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名胡桃城事件の謎 [隠れ郷土史]

3人のオジさん.jpg
昨日の記事のオチ、「部下の管理不行き届き」ですが、その部下の上司は北条氏邦という人。
この人は四代当主氏政、氏照の次弟です。拠点は八高線と東武東上線と秩父鉄道がリンクする寄居町の鉢形城です。そこを拠点に北関東や上州方面の司令官だったといっていい。
名胡桃城事件は太閤惣無事令に触れるのを承知で?沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を奪取して城代、鈴木主水を殺害した事件です。これは仕掛けた実行犯、猪俣邦憲が独断でやらかしたように言われることが多いが、猪俣は北条氏邦の部下なんですよ。
猪俣邦憲とはどういう人物なのか。
六文銭の楯?.jpg
北条記という書物では猪俣邦憲を酷評しているそうです。
そうですというのは私は現物を見ていないのですが、よく言われるのが、猪俣は氏邦の配下でありながら、名胡桃城を奪取したことで、主家を滅亡に追いやったように張本人のように虚仮下ろされているケースが多い。
私もそういう人物だと思っていた。なので私が言った、「部下の監督不行き届きで・・・」・・・これはその場にいる人を苦笑させたが、知ってる人にしか通じない心無い冗談です。
真相はどうなのだろうか。
空中写真.jpg
名胡桃城自体はそれほど大きくない。
上方の秀吉の意向や、当時の小田原北条氏の置かれた立場が微妙だった。それが無ければ真田と北条の境界紛争、小城の争奪戦に過ぎない。
だがこの奪取事件が小田原征伐の口実を与えたのである。
後世の我々は、その後の作家さんの書きものや、勝った側、生き残った側からの視点で見がちである。実行犯は猪俣邦憲で間違いないが、猪俣は沼田城代を任されるくらいの上級将校。北条本家が上方に睨まれ微妙な雲行きなのは知らなかった訳ではあるまい。
知っててやったなら、彼のやったことは政治上で見たらトンデもない協定破りである。知ってて名胡桃城を奪ったのならいくら何でも思慮が無さ過ぎないか?
取り返しのつかない越権、愚を犯したと言っていい。主家を没落させた戦犯と言われても仕方があるまい。
だが、猪俣憲邦は北条氏が攻められ没落した直接の要因、口実を作ったように言われているが、事件後に猪俣が北条本家から罰せられた記載がどうも見当たらないのだ。もしかしたらもその後も沼田城代のままだったのではないだろうか。
では誰かの命令でやったのか?北条氏邦が部下の猪俣邦憲の行動を黙認したのだろうか。
氏邦か、北条家中の反秀吉派の誰かの指示でやらかしたのか、未だによくわからないところがある。
三の丸.jpg
二の丸.jpg
城内の郭、草の上で、傾きかけた西日に照らされながら、地元の人が言うには、
「そう言われてるけど。猪俣さんって、そんな巷で言われてるほど悪い人じゃないと思うんだけど」
私は首を傾げた。
「猪俣って人は名胡桃を沼田氏に返そうとしたみたいなんだよね」
「???」
「最近になってそういう史料が見つかったんだって」
沼田氏??そういう氏族がいたが名胡桃城や沼田問題の頃には凋落していた。一族の傍流が存続していたか、他から名跡を継いでいたのかわからないが、それに返そうとしたというのである。
西の山.jpg
真相がどうも見えない。
なので後世の我々は想像するだけなら自由です。故・池波正太郎さんの真田太平記では秀吉の謀略になっていて、猪俣邦憲が北条家当主、氏直の筆跡を真似た偽の指令書を受け取り、それには・・・「二日のうちに名胡桃城を奪え」・・・
別の偽書が名胡桃城代の鈴木主水にも届けられる。それには真田昌幸が、「談合したき議あり・・・上田へ参られたい」・・・
猪俣邦憲も鈴木主水もこんな単純なトリックに同時に引っかかっている。どちらもちょっと疑ってかかってもよさそうだが、指示書通り時をおかず攻めかかり、別に内応者もいて名胡桃城は簡単に陥ちてしまう。
猪俣も上司の氏邦に確認すりゃいいものを、当主氏直から直々に命令が届いたので、二日では氏邦のいる寄居町の鉢形城まで確認の意志を往復させるのはちょっと無理かも知れない。
主水は上田に向かう途中で岩櫃城に立ち寄るのだが、岩櫃城代の矢沢頼綱・・・この人は真田幸隆の弟だから昌幸の叔父にあたるのかな。頼綱が偽書を見破った。
それとは別に忍びが名胡桃城襲撃の情報を上田の昌幸に届けるのだが、昌幸はこの一連の流れが上方の謀略であることを見抜き、鈴木主水と名胡桃を見離すのである。敢えて秀吉の謀略に乗ったといっていい。
北条氏直は後で謀られたことに気付き、猪俣も散々に叱られたとあったが、見殺しにされた鈴木主水こそいいツラの皮である。
なかなかオモシロいストーリーではある。上方の謀略を見ぬいて何もしない、それも謀略の一手と全てを察して呑んだ真田昌幸であった。
以上は小説だが、もう少し史実や伝承に拠ってみて、そこで疑問符を付けてみよう。
(以下、平成26年12月13日の加筆ですが。。。)
沼田藩の祐筆に加沢平次左衛門という人が筆を執った加沢記という史料をベースに、沼田市史いわく、名胡桃城代、鈴木主人の妻の弟に中山九兵衛尉という者がいて、猪俣邦憲の家臣、竹内孫八左衛門と旧知の間柄だったのだが、この竹内が中山に内応を持ちかけたのである。成功の暁には、名胡桃城一帯から現在の上毛高原駅近くの小川辺りまでの領地を餌に誘った。
これに中山は応じた。「猪俣名胡桃城責捕事中山九兵衛心替之事」とある。
竹内は真田昌幸の花押に似せた偽書を中山を通して鈴木主水に渡した。
ここでは小説で言うところの北条氏直が猪俣邦憲に「名胡桃城を奪え」といった偽書の類は当然出て来ない。
ただ、加沢平次左衛門は沼田藩初期の頃の右筆なので、当時の沼田藩は真田信之の系統だから、ちょっと疑ってみるフシはなくもないが、あっさり奪取された背景の一部が垣間見えるのである。
吾妻郡の史料にも岩櫃城の項に同様な記載があった。おそらく同じ加沢記がベースになっていると思われます。
では現地の人が私に言った、「猪俣って人は名胡桃を沼田氏に返そうとしたみたいなんだよね」。。。
内応の餌は餌だが、中山は沼田氏の一族だったのだろうか??

更に疑問だが、私の自室にこんな書がある。
書籍.jpg
北条と真田の沼田領有問題でよく目にするのが、太閤秀吉の決定した裁定、「真田の祖先の墳墓の地である名胡桃城は真田が領有する」というもの。
だが、この書によると、西毛新聞社の某氏が言うには、「名胡桃に真田の墳墓などない」と言う。
現地でも確かにそういうものは見当たらなかった。あったら沼田市やみなかみ町が目玉にしない訳がない。
真田の祖先は北信濃の名族、海野氏か滋野氏だが、吾妻郡にもその流を引く者がいたとはいえ、名胡桃が真田の墳墓の地であるからという裁定はあまりに真田に片寄り過ぎていないだろうか?
この辺り、上方でなかなか上洛しない北条氏に対して業を煮やす秀吉の謀略の臭いがするのである。
袖曲輪.jpg
先端にある笹郭から見た水上~沼田市の景色です。
風景1.jpg
風景2.jpg
風景3.jpg
風景4.jpg
「あれだね。秀吉は小田原を何が何でも潰しておきたかったんだろうね」
そうとしか思えない。
「仕組んだんですかね?」
というのは、名胡桃城を奪取したのが先か、20万石もの兵糧を調達する命が先に出ていたのが先か、研究者や学者さんの中ではそういう論議もあるようです。でも私は専門家ではないのでそれは他へ譲ります。要はこの小さな名胡桃城は小田原北条征伐の口実を与えた事件の場所で、この小城が有名なのは利根川を境にして真田、北条がここの領有権を争ってすったもんだした挙句、太閤秀吉の検分、裁定で真田に与えられたのに北条側がブン奪ってしまい、それが太閤惣無事令に触れて小田原攻めに至り、北条氏が終焉を迎え、学校で学ぶ教科書の範疇では戦国が一旦終焉に至るからです。
本丸堀1.jpg
本丸堀2.jpg
谷のような堀.jpg
北条氏が滅亡し、真田氏が沼田領を安堵されたら名胡桃城は不要になった。軍事面で実際に使用されたのは約10年間でしかなかったのだ。
「帰りはタクシーで?」
「ハイ。50分に迎えが来ます」
「じゃぁそれまであそこ(管理棟?ロッジみたいなの)で待っててください。中に史料がたくさんありますからご覧になっててください」
ロッジ.jpg
3人.jpg
名胡桃城奪取事件は猪俣邦憲の独断でやったのか。
後世がいろいろ想像して描くのは自由だが、今の世で軍事法廷に猪俣邦憲が出廷したら、
「北条氏邦の命令でやったんだ・・・」
意外とそういう殺風景な背景だったのかも知れない。
事件後、猪俣はどうなったのか。小田原が開城した後で忽然と史上から消え失せている。その後はわからないのだ。
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