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武州河越氏の館他 [隠れ郷土史]

味はいいけどボリュームの割に高かった武蔵高萩の生姜焼きランチの後で、目的の西川越駅に12時59分に着いたですよ。
そこから徒歩10分の行政に届出をすませないと。行政の担当官と私は顔馴染ですが、必ず事前にアポが必要なの。でも川越線が日中1時間に3本しかないので大雑把な時間帯の予約で済みます。「1時~2時の間に伺います」とかね。
書式が変わったのもあって、その場でいろいろ修正、訂正され、受理されたのが13時40分頃だった。このタイミングで私は午後半休に突入したのですが、今宵はジャン家には帰らず上州へ遊びに行きます。
ジャン妻が親戚の通夜で不在なんです。
彼女の20台前の時代は私の中でずーっと謎のままになっていて、どうもその頃は名古屋に住んでいたらしいのだが、今夜は名古屋の親戚の通夜で明日が本葬だという。
私はどんな親戚か知らない。午後は川越の延長で、故郷上州へ酒を飲みと探索に行くことにした。
入間川橋を渡る.jpg
行政を出て入間川を渡ります。
徒歩です。この先に待っているのは平城だからラクチンな訪城で済むだろうとタカをくくったのだが。
晩夏の入間川橋.jpg
あっ、これって8月後半のネタね。残暑が凄いんです。上州も暑かったけど武州も暑いね。晩夏の炎天下を歩いています。入間川を徒歩で渡っています。歩いているのは私だけで、傍らをくるまや高校生の自転車が通り過ぎていく。私はノーネクタイとはいえスーツに革靴です。暑いなんてもんじゃない。日陰もない。陽射しがジリジリする。
アタマから背中から汗が噴き出した。橋を渡りきってもコンビニはおろか自販機すらないぞ。
川越市の広報車から、「高温注意報が発令。。。外出を控えるように。。。」なんてアナウンスが聞こえたぞ。こっちは思いっきり外出してるんですけど。

渡ったらこの寺、常楽寺というお寺があってそこに簡単な説明がある。
常楽寺.jpg
常楽寺の碑.jpg
常楽寺の解説版.jpg
この先の草地にも解説版がある。同じような説明だった。
薄くて読み難いですね.jpg
そこから北に草むらが川越市・・・ではなく河越氏がいたところ。
河越氏なんてメジャーじゃないかも知れないが、私は前述の行政に赴く過程で、たまたまそこから近かったので発見しただけです。簡単に述べます。平安時代に勃興して地元を開墾した領主、荘園の管理人、そして豪族へ成り上がった一族です。
何代目かわからないが河越重頼という人が源頼朝に重用される。源氏と絆を強固にしようと、娘(郷御前)を源義経に嫁がせた。正妻です。
だがご存じのように義経は兄貴の頼朝と衝突、追放される過程で舅の重頼もとばっちりを喰って誅殺されたらしいのだ。「草燃える」では出てこなかったが、「義経」でタッキー滝山君が洛中に突入して木曽義仲を追っ払った後、平幹二郎さん演ずる後白河法皇に庭先から拝謁して、無名俳優の誰かが河越太郎だか次郎だかを名乗って平服した場面があったように思います。
義経事件に連座した為、河越氏は武州で与えられていた重要な地位、権限を剥奪されたのだが、豊潤な武州を収める河越氏や畠山氏は鎌倉府から警戒されていた。
河越も畠山も根は同じ(秩父党)なのだが、どっちかを粛清してやろうと企んだら畠山重忠が先に罠にかかってしまい、畠山粛清事件の後で、誅殺された重頼の三男、重員という人が復権し、ここ河越館は河越氏の居館&鎌倉幕府の武州政庁として機能していく。
その後、鎌倉幕府がグラついてきた頃になると一族が分裂し、足利尊氏が没した後に起こった武蔵平一揆という叛乱を起こし、これは説明するのも面倒くさいので省略しますが、これで敗走して没落するのである。以後、表舞台に登場することはない。関東から消えてしまったといっていい。
公園を見渡す1.jpg公園を見渡す2.jpg
館の広域を歩いてみたが、東西150m、南北200m四方ほどあった。相当な権勢があったと想像されます。
もちろん平城だから高低差のアップダウンは皆無なのだが、広い草地であまり見るポイントがなくて、ただ何となく草原を延々と端から端まで歩くハメになった。
掘1.jpg
掘2.jpg
掘3.jpg
低い土塁や、浅い堀の跡がある。私が歩いて渡って来た入間川の水を掘に引いていただろうと言うが、そのせいで水害にも遭ったらしい。
ここにも土塁が.jpg
土塁が伸びる.jpg
道路脇の土塁1.jpg
道路脇の土塁2.jpg
館跡にある説明版.jpg
北の端の域に行ってそこにはこんな説明ブロックがあるんだけど、陽射しに反射するせいか読んでもアタマに入らない。陽射しが降り注ぐ中、じーっと見入ってられない。
要は発掘現場に上から土を被せて保存して公園化してるわけで、そこに何も無いったら無いんです。学術的には貴重な場所なんだろうけど、わざわざ炎天下を歩いて来た割にはツマんなかったのだ。広大な空き地にしか見えないのである。
館跡一帯1.jpg
館跡一帯2.jpg
ああ、シンドい。。。
たいした距離を歩いてないですけどね。体力無くなったなぁ。武蔵高萩で喰っといてよかったよ。
水道.jpg
公園の北に水道があったぞ。
ここでアタマっから水をバシャバシャ被り、その辺りにある自販機で水分補給して人心地を得た。公園のすぐ傍は新興住宅地になっていて、住んでる人が私を見たら何処のヒマ人かと思ったに違いない。
水を飲まないと疲れますね。イオン飲料だったら尚いいんだろうけどね。炎天下に散策するには水が不可欠であるとこの時は覚った。
だが、学習しない私は翌日の上州散策でも炎天下に同じ轍を踏んでフラフラになるのですが。。。
自販機.jpg
だが帰途はどうする?
バス停なんかなかったぞ。まさか炎天下をここまで来た莫大な距離を西川越駅まで戻るとなると途中で行き倒れになるは必定である。
タクシー会社を検索してみた。検索してる時、陽射しが眩しく、目に汗が入って間違い電話をしてしまった。
だが最初にアプローチしたタクシー会社は川越市の中心部をエリアだそうで、入間川を渡ったこっち方面の台車が少なくて、西の別会社を紹介された。
「公園の北にいます」と訴えたのだが、メインの道路まで出てきて欲しいというのである。来た道を戻らざるを得ない。
道路に戻って、「常楽寺の近く。〇〇〇〇幼稚園の前にいます。」
待つこと10分で救いのタクシーが来た。

これは往路で歩いて来た入間川橋を渡っているとこ。
くるまだと早い。あっという間に渡ってしまった。
タクシー後部座席から1.jpg
河越氏の公園の最寄の駅は東武東上線の霞ヶ関駅なのだが、私が運転手に言った行き先は、市街地の東明寺というお寺。そこへ向かった。
東明寺.jpg
東明寺です。写真だけ撮りました。
私が歩き廻ったダダっ広い草原の河越館は、後年に北条綱成が籠った河越城ではないです。
河越城を関東管領軍が包囲し、そこを小田原の北条氏康が急襲した有名な夜戦の舞台ではないのだ。その舞台が東明寺とその界隈。
河越夜戦跡1.jpg
河越夜戦跡2.jpg
河越夜戦に関しては今回はパス。疲れて来たのでそれ以上の散策はしないで川越駅に戻りました。その界隈、川越駅に至る町並みはいい趣、風情がある街ですな。
タクシー後部座席から2.jpg
連雀町?
何処かで見たような。。。
何処かで見た町名だな.jpg
川越藩は上州前橋藩の姉妹藩ともいえる。
前橋城が度重なる利根川の氾濫に悩まされ、修復費用が財政を圧迫し、ついには本丸まで水浸しになってしまい、ゲンナリした10代めの藩主で引っ越し大名のあだ名で有名な松平朝矩という人が前橋城を放棄して川越に移転して来たからです。その松平家は幕末の頃まで前橋に帰藩しなかったとか。
だから同じような町名があるのかな。何だか川越が気に入ってきました。
水分糖分補給.jpg駅Cafe.jpg
川越駅で水分と糖分を補給します。
この後は大宮経由で上州に向かったのだよ。川越では晴れて蒸し暑かったのに、この後の上州で凄まじい豪雨に見舞われることになる。
コメント(2) 

コメント 2

るな&旦

河越氏館に行かれたのですね。
ここは太陽を遮るものが無いから残暑時期の訪問は
地獄。ご苦労さまでした。大河義経放送時に建立された?
義経の新しい供養塔が常楽寺にありましたね。河越さんからの
正妻を平泉に連れて行っているので夫婦仲は良かったのかな。

by るな&旦 (2014-10-05 10:08) 

船山史家

るなさん&旦さんこんにちは。
この記事の日と翌日の散策はキツかった~。翌日なんか危うく熱射病になるところでしたよ。
立川もそうなんですが、ここ西川越も私が公用で出向く行政の近所ということで立ち寄っただけなんですよ。別にどうしても行きたかったわけじゃないのね。行ってみたらダダっ広い空地を無駄に歩いただけのような、それでいて滅多に来れないところに来れたような、後悔と満足感の入り交じった妙な達成気分でございました。
私は義経さんって、「空気読めよ」っていっつも思うんですが。

悔しいことに常楽寺境内には入らなかったのです。まさか大道寺政繁さんがここで自刃したとは知らなんだ。本文中には書きませんでしたが、西側に残存している土塁は小田原北条氏の重臣中の重臣、大道寺政繁さんが後年この地に赴任して河越党を引き継いだ頃のものだそうですね。上方軍に善戦して、開城して、心ならずも道案内を努めさせられ、自刃させられ、気の毒ではありますな。
いつか松井田城に行けたらこことセットでUpしてみたいものです。
by 船山史家 (2014-10-05 13:20) 

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