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赤穂藩逐電家老 大野九郎兵衛伝説 [隠れ郷土史]

今回は、私が上州滞在1年で知った伝説を掲載します。

殿様の名前につく○○守というのがありますよね。
会津中将松平容保公は肥後にいなかったのに肥後守。勝海舟だったら勝安房守。一つの国の守を、複数の殿様が持っていた時代に、上州上野、常陸、上総は守がない。この三国には介がつく。
これは律令国の等級区分で上野、常陸、上総の三国は、皇族が国司となる親王任国という指定だった為。

この制度を知ってか知らずか、織田信長は岐阜にいる頃は織田上野守と名乗っていたが、ちゃんと叙任されたのかどうか疑わしい。おそらくは私称でしょう。
常陸介で有名人は家康の十男、頼宣ぐらいしか知らないが、上野介はいるいる有名人が。
悪役、吉良義央。。。

上野、常陸、下総の中で、上野は最上階の大国だったのだが、その上野には吉良家の領地が3か所あった。藤岡市白石、碓氷郡(安中市)松井田町人見、同じく下野谷の3か所。
高家筆頭の吉良義央が上野介に叙任したのはこの地を領していたからだと思う。その地とまったく無関係なのに現地の名が付く適当な(失礼)叙任より、上野介はそこに領地を持っていた。
これはその一つ、下野谷辺りの夕陽です。
下野谷の風景.jpg
吉良の領地はいずれも飛び地で上野介自ら赴任してたわけではない。それでも藤岡市白石には陣屋があって、吉良家の家臣の誰かが赴任して治めていた。
吉良上野介館跡.jpg吉良家のあったところ.jpg
この陣屋は偶然、見つけたのだが、上野介産湯の井戸と陣屋跡の表示がある。
吉良義央はここで生まれたらしく、ここからもう二~三か所の飛び地、松井田町人見や下野谷も現代なら遠くないし、当時でも途中で一泊する距離でもないので、おそらくはここ白石の代官が治めていたと思われる。
吉良上野介産湯.jpgここで産まれた.jpg
前に載せた磯部温泉の温泉マーク、日本最古の温泉マークは、人見村か下野谷の土地境界訴訟事に添付された地図に載っていたもの。この係争に吉良家の領地が関わっていた可能性は高い。
日本初の温泉マーク.jpg
他にも碓氷川から水を引く治水工事の際、水路が人見村の吉良家の領地を通るのに吉良家が難色を示した話を聞いた。
地元は上野介を殊更悪くいってないが、キャラ的に我が強かったと推測されても仕方がない。学研の資料にはハッキリ、治水工事に上野介が難癖をつけたと言い切っている。

この治水工事の相談に、ある赤穂藩士が関わったという。
大野九郎兵衛知房という人。

知らない人はまずいないのではないか。あの逐電家老です。そんな有名人がこの吉良陣屋から近く、吉良家の飛び地の領地、松井田町人見や下野谷近くの磯部温泉マークのある磯部村に潜伏していた伝説がある。

赤穂藩の経済官僚だった大野九郎兵衛の事績や、赤穂藩改易時のドタバタは割愛するが、逐電家老の汚名をきてこの磯部村に潜伏したという伝説の真意を1年間探ったのだが裏付けは取れなかった。
集めたものや伝承のみ掲載します。

九郎兵衛は林遊謙と改名してこの地にいた。
一つの村を、大名旗本6人が分割して知行するややっこしい行政下だったのだが、その6人の一人が吉良家だったので、ここに九郎兵衛の赤穂浪士二番隊説が出て来る。
それは江戸で浪士が吉良邸討ち入りに失敗したら、上野介は江戸にいられず、実子の弾正綱憲の上杉家からも見放され、おそらく生まれ故郷の上州白石陣屋に逃れて来るだろうと。江戸から離れれば隙も出よう。そこを狙おうというものだった。

九郎兵衛=林遊謙は素性を隠し、自身の草庵(もしくは何処かの寺)に住んで近隣の子供に手習いを教え、井戸を掘ったり、前述の治水工事の際に村人の相談相手になったりして村人に慕われていた。静かに暮らしながらここ磯部や藤岡白石に逃れてくるかもしれない上野介の動静を探っていた。

では何故、林遊謙が大野九郎兵衛とバレたのだろうか。
吉良邸討入大願成就の報が中山道を通して伝わってきた。それを知った日、九郎兵衛は雨戸を閉ざし、興味に惹かれる里人の前に終日、姿を見せず引き籠っていた。
後年、亡くなった時、大石内蔵助からの手紙が見つかった。他にもあって、確認できなかったが、神明神社に九郎兵衛=林遊謙が建てた燈籠があるとか、手習い本が現存するとか。また、潜伏、襲撃に必要な埋蔵金の噂もあるそうです。
九郎兵衛さんと伝わる碑.jpg
九郎兵衛がいた寺は廃寺になって、彼の墓はこの寺、松岸寺に移された。
写真左にある丸みを帯びたのがそう。(奥にある廟は、佐々木三郎盛綱という鎌倉御家人夫婦の墓)
説明版は全くない。だがオカシイのは、九郎兵衛=林遊謙のこの墓碑には、「慈望遊議居士寛延四年九月二十四日」とある。
寛延四年は1751年。将軍は徳川吉宗です。吉良邸討入が元禄15年(1703年)だから、50年弱も生きたことになってしまう。
これは墓ではなく、顕彰碑の類という説もある。
松岸寺1.jpg
(大野九郎兵衛=遊謙の墓碑は松岸寺だけではなく、同じく磯部村の普門寺にもある。
だがそこは同じような墓石がたくさんあってどれだかわからなかった。)
普門寺.jpg
私が小学生に「お坊さん!!」呼ばわりされた安中小学校近くの図書館で碓氷群史を漁っていたら、
「磯部村大字東上磯部に松岸寺といふ寺がある。この境内に大野九郎兵衛の墓だといふ・・・」
「上野介がこの領地に逃れて来たらば之を討取り、亡君の仇を報ひんと・・・」
「義士の快挙がだんだん世間に擴まり賞めたたへるものが多くなっても、遊謙は更に之に耳を貸さないで、何か自ら決する處があったと見え、忽然と何れかへ姿を隠し、遂に行衛を知るものが絶えてなかったと・・・」
「九郎兵衛の浜の真偽に就いては確かに信憑とすべきものがないので・・・(省略)・・・墓石を九太夫様の墓なりと口碑に傳えて疑はないのは、大野九郎兵衛に長者としての徳、畏敬すべき温厚の風格があったに相違なく、必ずしも演劇に見る九太夫の様に唾棄すべき人格者ではなかったことが想像するに難くない」

上州滞在中、この松岸寺を3回ほど訪れた。だが、ご住職はおろか、家人にすら出逢えなかった。
裏付けを取れないまま上州を去ることに相成ったので、伝承のみ記載した次第です。

上州は潜伏し易いのかな。淀君が生きていた?伝説(http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15)もあるし。

赤穂浪士伝説の続きがもう一譚あります。これです。
四十七士石像3.jpg
九郎兵衛が隠れ住んでいた磯部村から北にある。(続く)
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ナンバープレート取替顛末記 [コラム雑記帳]

これは向こうに住んでた頃のネタ。
社員が個人で所有するくるまを会社名義に変更しなきゃなんなくなったのです。
面倒な仕事だな。そんなの本人にやらせりゃいいじゃんって思ったが、
「そういう仕事って勉強になるよ」(ジャン妻)
何からどうやればいいのかネットで検索したら、まず車庫証明が必要だと。会社の何処かの支店の駐車所でとることになり、警察署に出向いた。

警察署の受付は、若くて子供みたいな婦人警官さんだったが、無表情で色気がなく、クールに事務的に淡々と受理された。
「証明が出るのは翌週の何時以降になります」
最初から最後まで人形みたいに無表情なので、こっちはハラん中で「この○スめ」って悪態ついて帰途に着いた途中、車庫証明に指定した支店のNという真面目社員(過去に登場してます。私の勘違いの懐妊騒動で眦が吊り上った人 http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-18)から電話がかかってきて、
「○○さん(私のこと)宛に警察から電話がありましたけど。。。」
「警察?」
「何かやったんですか?」
どーいう意味だ。Nはマジメだけにすぐ真に受ける。
「車庫証明だよっ。今、届け出して出たばっかりなんだぞ」
「すぐに連絡くださいって。できれば戻ってほしいって言われましたよ」

戻ったら、さっきのお人形さん婦人警官の後ろに上司さんがいて、そっから物言いがついた。
「先刻出していただいた届出に書いてある車名ですが、これってホントにこのくるまですか?」
は?
私の書いた車種が正しいかどうか疑われたんです。
私はムッとしたが、「そうです。間違いありません」
「いや、おそらく正しいとは思いますが。今日って車検証はお持ちじゃないですよね?」
持ってるわけない。私は自分の社用車で来ている。
「すみませんが車検証のコピーを添付して再度出してください」って言われたのだ。せっかく貼った印紙をいったんビリビリに剥がされてしまった。

次に出直した時には初回に物言いをつけた上司さんは不在で、またお人形さんのような受付、婦人警官さんがいた。
こっちは前回の件を思い出させてやろうと、「前回、不備だったヤツです。車検証のコピーを添付しましたよ」って言ったが無表情に淡々と受理された。
「車庫証明は来週の○○日の○時以降になります」
如何にも事務的だな。少しは笑えよ。
笑顔が惜しいのかこのオンナは。翌週に証明を受け取りに行った時も無表情だったね。絶対に客商売には向いてないって思った。だから警察官になったのかな。

そっから先がまた面倒で、譲渡~運輸支局に提出する書類(印鑑証明とか譲渡書)とかを入手する。
その過程で、「もしかして、ナンバープレートを変えなきゃなんないのか」って気付いた。そのくるまそのものを運輸局に搬送しなきゃなんない。
相手に電話して、「まさかデカい高級車か、私の苦手なハイブリッド車じゃないでしょうねぇ」
「いや、普通の○○○ですよ。いつ行かれます?」
そのくるまは栃木県に近いところに置いてあった。ってことは、自分の社用車でそこへ行き、名義変更するくるまに乗り替え、昼間中に運輸局で手続きを済ませ、またくるまを返しに行かなきゃなんない。
遠距離なので一度で済ませたい。書類の不備があったらやり直しになって1日無駄になる。書類を誰にチェックさせようか探したが、誰もこういう名義変更なんて手続きをした社員がいないのです。例えば廃車手続きにしたってディーラーに任せてる。

ディーラー?

閃いたぞ。社用車のレンタル先のディーラーに「教えてくんない?」って聞いたの。くるまのディーラー営業さんはしょっちゅう運輸局に行って慣れてる。私の担当者は営業所でも上の立場の人だったので、いろいろ教わった。
教わって雑談をしながら、「いつまでここ(上州)にいらっしゃるんですか?」みたいな話になり、私は憤懣やるかたなく、もう3月末には東京に戻るよ、2年の予定だったのが早まったんだってま~たブツクサ。
「ディーラーさんにまでそんなこと言ったの?」(ジャン妻)

搬送当日、群馬運輸支局に出向く日、前述のように、一旦、名義変更するくるまが置いてある場所に自分の社用車で行き、そのくるまに乗り替えた。
その所有者が、「何時頃戻られますか?」
初めて出向くので、運輸局でどれだけかかるかわからない。まず半日だろうか。
「うぅ~ん、役所は夕方までだから、夕方までには戻ります」

実はこの所有者(今は社員)さんと一度、某居酒屋で痛飲したことがある。
ある部分で重要人物なんです。その人は3月末、私らとお別れする時、傍らにいたウチの上役に、
「彼(私のこと)を月1回でもこっちによこしてくださいよ」って言ってくれたんです。
私は内心、感激したのだが、代表の返事がつれないもので、
「でも、向こうの仕事もあるからね」
その人はガッカリしてた。
私はムッとした。その上役と私は今でもイマイチ上手くいってない。必要最低限の会話しかしていないが、そんなツレナイ返事しかできんのか。ウソでもいいから、「なるべく意に沿うようにします」とでも言えばいいのに。
「あの返事はなんだ?俺への嫉妬か?」
「それはあると思うよ」(ジャン妻)

群馬運輸支局は上毛電鉄の上泉駅近くにあった。
北関東自動車道の伊勢崎ICで降りて、国道17号(上武道路)~国道50号を走って、途中から拡張された農道みたいな道を行ったら、総合卸市場の隣にあった。広い敷地内でしたね。
運輸支局入口.jpgナンバーセンター群馬.jpg
最初に躓いた。
ナンバーセンターに、実印押した譲渡証と、本人(譲る側)の印鑑証明を持ってったら、会社側(譲られる側)の印鑑証明も必要なんだと。
そんなん聞いてないぞ。
会社の印鑑証明を取るべく、いったん、運輸局から事務所へ戻ったんです。金庫開けて1枚ペラッと置いてあった印鑑証明を見たら期限が過ぎてやんの。
法務支局へ行った。
本人(譲る側)の印鑑証明が期限3か月ギリギリだったので、是が非でも今日中にやっつけたかったのです。

既に午後になっている。
未だ時間はあるけど、初めての経験で先が見えないのでちょっとだけ焦りながら、再度、運輸支局のナンバーセンターに行き、車庫証明、譲渡証、印鑑証明、自賠責保険証、車検証、あと何だったかな。それらを窓口の代書屋(行政書士事務所の出先)に渡す。
自分で書けって?時間の無駄ですよ。
すぐに書きあがった。そこは書類を書いてくれるだけで、受付窓口はその建物を出て、ダダッ広い駐車場を突っ切った向こう側にある。
構内駐車場はくるまがひっきりなしに出入りしてる。結構、アブないですよ。歩行者の専用連絡通路はないに等しいので、自分で左右の安全を確認して横断しなきゃなんない。
運輸支局の建物.jpg自動車税事務所.jpg
受付に提出した。
しばらく待って、名前を呼ばれ、別の書類を渡され、それを持ってまたダダっ広い駐車場を横断して、群馬自動車税事務所へ税を申告。
そこで気付いたのだが、
「ナンバープレートって自分で外すのかよ?」
「ハイすみません、自分で外していただくんですよぉ」
ナンバー封緘取付場.jpg封緘取付要領.jpg
ドライバー.jpg駐車場広場中央に、屋根付きのナンバープレート交換場があった。そこにくるまを移動する。
そこには封緘(フウカン)の取付要領が解説してある。
封緘ってのは後部ナンバープレートに留めてある丸い蓋みたいなヤツ。
貸出のドライバーが数本、置いてあった。使用したドライバーは必ずもとの場所に戻してくださいなんて注意書きがあったけど、そんなのを書かないと持って帰っちゃう輩がいるのだろうか。嘆かわしいのう。



ナンバープレートは2本のプラスのネジ(おそらく10mm)で固定されている。
まず、前面ナンバープレートを外す。これは簡単なんだけど。ネジ山が若干潰れてやがる。砕かないよう押しつけて外した。
次に後面ナンバープレートを外すんだけど、その封緘の外し方がワカランぞ。
アタマを捻った。どうやればいいんだ?
処理済~全面ナンバーを外す.jpg外しました.jpg排水溝の蓋.jpg
ふと気づいて足元を見たら、排水の蓋があった。
おそらくこのダダっ広い駐車場は、中央に向かって雨水が流れ、排水されるようになってる。その排水蓋には外した封緘やネジが挟まってるってことは、外したら落っこっちゃう可能性があるのではないか。そうなったらまた面倒なことになる。
私は外したネジを再利用するもんだと思ったのです。後でそれは杞憂に終わるが、くるまを排水蓋の上に移動した。

封緘って何の為にあるのかよくワカランが盗難防止かな。これを外さないとナンバープレートが外せないのだ。どうやって外すんだろ。迂闊にも事前に調べてこなかったのです。
ヒロさんやナワさんならこういうの得意で詳しそうだが、ふと見ると、手慣れた手つきでママっぽい女性が手際よくナンバープレートを取り外してる。
アタマを使うんですの作業員さん.jpg私は恥ずかしくなった。
私は組み立て作業ってのはあまり得意ではないのだがこの程度も外せないのか。この幇間・・・じゃなかった封緘を外せないことには先に進まない。
(幇間は太鼓持ちのこと。)
「聞くは恥、聞かぬは一生の恥」という言葉が脳裏に浮かんだ。

しゃーない、恥を忍んで誰かに訊いてみようって思ったら、ブルーのツナギを着た作業員さんがその辺りを闊歩しながら、取り替えたナンバープレートに封緘を取り付けている。
捕まえて聞いてみた。
「これって力任せで外すの?」
「いえっ!!アタマを使います!!」
ニヤッって笑った作業員さんは人差し指で自分のアタマを指しながらそう言ったのだが、アタマを使うどころか、マイナスドライバーを封印にブスッと突き刺し、バリッってこじ開けて外した。
なんだ。
アタマを使うどころか、破壊すればいいんです。わかってしまえばたいしたことない。

外したナンバープレートを、ナンバープレートセンターに持ってったら、登録通知書と新しいナンバープレートをもらった。いつの間にできたんだろう。
受付にはネジがたくさんおいてあったね。落としたり失くしても大丈夫なのを知った。
なんだ、ネジたくさんあるじゃん.jpg処理済~新しいナンバープレート.jpg処理済~取りつけました.jpg
ナンバープレートが群馬ナンバーに変わり、会社名義になったそのくるまを支店に搬送して、その人に渡して終了。
その人は、「カッコ悪いぃなぁ。群馬ナンバーになっちゃったよう」ってボヤいてたけど、周りの人は皆、もとから群馬ナンバーなので、聞いててシラ~ッ。
全員に言われました。「ナンバープレートって自分で外すんですか?自分で取り付けるんですか?」って。
作業の流れ.jpgこういうのってあまりやったことない人の方が多いでしょうから纏めますと、要は警察~運輸局の流れです。
警察(車庫証明)~運輸局(譲渡証、印鑑証明・・・譲る側、譲られる側と必要です・・・自賠責保険証、車検証)が必要です。この時、納税証明書は要らなかったですね。
同じ構内にある運輸支局、ナンバーセンター、自動車税務署、ナンバー封緘取付場を行ったり来たりすることになります。天気がいい日の方がいい。
登録終了後、自動車保険会社に、所有者とナンバーが変わったことを連絡しました。

まぁいい経験でしたよ。
封緘を外すにはアタマを使うんです。いいですかわかりましたか。
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My second Hometown [居酒屋]

我が故郷よ・・・.jpg未だ明るいうちに.jpg
上州に帰って来たぞ。
出張です。ホテルドーミーインにチェックイン。
ホテルドーミイン.jpg
かなり安いホテルで、私の今回の出張申請は1泊だけど自費で1泊追加した。
このホテルは最上階に「榛名の湯」と名付けられた露天、内湯がある。(温泉ではありません)
部屋にはバスなし。シャワーのみ。
部屋1.jpg部屋2.jpg
シャワーのみ.jpg洗面台.jpg
ここに旅装を解いて、未だ明るいウチに街へ繰り出した。
このホテルのすぐ近くに、いかついオヤジが、「焼き物は何にしますかぁ?」って大声で聞く焼き鳥屋「鳥久」、道路向いに、若い店主が頑張る魚居酒屋「まる飛」、トロッコの線路跡が敷地内にある石材店とがある。
中央銀座アーケード.jpg
中央銀座アーケード。
懐かしくも、心落ち着く街。
閑散としたアーケードに映画音楽のBGMが物哀しく反響している。

目指すは・・・
向かうは・・・.jpg
梅ふく.jpg
「あれひとり?」
「見りゃわかるでしょ?今日は出張ですか?」
「奥さんは?」
「東京で居残りです」
靴磨き.jpg「渋谷だっけ?」
「渋谷じゃなくって○○○」
「いいねぇそこ。昔ながらのガード下でしょ?」
「そう。古いレンガ造りとかのガード下。あまりキレイじゃないけどね」
「ガード下にまだ靴磨きとかいるんでしょ?」
「???」
← 関係ないけど、この出張から戻ったら、ホントに靴磨きの看板を見かけた。
でもガード下じゃなくて大通りにあった。
ポテサラ.jpg
「空いてるんだから真ん中に来ればいいのに」
「ここでグターっとしてるのがいいのよ」
私はカウンター一番左端でグタ~ッともたれてる。
東京の職場はヤダってブツクサ思ってる。
マグロ.jpg
「今日はひとり?」
「ひとりだって」
「奥さんと二人で、よ~いどんで飲みだしたらどっちが(お酒に)強いの?」
「う~ん、私の方が強いと思う」

「一夜干し、取ってくるね。今、ハンガーで干し上がったんだけど、幾つかカラスが食べちゃって・・・」
カウンター.jpg鮎一夜干し.jpg
「今日はひとり?」
「ひとりですっ。見りゃわかるじゃん。誰も付いてきてないし。」
「ああそうかそうか。俺も今日は大丈夫。まだそんなに飲んでないから仕事できますよ」
何が大丈夫なものか(苦笑)。そう言いながらもう飲んでる。だんだんと顔が赤くなってきてるじゃないの。

今日のマスター(もーちゃんといいます)のTシャツ、裏地は「皇国ノ興廃コノ一戦ニ有リ」だった。
よく見るのが、裏地に「旅に出ます探さないでください」
何処で買ってくるんだろう。
今週最後のおでん.jpg
「おでんが最近、出なくって・・・」
「あったかくなって来たから?」
「うん。おでん今週で最後。もうこの時期になると暖かくなって出ないから」
「夏場に向けて何を出すんです?」
「煮込みか肉ジャガにするか・・・」
それも楽しみではある。

チエさん、田舎娘さんと来た「味一味」
サッパリして気楽だった「くいもの屋」
味一味.jpgくいものや.jpg
その先に・・・
うさぎCafe.jpg
うさ子のCaféはガラガラだった。
「あらぁ?」
目と鼻の穴を広げて喜んでくれた。

「この時期って転勤が多くて、前に来てくれてたお客さん、幾人かお見えにならなくなりました。」
「春は別れの季節・・・」
「〇〇さん(私のこと)みたいにひとこと言って下さった方もいるんですけど・・・」
黙って去った客の方が多いんだろうな。その方が未練なくって潔いのかな。
引き払った日、支店を2ヶ所、廻って挨拶して帰ったんだけど、○○(ジャン妻)のヤツ、助手席で泣き出しやがって・・・」
[わーい(嬉しい顔)]
ロック.jpgチーズクラッカー.jpg
「この店、あとどれくらい続けるの?」
「2年か3年は。こういうお店って大抵は5年契約じゃないですか。」
ではあと2年は大丈夫だな。
でもその前に家庭に入るとか。そういう選択肢もある。余計なお世話だが訊いてしまった。
「女性の幸せも考えていいんじゃないの?」
「いやぁ、相手がぁ」
「こういう遅い商売だと理解を得るのが難しいかな」
「っていうか、単純にその、相手がぁ」
エヘヘヘみたいに笑ってごまかされた。
お酒が並ぶ.jpg処理済~うさ子.jpg
「今日は出張ですかぁ?」
「うん。申請して許可が下りたのは1泊だけなんだけど、自費で2泊にしたの」
「ホテルはどちらへ?」
「ドーミーイン」
「ああ、あの温泉がある?」
実際は温泉ではないけど。
「ウチに出張で来るお客さんでもそこに泊まる方、いますよ」

前に住んでたんだよな俺。この街に。

この時まで、2軒でビール大瓶1本、熱燗2本(1本で三合ぐらいだと思うが)、オンザロック2杯、ここまでは覚えてる。今日は抑えて飲んだつもりだが、幾ら酒に弱くない私でも、いいとこ3軒めが限界。

陶器と天然ママの店。
入ろうかどうしようか。
GETU....jpg
もうクローズ時間に近いので、そろそろ外のゴロ看を片付けにママが出てきたら御挨拶でもって思ったらママがお客さんを見送りに出てきた。
「アラ?」
「出張できました。もう終わりでしょ?まぁ挨拶だけでもと思って」
「全然平気ですよ。入って入って」
処理済~ママと常連さん.jpg軽い酒肴.jpg
この後、変な盛り上がり方になった。
カウンターでよく居眠りしてるオジさんがいた。
後からこの街に住む常連さんが部下の男性と来て、居眠りしてる常連さんとも幼馴染で、
「〇〇町の誰々ってお前の初恋の人だろ。この間そこで会ったんだよ。彼女まだこの街に住んでるから、今から呼んでやんよ」
初恋の女性をこの店に呼んだの。
目覚めた居眠りオジさんはやや困惑してたが、その女性と〇年ぶりの再会と相成った。近所に住んでるのを知らなかったようです。
再会ってのは盛り上がるものなのだ。私にも「こっちに移って飲みましょうよ」みたいなノリになり、合計5人で歓談するという展開に相成った次第。
そっから先はよく覚えてません。
写真の右男性(この人が仕切った)は私じゃないですよ。私より年上。でも、何だか風貌が似てて、自分ももう数年、経ったらこうなるのかなって自分で思いました。
処理済~常連さんの席に移って.jpg処理済~妙な展開に.jpg
午前0時を回った。さすがに酩酊したぞ。
彷徨い.jpg
この間まで、住んでいた街。。。
また住みたいと思う街。。。
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わざとらしさ [コラム雑記帳]

横浜駅構内でこれが目にとまった。
上州が呼んでいる.jpg
無言で立ち尽くしてしまった。
俺を呼ぶなよ。
まさか飛び乗るわけにはいかないし。

気になるのはムシの知らせか?出社してから各方面へ電話した。
「何か問題起きてない?」
「あ・・別に・・その・・・」(笑ふ女)
「何かあんのか?」
「ぶふふっ(笑)」
「???」
「べ、別に今んとこ、何もないです。ぶふふっ(笑)」
「何か隠してんだろ?」
「いえっ(笑)何もっ(笑)ぶははははっ(笑)」
何だ。何もないのか。ツマラン。

「おひさぁしぶぅりぃですねぇぇぇぇ」(聖なる酔っ払いオンナ)
「何か問題起きてない?」
「別にぃ。何も問題掟ないですよぉぉぉぉ」
酔っぱらってんのかコイツは。
平和なのはいいが、何もないってことは停滞してるのと一緒ではないか。

ヤンキー筆頭、速口娘
電話だと、「○※▽▲&&■◇△◆●◎×■◇△◆●◎×&&■◇△$$@@**■◇△◆●◎×■◇△◆●◎・・・」になるので、メールで送信したらその返信は短く・・・
「・・・なんですけどっ」
しょーもない内容の「何とかしてください」だった。

よく裏情報をくれるEというおしゃべりオンナにも連絡したら、しょーもない内容の問題事項が来た。
「先日、こんなことがあったよ、これって・・・」
いろいろ情報くれるんだが愚にもつかない内容が多い。

「何か無理に問題起こして行こうとしてない?」(ジャン妻)
「そんなこたぁないさ」
実は1泊で出張する許可が出ている。自費でもう1泊。
「1泊で帰って来なさい」
「だって1泊だと廻りきれないぜ」
[パンチ]
ここで言う廻りきれないとは各支店のラウンドのことです。居酒屋廻りではありませんので年の為。
出張の朝.jpg
で、上州に出張に行ってきました。
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KANSAS [MUSIC]

カンサス1.jpg
過去に唯一、観に行った洋楽ロックバンド、カンサス(KANSAS)
ご存じの方いますか?
編成は、Vocal×2、Guitar×2、Keyboards×2、Violin。
こう書くと人数多いみたいだが実際は6人で、うち3人がVocal&Violin Vocal&Keyboards、Gutar&Keyboards、Twin Vocal、Twin Keyboards、Twin Gutar、そしてViolinという斬新な構成だった。
複数のリード楽器を巧みに操る部分が異質でもあり、魅力でもあった。
Vocal&Key.jpgViolin&Key.jpgGuitar&Key.jpg
Guitar.jpgDrums.jpgBass.jpg
知られているのが↓Dust In The Wind
http://www.youtube.com/watch?v=fPDJdC-mVgE
ベースはプログレです。
私はイギリスのプログレツィブ・ロックはシンフォニック・ロックだと思っていますが、実際はあらゆるジャンルの集合体、融合体です。

彼らKANSASはその名の通りアメリカ南部の出身で、ブリティッシュ・プログレとアメリカン・ロック(サザン・ロック)を融合、クラシック、フォーク、カントリー、ラテン等を散りばめ、曲の途中でリズムが変則的になったりする。前駆者のいない不可思議なアレンジだった。
私はCarry On Wayward Son、Dust In The Winmd、他、数曲をCopyしたが、他にかなり難しいのもあった。
1980年1月に初来日して東京、大阪、福岡で公演した。東京は武道館。私は観に行った。
初期のLIVE.jpg
日本人が好んだのは70年台のイギリスのプログレ、EL&P、イエス、ピンクフロイド、キングクリムゾン、そして、ジェネシス、もっとある。
それらは大曲で、難解な部分がある。
KANSASはアメリカのプログレの先駆け。テクニカルバトルもあるがボーカルの比重が高い。アメリカはシングルヒットを重視するからです。軽いともいえる。

KANSASはイギリスのプログレほどの難解さは少ない。変調子で展開したり、メドレー的な大曲もあるが、殆どの曲は普通のロックと変わらないように思う。
宗教的な詩もあるが、それより抒情詩のようなものが多い。難解な詩の曲はヒットしないからである。
70年台のボストン、フォリナー、REOスピードワゴン、スティクス、TOTOの路線が泥臭くなったようなイメージもある。

メンバーが入れ替わって現在も活動しているが、皆、トシをとったな。
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初期の後半、モノリスというアルバムに、「PEOPLE  OF  THE SOUTH WIND」日本語タイトルで「まぼろしの風」という曲。

http://www.youtube.com/watch?v=wveGtAQk6Ko
この曲も20数年前にコピーしたけど、Violinがいないので、Keyboardsで代行しなきゃなんなかった。

There are some who can still remember      何人かはきっと覚えているはずさ
All the things that we used to do           遠い昔の行ないの全てを
But the days of our youth were numbered     だけど若き日々は限られていて
And the ones who survived it are few        残された者もほんの僅か
Oh,I can still see the smiling faces          ああ、今もはっきり思い出せるよ
When the times were so good              良き時代の笑顔の数々
All in the old familiar places                あの古き懐かしい場所へ
I'd go back if I could                     出来るなら戻りたいんだ
People of the south wind         
People of the southern wind               南風の人々
(To the People of the wind                それは南風の人々
Hey, I got to be there again)               あの人々の元へもう一度行かなきゃ

People of the south wind
People of the southern wind                南風の人々
(Yeah with the People of the wind            南風の人々と一緒に
I wanna see'em again)                    もう一度逢いたいんだ
It's where we used to be free               皆が自由だったあの地で
And that's the place for me                あの場所は俺のものなんだ
It's just a state of my mind..)               それは心からの渇望なんだ

私の中で、南風の人々は、北風の人々、もしくは、からっ風の人々に置き換えられる。
あの人々の元へもう一度行かなきゃ。
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藍津之城 陣ヶ峯城 [会津]

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「ここは昔から、掘っちゃいけない、何かを建てちゃいけない、何がででぐっがらそのまんまにしとけってことで、じゃぁ取り敢えず史跡にすっかってことでしちゃったんです」
とアバウトな説明をして下さったのは、敷地内の公民館(建てちゃいけないんじゃないのか?)に在館されてた会津坂下町の職員さん。

陣ヶ峯城のある会津坂下町は古来、会津盆地唯一の集水路であり、東西に旧越後街道が貫き、交通の要衝だった。
3世紀頃だから神話の時代に、都から大彦命(何と読むのかワカラン)という将軍が北陸道から東北に遠征し、息子の建沼河別命(これも何て読むのかワカラン)が東山道を遠征し、親子が再会、出会った場所を「相津」と呼んだ。
出逢った場所の候補地は、坂下町の青津という場所(喜多方市の境、阿賀野川沿)。私が説明を受けた館跡はそこからほど近いところにある。
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昨年の低視聴率大河で國村隼さんが演じた藤原摂関家の長、藤原忠実の六男に九条兼実という人がいて、彼の日記「玉葉」には「藍津之城」という箇所があるそうです。
坂下町は忠実の荘園だった。その息子、兼実が日記に書いた「藍津之城」はここではないかという説がある。
この辺りが、会津坂下町一帯が、会津のルーツと噂される所以でもある。

見た感じは畑、耕地と裏山にしか見えない。東側を除く三方に二重の壕が巡っているのは、群馬八幡社の裏にある信玄の陣城のように見える。
あるのはこれだけです。足元はぬかるんでグチャグチャだった。
ジャン妻は「なんなのこれ?」
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荒れ地に見えますが、ここは国の指定史跡なんです。
指定されたのは平成19年7月、この日、独眼竜政宗の親父、輝宗を拉致した畠山氏がいた城、戊辰の少年隊でも知られる二本松城も指定された。私が今いる全く無名の耕地と、有名どころが同時に指定された。

誰がいたのかわからない。
越後の城長茂という人がいたという説がある。長茂がここにいて誰かに攻められたらしい。というのは、耕地から、炭化した鏃、椀、飯、雑穀、材木も出たそうで、1日2食だった時代、飯時に襲撃され、火災に遭っているという。
その前、何者かが平安末期までいたらしいのだがそれがわからない。

近世以降でも再利用されていない。
後年、他所から来た佐原~蘆名一族も、後から侵略して来た伊達も、近世の蒲生や上杉も利用していない。戊辰戦争でも出て来ない。
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それでも指定されたのは理由があって、出土された器他が、当時の博多ルートでしか輸入されない高級品だったからです。中国製の白い“白磁壺”、高麗青磁の椀、銅製の錘、馬具といったもの。
出土品1.jpg出土品2.jpg
私も詳しく知らないのだが、白磁壺というのは当時の国際貿易品で奥州藤原氏の平泉で発見されている。それと同等か、それに近いものがこの耕地から出土した。
博多から船で日本海を得て、阿賀野川経由で会津坂下に渡来したとみられるが、誰が買ったのか。誰がこの陣が峯城にいたのかが全くわからない。
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前述のように会津坂下は藤原摂関家の所領だったのだが、高級ブランド“白磁壺”を持つぐらい金持ちで、この地を代行して管理していた実力者は何者なのだろうか。

おまけ。この日、泊まった宿と料理です。
この日の宿正面.jpgこの日の宿.jpg揚げ蕎麦.jpg
蕎麦ぜんざい.jpg煮物.jpg蝗の佃煮.jpg
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会津北の防人 穴澤一族はスキーを履いて戦った? [会津]

砂金の取れる桧原、その先にある豊穣な会津欲しさに喉から手が出まくっている伊達輝宗は、二度も撃退されて心中臍をかむ思いで永禄九年(1566)の正月を迎えた。
家臣たちが米沢城に新年の賀詞言上に来たが、桧原村に近い綱木村の地頭、遠藤雅楽丞という地頭が家臣団の末席にいた。前年、戸山城に二度目の襲撃を進言して失敗した者である。
この遠藤がまたまた知ったかぶりして言うには、「穴沢衆は正月二十三夜の月待ちを信仰し、その夜は各家々で月待ちを務めます。峠の哨戒も緩んでいて、易々と攻め入れるでしょう」
月待ちとは、十三夜、十五夜、十七夜、二十三夜といった特定の月齢の日に執り行う。月を信仰する、月に現れるとされる神を信仰するというもの。
何をするかというと、人々が集まって月の出るのを待ち、月にお供え物をして、月を拝み、経を唱え、飲食を共にする。
穴澤氏の守り神は狐である。大小様々なキツネたちと一緒に月見酒でも過ごしてたのかも知れない。
狐は異変を察する。
その日に限って館のまわりをウロウロ歩き回って落ち着かないキツネがいた。
迫りくる異変を知らしめようとしたのかも知れない。

22日は雨だった。
夜中に止んだ。その後、上空が大寒波に覆われ、23日から雪が降りだし、その雪の中を伊達軍1000人が綱木村に集結した。
雪が強まって行く。集められた伊達の兵どもはややウンザリした表情である。これで三年連続三回目の出兵。しかも今回は厳寒の真冬、何でこんな正月明けに出陣せねばならないのか。またあの険しい峠道を徹夜で越えなきゃなんないのか。
あまり戦意が高くない伊達軍は、当時ならではの防寒グッズに身を固め、ゆっくりゆっくり24日未明に向けて徹夜で行軍した。
桧原村では穴澤一族と郎党たちの各家々で月待ちが始まっている。雪が降ってるので月は出ていなかった。この行事は悪霊を追い払う目的もあるのだが、悪霊を追い払うどころか伊達軍が急襲することになる。

横殴りの粉雪が降りしきっている。
伊達軍は24日未明に桧原に着いた。前夜、二十三夜の月待ちで、夜更かし寝入ってる明け方を急襲した。
穴沢衆は寝入っていた。
伊達軍はしんと静まり寝入った村の入口の民家に放火しようとしたが、家々は2m級の積雪に埋もれていて、火がつかないのだ。
無理に火つけして僅か二、三軒程度しかない。またしても例によって段取りの悪い伊達軍だが、それでも数は一千人もいるので、火がつかないなら数で圧倒しようと鯨波の声を上げながら桧原村の中心部に突入した。

穴澤加賀俊恒は前夜の月待ち酒で夢うつつ。
何処かで騒ぎが聞こえる。(未だ飲んでいるのか。。。)
長男の新右衛門尉俊光が跳ね起きており、母屋や長屋に敵襲を告げて回った。息子に起こされた加賀俊恒が外に出ると、桧原の町に黒煙が上がっている。
(何もこんな日に・・・)
興冷めした親子だが、毎度のことと慌てず、新右衛門尉俊光以下80人の兵が迎え撃ち、新右衛門尉俊光自ら斬り込んで、村に攻め込んだ伊達兵20数人を殴るように討ち取った。残る敵勢を木戸の外へ追い払う。
追い払った新右衛門尉俊光に、父、加賀俊恒が言うには、
「与力で来ている佐瀬玄蕃殿に急を知らせろ」
この時、黒川(会津若松)の蘆名家中からも、佐藤玄蕃という隊長の率いる100人ほどの寄騎がイヤイヤながらも桧原に駐屯していた。
佐瀬家は蘆名家中では名家である。だが玄蕃はその名前に似ず臆病で、伊達軍の襲撃の報を受けたら怖気づき、「大塩まで撤退しましょう」と穴山加賀俊恒、新右衛門尉俊光に進言した。
「なっ!!撤退だとっ?」
「おヌシは黒川に帰ればいいかも知れんが、俺らはこの地の北面の護りを仰せつかって早や四代、ここしかないんだっ!!」
すっこんでろっとどやしつけられた。
穴澤父子の逆鱗に触れた佐瀬玄蕃はほうほうの体で一旦は脱出した。

新右衛門尉俊光が門外に追い出した伊達兵を、強弓の次男、穴沢次郎兵衛以下、50人の弓隊が側面から狙って強弓を発射した。
さえぎるもののない新雪に突っ立った敵兵を狙い討ちするので一発必中!!
伊達軍も前回の失敗で懲りて、さすがに楯は持って来た。楯の影から反撃しようとしたが。。。
???。。。
寒い。。。
身が凍えている。手がかじかむ。
当たり前である。雪道を踏んで徹夜で行軍してきたから弓も刀槍も上手く操れない。雪原に取り落す者まで現れる始末。
穴澤衆はついさっきまでは屋内で暖を取って寝ていたので、寡兵ながらも余裕の操作で狙った。

穴澤新右衛門尉俊光の他に、一族の穴澤九郎次郎、穴澤新十郎らの新たな援軍が加わった。加賀俊光以下100人も加わり、敵の後続部隊が来る前に全面の敵を崩さんとする。
反撃しようとした伊達兵は、深い雪に足を取らながら、穴澤軍の歩くスピードが妙に早いのに気付いた。
穴澤兵は両足に妙な物を履いている。カンジキでもない。何か板のようなものを履いて雪原を滑りまわりながら、伊達軍の側面、後方に回り込んで攪乱する。
それは小橇だった。
穴澤兵は小橇を両足に履いていた。今でいうショートスキーのようなものだろうか。これを履いて自在に雪原を走り回っていたという。

伊達軍の三度目の襲来時、穴澤一族が両足に小橇を履いていたという記載は、奥羽永慶軍記という書籍に載っていた。
日本のスキーの発祥は、明治44年(1911年)、新潟県中頚城郡高田(上越市)で、テオドール・エードラー・フォン・レルヒというオーリトリア陸軍少佐が、陸軍第13師団歩兵第58連隊に伝授したこと。
それより遡ること350年に、会津磐梯山の裏、桧原村の住民、穴澤一族が小橇(スキー?)を両足に履いて雪原をスイスイ滑っていたとは俄かに信じ難い話ではある。奥羽永慶軍記の記載が何処からの出典かはわからない。
重たい甲冑を着込んで得物を携えてショートスキーができるものだろうか。でも敢えて異議を唱えず、ここに掲載しておく。

桧原村から一旦は脱出した佐瀬玄蕃と100人の手勢へ同じ蘆名家中の伝令が来た。
形勢、穴澤軍に有利という。
「マズイぞ」
佐瀬玄蕃は思った。「このまま戦闘に参加せなんだのが黒川(会津若松)の蘆名公のお耳に入ったら・・・」と思い直し、遅まきながら参戦した。
伊達軍の後方を攪乱した。それを遠目に見た穴澤父子は、
「あれは佐瀬玄蕃ではないか?」
「あの野郎、今頃になって・・・」
苦笑するしかないが、黒川からの佐藤軍100人が参戦したのを遠目に見た伊達軍の後軍は、「後詰がいた」「蘆名の援軍だ」と怖気づき敗走しだしたのである。
スキーを履いた穴澤軍の強弓に射掛けられている伊達の尖兵は、振り向いたら後ろから付いてきている筈の後軍がいないので仰天した。
逃げて行くのが見えるではないか。「冗談ではない」と恐怖を呼び起こし我先に逃げ出した。
穴澤勢は追い討ちをかける。今度という今度はホントに許さないつもりである。討ち取った者の首級は斬捨てにして追いかけた。
伊達勢は総崩れで逃げていく。

ナワ~ルドさんの峠コレクションで、2008年に大塩峠が載っています。
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ここに、一ノ渡所(ワタド)という難所があった。
当時はこの辺りの何処かにある深い谷の沢に一枚の粗末な板か、一本の木橋が架かっていたのだが、この時は折からの豪雪で、淵の上に架かった橋の上に、凍った雪と新雪が積もって蓋のようになっていた。沢が見えなかったのである。

我先に逃げて来た伊達兵は蓋が道に見えたらしい。凍っていて沢の流れる音も聞こえなかった。
雪と氷の蓋=実は渕なのだが、気付かず逃げて来た伊達の兵どもが蓋=淵に殺到したところ、兵と雪の重みで蓋がズルッと崩れ、粗末な木の橋がバリッと割れ、伊達兵どもは半ば凍った渕にズドーンと一斉に転落した。
後方の兵は前方で何が起きたかわからなかったらしい。後方から追って来る穴澤兵に気を取られ、止まろうにもすぐには止まれず、次々と転落、他の場所を渡ろうとしたらそこの雪も崩れ落ちた。
転落した伊達兵は岸に岩にとりすがろうにも上がれず滑落して極寒地の凍結した深い谷に呑まれていく。

敗軍の半分余りが谷に落ちてから、ようやく踏みとどまった伊達軍の残兵は谷に沿って上流に走ったが、岩の絶壁が立ちはだかり逃げるに逃げられず、引き返して決戦を挑むしか生きる道はなくなった。
伊達軍は静かに迎撃態勢を組んだ。追って来た穴澤軍も伊達兵の死を決した表情に気を引き締め、一気に攻めたてず、睨みあいながらわざと山際に退路を開け、そこを慎重に矢で狙った。
その退路を狙って生き残りを賭けた伊達軍が最後の喊声を挙げ、兵全員が悲壮な切り込みを敢行しようととした時、その喊声が雪壁に反響して伊達軍の頭上に巨大な雪崩が落ち、一瞬にして伊達軍全員が消えたという。

穴澤軍は三度勝った。
売られた喧嘩だがさすがにアタマに来た。今度はこちらから米沢方面へ討ち入らんと、穴澤主計、太郎兵衛を黒川(会津若松)の蘆名盛氏に言上した。
だが、情勢が変わった。
福島県いわき市、大舘城の岩城という豪族が蘆名家と伊達家を仲裁する労を摂り、伊達家、蘆名家は和睦となったのである。これには蘆名、伊達、佐竹、岩城、相馬各氏の婚姻が絡んだ複雑な背景があるのだがここでは割愛する。

黒川の蘆名盛氏からは、「伊達殿とは既に和睦したので、今後の争いはまかりならぬ」という厳命が下った。
しかも、これまでの三回の合戦は桧原の私闘とみなされ何の恩賞もなかった。穴澤加賀俊恒は家臣の功に報いる為に私財を払ってねぎらったという。
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その後、数年間は一見、平穏が続くのだが、その間、天正元年(1572)、穴沢加賀俊恒は隠居し、長男の新右衛門尉俊光が家督を継いだ。
伊達家は独眼竜政宗の時代になっている。
伊達輝宗はついに穴沢衆に勝てなかったのである。

蘆名氏は盛氏の代に最も繁栄するのだが、桧原の一件は穴澤の私闘と位置付けられたことで、穴澤一族の中には、蘆名氏に対して含む者もあった。
文明(1469-1487)年間に、蘆名十三代当主盛隆に乞われて桧原に赴任してから90年、穴澤氏と蘆名氏の間に隙間風が吹くようになっていく。
伊達政宗はそこを衝いて来るのである。

穴澤衆の履いていた小橇、スキー板の真贋性はわからない。
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会津北の防人 穴澤一族 20人対800人の攻防 [会津]

桧原湖の北側に、戸山城というのがあって、湖畔を巡る道脇にデカい標注が立ってるからすぐわかる。
標高1037m。日本で最も高い山城という触れ込み。
(実際は長野県に1039m、1250m旧のがあるがここでは触れません)
米沢牛の「時の宿すみれ」に向かった際、白布峠を越えて米沢に抜けたのだが、その時に通った。
「まさか入らないよね」(ジャン妻)
「入らんさ」
熊が出る山です。入口と銘打ってあるが遊歩道は整備されていない。自然の道で直登に近いとか。
戸山城入口.jpg
穴澤一族の城塞です。
一族は先に、急拵えの境峠(桧原峠)山塞で伊達軍の尖兵を追い落としてから、桧原村から北には守る要衝がないぞってのに気付いた。今後は米沢の伊達を仮想敵国として意識したのである。初戦は伊達軍の事前調査不足でこっちが優位だったが、次回、攻めて来たらアブない。
長男の新右衛門尉俊光が、「この山に山塞を築こう」と進言して受け入れられ、桧原の住民だけでなく、大塩、猪苗代、黒川からも集められて着工した。中には米沢の間者も紛れ込んでいたと思われるが、標高1037mの要塞化と、麓の外郭も含めて南北400m、東西200mの大規模の工事中、伊達軍は押し寄せて来なかった。
何故だろうか。雪解けから初夏までは農作業の繁忙期だったからである。当時は兵農分離していなかったので出兵できず。

伊達輝宗はイライラしながら盆まで待った。
輝宗は桧原の先、地味豊穣な会津が欲しいのだが、檜原で砂金が産出されるのも何処かで知ったらしく、更に欲が募った。
桧原と接する綱木村の遠藤(左馬助、雅楽丞)という地頭が案内を努め第一の恩賞を欲せんと、桧原を攻めるタイミングと間道を調べた。だが調べれば調べるほどマトモな道がないのがわかりアタマを抱えた。こっちで間道を作るか、桧原川上流から沢を迂回し、尾根伝いに戸山城の背面から襲撃するしかないという結論に。
問題がある。
その沢の沿うと、騎馬での渡河、遡行は全く不可能だという。徒歩兵で行くしかない。
この辺りはまだ読みが甘いようである。遠藤の配下、綱木、小野川といった国境近い村々の兵どもは、初戦の穴澤軍の恐るべき弓術がトラウマになっていて、「平野部ならともかく、また敵地の山中で戦うのか」と恐々でもある。

伊達輝宗自身は戦闘に出ていない。報告を受けたらどうも穴澤一族とは山男の集団のようで、攻め込む桧原が山中だから山岳戦にしかならない。奇襲しかない。
いつ急襲するか。
7月14日~15日は聖霊祭(盆のこと)なので、穴澤衆は宿下がりをして戸山城内は手薄だろうという目論見をたてた。というのは、穴澤一族は標高1037mの戸山城で日頃、寝起きしていたのではない。そんな生活は不便このうえない。平時は麓の桧原村の家に居住しており、戸山城は交代で番をしていたのである。
だが輝宗は「14日、15日はダメだ。こっちだって先祖の御霊を祀らにゃならん」と言う。
先祖の御霊や戦死者を弔う14日~15日に衝くのはさすがに良心が咎めたらしい。農繁期だから出兵せず、戸山城の竣工を許し、何だかのんびりした光景だが、遠藤はせっかくの進言にそう言われたので鼻白んだ。
そしたら輝宗は、「16日の夜にしよう」と言う。
伊達軍は徒歩兵だけ800人で二度目の出兵をした。
ここで既にミスを犯している。岩を伝い、藪をくぐり、沢を渡ったので、誰も楯を持参しなかったのである。

16日夜、戸山城内はホントに手薄だった。
当主の穴澤加賀俊恒、長男新右衛門尉俊光以下、弟たちや一族の殆どが麓の桧原村、己の宿、屋敷に下って先祖の霊を祭って静かに暮らしていた。
手薄どころか、標高1037m、麓の外郭も含めて南北400m、東西200mの広大な敷地の戸山城内には、佐藤、遠島、高橋、二瓶、樋下といった郎党たちと、二十人の兵しかいなかったという。一族は誰もいなかった。

17日未明、伊達軍800人が背後の尾根から攻め寄せた。
筆頭格の郎党、佐藤、遠島は、「よりによって・・・」当番だった自分たちの不運をちょっとだけ恨んだ。
「兵の数は?」
数えるまでもない。「二十!!他は女子供・・・」
やれやれと思ったが、援兵が来るまで持ちこたえるべく桧原村に急を知らせ、配下や女子供を叱咤して防戦した。居もしない穴澤一族の名前を敵に聞こえるように叫び、城内に詰めてるように見せかけた。
背後の尾根を断ち切る壕に伊達兵を釘づけした。

未明、宿下がりしていた長男、新右衛門尉俊光は厠へ立って手を洗い、もうひと眠りせんと思った時、矢唸りの音を聞いたように思った。
庭に降りて戸山城方面を見上げたが朝霧で見えず。
だが、矢戦の音や喊声が聞こえたのである。
新右衛門尉俊光の眦が釣り上がった。霊祭の神酒を喰らって寝込んでいた一族を叩き起こし、集合をかけたがさすがに全員は集まらず。一族の穴沢主計、穴沢新十郎以下、80人あまりの郎党&百姓が集まり、戸山城の大手の山道を伝って馳せ帰る。
間に合うか。時間との勝負。

戸山城の壁に伊達軍の矢がハリネズミのように立っている。
城兵にとって幸いしたのは、背後の痩せ尾根に三重の堀切がありそこに800人の敵が“点”として集中したので面で攻撃されなかったのと、伊達軍は岩を伝い藪を切り開き、沢で濡れながら進軍してきたので、迂闊にも誰も楯を持って来なかった。伊達軍が放つ矢の数は多いが、少ないながらも戸山城から放たれる矢を防ぐものがないのである。
開き直った郎党二十人は慌てず、強弓をバンバン射放った。上から見下ろすので有利。
伊達軍は困ったことに楯がないので、ビクビクしながら木の樹に隠れて上に向かって射返す。城中20人対寄せ手800人は膠着状態になってしまった。

その間、桧原村から穴澤兵80人が猿のように戸山城へピョンピョン駆けのぼるが、途中、先頭を走る新右衛門尉俊光はデカい岩角で立ち往生した。
(ここから先は馬では無理だな。)
それと、城が麓から遠いのである。駆けつけるにまだ時間を要する。
考えてる時間はないのだが。そしたら後ろから単騎、蹄の音がしたと思ったら、躊躇う新右衛門尉俊光を追い抜いていった騎馬武者がいる。
その者は新右衛門尉を見下ろしてニヤニヤと笑い、新右衛門尉と兵をその場に置いてけぼりにして、痩せ尾根も岩角も、崖道も、平地を走るが如くサッサと先に行ってしまい姿が見えなくなった。
「アイツめ」
穴澤主計という人。
この人は一族一番の馬術の達人で、新右衛門尉より年下の叔父か従兄弟と思われる。彼に置いてけぼりを喰らった新右衛門尉俊光は主計ほどの腕はなく、ちょっとすぐには登れそうになかったので馬を降りた。従兄弟の新十郎を呼んだ。
「間に合わん。城まで遠すぎる」
新十郎は内心、アナタがこの山に築城しようって決めたのではないかと呆れたが言わなかった。
新右衛門尉俊光は連れて来た80人の兵(穴沢主計を抜いて79人)を山道の途中に留め、戸山城中に援軍が来たと知らせるべく兵どもに大喊声を挙げさせた。東の空が白んだ桧原の山谷に、穴澤兵のガラ悪い堂間声が大反響した。
城内は奮い立った。寄せ手の伊達軍は「来たか」怖気づいた。そこへ単身一騎、駆けて来た穴澤主計が穴澤一族の旗印を一振り掲げたのを見て、恐怖した伊達兵の誰かが言わなきゃいいものを「穴澤新右衛門尉が来たぞ」って叫んだら更に余計な動揺、トラウマを加え腰が引けたという。
馳せ帰った穴澤衆80人と、城内20人が打って出て、強弓、斬り込み、大岩や大木を落とし、伊達軍は尾根伝いに敗走してしまった。狭い尾根の戦闘だから兵の数より地の利が勝ったのである。
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戸山城は20人程度で到底守り切れる規模ではないが、20人対800人の第二戦も穴澤衆が伊達軍を撃退して二戦二勝の記録は後世に存在する。
だがこの後、2年後に戸山城は放棄される。何しろ冬場には2m以上の積雪があって、当時は城番だった穴澤衆以外は人ひとりいない白銀の世界。そんな雪寒い山城に起居してたのだからよほど精神が強靭でないと務まらないだろう。変わった一族ではある。
道なきこの山城を登った人が数人いてその方のHP、Blogを見たら、築城位置に疑問が残る、背後からの攻めに弱い、米沢方面が全く見えないというのである。
しかも、麓の桧原集落から高く遠く、「この山に作ろう」と決めた新右衛門尉自ら、岩に阻まれて立ち往生して遅れたので、こりゃダメだとあっさり翌年、堂場山という現在桧原湖に半島のように突き出ている山へ巌山城を再構築して移った。
せっかく作った戸山城は1年か2年しか使用されなかった。永禄7年~8年の間です。だがそのことだけで、使用された年代を特定できる大規模な城として学術上は貴重な存在だという。

だが伊達輝宗は懲りない。三度目の襲撃は冬場だった。雪原での戦いになった。
この襲撃時、穴澤一族は意外なものを使って闘ったのがある資料に載っていた。
それは・・・
橇・・・??

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会津北の防人 穴澤一族の超人たち [会津]

文明(1469-1486)年間、荒れた京の応仁の乱がようやく終息した頃、穴澤一族は桧木谷地にやって来て最初に街を作った。
村名を桧原と改め、それから90数年の間、四代に渡って住み着いた。
檜原湖7.jpg
信玄と謙信が最後の退陣をした永禄7年(1564年)の春、外敵が北からやって来る。
米沢の伊達軍である。
当主、輝宗自らやってきたわけではない。石川但馬という将と、桧原峠を越えた伊達領綱木村の地頭、遠藤雅楽丞以下が、騎馬200と1500人の軍兵で桧原を抜かんとやって来る。
伊達輝宗が欲しいのは桧原の先にある地味豊穣な会津盆地。仙道群からも会津方面を窺っていたのだが、そっちは岩城、田村、二本松畠山、二階堂、大内といった小群雄が跋居しており、米沢からストレートに南、桧原方面に狙いを定めた。
事前に穴澤一族を何処まで知っていたのかはわからないが、侮っていたと思う。

資料2.jpg資料1.jpg
伊達軍襲来の報は米沢へ送っていた細作から穴澤衆に伝わり、一族総力を挙げての防御塞が組まれる。
国境の堺峠の北側、米沢川の山道を削り落として桟道とし、山上の木々を切り払い、兵糧、武器、石弓、大岩石を配置して待ち構えた。
峠に至る道にも逆茂木を組んだ。これで馬では通れなくなるか、時間がかかる。

境峠が何処かわからないのだが、桧原峠だとみて間違いなさそうです。現在、米沢から桧原峠へ至る道は災害等の落石崩壊がなければ登山道として刈り払いされていて、丸太橋は6か所、ぬかるみやすい区間も間伐材が敷かれているとか。
峠には境塚の掲示板がある。

私が湯野上の蕎麦宿を出て、時の宿すみれに向かった時、初めて会津~米沢の国境、白布峠を越えたが凄い急坂で、5月半ばなのにまだ残雪が残ってた。
檜原方面1.jpg
第一次戦で伊達軍が攻め上って来たのは春、雪解けの頃だが、まだ残雪が眩しかったに違いない。
峠上の山塞で待ち構える穴澤軍の当主は、穴澤四代当主、穴澤加賀俊恒
俊恒には息子が六人いた。
武勇と智謀に長じた硬骨漢、長男の新右衛門尉俊光
二男、太郎兵衛(強弓の名手)
三男以下は与一郎、世七郎、左馬允、善七郎。。。

一族に穴澤主計(山岳でも平地のように走らせる馬の名手)
穴澤越後(これまた強弓の名手)
穴澤丹後、穴澤豊後、穴澤九郎次郎、穴澤次郎兵衛、穴澤新十郎。
同じような名ばかりだが叔父か従兄弟に違いない。その中に重要人物が一人いる。
穴澤四郎兵衛という。

他、重臣格の郎党たちは、佐藤、遠島、高橋、二瓶、樋下たち。
配下の兵は500人もいないが伊達軍は夜を徹して悪路を山越えしてくる。穴澤軍は急作りとはいえ山塞の中で少量の濁酒を飲んで熟睡していたそうです。

伊達軍は初めての桧原攻め。
残雪が残る隘路を難渋しながら登ってきた。谷や沢を越え、木々や竹林を切り払い、雪でぬかるんだ道に足を取られ、左右を削り落とされた道から転落しそうになったりした。前後進退自由にならぬ山道を殆ど一列縦隊で喘ぎ喘ぎやってきた。

明け方、峠に至る最後の坂で、逆茂木に潜んだ別働隊と最初の遭遇戦が始まった。細い道に幾重にも設けられた逆茂木に難渋し、そこから先、伊達軍は馬を捨て徒歩で峠へ迫って来たのである。
重い甲冑姿で、肩で息をしながらゼイゼイ喘いで汗だくの伊達軍は、峠の上に穴澤軍500が待ち構えていたのを見上げる形になった。
狭く細い山道に、後方から後詰も登って来るので前に進むしかない。峠から見下ろす側の穴沢軍が有利に決まっている。
威嚇する為に伊達軍は三度、鬨を上げたが、穴澤軍はたった一度だけ鬨を上げ、長男の新右衛門尉俊光の号令一下、柵から現れた穴澤兵の最初の矢嵐が伊達の先陣を射倒した。
楯を持った第二陣が入れ換わったが、その第二陣の前に強弓を持った一人の武士(モノノフ)が、「俺に任せろ」と進み出た。穴澤越後という人。
この人は飛ぶ鳥どころか木の枝にブラ下げた縫い針も射落とすという、ちょっと信じられない超人並の弓の名手で、腕に三人張(引き重量75kg)の強弓を構え、連射した十三束三伏の矢(110cm)は伊達兵の楯の隙間を走り、兵どもの横腹を射抜いて百発百中。
一人で二十人の兵を射倒した。

越後一人に射たてられ、伊達の第二陣が後退した。
穴澤軍は上から下へ狙い撃ちする。伊達軍は下から上へ狙うので矢の勢いが弱い。砦に届かない矢は穴澤兵の嘲笑いに消され、伊達軍は射返すのを諦め、楯を並べて上って来た。
そしたらまた別の武士(モノノフ)が出てきた。
次男、穴澤太郎兵衛という人。
これまた超凄腕。穴澤越後が技なら太郎兵衛は力技で攻めた。持つ弓は穴澤越後よりも引き重い四人張(100kg)で、鎮西八郎為朝ばりに放った矢は伊達軍の楯もろともバリンと打ち貫き、楯の内側にいた伊達兵を射抜き、眉間を粉砕したというから凄まじい。

矢戦が続きそうなので、業をを煮やした伊達軍の将校、石川但馬は、穴澤軍の矢種を尽かせようとじっくり攻め登って来たが、新右衛門尉俊光は登らせるだけ登らせておいて大石、大岩、大木を雪崩のように落下させたので、伊達軍の負傷者が尚増え、敗勢濃厚になってきた。

穴澤衆の超人ぶりに拍車がかかる。伊達軍の後方に、穴澤四郎兵衛率いる一隊が走った。
彼は分家で新右衛門尉俊光兄弟の従弟にあたる。四郎兵衛率いる一隊は旗指物を巻き、沢に沿って樹林の中を猿(マシラ)か獣のように走っていった。
伊達軍の後方に出た。
そこまで全速力で走ったが、息を整え静々と歩み寄った。
伊達兵は後方に現れた兵を後詰と思って全く無警戒だったという。腹中笑いを堪えながら矢の間合いまで近づいた四郎兵衛は「ヘイ」と声をかけた。振り向いた伊達兵の目に穴澤の旗が翻り、矢が飛んで来たからそれで初めて「敵だぁ」気付いて仰天した。

白兵戦が始まったが、先に襲った四郎兵衛側が優位に立ち、伊達兵は前方に逃れる。追い打ちをかけた四郎兵衛とその部隊は、追いつめた伊達兵が崖下で覚悟を決め、再度の白兵戦に身構えた時、四郎兵衛と兵どもは岩場を走り、崖に向かって走り、「ヒユッ」と口笛を吹いて、全員が林の中へ消えてしまったのである。
伊達兵が呆気に取られた次の瞬間、頭上から大石が降って来て阿鼻叫喚の大混乱に。。。

その後方の混乱が伊達の先陣に伝わり、先陣が正面の山塞から後退して引きかけた時、数丈もある山塞の岩壁や土壁を、幾つもの黒い土煙が雪崩のように次々と滑り落りてきた。殆ど垂直に降りて来たという。
また大岩でも落として来たかと思ったら、何とその土煙の一つは穴澤家の総領、新右衛門尉俊光本人で、他の土煙は彼が率いる穴澤の徒歩兵たちだったのである。
地に降り立って喚声を上げ、大刀を抜いて斬り込んで来た穴澤兵の断崖直滑降に肝を飛ばした伊達兵はドン引きになり、辛うじて斬り結ぶ者もいたが、多くは四郎兵衛が攪乱した後詰とゴチャゴチャに混ざって逃げ場を失い、散々に討たれ、将棋倒しになって綱木村方面へ敗走した。

登場した越後と太郎兵衛、四郎兵衛はまだ暴れ足りなかったらしく、「このまんま綱木村まで攻め入ろうぜ」と意気込んだが、父、加賀俊恒と、惣領新右衛門尉俊光に宥められてシブシブ思いとどまった。

あまり知られていないが、穴澤新右衛門尉俊光という人物が記録にあらわれるのはこの戦闘記録から。初戦は穴澤軍が大勝する。
山岳戦では人間離れしている穴澤軍だが、勝因は伊達の準備不足と事前調査不足、ナメていたんだと思う。
穴澤衆は桧原の山暮らしで娯楽が少なく、狩りや弓の修練に明け暮れて腕を競い、闘犬や闘鶏といった賭け事に興じ、足腰を鍛え山岳戦に長け、異様に強かったのではないだろうか。
資料3.jpg
この後、穴澤衆は二度、合計三回にわたって伊達軍の攻撃を単独で撥ね退ける。
そのサマは今回もそうだが講談そのものだった。笑えるくらいに痛快なのだが、伊達軍の作戦も狡っからくなっていく。穴澤衆の牧歌的な隙を衝いて来る。
この戦闘詳報は昨年、若松市内で入手した資料に基づいています。
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会津北の防人 穴澤一族 ファースト・ジェネレーション [会津]

八重さんと竹子さんの”早過ぎる握手”にドッ白けたので、戊辰に関係ない会津ネタをUpします。

四季を通じて裏磐梯公言の大自然に触れアウトドアレジャーで賑わう桧原湖。。。
この湖は会津磐梯山大噴火の堰き止め湖沼です。その中では最大級の湖です。
桧原湖4.jpg
最大水深31mには桧原村51軒が水没している。
現在でも水位の変動によっては、昔の集落にあった鳥居や墓石が湖面に現れる。

この桧原湖の西側の湖畔、桧原歴史館の先に、数基の五輪等が建っている。
穴澤氏族桧原五輪塔とあって、水没を免れたものを湖畔に集めたか、渇水時に湖底から移したとも伝わる。
穴沢一族五輪塔1.jpg
穴沢一族五輪塔2.jpg
彼ら、穴澤一族は何処からやってきたのか。
ニ説ある。現在の福島県田村郡、田村市、郡山市東部に、南北朝時代に庄司田村家というのがあって、南朝方の残党を集めて関東公方足利氏満の軍勢と戦った。
だが敗れた。
田村庄は関東公方支配となって、支配される側は小国人衆の集まりになる。
彼らは関東公方に表面上は忠勤を励むが、利益を脅かす外圧には抵抗し、近隣諸地域の国人領主と一揆(※)契約というものを交わしている。
この頃の田村庄の国人衆の一人に穴沢宮内少輔秀朝という名前が見える。これが仙道郡発祥説。

(※後年の農民一揆とはちょっと趣が違う。上州にも一揆衆がいて、小領主たちが団結して、箕輪の長野氏のもと、甲斐武田の侵略軍に抗した。)

もう一説。
甲斐源氏に連なる源盛義(平賀盛義ともいう。武田晴信初陣の相手、源心はその庶流)の枝分かれした後裔に犬飼貞長という人がいて、越後魚沼の広瀬の領主になって穴澤村に居住、穴澤氏になった。
現在のJR只見線で入広瀬~大白川の手前辺りに穴沢の地名が幾つか見える。もしくは守門嶽の南麓辺りとも。これが越後魚沼発祥説。
(今年の冬、限界集落で一人暮らしのお年寄りの雪かきを担うボランティアの紹介があった。そのお年寄りは穴沢さんだった。)

会津若松市内の書籍には、仙道郡からやって来た説が多い。
だが後述する人間業とも思えぬ山岳戦の凄さから想像すると、越後魚沼郡の山々での発祥でもオカシくない気がする。

文明(1469-1487)年間、彼ら穴澤衆は郎党350人連れて、完全武装で桧原村にやって来た。
当時、大塩峠~蘭峠辺りの山中に兇賊がいて、里の荒しや旅人の殺害、女子供の拐や売り飛ばし、ロクなことをしないので、迷惑千万蒙った村人たちが黒川(会津若松)の蘆名十三代当主、盛隆に訴えた。
盛隆は蘆名四天宿老(平田、松本、富田、佐瀬)に、誰を送って兇賊を掃討するか協議させたが、実は「アイツらを差し向けるしかいないな」と目星はついている。
餅は餅屋ではないが、山賊相手なら山岳戦に長けたあの一風変わった一族に退治させようと候補に挙がったのが穴澤一族。党首は穴澤俊家という人。
他領への侵略ではない、外敵の迎撃でもない、この山奥の領民救済のような依頼を穴澤衆は承知した。賊は山の集団なので一族のプライドもくすぐられたであろう。
仙道群田村の穴沢郷、越後魚沼の穴沢郷、どちらから来たのかわからないが、穴澤越中俊家は舎弟の常陸介と350人の手勢を連れて桧原にやってきた。蘆名盛隆の命というか依頼でそヤツらを退治しに来たのである。
一回こっきりの出張遠征のハズだったのだが。

穴澤俊家は桧原に来て驚いた。
(なんちゅう凄い山谷だよ・・・)
当時はまだ桧原と呼ばず桧木谷地と呼ばれていた。まだ穴沢郷の方が平地があると思った。でもまさか穴澤俊家はこれ1回切りの遠征のつもりが、自分より数代に渡って一族郎党がこの地に棲み付くことになるとは思わなかったであろ。

俊家は村人から事情聴取した。
山賊の首領は文太郎という巨漢で配下は70人。
いずれもどんな断崖絶壁も上下する山男集団だという。だが、どうしても村人は被害者側だからオーバーリアクションにもなる。
俊家は内心、「我が一族だってそれぐらいはたやすいさ。それに統率された武士ではあるまい」と思った。
村人たちはいつも見慣れた蘆名の武士とはちょっと変わった穴澤衆の雰囲気を見て、期待と怪訝が入り混じった面持ちである。

穴澤俊家は大塩峠に向かう。
兇賊はこの先、蘭峠方面にある七里という山谷に潜んでいる。
兇賊がいた辺り.jpg
蘭峠~大塩峠の旧米沢街道は、2008年5月にナワ~ルドさんが越えています。
蘭峠.jpg
ナワ~ルド峠おやじさんが2008年5月にこの峠を訪れている。
中ノ七里という場所に一里塚があって、そこの説明版に兇賊の首領、文太郎や、穴澤俊家に退治された云々も載っている。
ナワさんからご承諾を得たので写真を拝借しました。
中ノ七里一里塚.jpg
穴澤俊家は舎弟の常陸介以下、150人ばかりの手勢を南から迂回させた。
常陸介を送り出した後、俊家自身は200人の手勢で本街道を北に進み、3人の家臣を商人に扮装させ、如何にも金目のモノが入った重そうなデカい風呂敷包を背負わせて先に行かせた。撒き餌である。
このエサに兇賊は喰い付いた。
扮装した三人が沢に架かった橋の真ん中に来た時、橋の前に三十人、後ろに三十人の賊が塞いだのである。
「待て」
「騒ぐと殺すぞ」
「命惜しくば身包み置いていけ」
といった類のお決まりの脅しが発せられたが、商人姿の三人は動じない。三人のうち、二人が、
「そっちこそ後悔するなよ」
「今までの奴輩とは違うゼ」
そして三人めが鋭い口笛をヒユッと鳴らした途端に、橋の後、大塩峠側から俊家率いる穴澤本隊200人が突然表れて一斉に矢を射放ち、賊に斬り込んで来た。

橋の前を塞いだ賊は仰天した。
数合、斬り結んで街道を北に逃げたら、その前方からも先に迂回した常陸介の隊が挟み撃ちに向かって来た。では両側の山上に逃げようとしたら、そこからも穴澤兵が逆落としに攻め降りてきて、賊は挟み込まれて四方の退路を断たれてしまう。
完全包囲した穴澤衆は容赦なかった。賊には武士崩れの手練れもいたが多勢に無勢。囲まれて打ち取られ一人残らず全滅したという。
首領の文太郎は大太刀を振るって暴れたが、足を射られ動きが鈍ったところを多勢に組み伏せられて生け捕りにされた。

穴澤俊家一行は縛めた賊の頭を連れて黒川へ凱旋した。
蘆名盛隆はいともあっさりと兇賊を殲滅し、首魁を生け捕った穴澤一族に内心、舌を巻き、穴澤兄弟に太刀を贈って功を称え、慰労の宴を催して労った。
その宴の最中に蘆名盛隆は考える。
彼ら穴澤衆は蘆名の直属の家臣ではないのである。穴澤郷に帰還すればその地の支配者なので、蘆名と同等ともいえる。何か違えれば敵にならないとも限らない。
一風変わった連中だが、手放すのが惜しくなった。
臣下の礼をとらせていずれは家臣に持っていけないか。それには桧原に引き留めてしまえばいいと思いついた。桧原は出羽との国境、米沢街道を抑える重要な拠点、新たな山賊が棲み付かないとも限らない、治安維持の為に桧原に留まって欲しいと下手に出たのである。

穴澤俊家は内心、「冗談ではない・・・」と迷惑に思った。
自領の為にしたのではない。蘆名家は敵ではないがそれでも他家の依頼。そこを領民の人助けと思って遂行したのである。その地に居住するとなると一族の去就、根幹が違ってくる。
一族の会議にかけ、結局、引き受けざるを得なくなるのだが、会津若松市の書籍には、穴澤氏は桧原の人助けの為に無下に断れずとあった。
だがそれだけだろうか。
見返りは何かあるか考えたと思う。原野の開拓、山林の伐採、開墾、砂金が採れる、いずれも一朝一夕にいかないものばかりだが、米沢街道筋を抑えることで、何がしかの公益を得ようとは思わなかっただろうか。
米沢街道と桧原宿.jpg
穴澤衆は、先に俊家の舎弟、常陸介を送って仮の館を築かせ、町割をした後で一族の殆どが移住した。
そしたら蘆名家からも会津にいる遊民を移住させたのでオカシなことになった。人口が増え開墾地が広がり、当初は山賊対策や国境警備の為だったのが、町を作ってそこを統治するという意味合いに変わって来た。

穴澤俊家も上手く乗せられたと気付き、年が改まる度、黒川の蘆名盛隆に「帰りたい」と言上したのだが、盛隆は「もう1年頼む」、「あと1年だけいてくれないか」引き伸ばしにかかった。
実際は他の蘆名家中で、誰も豪雪極寒の山間に赴きたがらないというのが本音ではなかったか。
桧原宿跡説明版.jpg
蘆名盛隆も、さすがにタダでその地にいてくれとは言わなかった。
桧原から西に少し下った大荒井、寺入、堺野他、四つの村を一家の糧を得る知行地として贈ったのです。代替地かも知れない。
穴澤俊家にしてみりゃ、そんな代替地を貰ったところで益々話が違うじゃないかと突っぱねなかったのは、だんだんと桧原が好きになって来たのかもしれない。

(私もその気持ちはわからないでもない。住めば都ではないが、最初は、えぇ~こんなトコに住むのかよって思っても、何かきっかけがあれば好きになっていくものなのである。)

ズルズル引き伸ばしにされているうちに穴澤衆は四代もの間、桧原に住みついてしまう。蘆名氏の思惑通り、桧原の住民になってしまったのである。
桧原宿と観光バス.jpg
穴澤一族は狭隘な山谷、風雪に荒ぶる原野で生活していくうちに鍛えに鍛えられ、山岳戦、ゲリラ戦が磨かれていった。
日常、狩りをしながら、山の峯、崖、岩場構わず徒歩でも馬術でも平地同様に歩行疾駆する。弓は三人張が標準で、それ以上の強弓で矢を射かけ、銃砲を放ち、平野部と同様に槍や薙刀、平たい大太刀を振うようになる。
彼らを会津北の防人と呼んだのは現代の会津の先生だが、名門閥の多い蘆名家中で、一風変わった特異な存在になっていく。
四代に渡って桧原の町は町家が増えてきた。いつの頃からか、砂金が採れるようになった。
檜原方面2.jpg
だが桧原の北方、山の向こうに梟雄がいる。
伊達輝宗です。独眼竜のオヤジ殿。
桧原に砂金が採れる噂を聞いた輝宗は、桧原を直接抜いてその先にある豊穣な会津盆地を喉から手が出るほど欲しがっていたのだ。
(写真提供、ナワ~ルド峠おやじ氏、ありがとうございました。)
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個人的な感想 [会津]

歌が披露された。
「もののふの猛き心にくらぶれば  数にも入らぬ我が身ながらも」
「父兄のをしへたまひし筒弓に 会津心の弾や込めなん」
早くね?.jpg
この二人、もう仲良くなっちゃうの?
「竹子様と私、使うところは違うけんじょ、思いはひとつですね」
八重さんなんちゅう青くさい台詞を。言葉に出してしまうことで安っぽくなる。
脚本家は誰?打ち解けるのが早くないか?八重は男装して城内に入った、竹子は入場できなかった、その時までガチでいて欲しかったな~。

風間杜夫さん、お疲れでした。。。
風間杜夫.jpg

今日はこれだけ。
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店名は伏せます。 [居酒屋]

4月1日付の歓迎会&俺らの都内復帰会が開催された。
(さすがに出戻り会という表現はされなかった。)
上役を小会議室に呼び出し、理路整然とねじこみ、きっちりカタをつけたジャン妻はスッキリした表情で私に、「参加するんだよ」
「ヤダよ、出たくねぇ」
グズグズ言ってる私。
「ダメだよ。彼が気ぃ遣ってくれたんだから」

その彼、若手の幹事は、この会が会社経費NGになったので会費制にチェンジし、お偉いさんから幾ら幾らっていう算段をしなきゃなんない。
会のゲストは、私、ジャン妻、昇格した雪子、過去に登場した某女性、新規に加入した2名、6人もいた。私も含めて6名は無料という触れ込みだったが、それだとさすがに他のメンバーの負担が大きい。
そこで「出戻りからも幾らか貰ったら?」という心無い発言が出たのだが、一人、打算的な女性が、
「○○さん(私のこと)からも1000円くらいぃ~どうですかぁ~」
1000円?
安く見積もられたもんだぜ。一桁多く出しましたよ。幹事は「いいですいいです」って固辞してたけど、「齢50にもなってタダ酒なんかマズくて飲めるか」って強引に渡した。

その女性はまだ喋り足りないらしく、「会場のそのお店、OPENしたばかりでしょう?大丈夫?要領悪くない?注文しても遅いとかさぁ」
居酒屋慣れした俺の不安を煽るようなことを言う。
その店、チェーン店だが、最近OPENしたばかりではなく、「いや、もう半年か1年してますから」とのことだった。コースで安かったみたい。

だが、どんな安いチェーン居酒屋か検索してみたら・・・

凄まじい口コミだった!![たらーっ(汗)]

冷凍食品をオーブンで焼いたような感じの料理・・・
レンジであたためただけでは?
こんなんでよく営業出来てるなというほど不味い料理が出てきた・・・
後味が悪くなるので送別会には利用しないこと・・・
料理が不味すぎて金額に見合わなすぎる店・・・
最悪にまずい忘年会だった・・・
口コミ通りのひどさ・・・
もう二度と行きません・・・
無理だろうけどこれを見たら改善していただきたい・・・
この店を選ぶ人たちは後悔することを前提に来店を・・・

こりゃヒドいな。ここまでヒドい口コミは見たことない。
ここまで言っていいのかね。いい投稿は2/10件ぐらいでしたよ。何が出ても、何が起きてもいいように腹を括った。

ひでぇ口コミに怖気をふるったその店は雑居ビルの最上階にあった。2台しかない小さいエレベーターが渋滞する。
和風、京風をイメージしたチェーン店だが雅やかさは皆無。ウナギの寝床のように細長い座敷席で横幅は畳一畳分ぐらいしかなかった。WCに行く時は立ち上がって歩く際、出席者の後頭部に膝蹴りを食らわしかねない。それくらい細くて狭い。座敷をトコトン区切って集客して詰め込んで儲けようという魂胆が見える造作だった。
社長はメニューを見て、「ずいぶん飲み物があるんですね」とか言ってたは私はそうは思わなかった。眠っている上州の記事で、ドリンクが230種類もあった異様な店を知ってるから。
2時間制のノミホです。

会の冒頭、社長から、「1年間の転勤、お疲れ様でした云々カンヌン」の挨拶があったが、座が乱れて来た頃、「社長、私は別に上州で疲れちゃいやせんぜ。こっちに戻ってからの方が疲れる。ウチってこんなに騒々しい事務所だったですかね。俺の席の前も後ろもガヤガヤ騒がしいし。少し黙れよって。もうちょっと静かに仕事できんのかって思いますよ。」
後でジャン妻は「そんなこと言ったのっ?」って呆れてた。
そういうジャン妻だって、「この人(ジャン妻)は群馬で○Kg太ったそうです」って発言した上司(男性)の顔を・・・(本人から許可が出なかったので、何をやらかしたかは書けません)

細長い席なので、座が乱れても移動は全くなかったその2時間、雪子は俺の隣にいた。かつて、雪子、Yoko、肉子たちとの集まりはもう過去のものになりつつあるようだった。
料理は。。。まぁこんなものかなっていうシロモノ。私は無理に喰わなかった。まぁまぁ食えるのもあった。口コミの通り、冷凍食品だなこれはっていうのはその通りだったと思う。
肉野菜炒め.jpg揚げ物.jpg
 ↑ 豚バラ肉の肉野菜炒めなんか宴会に出すかフツー???

処理済~解散風景の一部.jpgおやって思ったのは、日本酒が薄いんですよ。これって水で薄めてんじゃないかいっていうシロモノだった。ノミホの日本酒はどんな酒使ってるか見えないしわかんないからね。

妙に長く感じた2時間だったが、行事というかお付き合いは無事に終わりました。
店の名前は伏せます。トテモ出せません。
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晩飯記録 [自宅グルメ]

今日は上州のブロダチ、チエさんのBlog風にいきます。

ジャン妻が1年ぶりに揚げ物をしてくれた。
家で揚げ物なんか1年ぶりです。上州は台所が狭かったので一切、揚げ物をしなかった。揚げ方を忘れたんじゃないかって心配した。
揚げ油の音が愛しいゼ。
愛しい揚げ油.jpg揚げ物盛り合わせ.jpg
イロイロ揚げてくれた。揚げ方は忘れてなかった。
ところが、俺が買って来たアジの開きフライ用をド忘れしやがってからに。。。[むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]

牛肉の載っけ盛り。
野菜炒めの上に、脂の少ない薄切り牛肉を焼き炒めて載せる。
ポイントは、脂が少なくて高い肉を買うんです。

牛肉載っけ盛り.jpg質素な夕餉.jpg
テーブルの向こうに崎陽軒のシウマイがあるのはご愛嬌。ポケットです。
「アタシの作るおかずだけじゃ不満なの?」
(これだけだと不満だよっ。)

マリーズのカレー.jpg崎陽軒のシウマイと並んで、ウチで唯一お惣菜OKなのがこれ。
これは美味しいよねぇみみんさん。
1年不在だったので店を心配してたら営業してた。私のことも覚えててくれた。







ウチでは鍋は私の担当。
これはダシです。
ダシ1.jpgダシ2.jpg
昆布、鶏ガラ、コンソメ、キャベツの芯と葉が入ります。芯には斬り込み・・・じゃなかった、切り込みを入れておきます。タマネギの真ん中の部分、ネギの青い部分や外側を剥いたのも要れます。
野菜で甘味を出すんです。日本酒は入れますが、砂糖は入れません。
(数年前は砂糖を入れてたんですが、砂糖を入れると人工的な甘さになってしまうので。)

冷凍しておいた鳥皮や、ニンニクもちょっとだけ入っています。
大根やニンジンの下茹でもこの状態で入れておく。加えて醤油を少し。味噌も感じられない程度に少し。胡麻油も少し。
そしたら山岡家の塩ラーメンみたいに、表面にうっすら油膜が広がり、味見したら火傷した。

つくね入りは、スーパーで買って来たんじゃないですよ。挽肉を買ってきて私がこねたの。
先日、せっかくイロんな屑野菜でダシを取ったのに、邪道中の邪道、カレー鍋にしてしまった。あまりダシ取る意味なかったかもね。
つくね鍋.jpgカレー鍋.jpg
サラダ.jpg
マリーズのカレーとか、私が作った鍋の時は、ジャン妻が申し訳程度にサラダを切る。
ところがサラダ程度で「アタシも今日、一品作ったからね」とデカいツラをして、料理したカウント数を稼ぐんです。
写真のサラダ、これくらいならまぁいいけど、時にはレタスをぶっちぎっただけの鶏のエサみたいなのにピエトロドレッシングをまぶした程度の粗品以下のサラダを出してエバりくさってるからね。



シチュー.jpgジャン妻はニンジンが嫌いで、私が買うとムクレる。
私はニンジンスライスを彩の意味もあって鍋ん中に入れるんだけど、ジャン妻はムクレる。「あっ、こんなにニンジン入ってる」って非難したりする。
「カレー(シチュー)にニンジン入れなくっていいよね」(ジャン妻)
入れなくていいわけない。ニンジンは必要です。





刺身三点盛.jpg刺身三点盛
最近、マグロを喰わなくなった私です。カツオの時が多い。
白身はヒラメ。
肝付でカワハギが喰いてぇなぁ。







キムチ炒めは私の担当。
キムチを炒めて、豚バラを炒めて、ごま油をたらして、溶き卵をタラリ。これだけ。
私はアウトドア、バーベキューが苦手なのだが、一度、職場のバーベキューに誘われてこれを作って振る舞ったら大好評だった。
キムチ炒め.jpg肉野菜炒め.jpg
そういえば上州で、もと田舎娘さんに「ジャンさんって鍋しか作らないの?」みたいに言われたことがあるぞ。
鍋だけじゃないやいっ。
「鍋以外にはこれだけじゃん」(ジャン妻)
ホントは、後片付けをヨロシクってのが主婦のホンネかも知れないねっ。田舎娘さん。
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大将~本牧館 [グルメ]

今日みたいな天気のいい土曜か祭日の朝。
「大将いきたい」(ジャン妻)
「いいけど・・・」
「でもライス止めにする」
「・・・???」
ジャン妻は上州で〇った。
でもたかが「大将」の半ライスを1食抜いたって大勢に影響ないだろうに。先日の「鳥佳」でも親子丼を一人でペロッと平らげてたからね。

洗濯機を1回か2回まわして干してからくるまで出かける途中、結局、意志が弱いのか決心が鈍ったのか、「ライス食べる。キムチ止める」ってことになった。
大将.jpg
オヤジさんと若い衆.jpg
「オヤジさんがいる~」
「戻って来たんだよ。間門店から」
「ゴマ塩どころか、白髪、真っ白になったね」
そりゃそれだけの年齢なんだから。だが年のコウか、今日のラーメンのスープはなっかなか唸らせる出来栄えだった。
「やっぱおヤジさんがいないとな~」
このセリフ、オヤジさんに聞こえないように言った。

店には求人の貼り紙がまだ貼ってある。決まらないのかな。まさかこの貼り紙見てオヤジさんが再度、応募してきたんじゃないだろなって悪態をついた。
セット.jpg
今日はオーソドックスに.jpg

「大将」から本牧館に向かう。
本牧・・・ここは転職前の職場だった。
私の乱暴な言葉づかいや変な比喩、会社の上下関係に対してやや常軌を逸したものの見方は前職で培われたといっていい。
10数年いた。時々思うんです。前の会社ってまだあるんだろうか。

本牧館です。
本牧館.jpg
前職の相棒(女性)がここのパンが大好きで、彼女に紹介してもらった。
その女性はコブタのマンガみたいな顔した女性で、まっこと失礼ながら私は「オイ、ブーちゃん」呼ばわり。すると怒ってお返しにクリップを投げつけてくるんです。
私の冗談や毒舌があまり度が過ぎると1週間くらい口を利いてくれなかったりしましたね。それでも長い目で見て職場では私と上手くいってた。

「本牧館」はイオン本牧の近くにある。旧マイカルである。
この辺りは戦後、故・柳ジョージさんが唄った”フェンスの向こうのアメリカ”だった。
米軍の居住地だったのが返還され、バブル時の1988年に再開発を行った大型複合ショッピングセンターの先駆けだった。
MAXで12館くらいあって、生鮮食品や生活用品はもとより、高級ブティックや宝石、時計、シアター、ライブハウス、スポーツクラブ、ホテルもあったと思う。
そのコブタ女性と、旧マイカルにあったライブハウス(ホール)へJAYWALK(当時はJ-WALK)を観にいったことがある。例の曲がヒットした頃だった。
当時のJAYWALK.jpg
マイカルは、横浜の新名所、みなとみらい21に負けたと私は思っている。
みなとみらい21地区を経由する東急~みなとみらい線が元町・中華街駅でENDになってしまい、ここまで伸びなかったのも経営が悪化して衰退した要因ではないか。
現在はテナントが撤退したり、建物ごと解体されたり、マンションになったりしている。
(マイカルが衰退したので、本牧の電車通りの商店街は生きのこったともいえる。)
HPから.jpg
コブタ女性は今でも、ここ「本牧館」に来てるのだろうか。当時は時折、ギクシャクしながらもお互い支え合っていたが、今は当時の仕事関係者の訃報ぐらいしか連絡をよこさない。

ジャン母への土産と一緒に、定番、バターフランス他を購入。
(CKBの剣さんもここのパンを食べてるだろうか。)
時には、本牧館の前にある酒のディスカウントに寄ることもある。クラシックラガー大瓶をケースで購入します。
店内1.jpg店内2.jpg
その日の夜はこれ。
本牧館のパン.jpg
本牧館でパンを買うと自然とこうなるんです。
ジャン妻はニンジンが嫌いで、「ニンジン入れなくってもいい?」
冗談ではない。私は茹でたニンジンが大好きなのです。煮物でもカボチャは喰わないけどニンジンは喰います。ステーキやハンバーグにバターでソテーしたニンジンがついてたら感涙します。
「ニンジン1本でいいよね」
ホントは2本欲しいんだが。
ポテト、オニオン、ニンジン、スナップエンドウにブロッコリーも入ってた。
シチュー.jpg
今日の「大将」~「本牧館」コースはくるまで移動するんですが、前職は本牧までくるま通勤だったので馴染み深いルートなんです。
天気がよくても遠出したら渋滞するなっていう時、これだけのドライヴ、時間にしてわずか2時間もあるかどうか。でもその程度でいいんです。その間に少しは洗濯物が乾いてるか、下に落ちてるか。
夜はスカパーの洋画を観て過ごします。
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せたが屋 朝らーめん [ラーメン]

せたが屋1.jpg
せたが屋2.jpg
この店は世田谷区の発祥らしい。世田屋ではなく「せたが屋」です。何がウリで、どういうタイプのラーメンかは知らないのですが、京急鶴見駅にこの「せたが屋」があった。鶴見区役所へ公用があった朝です。
店の前に、こんなボードがあった。
ボード.jpg
「朝らーめん8:00~10:30※10:25ラストオーダー 地鶏と昆布で出汁を取ったあっさりしょうゆらーめん 体にやさしい せたが屋京急鶴見」
時計を見たら10:00過ぎだった。公用を済ませたら京急川崎駅近くの丸大ホール食堂に行こうと思ってたのをシフトチェンジしてこの店へ突入。
店内は誰もいなかった。
10:00だと朝飯という時間帯は過ぎてるし、昼飯には未だ早い。この時間帯でらーめんなんぞを喰ったことで、その日の夕方から猛烈に腹が鳴って後悔するのだがそれは後のこと。

せたが屋の店内に券売機があって、朝ラーメンだけ買える状態になっていた。
480円という価格はまぁまぁ良心的ではある。ただ、あまり期待はしなかった。私が過去に喰った一番安いラーメンは上州高崎市内のすみれ食堂350円だが、スープは美味しかったが具はショボいものだったからね。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-23
出てきた480円の朝ラーのスープは魚介系、煮干しの香。いい味をだしていた。麺は細めのストレートで、コシもボリュームも普通にあった。
朝ラー1.jpg
チャーシューが1/3きれ程度のチビたのが1枚、メンマも小さかったが、薬味ねぎはまぁまぁ入ってたし、海苔も1枚、半熟玉子も半分入ってたからいいでしょう。世田谷区は環八(環七だっけか?)通りも含めてラーメンの激戦区だし、そこから生まれて各地へ広げただけのことはある。
朝ラー2.jpg
これだけだと何の変哲もない記事だが。。。
書いちゃっていいかなぁ。衝撃的なシーンを目撃したんですよ。当事者には悪いけど。
処理済~店主代理とおぼしき人.jpgしばらくしたらこの位置に彼が座った.jpg
店ん中、最初、客は私だけだったのだが、後からスーツネクタイのサラリーマン1人と、若い・・・とはいっても30台前半かな。私服の男性が一人、入店してきたんです。
その男性、彼は、券売機でじーっと立ちすくんでいた。朝ラーしかないのだが、すぐに購入するでもなく、じーっと立っていたんです。
券売機は私の真後ろにある。ずっと立ってる気配がある。私のラーメンを作ってくれた店主か店主代理とおぼしき男性が、「朝ラーです。真ん中のボタンです」って彼に教えてた。どれを押していいかわからないと思ったのでしょう。
彼は私から、3席空いた左の席に座った。

ふと見たらその彼、眠たそうなんです。ウトウトしてる。朝帰りにしてはもう10時過ぎてるし夜勤明けだろうか。
その彼にも朝ラーが供された。女性店員さんが「お待たせしました」ってゴトッと置いた。

私は殆ど喰い終わり、魚介煮干しスープを最後の一口すすって水をガブ飲みし、さぁ出ようと思って顔と目線を入口に向きかけたら、その彼がまた視界に入った。
ウトウト船を漕いでるんです。
喰ってない。アタマが、顔が重たそう。
大丈夫かコイツ?と思いながら、私は席を立つ体勢になった。券売機の前金制だから喰い終わったらいつまでもそこにいる理由はない。店外に歩きかけたらその彼のウトウトウツラウツラの揺れが大きくなり、とうとうアタマ、顔が前にのめって、朝ラーメンの丼ん中に顔面をモロに突っ込んだんです。
ベチャッて音がした。丼こそひっくりかえさなかったがカウンターにスープがブッこぼれ、彼の顔面と前頭部、羨ましいくらいにフサフサした前髪は魚介スープでベッチャリ濡れ、軽い火傷もしたのか目をこすってる。
店はちょっとした騒ぎになった。スタッフの女性が、自分が粗相をしたように、「大丈夫ですか?すぐお拭きいたします。店長、タオルぅ・・・」
そこから店ん中で献身的な介護が始まった。

彼は恐縮してた。「スミマセン、徹夜明けで・・・ホントにスミマセン」って謝ってた。
店側だって顔を拭くことしかできない。もしかしたらWCで顔を洗ったかもしれないが、そこまで立ち会う義理もないし任せて店を出ました。
だが人の悪い私は外に出てから吹き出してしまい、ラーメンで顔を洗うなよって独り言を思ったら、申し訳ないけど笑いが止まらなくなってしまった。

プロレスの暴露本で有名なミスター高橋氏の昔の著書で、ディノ・ブラボーというレスラーがよく料理の皿にアタマを突っ込んで寝てたという。これは筋肉増強ステロイドの副作用らしいがそれを思い出した。でも彼はそういう体付では全くなかった。
でも軽い火傷ぐらいはしたと思う。目とか大丈夫だったかな。喰ったのだろうかそのラーメンを。
せたが屋3.jpg
せたが屋の朝らーめんのコピーには、「朝からおいしいラーメンを食べて今日1日を気持ちよく過ごしましょう」とある。
顔を洗ったラーメンはどんな味だったのか。
彼はその日をどう過ごしたのか。それは知らない。書いちゃってゴメン。お大事に。グッドラック。
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魚金 [居酒屋]

魚金4号店.jpg
有名な店ですね。
立ち飲みから何号店まであるんだろうか。今回、予約が取れたのは新橋の4号店。(土)なので2時間きっかりです。
店の場所はわかり難く、他の○号店で場所を聞き、こりゃぁ後から来る人はワカランと思って時間ギリギリまで路地に立ち、後から来る参加者を待った。
その間、見てたら、満席で断念した飛び込み客も多かった。予約してない場合はよほど少人数か、運が良ければ隙間をぬって入り込めるかも。
予約して来たら目指すお店が違っていて「○号店はこの先の路地を右に曲がって・・・」店員さんが場所を案内している光景も見られた。
HPを見たら24店もあった。
あまりきれいな店頭ではないが.jpg店頭はあまり美しくない。
店頭にダンボール山積みになってたりしてる。知らない人が見たらソソらないだろう。有名店だから気を遣わないのかな。
「美しくないなぁ」って思ったが、この店は美味いもの本位の実質料理。安くて活きのいいネタなんです。
反面、人気店=集客数が多いから、それ以外の部分は低い。期待しない方がいい。早くさばいて回転率を上げる姿勢がミエミエだが気にしないこと。
喰う居酒屋です。じっくり語らう居酒屋ではない。私は店に一歩、足を踏み入れた瞬間すぐにわかった。なので端っから時間の許す限り、「喰ってやる」っていうモードだった。
お品書き.jpg
今回、魚金を選んだのは私ではなく東京の部下(女性)。
「上州で肉ばっかり食べてたからお魚が食べたいでしょう?」という気遣い。
「ハデ子さん(仮名)も来るよ~、話きいてあげてね~」
派手子が。。。?
新キャラです。
昨年、「話があります」って上州に来たことがある。別にもう一人、2人で来た。2人とも美人で、陶器の天然ママの店につれてったらママは今でも言っている。
「あの時の女性はオキレイでしたね~。あんなキレイな方が部下なんですか~ウラヤマシイ~。キレイな部下のいる東京に早く戻りたいでしょう」なんて言ってましたね。

そのハデ子は今春、雪子と2人で主任に昇格したが、い~っつも仕事で屈託を抱えている。
いろいろハナシたいことがあるみたいだが。。。う~ん。。。この店はしっかり魚を食う店で、悩みを聞く店ではないのだ。

ジャン妻と4人です。
最初に刺盛をドーンと頼むこと。貝盛は別になります。
ハデ子は私の隣にいる。
刺盛.jpg
ハデ子は数年前に私が面接した。そん時は今ほど派手じゃなかった。一目みて気にいったので、こりゃ採用しよっと。
後で本人から、「○○さん(私のこと)、私と面接の後半、居眠りしてましたよね」
私は面接官にあるまじき態度だったという。居眠りした記憶はないのだが記憶がないくらいに眠ってしまったんだろうか。私は派手子が気に入って、こりゃ採用決定って安心しただけなのだが。。。

いつからか、ある時期から髪型やメイクが派手というかケバい雰囲気になってきて、社を束ねる伊東甲子太郎という管理職は昇格させるのに躊躇した。
「あの人はメイクと髪型がもうちょっとなんとかなれば・・・」
ジャン妻は、「だったら髪を黒くしろって言えばいい。言えば彼女は黒くするわよ」

ハデ子と人間関係が構築されていくなかで感じたのが、内面的な部分や考え方がおっそろしく古風なオンナだったのである。
内容は具体的に書けないが、イマドキの女性に珍しいタイプ。
書ける範囲のネタを思い出した。待合で子供さんが派手子のパンツに嘔吐したんです。若い女性ならドン引きになるところ、派手子は自分の服装の汚れを気にせず子供さんを手当てし、オロオロするお母さんを宥め、平然としてた。
その後で、幾らなんでもこのニオイ、汚れでは仕事ができないなと。近くのジーンズショップに買いにでかけた。
買ったのが彪ガラのパンツ。
バッグも彪ガラだったので、店に再出勤した派手子はまるで夜の仕事にでかけるおねーさんみたいだったという。彼女がそういう世界にいたわけではない。単にそういう柄の趣味なんです。

ハデ子は俺らに話があるみたいだったが、何しろ「魚金」は語らう店ではない。限られた時間内で、いいネタを安く多く食わせる店。元気を与える店なんだな。時間の中で喰わないと損な店なんです。時間ギリギリになっても最後まで腹にカッコんだからね。
なんだったかな.jpgマグロカツ.jpg
貝と巻物.jpgポテサラ.jpg
何だったかな。美味かったけど.jpg炒飯?何故にこの店で?.jpg
私はガツガツ喰ってばかりいたが、派手子は涙ぐんでた。聞いてみたら、
①仕事の内容の不満。
②主任に昇格したが、お給料に見合う仕事をしていない。各方面へお役に立てないジレンマ。
③家庭の事情。身内に看護が必要な目の離せない病人がいて、長くは家を空けられない。
④現在、配属されてる支店長への不満。
会社のお役にたちたいんだけど、支店長が離さないみたい。支店で会社(本社)の仕事をしてると支店長が「お店ではお店の仕事を優先してください」
それは正しいけど。ハデ子に会社の仕事を与えたのは伊東甲子太郎だが、ハデ子の支店長と伊東は仲が悪く、支店長が伊東に含むことがある。ハデ子は板挟みになっているんです。

私も前と違って人事の決裁権はないのでその場で即答はできず、聞くだけに留めた。
②で悩まれても俺は困るんだよね。「アタシは昇格した分の仕事をしてない」ってグチるんです。機が来るまで黙って手当貰ってりゃいいのにさ。
「悩まない考えないクヨクヨしない」って言いました。

あっ、ハデ子本人は自分が派手、ケバイって言われてるのは周知しています。私が一度、支店に電話して、誰が出たんだか忘れたが、出た社員に、
「ハデなねーちゃんはいるかい?」
「???・・・ちょっとお待ちください。ハデなねーちゃんはいるかって?」
「そりゃアタシのこと?」
本人に伝わったのが2年前。今ではメール本文の最後に“派手子”ってなってる。
私はトボケて、「誰がつけたんだ?お前、自分でつけたのか?」
「さぁ、誰ですかねぇ(ニヤニヤ)」

処理済~交差点で.jpgハデ子は主任に昇格した。
でも釘を刺されたそうです。黒髪とはいわないがせめてもう二段階ほど髪の色を落としなさいと。
「・・・って言われました」
「俺に髪の話題を振るな」

魚金については、「一度、行けばいいかな」っていう印象です。きっかり2時間で追い出されました。
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河より低いBAR [BAR]

上州で人情居酒屋、個人の小料理屋、若くして店主となって頑張ってる小さい店を堪能した。
私自身の嗅覚も磨いたつもり。
だが、残念なことに、不在だった1年間の間にクローズした店もあった。「鳥佳」や「昇」くらいしかないのです。
横浜でどういう店を開拓しようか。路地裏の居酒屋を探しているのだが、今んとこ、これといったのが見つからない。人がそんなにいなくて、趣のある店のある路地はないか。。。

あるBARを思い出した。
そのBARへ行くのは1年半か2年ぶりかも。まさかクローズしてないだろうな。
「電話したら?」(ジャン妻)
店の名前すら忘れてしまったのだが、i-Phoneで何とか検索して電話したら、
「ハイ、シンクタンクです」
このシンクタンクは私の聞き間違いだが、シンクタンク?店名が変わってた。まさかクローズしたか。
「Gさん(マスター)はいますか?」
「ハイ、Gです」
「今日は開いてます?」
「大丈夫ですよ。何名さまでしょうか?」
2名、大丈夫だって。
「店名が変わったらしいぞ?」
「Gさんいた?」
「いた。声は間違いなく彼だった」
店名が変わった.jpg
河より低いBAR、Cinq Sens
かつてはGrand Caveといった。ゲストの兎と竜さんと3人で来たのが最初。
Gさんはいた。「お久しぶりですね」
覚えてたか私を。1年半か2年ぶりではないか。転勤中だったことも話した。
BAR.jpg
いい店なのだが行った回数は少ない。
石川町は私の生活圏ラインからはちょっとだけ外れている。乗継の関係でどうしても関内駅を経由することが多く、それほど離れていないのに、一駅外れるだけなのに、やや足が遠のいてた。

ジャン妻と最後に行ったのは、クリスマスイブかその前日。ったら貸切・・・というか、立ち飲みスタイルのバール形式でその時はご遠慮した。
実は夕方17時に行ったらまだ開店前で引き返したことがある。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-05-23

「名前、変えたんだ?」
「ハイ、以前の名前、Grand Caveは・・・」
前のオーナーさんに返したようなことを言っておられた。
「今の店の名前、しんくたんくって何?」
「サンク、サンスです(笑)、五感を表す意味で・・・」
「Cinq Sens」はフランス語で「五感」を意味する。お客様の五感をリラックスさせる店という想いがこもっている。
五感ともう一つ、マスター、Gさんの本名にひっかけてもいる。

私らは洋酒、ロックを飲んでいる。
「前はカクテルを飲まれてましたよね」
「うん。前はね。」
「カクテルに比べたら、今、お飲みになってるのは格段に強いですよ」
そうなのか。以前はガラにもなく、雪国、バラライカ、ギムレット、そんなのを飲んでいたが、もう50歳の大台になったし、自分のこの風貌にはカクテルは似合わないと思ったので。
ウイスキ.jpgダブル.jpg
Gさんは常連さんとTALK。
もう一人、ダンス&ボーカルユニットにいそうな男性がいた。Gさんが厨房に消えたスキに、
「Gさん厳しいかい?」
「えっと・・・」
男性は固まった。
「またそういうことを聞くっ!!」(ジャン妻)
あっ俺の会話を遮ったな失礼なヤツ。その後、「給料ええんかい?」が聞けなかったじゃないかっ。

処理済~若きGマスター.jpg前の店名、Grand Cave(凄い酒蔵の意)は前オーナーの商標でお返しして、新たにGさんの店になった店内はGrand Caveのままだったが、改装工事に入るそうです。
見たら、この店のカウンターは幅広い。椅子にも特徴がある。
「カウンターの幅広さに価値があるんです。今、そうやって座ってらっしゃいますが、この椅子はどんな座り方をしてもリラックスできるんです」(Gさん)
カウンターはL字のコーナー部分が円になっている。こういう形状は高いんです。「高いでしょ、まさか壊さないよね」って言ったら、カウンターと椅子はそのまんま残すって。

アテ1.jpgアテ2.jpg
そんなに飲み過ぎない程度で出ました。名刺がなかったので電話番号を渡した。
「案外といい街じゃない」(ジャン妻)
私もそう感じた。日曜だったので閉まっていた店が殆どだったが、小料理屋、串揚げ屋、肉料理屋、BAR、焼き鳥、モツ焼き、広くない路地に小さめの店が寄り添っていたのです。石川町ってこんな街だったかな。
石川町周辺地図.jpg
石川町界隈は二つの顔を持っている。
私らが降りた改札南口は元町や山手に繋がっている。北口は寿街に直結する。
駅とJR根岸線は、下を流れる川(何ていう名前の川なのか)と川の上を流れる首都高湾岸狩場線と十字クロスしている。川の向こうは寿街に繋がる松影町、こっち側は山手なんです。

ついでに言えば、それを知ってか知らずか、元町の買い物客は石川町駅の南口に吸い寄せられる。「Cinq Sens」のある石川町2丁目、亀の橋を渡れば寿街の入口です。
関内から一駅、離れていることもあって、この辺りは穴場かも知れない。
何となく私が住んでいた上州の裏通りに似ているように感じた。
Cing Sens.jpg
その亀の橋の袂にある。河より低いBARです。
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SHOW~素晴らしき創作料理 [居酒屋]

看板.jpg
元気に商い中.jpg全席禁煙中.jpg
居酒屋味酒覧.jpg昨年、5周年を迎えた時に、マスターがこの本を手に取って嬉しそうに・・・
「載ったんですよ・・・」
太田和彦氏の居酒屋味酒覧第三版に、この店が載ったのです。107頁と108頁、1枚の頁の表裏に載っています。

創作料理の店です。
創作料理の居酒屋というと、未完成っぽくて全然たいしたことない料理を出す店がよくあるが、この店は完成された創作料理の数々をしつらえた料理居酒屋です。
オシャレな内装、若干高めの値段と、店内を完全禁煙にしたので・・・(・・・これは凄い改変である)客層は変わったように思う。女性客や若い男女がトテモ増えました。

海老いっぱいおから・・・
これは前からのもの。
おから.jpg
美容鍋・・・
定番の名品、牛筋旨煮が進化したもの。昔は醤油味だけだったのが塩味が加わった。
美容鍋.jpg
塩味の肉じゃが・・・
肉じゃがは醤油味(春、秋)に塩味(夏)、味噌味(冬)が加わった。
そしたら塩味の肉じゃがは夏バージョンだったのが、「何だかわかんないけどよく出るのよ」(奥さん)
年間を通して定番に昇格する。
その代わり、冬バージョンだった八丁味噌味の肉じゃがが消えた。
塩味の肉じゃが.jpg
蓮根ピザ・・・
ここに移転してから生まれた人気メニュー。
マスターではなく右腕のヤマちゃんの作。大きさと塩味はその日によってまちまちで、シラスだけで充分、塩味が効いてたり、薄味だったりするムラのある逸品。[わーい(嬉しい顔)]
蓮根ピザ.jpg
もろこし豆腐・・・
昔、季節もので登場した。私が「年間ものにしようよしようよしようよ」ってしつこく言ったのを覚えてる。
もろこし豆腐.jpg
チーズ芋金時・・・
略して芋チー。薩摩芋にチーズが挟まった逸品。
これはお通し3品に入ってる時が多い。
子供の頃、屋台の焼き芋屋から買って、バターをベットリつけて喰ったのを思い出す昭和の逸品。
チーズ芋金時.jpg
ジャガイモとセロリのキンピラ・・・
略してジャガセロリ。これは私は必ずオーダーします。
マスターが包丁をトントントントン叩いている時は、この料理を刻んでるか、何かのタタキを造っている時。
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鰹塩タタキ・・・
近年に登場した超人気メニュー。
カツオをガーリックスライスとオリーブオイルで炙って塩をちょっとつけていただく。カウンターにいると、ジュワー~ッていう油音と、ガーリックの香がプゥ~ンと漂ってくる。
カツオ塩タタキ.jpg
カツオの大きさ、長さ、量はそん時によってマチマチです。
カツオ塩タタキ.jpg
揚げおにぎり茶漬け・・・
ご飯を、おにぎりを揚げ、ダシ茶漬けに付けるという普通はあり得ない逆説の発想から生まれた。
最初見た時は、ご飯を素揚げにするかフツー?って驚いたが、なかなかイケます。
揚げおにぎり茶漬け.jpg
春キャベツもの・・・
この店は春キャベツ、新ジャガ他、タケノコや季節のものに拘る店でもある。
新キャベと牛筋炒め.jpg
新キャベと野菜の酒蒸し.jpg
焼き鳥・・・
どんな凄い焼き鳥が出て来るかと思ったら、案に相違して串に刺してないパリパリチキンだった。串に刺してるわけではないが、美味しいよ。
焼き鳥.jpg
高菜炒飯・・・
塩味の効いた卵なしの炒飯。
締めにオーダーしたらビールが欲しくなり、結局は締めにならず、次の親子丼をオーダーした。
高菜炒飯.jpg
親子丼・・・
〆に必ずといっていいほど食べます。
でもこれは鳥佳とどちらに軍配があがるかな~。鳥佳はいい意味で下品で、この店の親子丼は居酒屋とは思えないくらい上品な味なんですよ。
親子丼.jpg
写真はないけどにゅうめんがある。
前からあったが、ご飯がなくなっちゃった時に仕方なくオーダーした。アサリの塩味が効いて美味かった。

この料理が思い出せない。
ジャガイモのビーフン風みたいなもの。私の中では幻の料理。
なんだったかな.jpg
エビとソラマメの揚げ・・・
八百屋で買うと、ソラマメってその日に茹でて剥かなきゃなんない。皮を剥くのもメンドクサイので日頃は食べないのだが、この揚げはエビ(シンジョ)との組み合わせが絶妙で美味しかった。
海老そら豆包み揚げ.jpg
豚しゃぶサラダ・・・
見ためは大盛りですが、アッサリ腹中に入ってしまいます。
(マヨネーズが欲しいな)
豚しゃぶサラダ.jpg
鱧せんと鰤せん・・・
カウンター目の前に、鱧せんべい、ブリせんべい、二つの惣菜があったので、ハーフ&ハーフで揚げて貰ったの。
鱧せんは前からあった。ブリせんはブリの皮を揚げたものだが、ちょっと塩味がキツいかな。
鱧せん鰤せん盛り合わせ.jpg

この店は厳しい評価もある。
客によってお通しの数が違うぞなんてのがあった。これは久昇時代からそうなんだけど、予約客にはお通しが3品つくんです。
私はフラリと飛び込んだことは一度もなく必ず事前に「空いてる?」って電話します。
必ずお通しは3品です。(でもタダじゃないですよ。)
お通し1.jpgお通し2.jpg
遅いって声もあった。
店を広げ過ぎだって。このご意見はおそらく週末の金曜日かと思うが、週末や宴会時はテーブル席が約30席の3階を開放する。リフトで料理や皿を上げ下げして、厨房は戦場状態になるんです。
人数多い時は3階でもしゃーない。私は一度だけ、satomiさん&kazu旦那&ポルポさんと3階を利用したが単なる食堂でしかなかった。やはり少人数で2階がいいですね。

その日のおススメを盛り合わせる「季節の料理盛り合わせ」というのがある。
これは大と小とあって、その日の料理を小ロットで多品種盛るんです。これが入ると渋滞する。近年は「混雑時はご遠慮いただく場合がございます」なんて但し書きが付くようになった。

ジャン妻との会話の途中で厨房jの戦争状態をを見ながらニヤニヤしてると「観察してないのっ」ってジャン妻から釘が刺される。
店がヒマ・・・と言ったら失礼だが、板さんに余裕がある時は数本ある包丁を研いでる時です。そういう時は提供が物凄く早い。
ガラガラだった時.jpg処理済~板長、昇さん.jpg
料理の数々.jpg
料理以外で評判いいのはWC。
キレイだって。もう時効だから書いちゃうけど、閉店した「久昇支店」(マスターはそこの板長だった)は凄くいい店だったが、信じられないことにWCが男女共同だったんです。
男性客が入ってると店の従業員若い女性客が「使用中だからちょっと待っててね」って止めてたからね。今の店で女性客が増えたのはWCがキレイになったからなのも大きい。

私はWCは一度しか利用したことがない。

いろいろな方をお連れしたが、概ね、皆さん満足されていました。
日本酒は種類は少ないが、藤沢や湘南が大好きなマスターは、秀峰丹沢山、佐渡の金鶴・・・地元、神奈川のお酒にも拘ってるようです。
チロリとお猪口.jpg
帰りの藤沢の光景。
「何となく高崎に似てるな」
「・・・」
「高崎より人が多いけどな」
「・・・」
ジャン妻は答えなかった。
藤沢です.jpg
藤沢の名店.jpg
勘定は安くはないよ。
創作料理ってのは開発費がかかるのかも。
でも、誰を連れてっても、何をオーダーしても、ハズレがない70%以上の居酒屋です。
予約は必須だね。
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戻って来ました [居酒屋]

帰ってきたぜ鳥佳へ.jpg
やきとり.jpg
5月になってからジャン妻と2人、上州から引き上げて初めて行きました。
21時半頃に行ったら、右暖簾のカンターは1人だけ空いて殆ど満席。左暖簾も満席のようです。マスターと目が合い目礼だけ交わした。
女性リーダーで参謀格のMさん(HPに写真が載っていました。)が「(左暖簾の)テーブル席が一組、お会計中なんでぇ、すぐご案内します」
狭い店ん中に立ってるのも何なので、「一旦、外にいますよ」
「スミマセン、お呼びしますから。それと焼き物がだんだん無くなってきてるんですよね~」
「あるものだけでいいです」
外に出た。そしたら左暖簾に3人さんが「入れますか?」と。俺らと同じように外で待機。
左暖簾からお客さんが帰られたすぐ後、右暖簾から1人飲んでたお客さんが出て帰られたのです。
Mさんが「じゃぁカウンターへどうぞ」
こりゃラッキーだった。出てった一人客さんは、おそらく俺らに気ぃ利かしてくれたんじゃないかな。心の中でお礼を言った。

実は2月に一度、来ています。
この時もジャン妻と二人で行った。しめ鯖に感激しました。
ツクネ(タレ).jpgレバ(2月).jpg
肩ロース(2月).jpg沢庵は三浦大根.jpg
カツオ.jpg
しめ鯖.jpg
処理済~焼き方たち.jpgこの時はよく覚えてないのだが、カウンターで、「4月に帰るよ。帰りたくないんだよな」
向こう(上州)で言ボヤくならともかく、この店のカウンターでボヤいた。
「もうちょっといたかった」ってグズグズ言う私は、ジャン妻に、「この店(鳥佳)があるんだから帰って来た方がいいんじゃないの?」って言われた気がする。
私も「そうか、戻ってくればこの店があるしな」って思った。


そして帰って来た。
ネタはあるものだけ。それでも鳥ネギ以外、つくね、アスパラ、肩ロース、つくね、レバ。
レバ.jpg
肩ロース.jpg
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アスパラ.jpg
「鳥佳」には、日本酒の燗をつける一合用のちろりと、重たい二合用のちろりがある。
私はこれまでずっと熱燗で、夏でも熱燗、群馬泉の入る前は竹鶴の熱燗だった。「群馬泉」を一合お願いしたら、初めて見る女性のバイトさんから、小さい一合用のちろりに冷やで供された。
「???」
チロリは燗するものだから、冷やで出すなら舛で出すかコップで出せばいい。でも見た感じの風情としては悪くないし、初めての子だからまぁいいや最初はって黙って飲んだら、「群馬泉」の冷やは飲み口ほどほどで大変ヨロシイ。
そこへ、ダルビッシュに似た男性スタッフが私の手元を見て、「あっ、違う。こっちの重いヤツだよ。」って言いながら、二合用の重たいちろりを持って来た。
よう覚えてんな。
ダルビッシュに似たこの男性は、昨年の1月、燗をつけてくれたのだがぬるかったので、私がマスターに「これぬるいよ」って言った時、マスターは「おいっ、熱燗やり直してっ、中身は捨ててっ」ってやや厳しい指示がとんだのを覚えてる。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-01-25-1
ダルビッシュだんから「すみませんでした」って再度、いただいたのだが、弛緩してた店内に緊張感が戻り、店を出てから、後でマスターに叱られたかな~って思った。
その後もずっとこの店にいる。さすがに私を覚えたみたいで今は目で通じる。
二合にして熱燗の「群馬泉」を口に含んだら、冷やで飲むのと味が違うんです。冷やだとサラッとしたのが、熱燗にすることで適度に重たくなった。
群馬泉のチロリ.jpg
群馬泉.jpg「群馬泉は向こうではあまりおいてないのよね」(ジャン妻)
「えっ、なんでですか?」(スタツフ)
「群馬だから」(ジャン妻)
「だってこれ群馬のお酒でしょ」(スタッフ)
「ラベルに群馬って出てるから」(私)
と言ったのは前橋駅、けやき通り「つくし」の息子さんだった。息子さんは「だってラベルに群馬ってハッキリ書いてあるじゃないですか~」ダサイと言わんばかりだったが、実は私、群馬泉は門前仲町の「浅七」で初めて飲み、なかなかよかったのでその時の記憶がずっと残ってたんです。

昨年、私に燗を失敗した彼が、後輩さんに燗のつけかたを指導してる。それをニヤニヤしながら見てた私は、やはり今の子は熱燗ってのを知らないんだなって思った。
熱燗は難しい。酒にもよるし、お客の好みもバラバラで、熱いぬるいはその時の気温にも左右されるから。1杯めがぬるくても、二杯めからは熱々になったりするし。
料理人が別にいて、店主は酒だけ管理してる店でないといつも均一にならない。
銘酒、群馬泉を、最初は冷やで、そして熱燗で、その違いを発見できた。
「何故にここで群馬泉?」(ジャン妻)
「さぁな」
誰が持ち込んだんだろう。群馬県太田市の島岡酒蔵の関係者が来たのだろうか。
キャベツ酢漬け.jpg
「もう戻られたんですか?」
「ハイ、泣く泣く戻りました」(私)
「笑 どこがよかったんですか?」
「家の近所に、こういう居酒屋さんが数軒あったの。若くして店主になってる人が多かったので。応援したくって」(ジャン妻)
前に訊いたことがある。いつか独立するの?って。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-10-30
返って来た返事は、「この世界では誰でもいつかは自分の店を持つっていう夢がないと・・・」だったので、「あまり若くて独立、若くて店主っていうと、この方もそういう夢持ってっから、辞めて独立しちゃうぜ」

焼き鳥屋とは思えないくらい丁寧なナメロウ。
ナメロウ.jpg
マスターが、「良かったらサザエ」
まだ生きているサザエはトレイの中に5個くらいあった。「どれにします?」
ジャン妻は「どれにする?アナタがそのサザエの運命を決めるのよ」
1個選んで、そのサザエの運命は決まった。「この人は刺身で。私は肝を焼いてください」
サザエ.jpg
焼き物が品薄なので、キャベツ酢漬け、煮込み、焼きおにぎり、親子丼ならぬ他人丼、煮込み丼、スープ。
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焼きおにぎり.jpg
煮込み丼.jpg
他人丼とスープ.jpg
カウンターには赤ちゃん連れのご夫婦もいた。赤子のウチから焼き鳥の香、焼いた煙を纏ったらどういう大人に育つんだろう。
そのご夫婦も入れて満席だったカウンターがいつの間にかガラガラになった。俺らだけかと思ったら、小テーブル席に男女がいた。静かだなと思ったら手話で会話されてる。その男女を微笑んでみつめるマスターとMさんの眼差しが優しい。
処理済~まさか親子?.jpg処理済~マスターとナンバー2.jpg処理済~焼く人たち.jpg処理済~マスター1.jpg
「少しは帰って来た気になった?」(ジャン妻)
「・・・」
「アナタの場所はここよ」(ジャン妻)
「・・・」
それはそうなんだけどな。確かに帰って来た気がする。この時はそう思った。

だが。。。

先日、Upしたが、ある心無い上役の出戻り発言で俺は傷つき。。。(曝)、憮然とした私はジャン妻と同時に社を出て、「鳥佳につきあえ」
ヤケ酒を飲もうと誘ったのである。最初はカウンターが1席空いて他は埋まっており、小テーブル席に向かいあった。しばらくしたらカウンターが2席以上空いたので、看板娘さんの気遣いで移動したが、自然と先刻言われた出戻り発言の話題になってしまった。あの言いグサはヒデぇよなの世界。
ジャン妻はプンプン怒ってる。
「こっちまで聞こえたわよ。」
「4回言ったよね出戻りって。」
「アナタにしてみりゃ2年って言われたのを乞われて1年で切り上げて引き上げたのにああいう言いグサってないよね」
私はその上役の心無い発言は若気の至りだと思っている。自分も覚えがある。一時期、無理矢理上がった時期があった。他に人がいなかった。私自身の中身や教育が伴わず上がり、思い上がって周囲を傷つけた時代があったのだ。
だが、自分には注意していくれる上役がいた。今は若い世代になったのでお互いを庇っている。
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「アナタは何でその場で言わないで、アナタからも会費1000円徴収、それに喰いついたの?」
「さぁな、安く見積もられたからかな」
その後、主催した幹事さんからは、歓迎会対象者の雪子ともう数人と、復帰会対象者の“出戻り”私とジャン妻は会費無料のメールがきている。
「俺ぁその飲み会、出たくねぇ」
「ダメよ。それは気ぃ遣ってくれた○○(歓迎会&復帰会の幹事)に悪いし。彼は社長から稟議がOK出なかった時、だったらやってられませんねってそこまで言ってくれたんだからね」
そこまで言ったのか。だが、「何でOKにならなかったんだ?」
「現場だって社員の交際費は認可されてないのに、本社だけそういうのはOKってのはダメだって」
それはわかる。「じゃぁ金だけ渡して不参加」
「ダメ。アタシが明日(上役に)言うから。ちゃんとオトシマエつけてくるから。そしたらアタシと約束して。参加するって」
「俺は?」
「アナタは出なくていい。相手を上役と思わないし、激昂して余計にこじれるから」
「・・・」
ジャン妻は翌日、カタをつけて来た。
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こんな会話は店のスタッフ、マスターに聞こえただろうか。小さい店だし、カウンターと店側の距離が近いから。
グチ、憤懣の合間にふと気づいたら、マスターがニコニコしながら私の手元を見てる。私は三杯目の生ビールを飲んでたのだが、私にしては生ビール三杯は多い方で、マスターは「あれ?まだ日本酒じゃないの?」といった怪訝な表情だった。
スタッフを振り返り、「まだお酒出てないの?」って言ってくれたのです。
「いや、まだお酒お願いしてません。これ(ビール)飲んだら・・・」
ジャン妻は2杯目のビールを飲み終わるところだったので、私に目で「早く残りのビール飲みなさいよ」と胃ながら、「熱燗、二合」
「今日はどちらになさいますか?竹鶴?群馬泉?」
「群馬泉!!」
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カワハギの肝和えが美味しい。サラダにはマヨネーズをちょっとだけお願いした。だが、イタリアンドレッシングがメチャ美味かったのである。
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「このドレッシング美味しい。タマネギすりおろしてるの?」(ジャン妻)
「ハイ自家製です」って笑顔のスタッフ。
止せばいいのにマヨネーズを追加した俺は恥ずかしくなり、「誰だマヨネーズなんか注文したのは?」って照れた。
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マスターの笑顔、俺らより遥かに若いスタッフたち笑顔を見てると、この店のカウンターにいると、少しは気が紛れて来た。
店は小さいし広くないが、優しさと笑顔がたくさんあって、くだらない話題で飲み食いする店じゃぁない。こっちの人間が小さく感じるのである。
この店には愚痴酒は似合わない。
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ならぬことはならぬ・・・本当の意味は? [会津]

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東京駅八重洲南口を出て徒歩5分、八重洲ブックセンターの傍にこんなアンテナショップがあった。
ウィンドウには綾瀬はるかさんのポスター、八重さんが籠城時に着用していた軍装、銃のレプリカが展示されていた。
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兄貴から貰ったスペンサー七連発騎兵銃は全長が94cm、重さは約4kgだったそうです。
当時の四斤砲榴弾や臼砲榴弾も。これは籠城軍が使用したのだが、新政府軍が所有する射程距離の長いアームストロング砲(肥前佐賀藩の購入が先駆け)と違って旧式、性能が格段に劣る。
八重さんは城内で砲もブッ放したと聞いたが、その辺りも描かれるのだろうか。
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店内には浜通り、中通り、会津に分かれて福島県各所の観光案内パンフがたくさんあった。
相馬の馬追祭のポスターもあった。私は相馬の馬追は観たことないし、相馬氏関連の資料も僅かしか所持していないが、相馬の永年の仇敵、独眼竜政宗が、相馬の城下に一夜の宿を乞うた話や、関ヶ原の戦後処理で東西どっちにもつかなかった相馬が改易の危機に直面した時、政宗が「相馬は自分を城下に泊めてくれた。西軍に与していないのがおわかりであろう」と幕閣に取り成した話は知っている。
何故、仇敵に宿を乞うたのか。助けたのか。その真偽が知りたいのだが未だわからない。
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「頑張ってます会津」の幟を探したがそれはなかった。
湯野上温泉蕎麦宿湯神の大旦那が言ってた、「湯野上はそれほど八重の影響はないです。若松市からいいとこ芦ノ牧ぐらいまでかな。それでもあのジュウノオキテってのぐっずが売れてるみたいですよ」が脳裏に浮かんだので、何かそれの工芸品がないかなと。
什の手ぬぐいみたいなものがあった。
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鶴ヶ城下の同じ町に住む藩士の子供たち(六歳~九歳)は十人前後で集まりを作っていた。この集まりを「什」という。今で言えば町内会の登下校班のようなものか。
年長者が一人、什長となる。これは班長みたいなもの。
藩校日新館の帰りに毎日、什仲間の誰かの家に集まり、什長が什の掟に背いた者がいなかったか、もしくはそれに準じた者がいなかったか。以下を復唱した。

年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ。
年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
嘘言(ウソ)を言ふことはなりませぬ。
卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
弱い者をいぢめてはなりませぬ。
戸外で物を食べてはなりませぬ。
戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです。

「背いていません」という嘘やゴマカシは許されない。三箇条目にあるから。これらを守らないと、四段階の制裁があった。子供の制裁なのでここでは触れないが、最後の「ならぬことはならぬ」の本当の意味はなんだろうか。
「ダメなものはダメだ」という意味かと私は思ってたが単純にそういうものではないらしい。ダメなものはダメ、これだと、例え間違ってても不条理でも、仲間の掟を守れという半強制的な意味合いにとれる。
でも、してはいけないことはしてはいけないんだ、という意味はあるように思う。この「ならぬものはならぬ」というのは什の掟を守りなさいという締めの言葉で、その前の七箇条が大事なんだと。
(戸外で婦人と言葉を交えすぐらいいいじゃないかと思わないでもない。)
最後の締め、「ならぬことはならぬものです」、これだけが一人歩きしちゃってるんです。だから第一話で八重がスペンサー銃を構えながら、「お城は渡さぬ、ならぬものはならぬのです」というのは細かい事を言うとそこだけかなり不自然ともいえる。
この什の掟と、保科家訓十五箇条が会津藩自身を頑なに縛り、京都守護職なんていう火中の栗を拾い、刻々変化する情勢に取り残され、翻弄されながら悲劇に向かったのかもしれない。そう思いながらこの手ぬぐいを二本買いました。
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そういえばこのアンテナショップ、リンクしているあかべぇさんも行かれてましたね。
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