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勝頼公は来なかった。。。 [隠れ郷土史]

クリスマスも終わり、いよいよ年内ラストに向かってるのに、いつまで岩櫃をウロついてるのかと言われそうですが、今回でお開きです。
またかよ.jpg
岩櫃山麓には例によってクマ公注意の看板がそこらに幾つもあった。
上州には1000頭くらいのツキノワグマがいるらしく、ダブルカウント(同じ熊を2箇所以上で目撃した場合のカウント)も含めたらもっといるだろう。
しょっちゅうウロついてるわけではないし、あくまで注意を促す喚起だが、油断していきなりでくわすのもゾッとするね。熊除けの鈴を用意すればいいが、鈴を鳴らすとカモシカに遭えないという理由で持たない人もいるらしいですよ。
私は岩櫃山までは登らないし、麓のある場所へ行くだけ。そこは集落にほど近いところにある平場だが、岩櫃山に踏み入る場合は単独行動は避けた方がいいそうです。
乗用車は無理かも.jpg
私の目的地は潜竜院跡というのですが、それは赤岩登山道入口から入ります
そこへ至る道は集落の裏にあった。最初の上り口が狭いのでくるまで入るの無理と思われます。くるまで来られた方はここへ来る途中の真田丸の幟が立つ駐車場に停めた方がよろしいかと。
真田丸の幟.jpg
こんな細い道で熊に出くわしたら逃げ場なんかないじゃないか。。。
細い道幅.jpg
林道1.jpg
林道2.jpg
林道3.jpg
林道をしばらく歩いたら上空が開けて来る。
そこからの岩櫃山の雄姿です。さっきより更に近く手が届きそう。それだけ垂直で屹立している。
視界が開けると.jpg
その先が開けて来た。そこにあるものは。。。
広い原っぱが見える.jpg
潜竜院跡1.jpg
解説版1.jpg
潜竜院跡。。。
真田昌幸が祢津潜竜斎昌月という人に下げ渡した寺の跡だが、潜竜院という人は真田の諜報機関のヘッドではないかという説がある。
寺は後年、岩櫃城が廃されてからも代々続いたが、いつの時代かで途絶えたらしい。今は広々した原っぱになっていて、草と木々と石垣と、由来を示す説明版と真田の幟、熊出没注意の札が打ってあるだけ。
石垣.jpg
寺関係者の墓が東の高台にあります。そこには一般人のお墓も数基あったが、熊除けの鈴を鳴らしながら墓参に来るのだろうか。
真田昌幸が下げ渡した・・・というのは、当初、使う目的が消滅して必要がなくなったから下げ渡したんですが・・・。
解説版3.jpg
真田昌幸を「表裏比興の者」と言ったのは誰だったか。
表裏比興の意味は、「アイツは後背定かならず」という意味です。小狡いというか老獪というか、裏で誰とどう繋がってるかわからん、油断のならない者、得体の知れない何者と見られていた。
昌幸の為に弁護するのであれば別に好き好んでそういう人物になったわけではなく、生き抜く為にそう言われても仕方がないやり方をしたまでである。
真田家は大勢力ではない。信州上田から上州吾妻に進出してきて、最も広域で沼田辺りまで拡張したが、武田家が滅んで自立してからは、上州厩橋の滝川一益、越後の上杉景勝、小田原の北条氏直、そして生涯ソリが合わなかった東海の徳川家康と直に接しながら乗り切ろうとする。
それら大勢力とほぼ互角に渡り合えたのは智謀に優れていたからだが、それが皮肉も交えて表裏比興とまで言われた。でも昌幸にとっては痛くも痒くもなかったに違いない。
昌幸は知将、策謀家、謀将として描かれるが、どちらかというと人気がある方ではないか。それは後世の講談の影響もあるし、息子の信繁(幸村)の活躍ぶりや、敢えて途中で袂を分かった嫡男信之が父・弟と対照的に描かれたのもあるだろう。
昌幸個人もいざとなったら大勢力との武力衝突も厭わない痛快なところがある。上田城に押し寄せた徳川軍を単独で2度も撃退したのは家康が真田を怖れる伏線にもなっている。
現代で表裏比興なんて言われ方をされたら信用問題に関わるかも知れないが、往時では誉め言葉だったといっていい。小勢力ながらも畏怖され、一目以上も置かれていた。
家康は親の昌幸に2度も負けて、生涯最後の戦闘で息子の幸村に本陣まで攻め込まれた。小動物が巨像を撃退する痛快さで大衆の人気を博したのです。
大事な箇所.jpg
だが昌幸だって最初っから表裏比興なんて言われ方をされる人物ではなかったのではないだろうか。
昌幸は骨太だった大河、風林火山で佐々木蔵之助さんが演じた真田幸隆の3男で、信玄の近習を経て他所へ養子に行っていたのだが、長篠で大敗した時に長兄と次兄が戦死した為に真田家に戻って本家を継承した。
信玄、勝頼2代に仕えたので、近習時代は晩年の信玄の魅力や薫陶を相当浴びただろうし、信玄も昌幸の才能を見抜いたのは想像に難くない。
さすがに若い頃は後年の謀将のイメージは薄いし、武田勝頼の近くにいた跡部、長坂といった連中とは距離を置いていたようである。長篠で大敗後、武田家が上州戦線で北条家を圧倒したのは昌幸がいろいろ頑張って沼田領まで進出、維持したからです。岩櫃城まで押し出して来た北条軍を撃退してもいるからね。(叔父の矢沢頼綱が撃退した。)

勝頼と昌幸はそれほど年齢に差が無い。僅か1歳違いなのでどういう関係だったのかわからないが、武田家中の次世代として二代目社長を支えようという気概があったと勝手に想像しておく。
だが天正10年(1582年)3月に織田徳川連合軍が甲州領国へ侵攻して来る。親族の木曽、穴山は既に離反しており、武田家中も高遠城で玉砕した仁科盛信(勝頼の異母弟)以外は戦わずして総崩れ、逃亡が相次いだ。
昌幸は勝頼に甲斐から撤退して自分の領国、上州岩櫃に逃れるよう具申して容れられ、岩櫃城へ迎える準備をする。そこでここ、岩櫃城を見上げるこの原っぱに勝頼一行を迎えるべく館、御殿を造営したのです。
贅を尽くした御殿ではなかったかも知れないが、僅か3日間で竣工したという。
潜竜院跡2.jpg
壇上に登ってみた.jpg
原っぱ1.jpg
原っぱ2.jpg
だが勝頼はここ岩櫃には来なかった。
落ちる途中で真田を疑った者が讒言したか、岩櫃が遠くてそこまで行けないと前途を悲観したか、甲斐からほど近い郡内領主、小山田信茂の岩殿城を目指すが、その途中で裏切りに遭って天目山の露と消える。
せっかく急いで造営したのに。。。
小説風に描けば、昌幸に武田家滅亡を伝えに来た早馬、あるいは忍び?山伏か修験者かも知れないが、その者から最後の大悲報を知った時、昌幸は天を仰いで、あるいは甲斐の方角を向いて慟哭したと思いたい。
原っぱ3.jpg
たらればはタブーですが、もし現実にこの地へ勝頼一行が来たらどうなっていたのか。
織田徳川連合軍が雲霞の如く押し寄せ、吾妻郡は修羅の様相を呈したに違いないが、後年の上田城攻防戦で徳川軍を撃退した采配からしてここ岩櫃でも相当に粘ったかも知れない。
本能寺の変は僅か半年後なのだから。
かなり広いです.jpg
私は真田昌幸も武田勝頼も別に好きでも嫌いでもない。ただ、真田昌幸が表裏比興の者ではなかった時代の証になる場所としてこの地を見たかった。謀将昌幸に限らず誰しもそういう純な時代があった筈。
その後昌幸は、自分を庇護して育ててくれた武田家への思慕を抱きながらも、武田家の為に純粋だった時代と決別した。もう武田家はない、自分ひとりで生きぬくしかないと吹っ切って前へ進んだら、後世言われるように知将、謀将、表裏比興の者にならざるを得なかったのです。
いつか人は過去と決別する時期が来るということかもしれない。

上り電車が来た.jpg
高崎駅方面上り電車が来た。乗ったのは私とオバちゃんひとり。
高崎駅改札で現金清算しました。自己申告です。

おまけ。。。
居酒屋1.jpg
居酒屋2.jpg
これは埼京線板橋駅から都営地下鉄新板橋駅に歩いたところにある居酒屋。
板橋区役所への公用で必ず前を歩くんですが、未だ訪問に至らず。
チラシ.jpg
居酒屋3.jpg
2016年はこの旗印で盛り上がるだろうか。今年の官兵衛みたいな駄作に仕上げないで往時の価値観に近づけて本格的に演出して欲しいものです。
コメント(2) 

コメント 2

おかーさん

史家さん こんばんは
最近の熊さんは 人など恐れないんですよ~
ヒロさんに聞いてもらえると判るけど 我が家は 山からは
何キロか離れた街中ですが・・・
年によっては 熊のお散歩コースとなったりするみたいで
今年も 夜中に 近所の飼い犬が 異常に吼えてました。
注意に越したことは無いです。
(地球が異常です!ここ10年位です。以前は山の中を歩いても熊なんて気にした事もありませんよ)
by おかーさん (2014-12-26 19:06) 

船山史家

おかーさんこんにちは。
夜中にご近所の飼い犬が吠えてたんですか?
それっておかーさんが夜中に街を歩いてて犬に吠えられたのではなく??‥‥(あっいけない、失礼しました。笑)
餌にならない針葉樹や杉の植林、木々の伐採や開発等で鳥獣と人間との緩衝地帯が無くなってきてるのではないかなと。だから人里で直に出くわすんでしょう。
先日行った船山温泉に至る一本道でも鳥獣防止フェンスの工事中でした。
群馬は山城だらけ。あまり奥深いとこや、標高の高いところ、道が整備されてないところは体力的に避けてます。岩櫃は麓に人家があって、熊に注意の隣でフツーに生活を営んでました。
出張中、iPhoneから送信。
by 船山史家 (2014-12-27 09:29) 

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