り.jpg
業正は単純に上州が好きだったんだと思う。「荒らすんじゃねぇ」がホンネだったのではないだろうか。外へは攻めに出ない、侵略されたら戦うのが信条だったのだ。

2013年12月4日加筆添付。
ジャン実家にあった1969年発汗図書にあった当時の箕輪城の古写真です。
箕輪城古写真1.jpg
箕輪城古写真2.jpg
箕輪城縄張図.jpg
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未だ見ぬ里見3号(號三第)橋台よ [廃線]

烏川上流に稼働していた里見軌道。
その計画線上にある明治後半に敷設された3つの橋台は高崎市水道局の上水道ラインだったのだが、それと重なり、橋台は軌道未成線では?という夢を見せてくれた。
里見軌道地図.jpg
橋台の正体が判明し、上流の軌道跡も散策し、心置きなく上州を引き上げたのだが、またぞろ私の血を呼び覚ますことが起きた。
前橋在住の方からコメントをいただいたのです。
『はじめまして。前橋市在住の22歳です。私は小学6年生のときにこの橋を発見して以来謎に思っていました。里見軌道や上州電気鉄道の関係か?と夢を抱きつつも時代の違いなど納得できない点が数多くありました。今回このレポを読んで長年の謎が解けました。』
問題はその次です。
『ちなみに2号、5号、6号の橋台の他に3号?が残っていますよ。八幡霊園の谷側の道を5号に向かって見てください。右手にあります。』
というのである。

未だ見ぬ3号(號三第)橋台があるって?
それは捨て置けない。次回の上州訪問時に見に行こうと期するものがあった。
霊園と青空.jpg
八幡霊園の中央管理棟近くの駐車場に停め、段丘の端まで歩いた。途中の区画の路上には駐車禁止だからです。
暑い。。。
既に初夏の陽気になっている。
上州の陽射しは熱い。アスファルトに照り返す。アタマのてっぺんがチリチリする。
霊園の彼方に見える山々は青空に映え、上州に帰って来てる実感を改めて呼び起こした。もう1年だけいたかったっていう思いに行き付いてしまう。今でも。

途中から霊園区画から離れ、そこだけ土の地面になっている広場に降りて行く。

二号(號二第)橋台です。
久々の再会。
(僅か4ヶ月ぶりともいえる。)
木々や草が生い茂り、合間から垣間見える程度。
二号片側1.jpg
二号片側2.jpg
降りてみた。
降りてみた1.jpg
降りてみた2.jpg
降りてみた3.jpg
番号を確認したらやはり二号。三号(號三第)はここから西北、霊園の崖に沿って何処かにある筈。
凄い藪.jpg
だがそこから先は凄い藪で崖下が見えない。
霊園の谷川の道を歩いて時折目を向けても藪だらけで全く目視できない。
ついに行き止まりになった。
行き止まり.jpg
最西北端の区画を通って原っぱに出た。
ヘビとか出てこねぇだろうな。
フェンスが途切れていた。
この先に2.jpg
フェンスが途切れている.jpg
踏み込んでみたいが足元がまったく見えないので自重し、引き上げました。発見できなかったんです。
今回は断念しました。でもせっかくなので、5号(號五第)、6号(號六第)と再会しました。
五号1.jpg
五号2.jpg
六号1.jpg
六号2.jpg
六号3.jpg
上州電気鉄道未成線橋台とも。
上州電気鉄道未成線橋台.jpg
戻ってから地形図を見てみたのだが、右下の四角いのが2号(號二第)橋台です。斜めに通っている水路みたいなのがあるから、3号(號三第)はここを跨いでいるんじゃないだろうか。
推定地.jpg
冬場まで無理ですね。
捲土重来を期して、3号(號三第)橋台よ、いつか会おう。
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部下ノ女性ガ上州酒場ヘ進出ス [居酒屋]

上州へ出張中の雪子という女性から連絡が来た。
「GETU。。。行きました」
「行ったのか」
「ハイ」
「俺は前日に行ったけど。」
「昨夜お見えになったって言ってました。」
「1本飲んですぐ次に行ったんだけどね。ママは何か粗相なかったか?おしぼり出し忘れたとか、お釣りを多めに渡されたとか」
「笑:そ、そんなことなかったですけど」
「お会計が5600円で、1万円札と600円渡したら、5600円釣りが返ってきたことがあるからな。○○(ジャン妻)は、あれでよく10年も商売営ってる。絶対客に助けられてるって」
「笑:次回は是非、ご一緒にって言ってました」

雪子が行った前日、私は一人で行った。
公道に面してない店.jpg
最初はガラ空きだった.jpg
「こっちと東京とどっちがいいですか?」
「こっち決まってる。あっちは人が多いから疲れる」
「こっちは疲れないですか?」
「疲れない。だって人がいないから。新幹線が停まる駅なのに人が少ないからいいの」
「それっていい表現ですね。じゃぁこっちに住んじゃえばいいじゃないですかぁ」
簡単に言うねぇ。
それができるくらいなら。でもそうはいかないよ。
「こっちにマンション買っちゃえばいいじゃないですかぁ。新幹線が停まる駅なのに人がそんなに歩いてないからここっていい街ですよ」
その比喩はたった今、俺が言った台詞じゃないか。
最初の膳.jpg
「ママ、今日何ができる?」
「ええっと、今日はですね。。。生と揚げ物と野菜類とどれがいいですかね?」
「野菜類」
「枝豆ならすぐできますよ」[わーい(嬉しい顔)]
いさきとコチ.jpg
白エビの唐揚げ.jpg
混んできたので出た。
「あらぁもうお帰りですかぁ」
「また来るから」
「きっとですよぉ。来てくださいねぇ」
「来ますよ。あれから今日だって来てるじゃんか。で、お幾らです?」
「あらヤダ」
レジの電源が入ってなかったのである。いそいそとキーを差し込んでた。
ママ.jpg
実はこの店、地元の商工会の記事に掲載されたことがある。
そこにはこうあった。
『お客様がどこのどなたなのか知らないことが多いです。この店では昼間身に着けている鎧を脱いで、お酒とお料理味わい、人と人が触れ合う温かさを感じてほしいです』
微笑ましいですね。お客様が何処の誰か知らないというか、知ろうとしない、知っても忘れるんだと思う。以前、予約した時なんか私の名前と連絡先を訊こうともしなかったし、「聞いても忘れちゃうから。大丈夫ですよいつもお見えになってるから」なんて言ってたし。

NANA.jpg
2軒目です。
マスター太ったなぁ。
ショウさんも言っておられたが復帰してから太った。運動不足なんだと思う。これからは会う度に膨らんでいくのだろうか。

前夜も閉店間際に会うだけ会ったので挨拶だけしている。
「昨夜あの時間でもよかったんですよ」
「そうなの?悪いと思って。幸盛に行ったんだよね」
その幸盛にはNANAのマスターの名刺も貼ってあった。あれはカウンターに座ったお客が名刺に気付けば、この町興しに多少のプラスにはなるだろうか。

これまでで最高に美味しいお通しが出た。
しめ鯖寿司と、ローストビーフ。
過去最高のお通し.jpg
拡大1.jpg
拡大2.jpg
もうこれで満足しちゃいましたね。
次にイワシフライをオーダーしたが、それで充分に。
イワシフライ.jpg
今日のお品書き.jpg
結女.jpg処理済~やや太ったマスター.jpg
後日、この店にも雪子を連れて行った時、「皆さんおひとりで営られているんですね」って感嘆してた。
マスター、少しお痩せなさいね。

Cafeに雪子をお連れした。
うさ子は私と雪子がどういう関係なのか判断に困ったらしい。
「上司と部下なのかなぁ、お供だちなのかなぁって。言っていいのか言わない方がいいのか。。。」
父娘とでも思ったかも知れない。そう聞かれた時の為に私は、「次女だけど嫁に出したら出戻ってきやがったんだ」という悪態セリフを用意していた。
うさぎCafe.jpgうさ子.jpg

この店にもお連れしたが、女性の胃袋はやはり小さいな。写真の料理以外にポテサラを喰ったが、私は喰い足りなかったよ。
くいもの屋.jpg
串焼き.jpg
鯖のソテー.jpg
処理済~雪子(左)と同輩.jpg「サメのフライって何ですか?」
「モウカザメ」
「ホントのサメ?」
「そう。アンモニア臭のないサメ。白身のフライみたいなもんだよ」
雪子は後日、後輩を連れて2人で訪れている。



雪子はジャン妻とこの店にも行ったそうです。
「何だか最初、表から見たら敷居が高くて。。。」
小料理屋みたいに見えるからかと、表にフグ料理なんて謳ってるからね。入ってみれば敷居が高いなんてぜんぜんそんなことないんですけどね。
蒼白い店構え.jpg
また雪子からメールが来て、
「一旦、東京に戻ります。いついつの週また行くんですけど、○○さん(私のこと)いつ行かれます?」
「行くけどまだ上からのOKが出ない。早く行かないと期日までに間に合わないんだよなぁ」と返しました。

雪子と私は業務エリアが異なるが、出張が重なったらメシぐらいは食わせますよ。だけど如何に私が安全パイかってのがよくおわかりでしょう。部下の独身女性に誘われるってのは悪い気分はしないけど、ちったぁ俺を警戒しろよと言いたい気分でもある。

雪子は東京にない上州酒場の健気さに打たれたのかもしれない。
俺のテリトリーが部下にどんどん浸食されていくぞ。。。
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コウモリ [居酒屋]

今宵は飲み足りない。
喰い足りない。
既に2軒、行ったんですがね。女性社員2人連れで。女性同伴だとそっちの胃袋に合せなきゃなんないから。
もう1品喰いたくなったので銀座アーケードを徘徊しています。
徘徊中1.jpg
徘徊中2.jpg
上州での新プロジェクトに、雪子という女性、呟きⅠでよく登場したクールビューティが抜擢された。
雪子は数年前に私が面接、採用したが、採用した後で雪子の冷たい眼差しと冷静な口調に、冷たいヤツ、あの雪女めっ、ヤツを電話に出すなっ、聞いてる耳が凍るっ、とか散々罵ってたら本人に伝わってしまい[あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)]本人から抗議された。それってどういう意味ですかぁと。
どういう意味もなにも。そのまんま言いました。「君は表情とTALKがクールだから」って諭して事なきを得た。
雪子のエラいのはそこから自分を変えたこと。何処に出しても恥ずかしくないノープロブレムな要員に成長したこと。

雪子は上州に頻繁に来ている。でも私が昨年いたエリアからは離れていて、失礼ながら、もっともっと田舎町で活動しています。

今回、別件での私の出張とバッティングした。私の業務内容は1泊2日もない量だが、自費でもう1泊して前日入りしたら重なった。
雪子ともう1人、3人で2軒ハシゴして、2人をホテルに送って、俺はもう1軒行くからと別れた。
小腹が減ったんです。やはり女性の胃袋ってのは私と違って小さい。これだと夜中に腹が減って目が覚めるって思ったのだ。

女性社員同伴だとこっちのペースで飲み喰いできないし仕事のネタになるし。相手の嗜好も配慮しなきゃなんないし。
細身の女性ってのは小食なんだな。

NANA.jpg既にドーミインの夜泣きそば(半ラーメン)は終了している。
さて何処に行こうか。
まだ営ってるかなとNANAの前を通ったらちょうど暖簾が下がる頃で、最近やけに太ったマスターが出て来て挨拶した。
翌日に行ったら、昨夜、あの時間帯でもよかったんですよなんて言ってくれた。
ははぁん、売上が少なかったんだろって思った。


23時を回った。
飲み直すのは諦め、中央銀座アーケードでラーメンを喰うかと思い足を運んだ。
番地は高崎市寄合町です。
寄合ってのがいいね。上士でもない。中士が住んでたのかも知れない。

そこは深夜ラーメンが私の知る限り3軒ある。
1軒は先日載せました。トッピングに納豆があるラーメン屋さん。
取材がてらその納豆ラーメンにTRYしようかとも思ったが、ヒロさんの怒りを恐れたのでやめた。
前にいった.jpgこの店も気になるのだが.jpg
田じま食堂や梅ふくはもう閉まっている。
梅ふくはマスターがすぐ酔っ払っちゃうし、瓶ビール、日本酒、焼酎しかなく、若い女性が好むカタカナのドリンクがないから連れて行かないことにしてる。
オバちゃん元気かな.jpg梅ふく.jpg
ラーメン止めて蕎麦にしました。これも前に一度、載せましたね。幸盛(コウモリ)です。
21時から3時(一説には5時)まで営ってる驚嘆すべき手打ち蕎麦屋さん。
幸盛.jpg
暖簾.jpg
お品書き(蕎麦).jpg
名刺の数々.jpg
処理済~厨房.jpg深夜営業だから酔っ払いもいる。
オーナーは若いのにエラいところがあり、酔っ払いに迷惑顔すら見せず、相手をしながら手を動かしている。

出た来た蕎麦は10割蕎麦で、酔っ払いには量味ともちょうどいい。この時間帯にそばが喰えることの素晴らしさとお店のスタイルに驚嘆する。
酔っ払った後に喰うには勿体無いくらい。


10割蕎麦.jpg
蕎麦をたぐる.jpg
蕎麦茶と磯自慢.jpg

後日、雪子が、
「アタシたちと2軒、行ってホテルに送ってくれた後で、もう1軒行くからってどっかいっちゃったんですよ」
ジャン妻に告げ口・・・というか報告した。
「3軒行ったの?何処?」(ジャン妻)
ジャン妻は2軒ハシゴの〆にラーメンでも食いに行ったのかそんな体に悪いものをというやや険しい表情だった。
「3軒めは幸盛だよっ」
「ああ、あの店」
ジャン妻も一度、行っています。細麺(蕎麦)の舞鶴より好きだって。
告げ口した雪子が私に、「あの後もう一軒、何処に行ったんですか?」
何か妖しげでアブない店に行ったのかと疑ったようだが。どうして女性ってのは疑り深いのかね。「深夜3時まで営ってる蕎麦屋があるのさ」って言ったら驚いてましたね。そんなお蕎麦屋さんがあるんですかぁと。あるんですよ。
徘徊中3.jpg
雪子を連れて中央銀座アーケードを歩いたら、○クザとその情婦かって目でジロジロ見られるだろう。
女性1人で行くのはちょっとアブない雰囲気ですがね。
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今年も。。。 [風景]

今年も上州に暑い夏がやってきた。
田園風景1.jpg
田園風景2.jpg
田園風景と妙義1.jpg
田園風景と妙義2.jpg
田んぼに逆さ妙義.jpg
NHKの気象情報を観てたら、
「目が上の方向いてるよ」(ジャン妻)
私は神奈川県ではなく群馬県を見ていた。毎日毎日、前橋で、館林で、高崎で、37℃38℃39℃。。。
平熱体温を超えてるじゃないか。
もう日本は亜熱帯といっていいかも。
皆さんもご自愛ください。
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紀尾井 [居酒屋]

アヤしい入口.jpg
紀尾井のマスターがツイッターでボヤく。
『お客様の来店を拒むかのように店前の樹木が勢い良く生い茂り入口を隠してしまった。これはもう隠れ家的などではなく廃屋の様相。店内では何でご新規のお客様が増えないのだろう?と首をひねる毎日・・・』
確かに。ここまで来ると隠れ家といった妖しい趣を超えている。ウルトラセブンのワイアール星人の胎内に店の入り口があるみたい。

静岡駅前から乗ったタクシーの運ちゃんは、
「宮ヶ崎のキオイぃ?そんな店知らねぇなぁ。。。」
またかよ。。。
静岡の紀尾井って言ってすぐにわかったタクシー運転手は過去に1名しかいない。初めての人はまずたどりつけないだろう。私は説明した。
「赤い鳥居のある一方通行の商店街を反対側から入るんです」
何とか通じた。「う~ん、じゃぁ行ってみっか。商店街に面してるの?」
「いや、商店街から一本入った路地です」
迂回して、宮ヶ崎町の浅間通りを戻るように走り、1つめの路地にある。
電気がついてない.jpg
運ちゃんは怪訝そうである。
「ああここかぁ。うん?店の電気点いてないじゃん」
「・・・」
私もおや?って思った。
タクシーの運ちゃんは、「暖簾も出てないし。これで営ってんの?」と笑ってる。どうする?駅に戻る?という表情にも見えた。
暖簾は出てないし、店に樹木が張り付くように生い茂り、入口を隠すどころか電飾看板まで隠している。
暖簾が出ていない.jpg
でも店内には灯が点いていた。
中からお客さんの声も聞こえる。
店の中には電気が点いている.jpg
タクシーは去っていった。一抹の不安がアタマをよぎった。
「営ってるんだよな?」
「行くって言ったもん」
まさか昼から貸切ってこたぁないよな。今日の紀尾井は昼飲み営業の日なんです。紀尾井にはイベントがあって、木曜が「肉肉肉祭りの日」、土曜か日曜か祭日が「昼飲み営業の日」です。12時から夜まで通し営業します。
ジャン妻は昼飲みに行きたがてった。バカモノめ。昼飲みは酔いが回るし。中途半端に寝て夕方か早い時間の夜に目覚めたらアタマが痛いに決まってる。昼飲みは諦めさせて今の時間は19時を回ったとこ。
暖簾は出てないけどガラガラって引き戸を開けたら店は開いていて、何と小上がり満席、カウンターにも先客さんが3人もいた。マスターとカウンター常連客さんのお気遣いで隅に座りました。

紀尾井の昼飲みナアウンスはこうある。
『え~本日も昼呑み紀尾井12時より開店します。夜中まで休まず営業します。たっぷり呑めます酔わせます。ラーメンもございますのでお気軽に。ビーフカレーだけ品切れですスミマセン。途中で寝ていたら起こして下さい。すぐに目覚めて働きます』
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ネタ2.jpg
昼呑み営業日なので、まっこと失礼ながらこの店にしてはんでいる。
後から来店したグループ客のお客さんを満席なのでお断りしている。信じられない光景である。
お通し.jpg
「ええっと今日できますものは。。。」
紀尾井は素材さえあれば何でもできるのだが、いつも決まっている。
「カ、カ、カでいきます」
「ハイ、カ、カ、カですね」この暗号の意味は。。。

カルパッチョ!!
カルパッチョ.jpg
ベロ~ン.jpg
ビロ~ン.jpg

カニサラダ!!
カニサラダハーフ.jpg

カニクリームコロッケ!!
カニコロ1.jpg
カニコロ断面.jpg
先日載せた函南のKIYA、丹那クリームコロッケも美味しいが、やはり紀尾井に軍配が挙がりますな。

フライをオーダーした。でもメインはタルタルソースです。フライは付け合せ、脇役になるくらいにこの店のタルタスソースは何処にもない絶品の味である。冬場のカキフライなんかもうタマラン。
「タルタルは丼でいきますか?フライはちょっとだけにして」
ジャン妻が横目で睨んだ。
フライとタルタル.jpg
フライUp.jpg
タルタル大盛り.jpg
タルタル完食.jpg
フライを平らげた後もタルタルは突出しのように口に運び、完食!!
ここに来ればこれが食える、という武器がある店は強いものなのだ。
「タルタルお代わりいきますか?」
またジャン妻が私を睨んだ。
白ワイン.jpg
ジャン妻の広い背中.jpgマスターの広い背中.jpg
私はこの店の肉祭りに一度来たいのだが、肉祭りは平日木曜なので実現していない。
その肉祭りのアナウンスはこんな感じ。
『え~木曜恒例の肉、肉、祭り開催中。牛レバー、牛ハツ、ローストビーフ、ローストポーク、ポークソテー、豚角煮、ハンバーグ、チキン南蛮、手羽元の唐揚げ、牛バラ肉煮込、ササミの変わり揚げ、牛肉西京焼き、豚の味噌漬け、油淋鷄、スモークチキンなどをご用意しました。お待ちしております。』
 ↑ これは過去の広告をまとめて編集したので、種類が物凄く多くなっています。
『他には鮪漬け、鯵南蛮漬け、帆立のマリネー、カニクリームコロッケ、カニサラダ、鮭西京焼き、シーザーサラダ。。。』
「野菜は体にいいから」という理由で少ないようです。
鍋はありません。出す側としては楽だが、ツマンナイからだと思う。
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パスタ.jpg
炒飯とスープ.jpg
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うさ2.jpgうさ3.jpg
うさ4.jpgうさ5.jpg
「何で昼呑み営業を始めたんです?売上あげる為?」
マスターは当然ですと言わんばかりであった。底辺を拡大して底上げしたというわけか。

だが、昼呑み~夜までの通し営業は酔っ払い客には嬉しいだろうが、マスターの体は大丈夫なのだろうか。
ネコ(うさ)に添い寝するつもりがそのまま爆睡してしまったり。椅子で寝落ちしてそのまま朝まで寝てたり。。。
『嫌な夢をみた。不始末をやらかし生きている訳にいかず、嫌々ながらも木綿の単衣一枚きりで冬の海に沈んいくのだが、何故か海亀に変身して長寿を得るも人間に捕まり不自由な日々を過ごす。多分そんな夢だった。疲れているのか?』
うん。お疲れなんだと思う。
TVを見上げる.jpg処理済~マスターもちょっと一服.jpg
「明日のNHKは泣いちゃうかもなぁ」
二本松少年隊だったのです。泣いたら仕事にならないのでは。
「マスターは会津派なの?」
「静岡は天領ですから。」[わーい(嬉しい顔)]
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静岡は天領です。
暖かい、米が美味い、とかの理由で、家康は駿府に隠居したんだから。
静岡駅前にあった竹千代の像。
「タヌキおやじも子供の頃はこんなに可愛かったんだねぇ」(ジャン妻)
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