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那波城 [隠れ郷土史]

伊勢崎市の公用を終えて坂東大橋経由で利根川を渡り、本庄児玉ICから関越道に入ろうと社用車を走らせてたら上州のヤンキー娘(4人いるヤンキー女性社員のうち1人、私が連雀町交差点で出っくわしたオンナ)から着信があったが、くるまの一家所有数ダントツの群馬県は交通課の警察が多く、パトカーを多く見かけるので走行中の携帯はキケンなので路肩に止めて折り返した。
話はすぐ済んだが、
「ちなみに今、何処にいるんですか?」
「伊勢崎だよ。夕方か日が沈んだ頃にそっちにくるま戻すけど。何時までならいる?」
「今日は混んでるから夜7時までならいますよ」
「そんなにかからない」
「伊勢崎ってヤンキーが多いから気を付けてくださいね」
「・・・」
お前が言うなよ。
お前だって高崎のヤンキーじゃないか。俺に何を気を付けろと?どういう意味なんだ?
伊勢崎や太田ってヤンキーが多いんではなく外人さんが多いんじゃないの?内陸の工業地帯とかで就労する外国人労働者が増えて、現在群馬県内で外国人登録している外国人の4人に1人は伊勢崎市に居住しているとか。
ブラジルの人が多いみたいですね。東武伊勢崎線にも数回乗ったが、車中の女子高生は訛りのある人が多かったように思う。

朝からずーっと運転してるので腰にキタので路肩に停車したついでに幾つか着信メールをチェックして一服した。
私が運転するオンボロ社用車は高崎ナンバーで、全社で最も古い車種です。東京本社には新車が4台もあるのだが、若いお偉いさん連中がこぞって利用している。
苦々しく思ってる女性社員もいて、
「○○さん(私のこと)は東京でくるま使わないんですか?」
「使わない」
「都内では運転しない主義とか?」
「そうじゃないけど。時間が見えないからね。群馬では向こうのくるま借りてるけどさ」
東京本社から借り出して関越道を走ってもいいんだけど、本社の連中に気ぃ遣ってくるま借りるのがイヤなの。エライ役職ほどイイくるま優先みたいな社風になってるんです。それだったらこっち(上州)に来てこっちの子に「借りるぞ」って言い捨ててくるま借りる方が気が楽なのだ。
ただ、群馬の社用車はボロ車で、最初踏み込んだ加速が悪く、ワイパーなんか根本がサビている。後部座席は荷物置き場になっている。
しかもナビが付いてない。
もっともナビなんかついてなくても、赤城山や妙義山が右手に見えるか左手に見えるか。それさえ見えれば道に迷うことなんてまずない。
本庄児玉までは広いバイパス一直線のハズだが、路肩に停車したついでに確認がてら地図を見ていたら気になる地名、小学校を発見した。
伊勢崎市堀口町地図.jpg
名和??
何処かで聞いたような。。。
ナワ~ルドさん?それもそうだけど、もうひとつ何かが引っかかった。
ああ、那波無理之介宗安か。。。
安中市のローズベイカントリークラブで見たあの名前だな。上州伊勢崎出身でありながら、那波家の嫡男(長男)なのに故郷伊勢崎から出奔し、武田氏に鞍替えって雇われ部隊の尖兵で上州に逆上陸して攻めて来た曰くありげな人です。その人の発祥地に違いない。
確か那波氏の発祥地は小学校か幼稚園になっていた筈である。これは時々コメをくれる戦国Blog、るなさんトコで見たことがある。
大した寄り道じゃなかった。堀口町というところです。
名和小の片隅に1.jpg
小学校ですね。小学校の片隅に重々しい碑が屹立していた。
くすんだ解説版があったが、あまり詳細には触れていなかった。
公共の場所とはいえ、例によって無断立ち入る厳禁、不審者は通報しますの表示があったりして。でも中には入らないです。雨中で校庭がぬかるんでたからね。
名和小の片隅に2.jpg
那波城解説版.jpg
碑の他に特筆するものはない。ここにあった、という表示だけ。でも何もないよりマシである。

問題の那波無理之助ですが、この人は那波家の嫡男なのに武田氏に鞍替えって上州を攻めにやってきた?のは、この書籍で知った。
国を蹴った男.jpg
簡単に時系列に述べます。年号は省略します。
むかしむかし、ここ那波郡に入ったのは藤原秀郷系の那波氏だが、当時の一族の長は木曽義仲に組して戦死し、一族は衰亡してしまった。
次に登場するのが大江氏系の那波氏。あまり詳しく述べてもオモシろくないのだが、鎌倉御家人で那波政茂、頼広、宗元、政元といった御仁がいて、宗元という人がここ伊勢佐木の那波辺りを管理した。
南北朝時代には那波左近将監政家という人がいて、その後も掃部助、上総介宗元、部少輔勝宗、大炊介繁宗、左京亮、内匠介、頼広、幾人か武人がいて、ここ名和小学校辺りにデンと構えたのは那波宗俊という人です。この人が那波無理之助のお父さんだという。
私は無理之助は宗俊の長男だと聞いています。だが、長男であって嫡男ではなさそうなのだ。
お父さんの宗俊は、自分がしかけた近隣への戦争で戦死した説もあるのだが、そうではなくて最弱戦国大名と異名を取る関東管領上杉憲政が北条に負けて川越から上州平井城に逃げたタイミングで北条氏の傘下に入った説を採らせていただきます。でないと那波無理之助に繋がらないので。
那波城は永禄3年(1560年)に、越後の長尾景虎が陥落させ那波氏は景虎に投降しています。那波宗俊は次男の次郎を人質に差し出した。
武田に付くか上杉に付くか、家を存続させる為に選択を迫られた結果である。
(伊勢崎市の史料には嫡子、次郎顕宗となっていました。)
この次郎、那波顕宗が那波宗家を継ぐのだが、継いだが為に次男で次郎だけど嫡男扱いされているフシがある。逆に無理之助は長男でありながら出奔、牢人した。
正室の子ではなかったのかも知れない。廃嫡されたのだろうか。この辺りに那波無理之助が出奔して武田氏に鞍替えった理由が隠されていそうである。
無理之助宗安は浪人して武田晴信に仕える。24歳だったそうである。後年、永禄9年(1566年)9月に牢人部隊を率いて碓氷峠を越えて故郷、上州に表れ、武田軍の尖兵となって先導を努める。
ローズベイカントリークラブ8番ホールにある蔵人城を落とし、
あずま屋?.jpg
クラブのすぐ北にある礼応寺城を抜き、
礼応寺城推定地.jpg
雉ヶ尾峠(雉郷峠)を越え、里見の番兵を蹴散らし、
現在の雉ヶ尾峠.jpg
クリーンセンターの近くにある高浜砦を急襲し、
高浜砦3.jpg
箕輪城攻城軍へ加わった。
箕輪城碑.jpg
この小学校とは別にもうひとつ、どっかに碑があった筈だが。。。
雨中、くるまを小学校の路肩に停めて検索した。
雨に濡れる碑.jpg
そこは幼稚園jの近くだった。名和小学校の北、最初の交差点を右折した右手に幼稚園があり、近くの田園地帯にポツンと雨に濡れて立っていた。
碑に近寄って.jpg
碑の裏面.jpg
小学校の碑と幼稚園の碑と距離にして結構離れており、直線距離で200mくらいあるのではないか。那波氏の動員数はせいぜい200人か300人程度だと思うが、随分と広大な範囲である。
名和小方面を望む.jpg
伊勢崎市の史料を見たら那波城の縄張り図が載っていた。
確かに広い。平城だったようです。
那波城は平城だった?.jpg
那波無理之助宗安は長篠の前哨戦、鳶ヶ巣山で戦死する。
那波宗家を継いだ弟、次郎顕宗はここ名和一帯や、玉村町に復権したらしいが、北条氏が滅亡した後、教科書には絶対に載らない戦国最後の叛乱、九戸城の鎮圧か、仙北一揆鎮圧時に戦死したという。
何とか戦国を乗り切ろうとしたが、ギリギリ果たせなかったようです。
越後長尾家に人質になっていた時代に知り得たのか、顕宗の息子が越後安田氏の誰かに養子になり、そこで血脈は続いたとか。
碑を斜めから.jpg
私は何故、無理之助宗安が出奔して他国に仕え、故郷を攻めたのかよくわからない。
その気持ちも理解できない。余人に窺い知れない事情、感情があったとしか想像しようがない。
雨中に濡れる碑は何も語らず。
語れない事情なのかも知れない。
コメント(2) 

コメント 2

ナワ~ルド@峠おやじ

はぁぁぁ、呼びましたぁ?

以前那波無理之介の話はありましたけれど、名和小学校もあったのですね。
鳥取県と愛知県東海市、そして群馬県伊勢崎市にも名和地名が
あったとは・・・いつかPART3をやらねばなりませんね(^^ゞ

by ナワ~ルド@峠おやじ (2014-12-17 23:23) 

船山史家

ナワ〜ルドさん。お呼び出ししてスミマセ〜ン。(笑)
もしかしてナワ〜ルドさんのご先祖様も藤原秀郷に行き着くのでしょうか?
私の周囲にはナワ氏はいないんですが、PART3は宿題ということで、各地のナワ氏を調べてみたいものです。そんなに有名でなくても史上に現れて消えていった氏族の姓の人が身近にいると、つい聞いてみたくなるタチでして。
最近、ウチの中途入社で、小早川という方がいまして、つい聞いてみたくなるのですが、まさか、アナタのご先祖さんは寝返り者ですか?とも聞けないしなぁ。聞きたくてウズウズしてるんですが。(笑)
出張中iPhoneから送信。
by 船山史家 (2014-12-18 12:03) 

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