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旧陸軍岩鼻火薬製造所跡 [隠れ郷土史]

群馬の森の周囲を歩いていると、アヤしい廃墟、建物が公園の周囲に幾つか散見される。
これらは一切が侵入禁止、立ち入り禁止である。
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廃墟2.jpg
駐車場側から見た廃墟.jpg
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群馬の森は昭和49年(1974年)、明治百年記念事業の一環で開園された。
明治百年という響きに何を感じますか?明治維新後の富国強兵政策が日清日露を経て昭和の大戦に繋がり、もうあの時代を繰り返さないという願いがあり、100年経っての平和維持への決意表明と受け取れる。
だがその半面、群馬の森開園事業の裏には、日本を戦争に突入させた軍部の”あるモノ”が秘められているのだ。

とはいうものの、この地を訪れる県内の人は皆、ご存じだと思う。詳細はともかく、ああ、あの公園には・・・程度かもしれないが。

この公園は、かつてこの地にあったものの多くが解体撤去されてその跡地に整備された。それは軍部の黒い霧とまでは言わないが、何だか後世に憚るものを感じる。
何があったのか。この森のある地域を岩鼻というのだが、群馬の森とそれに隣接する「日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所」、「日本化薬(株)高崎工場」、これらを含む広大な一帯には陸軍岩鼻火薬製造という禍々しい施設があった。
正式名称は幾度か改称している。
明治15年(1882年)11月~「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」
大正12年(1923年) 4月~「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」
昭和15年(1940年) 4月~「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」
いずれもいかめしい名称である。本文中では「岩鼻火薬製造所」と統一させていただきます。
ここでは昭和20年(1945年)の終戦まで、黒色火薬、軍用火薬、民間用産業火薬、ダイナマイトといった火薬類を生産、保管、供給を行なっていた。アブない施設といっていい。

その一部が黒い柵で覆われた雑木林の中に、外来者の侵入を拒むように残存しているのだが、私には建物が招いているように感じた。
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 ↑ これは柵の隙間からカメラを伸ばして撮影したものです。決して柵を乗り越えたのではないので誤解のないようにお願いします。

ダイナマイトの碑1.jpg
公園内南側の一画には、「ダイナマイト発祥の地」の碑がある。
その碑に刻まれた文言は難読と逆光で全文判読できなかったが、富国強兵、産業の振興、近代国家の確立、明治政府が火薬類の軍需民需急増に応える為など重々しい文言が刻まれていた。要は明治政府が諸外国列強と並び、諸外国からの脅威を撥ね退けんとして軍艦はもちろん、弾薬を国内で大量生産すべく起こした軍事政策の一環で建設されたのです。
明治12年(1879年)5月、薩長閥の大物たち、陸軍卿西郷従道(西郷隆盛の実弟)、海軍卿川村純義(薩摩)、陸軍参謀次長大山巌(八重に撃たれて負傷した人)が現地を視察している。彼らがここに決めたんです。
何故この地に置かれたのか。当時、明治の動力源は水運、水車だった。利根川支流の烏川、そのまた支流の井野川や粕川が流れていることが挙げられる。
後年、弾薬を運ぶ鉄路が敷設されるがそれは後述します。

ダイナマイトの碑、その他、史料から。
明治13年に建設が始まって15年に竣工、黒色火薬の製造を開始した。施設は増設、製造技術も革新されていく。
日本は西南戦争で国内の内戦が終焉し、それ以降は海を隔てた外国との戦争に突入するのだが、明治27年の日清戦争から黒色火薬を前戦に供給している。
二百三高地2.jpg
日露戦争中の明治38年12月18日、幾万人の血を流した旅順要塞攻防戦の終盤、東鶏冠山北堡塁に向けて日本陸軍が坑道を掘るのだが、そこに仕掛けられたのがノーベル社製のダイナマイト2300kgだった。これは外国社製だから当然、輸入品だが、このダイナマイトが要塞堡塁を大爆破して歩兵の要塞占領に至ったことで俄然注目される。
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二百三高地1.jpg
加えて戦時中の鉱業用爆薬需要が増加したことで、ここ岩鼻火薬製造所敷地内にダイナマイト工場も建設された。ニトログリセリンそのものを製造するのである。

ダイナマイトの主成分ニトログリセリンは僅かの衝撃で敏感な反応を起こして極めてアブない。安定性や起爆性を保持する為に改良を重ねられたのが珪藻土ダイナマイトというモノ。史料によっては「明治38年岩鼻火薬製造所で珪藻土ダイナマイト製造開始・・・」とあるので、もしかしたら旅順要塞攻防戦の時にも使用されたかも知れない。
他にも膠質ダイナマイト(ゲル状のもの)が製造された。

火薬製造所は岩鼻の他にも、東京板橋、目黒にも存在したが、日本国内でダイナマイトを初めて生産したのがここ岩鼻なので、ダイナマイト発祥の地、日本で初めての国産爆薬製造発祥地、となっている。
ダイナマイトの碑2.jpg
火薬、弾薬、ダイナマイト(爆薬)には凶々しい響きがあるが、現代でも活用されているのは民間の産業爆薬で土木工事や炭鉱用です。ハッパの発祥地と思えばいい。
だが爆薬大量生産を深く考え掘り下げると軍事爆薬に辿りついてしまう感はどうしてもぬぐえない。発明者のノーベルは安全な爆薬として発明したつもりだが、世界で多くの人名が失われる結果になってしまった。

ダイナマイトの碑文は結びに向かってこうある。
『昭和20年第二次世界大戦の終結による閉鎖に至るまで64年間ここで生産された火薬類は軍需の他民間需要に応じ我が国近代産業史に残した足跡は大きい・・・』
『群馬県は明治100年の記念事業としてこの地に群馬の森を開設し新しい時代の役割を担う地を計画する・・・(この辺りが判読できず)・・・この地にゆかりあるもの相計り由来を述べて建碑の記とした』
若い人たちは気に留めないかもしれない。だが製造所で勤務、携わった人々、OB、ご遺族にしてみれば後世に訴えたいものがあるに違いない。
それでも現代平和社会への刺激を避けたいようにも感じた。
日本化薬側の廃墟3.jpg
日本化薬側の廃墟4.jpg
公園敷地外の黒い柵で立ち入りを禁じられているエリアに残るアヤしげで朽ちかけた廃墟、建造物は火薬工房の跡といっていい。現在は隣接する日本化薬(株)が管理している。

(日本化薬(株)という会社は日本最初の火薬メーカーらしいが、今は医薬品その他が主になっている。私は職場でオダインという抗がん剤を手にとったことがあります。)

興味を惹かれても黒い柵を乗り越えて中に立ち入るのは止めて下さいね。せめて5秒以内の反則で黄色いロープを越えて柵ギリギリまで立ち寄って見て欲しいのだが、朽ちかけた建物の周囲は高い土居で囲まれているんです。もしくは囲まれていたか。。。
土居を抜けるトンネル1.jpg
左に土居と右に廃墟.jpg

工房らしき平屋の建造物が、土居に囲まれているのがわかりますか?
土居に遮られてるのがわかりますか.jpg
公園南側のサイクリングコースに沿って残存している土居には工房へ抜けようとしているトンネルもあったりする。
サイクリングロードに沿った土居.jpg
ダイナマイトや火薬類は処置を誤れば当然のように爆発するので、これらの土居は爆風を避ける為のものです。土居に植えてある木々もそうです。

土居の断面です。
遊歩道を通す為に後年、切り開いたもの。
土居の断面.jpg

となると、前記事のわんぱく広場、丘に上がったら四角い土居で囲まれた一画一画の意味もおのずとわかるというものです。私は製造された火薬類が保管されていた一画だと推定しています。
土盛で囲まれている1.jpg
土盛で囲まれている2.jpg

爆風除けの高くてブ厚い土居に囲まれ、工房内で作業していた人たちの日常、胸中は如何ばかりだっただろうか考えた。緊張を強いられ、閉塞感で息の詰まる日々だったと思う。
事故はあったのか。
無いとはいえまい。あったとしても闇に葬られただろうか。
ここで働いていた人たちは地元岩鼻村や滝川村等、周辺の村々の人々が多かったそうです。その人たちは自転車や徒歩で通勤していたという史料もありました。

東側の立ち入り禁止区画.jpg

公園東の無整備地区にはこんなのがあるぞ。
そこにも何かがある.jpg
何だこれは?.jpg
巨大な土管??.jpg
デカい土管?
水道管?
潜水艦の化け物みたいだが、さにあらず。散歩中の老婦人に訊いてみたの。
「何ですこれ?」
「ああ、これはねぇ。昔の自衛隊・・・軍隊の防空壕よ。昔、ここで爆弾作ってたの」
ハッキリ仰っておられましたね。ただ、防空壕といっても空からの爆撃から退避するものではなく、同じ敷地内での爆発事故による爆風から逃れる為のもの。そこが異色ですよね。
ズームしてみる.jpg
土管の継ぎ目.jpg
形状が異なっている.jpg

「岩鼻火薬製造所」は終戦とともに解体される。
終戦前に米軍のB29によって偵察写真が撮られ、空襲標的にもなったが爆撃が実行されなかった。
敗戦時の敷居面積は1072500㎡だから東京ドームの23倍で、就労していた従業員は3956人、4000人近かった。

跡地をどうするか。現在隣接する日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所や日本化薬(株)高崎工場以外に払下げ先がなかったとか。
だから公園にしたのかも。別に珍しくない。横浜市青葉区奈良町にある「こどもの国」もそうです。あれは東京陸軍兵器補給廠田奈部隊填薬所という難しい名前の軍事施設の跡地です。田奈弾薬庫ともいいます。

惜しむらくはこれらの残存物が放ったらかしのままで何の説明書きもなされていないこと。現在休館中の博物館にも触れられていないようです。でも明らかにしたらしたでいろいろ差し障りがあるらしい。
壊すにも壊せない、整備しようにもできないこれらの旧施設は黒い柵で遮られ、そこから先は原則近づけません。囲った黒い柵は「施設に入るな」と言わんばかりだが、柵で閉ざされたアヤしげな建造物が草ぼうぼうの中から見えてるとやはり気になる。
柵は訪問者を拒むが、建物は何かを訴えたがっているように、訴えたい者が潜んでいるように感じるのだ。

私は理性が自重したので柵内には立ち入らなかったが、蛮勇を奮い、罰せられることを覚悟で中に入った人もいるようです。
ここに掲載した施設は公園と隣の境界ギリギリから垣間見えるものでしかなく、奥に入り込めばまだまだアヤしい建造物が眠っているらしいのだ。
この種のカテゴリは”廃墟”です。その筋のサイトを探してみたらもっともっと詳しいものに辿りつけます。オイオイ、ここまで入ったのかよ、っていうアブなそうなサイトもありましたよ。
心霊スポットと位置付けたケースもある。公園という場所柄、夜間は立ち入り禁止だが、夜回りでもしたら不気味でしょうがないだろう。昼間だって何かがこっちを見ているかのようである。

芝生広場に戻った。
いろいろ見ているウチに惹きこまれ、右足首踵の痛みも忘れてたのだが、平和な広場に戻ったらまたズキズキ痛み出してきたぞ。
芝生広場に戻る.jpg

青い空のもとで遊ぶ子供たち。
憩うお年寄りたち。
走り込むランナーやサイクリスト。
それを横目に見ながら歩く私はダークスーツ&コートに革靴、そんなカッコしてるのは私だけだった。知らない人が私を見たら、公園にそんなカッコして何しに来たの?と思っただろうな。

長閑で平和な「群馬の森」は平和の象徴である。だが全てを語っていない。周囲に眠るものを敢えて何もせず、見る者、訪れる者に無言で対比させ、語るでもなく放置してあるようだ。
都合の悪いものに蓋をして隠すのでもなく公開するでもない。見て察しろよと言わんばかり。だからそのまんまになっているのだろうか。
公園は年中無休です。4月~9月は7時30分~18時30分まで、10月~3月は8時00分~17時30分まで開園です。
群馬の森入口2.jpg

公園の出口に向かう途中で考えたのですが、ここで製造された火薬はどうやって何処まで運ばれたのだろうかというもの。
そしたら前々記事の踏切、単線鉄路を思い出した。。。(続く)
引き込み線?-1.jpg
途切れているぞ?.jpg
これはもしかして。。。???
コメント(14) 

コメント 14

のばら

こんにちは 私上州人なんですが近くの高崎市にこのような場所があったの知りませんでした。
by のばら (2014-01-31 07:45) 

船山史家

のばらさんおはようございます。
私もこれは上州から引き上げてから知ったのです。
こういうものの散策は草ぼうぼうの夏場は向いていません。草で見えないし、藪蚊や虫、ヘビも出ますから。晩秋から冬にかけてがいいのですよ。
by 船山史家 (2014-01-31 08:36) 

mackk

(戦国時代だけではなく)こういったところまで丹念に歩かれる史家殿に敬服いたします。

高崎近くにもこんな場所があったのですね。
こういったところがこのような形で現存していることに少し驚きを感じるのとともに、明治維新から辿ってきた日本のことも改めて考えさせられてしまいますね。

わが町の「学校」は再開発され、違う意味の学校が立ち並ぶようになりました。

引込み線のことも興味深かったのですが、今日はこちらで・・・
by mackk (2014-01-31 22:03) 

船山史家

mackkさんおはようございます。
この公園に眠るものに俄然興味を惹いたので、上州支店の忘年会に呼ばれたのを幸いそれまでの時間潰しに散策しました。
カテゴリは廃墟です。でも私は廃線ならまだしも、廃旅館、廃ホテル、廃工場、廃屋、廃遊園地・・・そういう世界に踏み込む気はあまりなく、今回の散策も、下手に柵を乗り越えて入り込むと建造物不法侵入に問われる可能性もあるので自重、もっぱら柵の外から眺めるだけに留めました。遠目に見ても朽ちかけているとはいえ、何ともいえぬ存在感がありましたよ。
戦時中を訴えるわけでもなく完全撤去されるでもなくただ放置してあるに等しいこれらの施設は、林の中にまだまだ幾つもの工房跡が眠っているようです。群馬の森、廃墟、この2つのキーワードで検索すると、この森に眠っている世界に辿りつけます。
by 船山史家 (2014-02-01 11:11) 

豆福パパ

通りすがりのものです。
30年以上前は群馬の森で探検ごっこをしておりましたので興味を持って読ませて頂きました。
実は三年ほど前に群馬の森のバックヤードツアーに参加した際に、ダイナマイト工場の興味ある話を沢山聞かせて頂きました。
あの巨大な土管は弾薬のテストをしていた施設だそうです。昔はかなりの長さがあったそうですが今は最後の100m程度と着弾点の巨大なコンクリート壕だけ残ってます。普段は立ち入り禁止ですがこの日は入れてくれました。
また公園内の広葉樹は爆発した際の爆風防止の為だとか、すべての建物が爆発に備えて四角い豪に囲まれていた跡が残っているとか、建物はわざと屋根を壊れやすく作って、爆発の際は爆風が上に抜けるように作ってあったとか・・・
公園内に普通に置かれている石が、材料を砕く石臼だったりとか、今まで知らない事ばかりで驚きました。
平和な公園に残る戦争の歴史を知りいろいろと考えさせられますね。
by 豆福パパ (2014-06-22 21:03) 

船山史家

豆服パパさん初めまして。
基調な証言ありがとうございます。
バックヤードツアーというのがあったんですね。私は平成24年から1年間だけ高崎市に住民税を支払うご縁があって、泣く泣く上州を去ってから群馬の森を知ったんですが、住んでた頃にそういうツアーを知れば参加したかったですねぇ。
それってどういう方面の方が主催したんでしょうか?
子供の頃、誰でも近所の雑木林や下水トンネルを探検ゴッコした想い出があると思います。その場所は住宅地に変わり、事故防止の為にフェンスで囲われコンクリートで蓋されています。でも私の少年時代にはこれほどのアヤしい世界、遺構はありませんでしたね。
でも群馬の森周辺は入ろうと思えば入れるので、(もちろん自重しましたが)、子供心を呼び覚ます素晴らしい光景だったと今でも思います。私はグリーンやトラックには目もくれず、公園の端をぐるりと廻りフェンスに沿って歩きました。
冬場だったので見やすかったですが、夏場は草ぼうぼうになるんでしょうか。蛇とかもいそうですね。
ダイナマイトのおかげで土木工事が発展した半面、人の生命を奪う結果にもつながったので、産業遺産とはいえ関係者や管理者も胸中複雑なのではないでしょうか。あまり声高に謳わず、何処か控えめにそっと訴えているようでした。
いつか草木が切り払われてその全貌をあらわにする時が来るでしょうか。
今のままでそっとしておきたい気もします。そして時折覗いてれる環境がいいのかも知れませんね。
ご訪問ありがとうございました。
by 船山史家 (2014-06-23 20:42) 

みのちー

たまたま検索していたら岩鼻陸軍火薬製造所の話題がでて懐かしくて投稿します。
40年くらい前になるのでしょうか、まだ烏川の河川で散弾銃の音が鳴り響く中(当時散弾銃ブームのようでした)中学生の僕らは○○の森とういう言葉も知らず(施設も完成前でした)名前を記載すればフリーパスで見学できました、テーブルを開けると地下へ続くはしごやら地下に広がる施設など子供心にワクワクした記憶あります、また見てみたいのですが無理なんでしょうねえ
by みのちー (2015-01-30 23:38) 

船山史家

みのちーさんコメントありがとうございます。
神奈川県民の私ですが1年だけ高崎市に住民税を支払っておりました。転勤が解けて帰京後、「あれを見に行けなかったな」と思い出して探索に行ったのがこの記事です。ぐるりんにも初めて乗りました。
40年前は自由に見学できたんですね。アブなくなかったのでしょうか。私は未だ小学生でしたが、その辺りに残ってた雑木林や下水のトンネルを散策したりしてました。往時の子供心を呼び覚ましてくれたのがこの公園(周囲)です。でも戦時中の遺構ですから、今はこういう施設は大きくアピールできないのかも知れませんね。
>烏川の河川で散弾銃の音が鳴り響く中。。。
烏川の河岸段丘にある某公園記事がⅢで待機中でございます。
ご訪問ありがとうございました。ⅠⅡⅢとも群馬記事が結構ありますのでまたお出でくださいませ。
by 船山史家 (2015-01-31 09:41) 

地元民

40年前のガキの頃は入れたんですけどねぇ。結構な廃墟がありました。
裏を流れる井野川に、ちょっと前まで石の橋が架かってましたが撤去された模様。
戦争=負の遺産として隠蔽することに反対。史実として記録すべきと思います。

by 地元民 (2016-02-12 02:59) 

船山史家

地元民さまこんにちは。
晴空の下で堂々アピールし難いのか、何か憚りがあるのかなと思いました。
私も廃墟の世界にどっぷり浸る訳ではないのですが、その方面では誰何されるのを承知でよくここまで散策されたなというサイトに辿りつきますね。
この時の散策以来、その辺りで古びた倉庫なんかを見ると「???」になるようになりました。
ご訪問ありがとうございます。
by 船山史家 (2016-02-12 10:04) 

ヒメスミレ

こんにちは。
ご存知でしょうが、東京板橋区には、岩鼻と同じく火薬製造所がありました。その跡地は現在、研究所等になっているのですが、民間のマンションになってしまう土地を一部、区が産業歴史遺産として公園整備する計画を今年度立てています。
研究所の敷地内には、まだ当時の建物、土塁の一部などが残されています。これらをしっかりと戦時中の「負の遺産」として残して行くべきものだと思います。
by ヒメスミレ (2016-07-21 20:55) 

船山史家

ヒメスミレさんこんにちは。
ご訪問ありがとうございます。
迂闊にも、板橋区の製造所のことは知りませんでした。加賀公園を含めた広範囲に散見しているようですね。
以前は板橋区に公用があったのです。JR板橋駅から都営三田線の新板橋駅に至る通りに「真田の里」という居酒屋があるのを覚えています。今年は大繁盛ではないでしょうか。
負の遺産として現代人に「わかりやすく」伝えて欲しいものです。夏場はウロつくのが厳しいので涼しくなってからですね。
情報ありがとうございました。
by 船山史家 (2016-07-22 07:30) 

TomoakiBiz

岩鼻 火薬所 でこのページに辿り着きました。
私は原子力研究所から徒歩5分程度のところに住んでおります。

最後の写真引き込み線のお話。
この線路は火薬所までずっと延びていました。
おそらく100年近く前のお話になると思いますが、私の祖父はこの地から高崎駅に行く時はこの線路の上を歩いていくのが最短距離だと言っていました。
東日本大震災以降、原子力研究所(現高崎量子応用研究所)は入場が厳しくなってしまいましたが、私が幼少の頃40年ほど前は簡単に入場できました。沢山の歴史をもった施設だけに「情報公開」していただきたいものです。

by TomoakiBiz (2017-05-16 22:10) 

船山史家

TomoakiBizさん
過去Blogにコメントありがとうございます。
鉄路の上を歩いて行くのが最短距離、そういう長閑な時代があったのですね。私は足首が痛みだしたので途中でタクシーを呼んだのですが、倉賀野駅に行くのに真っ直ぐ行けなかったです。運ちゃんに、「ちょっと大回りになるけど」って言われました。
引き込み線は現在高架になっていますが、往時は坂を下ってそのまま火薬工場に引き込まれていたのでしょう。架線が無いので鉄路が青空の下に映えて見えました。
震災以降に立ち入りが厳しくなったのは遺構の老朽化だと思いますが、子供が立ち入って怪我でもしたら管理の問題や賠償責任の所在云々になるから公開に差し障りがあるのでしょう。
昨日も所用で高崎にいました。倉賀野駅の貨物ヤードを見る度に森を思い出します。更新は止めていますが妙にこの記事、アクセス数が多いのです。ご訪問ありがとうございます。
by 船山史家 (2017-05-18 05:44) 

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