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鎌倉ハム異聞 [隠れ郷土史]

前に呟きⅠでよく登場したTさん(肉子さんと呼ぶ)という小柄小顔の美人な若主婦はお肉が大好きで、
「前に、やっぱお歳暮はハムだよ、ハムにしましょうよ~って言ってたよね」
「お歳暮じゃなくってお中元だよ」
「何でハムなんだよ?」
「ハムったって薄く切る前のハムだよ」
「結局、自分も喰いたいんだろ」
「うん。○○さん(私のこと)、アタシにハムちょーだい」
「何で俺が・・・朝から焼肉喰ってんじゃないの?」
「朝はハム、ソーセージ、ベーコンだよ・・・」
この子は日本のハム発祥のいわれなんか知らないだろうな。
それが鎌倉ハムです。
ハム.jpg
現在、鎌倉ハムは富岡商会さん他、幾つか名乗っておられるようだが、発祥地は鎌倉市ではない。
横浜市戸塚区柏尾町です。だが明治の頃の戸塚区柏尾町は鎌倉郡だった。だから鎌倉ハムと言っても決して間違いではない。

そのハム工房跡と伝わるものが横浜市戸塚区柏尾町にある。
場所は渋滞で有名な不動坂バス停の裏手にあるレンガ造りの建物がある。これが明治初期の鎌倉ハム製造業工房、日本人によるハム製造の最初の工房です。
明治時代、斉藤角次郎さんという人がいて、英国人ウィリアムカーティスという異人さんから製造法を知り得て日本人でハム製造会社を設立した。
だが日本で初めてハム製造を始めた英国人ウィリアムカーティスの前歴は謎でよくわからないのだ。
ハム工房跡1.jpg
近年、ドブ板がなくなって再開発された戸塚駅西口の商業施設、トツカーナ地下1階にお肉屋さんがあって、「肉のさいとう」という有名なお肉屋さん。再開発前は旭商店街の一画にあった。
さいとう1.jpg
さいとう2.jpg
さいとう3.jpg
この「肉のさいとう」・・・斎藤さんという姓が鎌倉ハム発祥の人と同一家系なのか裏付けが取れなかったのだが、今なお残る柏尾不動坂の鎌倉ハム工房跡地に隣接して同姓がある。店舗案内も無造作に貼ってあったのでまず間違いないと思う。
http://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/tmtnl/003.html
おや?.jpg
凄い屋敷である.jpg
有名だが謎の英国人ウイリアムカーティスが創業したハム製造業の工房はこれではなく、ここから遠くない王子神社(護良親王の御首を洗って埋葬したと伝わる。)近くにあった。
カーティスが忽然と現れてこの地ででハム製造を始めたのには幾つかワケがある。
何故、この地に作ったのか。
横浜は西欧文明が入って来た地だから???確かにそうだが、それは理由の理由の理由に過ぎない。
ハム工房跡2.jpg
カーティスはここに来る前は横浜の外国人居留区にいたと思われるが、当時の外国人は日曜日になると馬で、馬車で東海道を散策し、鎌倉や江の島方面まで出かけていた。
その過程で旧東海道の権太坂を越えて戸塚の地に通りかかり、横浜から近い内陸部の柏尾村に豚を飼育するのに丁度いい環境、広さがあったというもの。近隣農家から豚のエサになる薩摩芋の屑が得やすいというのもあった。
水も豊富だった。
だがそれらもこの地にハム工房を作った理由の理由でしかない。ホントの理由は日本人女性が絡んでいる。

戸塚宿の外れ、吉田元町に茶店があって、その店に加藤かねという美貌の娘さんが雇われ女中をしていた。当時、40台だったカーティスがこの茶店(茶屋ではない)の看板娘、加藤かね当時19歳に懸想したというもの。
度々来店するカーティスに加藤かねも惹かれた。逢瀬を重ね、親は猛反対したそうだがそれを押し切ってカーティスのもとへ走り、柏尾に家を建てて住み始める。
住んだ家は増築を重ねて外人専門のホテルを創業した。
何でこの辺りにホテルなんぞを作ったのか。まだ東海道線が開通しておらず当然、戸塚駅もなかったからか・・・
これだけでは理由づけとして弱いですね。ちょっと詳しい理由はわからない。東海道を歩いた時代、戸塚宿は最初に宿泊する街だったからだろうか。
ホテルの名前は「異人館」「白馬亭」だったそうである。

前述の王子神社近くの窪地に牧場を作って牛やら豚やらを200頭も飼育し、加工場を新設してハムやバターを製造し始めたのが鎌倉ハムの起こり。
凄い財力である。カーティスは俄か成金なのか。英国は薩長新政府に協力した国だからその筋で利権や資金を得たのだろうか。推測の域を出ない。
王子神社周辺.jpg
上の航空写真は現在の王子神社周辺です。この界隈は県営柏陽台団地や住宅地に開発されているが、まだまだ緑も残っている。
すぐ近くには柏尾川が流れている。川の流れは今と違うかも知れないが、瑞々しい郷で、農業や畜産に適していたかもしれない。この何処かにカーチィスさんの牧場があって牛豚が飼育されていたのでしょう。

工房で雇われていた使用人はALL外国人だった。10数人程度いたという。商品は外国人街や山下町で外国人相手に売られた。
戸塚図書館史料にはこうある。近隣の村人にある噂が広まった。ここで作られて売られたハムは、「木箱一杯で100両ほどになる」というもの。
村人は製造法を知りたがった。良く言えば自分らで製造産業を興したいという願いだが、悪く言えばやっかみであろう。だがカーティス以下の外国人使用人は頑として教えようとせず、製造場に村人を絶対に立ち入らせず、薬品にも手を触れさせないよう目を光らせた。警戒したのである。

ここで前述した斉藤角次郎さんが登場する。
斉藤家は代々村の庄屋だったが、斉藤角次郎は牛豚の飼育係としてカーティスに雇われていた。現在のトツカーナ、「肉のさいとう」のご先祖さんと思って間違いない。
カーティスのもとに走った加藤かねは斉藤家の奉公人だったという。そのつてもあって斉藤角次郎は加藤かね女史の取り成しもあってカーティスの信用をまずまず得た。作業場の鍵を預かるようになり、工房に自由に出入りを許されたのでハム製造の秘密を掴むことができたというもの。それは塩、砂糖、胡麻で味をつけ、硝石で肉の変色をとめて燻す方法、燻製のようなものだった。
謎の英国人カーティス氏.jpgかねさん.jpg斉藤各次郎氏.jpg
斉藤角次郎は仲間と明治14年にハム製造会社を興す。これが鎌倉ハムのホントの発祥で、現在残るレンガ造りの建物は当時の工房の一部だという。
ハム工房跡3.jpg
冷蔵庫の無い時代なので夏場は休業状態。それでも儲かった。日清戦争後に売上が増大したのは海軍が力を得たからではないか。当時はハムとは呼ばず熏脂、熏豚肉とか呼ばれていた。難しい漢字だが、燻製の肉という意味でしょうな。

現在、鎌倉市岩瀬にある株式会社鎌倉ハム富岡商会はこう語っている。
鎌倉ハムは明治7年(1874年)にイギリス人ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行っていたが、明治10年(1876年)に現戸塚区上柏尾町でハム・ソーセージなどの製造を始めたことに端を発する。
明治17年(1884年)に起こった地震の際に工場が出火し、消火にあたってくれた近隣住民に恩義を感じ、カーティスは益田直蔵らに秘伝の製法を伝授した。またカーティスの妻かねが奉公人時代に世話になっていた地元の名家・齋藤家の当主にも製法を伝授した。
齋藤家は不動坂(戸塚区柏尾町)にレンガ造の蔵や表門、土蔵、母屋などが残る。明治20年(1887年)にハム工場を設立し、鎌倉ハムを創業した。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、その復興の中、先々代社長の高橋照之助により、地のりのいい東海、関西への進出を考え、大正13年(1924年)、名古屋市に進出した。
戦後になって、昭和21年(1946年)に、アメリカ人の貿易商、J・D・ミラー氏との共同経営を受け入れ、鎌倉ハムJ・D・ミラー商会として復興をすることになった。その後、昭和30年(1955年)に株式会社鎌倉ハム(名古屋市)になっている。
鎌倉ハム富岡商会の創業者・富岡周蔵は、大船駅が開業した明治31年(1898年)に駅構内での営業申請を出し、大船軒を始めた。翌明治32年(1899年)には、その後延々と販売され続け大船軒の定番商品となるサンドイッチ弁当を発売した。このサンドイッチ弁当は、サンドイッチの一般化にもつながり、また関連事業として鎌倉ハムの製造販売を行う鎌倉ハム富岡商会の設立(明治33年(1900年))につながった。大正2年(1913年)から発売している鰺の押し寿司も大船軒の定番の駅弁である。
鎌倉ハムのブランドは、このほかに、益田氏の流れを汲む鎌倉ハム(横浜市南区)、鎌倉ハム村井商会(横浜市瀬谷区)、鎌倉ハムクラウン商会(横浜市磯子区)、鎌倉ハム鎌倉クラシコ(熊谷市)が使用している。
レンガの壁と窓.jpg
伝授されたのは富岡商会の祖、益田家と、地元の斉藤家だと。ウチが本家とも取れる反面、斉藤家他、枝分かれした他家にも気を遣ってるように感じる。
他にも会社を興したのは斉藤角次郎の息子、満平だという異説がある。柏尾の鎌倉ハム工房は吉田元町に移転してまた柏尾に戻った経緯もあるのでその時に新たに興したのかもしれない。

私はこの逸話、何か見落としていないか、隠されている秘事はないか気になった。現在の富岡商会さんも触れているが、カーティスの工房が明治17年(1864年)の火災で消化にかけつけた近隣住民に恩義を感じ、ハム製造法を伝授したというが・・・
私はこの火災の際にカーティスが「ハム製造方を盗まれた」、もしくは「見られた」、「売り渡した」とハッキリ記載された史料を子供の頃に見た記憶がある。
その時の記憶が気になってジャン実家の書棚をガサ入れしたら、出典はこの本だった。
学校教材.jpgハムの頁から.jpg
これは昭和48年に横浜市教育委員会が発行、横浜市郷土教育委員会編集の学校教材で、昭和48年だから小学校高学年の時だと思う。教科書とも違っていて、必須ではなくサブ教材だったように記憶している。
この教材の76頁から、「工業の発達」という大分類項目で、現在の石川町にあった横浜製鉄所、南区万世町にあった日本で最初の石鹸工場の次、79頁に「ビールとハム工場」とあって、山手のビール工場の次にカーティスのハム製造について触れられている。
そこには、『わが国で西洋野菜をさいばいしていたカーチスは。。。』 。。。カーティスではなくカーチスとなっているが唐突に現れる。
『カーチスはハムやバターのつくり方を知っていた。明治十年、戸塚でホテル業をしながらハム製造をはじめた。ところが、つくり方をひみつにしてだれにも教えてくれなかった。この工場が火事になったとき、これを消し止めたふたりの使用人が、塩づけにしたぶた肉や薬品のことをつきとめた。ハムの製造法をぬすまれたと知ったカーチスは、明治二十年、斉藤満平に製造法を売り渡した。満平は柏尾に工場をたてた。』
斉藤満平は斉藤角次郎の息子ですね。

ここでは小学生対象の教材とはいえ、横浜市教育委員会が監修した上で、「ハムの製造法をぬすまれた」とハッキリ言いきっているのだ。日頃っから探ろうとした側(使用人)が、火事を消し止めた際に消火現場を見てアッサリつきとめたのだろう。
ハムに限らず工業技術ってのは盗まれるものだが、セキュリティが無い時代とはいえ、火事やぬすまれたという表現は穏やかではないし何やらアヤシイニオイがしないでもない。当時のしたたかな英国人の商売人が無料で譲渡したとは思えないし、そこは金銭が動いたであろうよ。その辺りは大人のビジネスということで敢えてこれ以上は触れないでおく。

その後、カーティスと加藤かねはどうなったのか。
明治20年頃に東海道線が開通して汽車が走り、戸塚に駅ができるともう東海道を馬や馬車で散策する人も減り、ホテルが左前になって傾いた。前述のようにハム製造法も売り渡したのもあってか、明治23年頃、借財を残したままカーティスは上海に渡った。
加藤かねも借財、家財を整理して2人の子供を連れて後を追ったが、日本を去って上海に渡ったウイリアム・カーティスの晩年と、後を追った加藤かねのその後はよくわからないが、二人とも渡航した地で亡くなったそうである。

鎌倉ハムは、創業の斉藤さん富岡さん他にも、益田、藤岡、板島、岡部、小泉、清水、富岡、どんどん拡大していく。
現在ではカーティスが飼育していた豚飼育も県内でブランド化され、県内で売ってる高座豚、綾瀬豚もその流れだそうです。

先日、このトシでようやくにして鎌倉ハムサンドを買った。
ワンコインでしたよ。それがこれ。
鎌倉ハムサンド.jpg
パッケージをこじ開けると中身はこんな感じ。
封を開くと.jpg
ミックスサンドじゃないんですね。ハムとチーズだけか。
(株)大船軒となっていて、原材料表示を見たら、パン、ハム、粒辛子、半固体状ドレッシング、チーズ、マーガリン、乳化剤・・・以下省略。
処理済~控室で.jpgこのサンド、朝から外回り日の午前中に買ったはいいが、さてこの日の工程で何処で喰おうかと。
まさかこのクソ寒いのに、駅のホームのベンチで喰うのも何だしな。今日は本社には行かないし、どっか途中の支店の控室借りて喰おうかと。
都内の某支店の控室を借りた。たまたま旧知の女性社員2名がお昼時だったのでその子らと一緒にね。そしたら写真右の子が、
「それ、先日食べましたよ」
「???」
都内在住のクセに何故このサンドを知っている?
「何処で喰ったのさ?このサンドは鎌倉や大船辺りにしかないぞ」
「踊り子の中です」
踊り子ぉ?
ああ、伊豆急か。さては彼氏と伊豆方面へ温泉旅行でも行ったなと思ったがそこまでつっこまなかった。
左の子に、「何でそれ買ったんですか?それだけで足りますか?」と言われて返答に窮した。
「足りるわけねぇだろ。でも今日は時間に追われてその辺の店で喰えそうになかったのさ。その辺の公園とかで喰ったら変な目で見られるし・・・」
爆笑する2人である。別に笑いを取ろうとしたのではないぞ。
「電車の中で食べるとか」
「ボックスシートだったらまだしも、通勤電車のロングシートで喰えるかよ。でもひとりで恥ずかしげもなく喰ってる女いっけどな・・・」
写真左の子は呟きⅠに登場しています。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-11-15-2

手に取ってみる.jpg若い子にからかわれ悪態つきながら喰ったサンドのお味の方は、近年のコンビニやサラリーマンご用達の駅前にあるお急ぎコーヒーショップチェーンのサンドに比べるとアッサリしたものだった。ツナ、ユデタマゴとマヨソース、キュウリ&トマトといった脂っ濃いミックスサンド系ではありません。
現代のサンドイッチの味とは違いますね。
でも何処かで過去に喰ったような記憶が。
[ひらめき]
遠い昔、ジャン母が幼い私に持たせたサンドイッチの味は、辛子こそ入っていなかったが、ハムだけ、チーズだけだったな。
前にいるウチの若い子はその辺のコンビニで買った脂っ濃いサンドをかじり、それじゃ足りないのかカップラーメンなんぞを喰ってやがる。私はこれぞ明治のサンド、これが鎌倉ハムかぁ。。。と思いながら噛みしめた。
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齊藤 浩一

よくお調べいただいています。私、父:孝人、祖父:亀吉で父や叔父叔母から聞いていた話では、祖父亀吉は渋谷の道玄坂で肉屋をやっていた。ドイツ人を使って日本最初の本格的ソーセージを作ったと聞いています。その祖父は当時日本に3台市はないサイドカーバイクで毎週のように箱根に芸者遊びをしにしにいったと聞いています。その店で働いていた人が鎌倉ハムを創業したとも聞いています。モノクロ写真ですが店の写真。養豚場の写真。鶴見配給所の写真などが存在しています。私の以前の戸籍は戸塚区柏尾で齊藤家の実家(祖父の実家)は柏尾の山もちでした。この辺りまでしか私にはわかりません。戸塚区柏尾、肉やというキーワードは結びつきます。NHKのルーツを探る番組がありますよね、視聴者版もたまにあるので投稿しようか考えています。
by 齊藤 浩一 (2016-04-21 13:04) 

船山史家

齊藤さんこんにちは。
関係者の方からコメントをいただき恐縮です。
この記事は大船軒の記事を書いていたら、そういえば売店に売ってたサンドイッチ・・・あれはもしかして鎌倉ハムではないか?・・・と相成り、記事中にも掲載した横浜市教育委員会の本文を思い出したのです。
子供の教育本に、「ハム製造法をぬすまれた」とハッキリ書いてあったなと。そこに引っ掛かりを感じました。子供の頃は何とも思わなかったのですが。
鎌倉ハムのルーツは謎が多いですね。富岡商会さんがアピールしているものを否定する気はありませんが、そのまま受け取っていいものかどうか。穿った見方ですが何か隠されてるような・・・。
齊藤さんが複数おられるのもあって構成が難しかったです。ハイカラなお祖父さんだったようですね。外国人を使う(雇う)なんてすごいです。
レンガの建物の前の道は、私が前職時代にくるま通勤してた裏道でもありました。くるまだとすぐ通り過ぎるだけですが、じーっと見てたら通行人に怪訝そうに見られました。
鎌倉ハムサンドは、現在のコンビニに散乱するベッタリサンドとは全く違うものという印象を受けました。ツナも卵もなくてシットリ感が薄く、どちらかというと乾いた感じだった。
私の知人から聞いたのですが、NHKに限らず報道側、取材する側はやや強引というか、どうしても盛り上げようとせざるを得ないするので、当事者と製作者の間でギャップができるとか。
コメント、情報、ありがとうございました。
by 船山史家 (2016-04-23 10:31) 

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