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この城から落ち延びて。。。 [隠れ郷土史]

宮崎城説明版.jpg
今年の春、上州から引き上げた時はこの写真1枚しかなかった。
城跡が中学校の敷地になっていて、行ったのが平日だったのでもちろん校内には入れないし、学生さんが授業中だし、「校舎内への侵入は直ちに警察に通報します」ッテいう穏やかでない表示もあったりしたから。
撮影してたらヤバそうな雰囲気もあったので。
警察に通報しますよ.jpg
何しろこっちは不審者に見られかねない黒いダークスーツでノーネクタイ。周囲の畑を耕してる農家のオッさんにジロジロ見られたりした。校舎の教室からも黒い点みたいに私が見えたに違いない。
正門前に停めたら停めたで目立つし、少し離れたところに停めようとその辺りを走ったら、道路は畑の中を走り、その先はくるまの行き違いもできないくらいな切通でカーヴミラーもない坂道になった。どんどん細くなったので無理せず途中、回転できるスペースで引き返した。

造ったのは宮崎という土豪。諱は不明。私称官位は和泉守。
その後、上州一揆衆から信玄に寝返った小幡信実の弟、昌高という人がいた。宮崎氏は小幡氏の傘下に吸収されたと思う。
小幡氏は上州一揆衆の盟主、長野業政の一党だったがアッサリ信玄に下り、外様ながらいいポジションまでいったようだが、武田が滅んだ後は小田原の後北条氏に臣従。
だが三度目の転職はなかった。太閤の小田原攻めの一環でこの辺り一帯の小城群は薙ぎ倒されるように次々と陥落、開城していく。

この中学校・・・じゃなかった宮崎城、最後には小幡一族の吉秀という者がいたそうだがあっさり陥落した。
その後、長篠城籠城戦で頑張った奥平信昌が三万石貰ってこの中学校・・・じゃなかった宮崎城主となったが、美濃の加納へ転封になり、この中学校・・・じゃなくて・・・宮崎城は廃される。
神農原~宮崎城(西中)地図.jpg
この中学校・・・宮崎城は上信電鉄の神農原駅北にある。
神農原の某病院にエライ先生がいて、私はそこに届け出があってその帰途に寄った。
冒頭前述の通り、ちょっと撮影も憚られる雰囲気なのですぐ引き返したのですが、「不審者は通報します」←これがあるせいで、特に何もないのにマニアには割と有名なトコでもある。

この説明版だけだと喰い足りないでしょう。時間と体力があって、履物や服装がそれなりにちゃんとしてたなら、西へ500mほどの尾根続き、神成山ん中に詰城があるからハイキングコースを登ってみてください。おそらく熊は出ないと思います。私はスーツに革靴なのでそこは行かんかったです。
「そういう服って持ってないんですか?」と私に聞いたのは上州のヤンキー社員。
「持ってない。カジュアルは一着も持ってない」
「似合わないですよね。ねぇねぇ、○○さん(私のこと)ってカジュアルとかジーンズとか持ってないんだって。似合わないよねそういうの」
放っとけっつーの。話に割って来たのは前に載せた速口娘。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-08
「じゃぁ黒地に髑髏の柄とか、桜吹雪とかのTシャツ着ればいいじゃないですか」
「何を言ってやがる・・・仕事場でTシャツはよくないよ。襟がないとさ」
「だって暑いんです」
「お前そのカッコ、寝てたカッコでそのまんま着替えしないでくるまに飛び乗ったんじゃないだろうなっ」
「ええっと・・・(笑)」
さてはそうなんだな(苦笑)。上州はくるま社会、くるま通勤だからか、あまり服装に気を配らないみたいですね。電車通勤と違って誰も見てないし、人目を気にしないでいいからね。

それは余談、では何故、これだけなのに思い出したように記事にするか。
後日、この中学校・・・城が陥落した際、ここから落ち延びた方の末裔に出会っているんです。
私は上州滞在中に50余の古城、それも箕輪、国峰以外はマイナーなものばっかりだったのだが、その話題の流れで、ある女性に、「宮崎城って行ったことありますか?」と言われたんだな。
「ありますよ。あの学校の敷地になってたヤツ。ウロついてたら通報されかねないトコ」
そしたら、「私の祖先がそこを落ちてきたんです」と言うんだな。
おそらくその方のご先祖さんは、上州侵攻の武田軍か、小田原北条を攻める太閤軍、藤田信吉率いる東山道軍に攻められて、包囲網を脱出、結局は落ち延びて武士を捨てたのかなって思った。

その末裔の方は上州ブロ友、チエ嬢です。確か、味一味で、もと田舎娘さんが合流する前に話をしたんだと思う。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-02-18
今回、思い出したように、ご先祖さんの調査を依頼した。
「明日、祖父に会うので訊いてみますねっ」

私費で上州に来て、ハシゴで飲んだくれた翌日の土曜、ジャン妻は休日出だった。
「ゆっくりしてきていいよ」というメールが来たので、上信電鉄で、宮崎城の最寄駅、神農原にゴトゴト向かった。冒頭の写真1枚じゃ記事としてカッコがつかなかったからである。
車内は日焼けした運動部の学生さんたち、コカコーラ大缶をガブ飲みする野球部員、行儀の悪い中坊たち、市内で山のようにCDを買い込んだ若い女性、山歩きのカッコした夫婦、そして私。
神農原までは50分弱かかりました。単線の片側ホーム、無人駅。改札もないので降りる時、車内で運転手自ら運賃精算に立ち会う。結構高い金額だった。
降りたのは私だけだった。
電車が下仁田方面へ去って行く。駅の小さい待合にあった時刻表を見たら1時間に1本しかないじゃないか。
本数少ねぇな.jpg
神農原駅ホーム2.jpg
駅名表示.jpg
そこから北へ向かって歩く。途中、酪農家の家の脇を歩く。
既に中学校が見える位置まできているが、そこから西を見ると山の峰が続いていて、おそらくこれが詰めの城、神成城の推定地。
神成城推定地.jpg
そしてこんな坂を登る。
坂1.jpg坂2.jpg
坂3.jpg坂4.jpg
ゼェゼェ。息が乱れる。
アタマのてっぺんから玉のような汗が噴き出した。自販機もなさそう。シマッタ、事前に水を購入すべきだったね。脱水症状や熱中症でダウンするのはこういう時かも知れない。だが、時折吹く風は秋風で冷たかった。

今日は土曜だから学生さんはいないだろうとタカをくくってたが甘かった。テニスコートで練習試合中でやんの。テニスコートをぐるっと回ったところに正門があって、そこに宮崎城の案内版がある。
学生さんと目を合せないようにした。
説明版と再会.jpgこの辺りも城域.jpg
赤い部分がテニスコート.jpg
説明版の前に立つ。
しばらくじーっと立ってた。如何にも私はこれだけが目当てで来たのだよ、不審者じゃないよという空演技。
赤く塗ってある広場がテニスコートです。私は左下の細い道を上がって来た。この図を見ると学校敷地の西に濠があるようだが、暑かったのもあって行く気が失せてしまい、結局、初回訪問時と同じものを見たに過ぎない。
詰めの城への入口1.jpg詰めの城への入口2.jpg
暑い暑いとカオをしかめて丘を降りる。何処かに自販機ないかな。
そしたらあったのである。「まあむ」というCafeみたいなのがあった。
自販機のジュース類が100円。
これは中学生の小遣い値段だな。学生さんがタムロする憩の場所かな。
Cafeにも興味がわいた。小腹も空いた。でも今ここでビールなんか飲んだら最後、全身の力が抜けてヘタっちゃうだろう。缶コーラだけにしておいた。
100円自販機.jpg
http://mamnooaji.gunmablog.net/
おそらく地元の地主さんの農家兼副業のお店でしょう。
缶コーラをガブ飲みしながら、今頃、チエさんはお祖父さんにインタビューしてるかなって思う。
まあむ入口の坂.jpg
降りた時は気付かなかったが、ホームの上り方面踏切に「麺やおとみ」というラーメン屋さんがあった。
他に競合店がないのもあってここにも惹かれた。あごしょうゆラーメンと、カレー味の揚げ餃子が美味しいらしいですよ。
電車の時間の関係で断念。こういう時に限って時間の乗継がよかったりするものなのだ。
麺やおとみ.jpg
ホームで上り電車を待ちます。
自販機で水を購入してアタマっから被った。どうせ駅には他に誰もいないし。
上り電車の運転手さんは、先刻、私がここまで来た下りの運転手さんと同じ人だった。電車のデザインも同じ。
上り電車が来た.jpg

チエ嬢から情報が届いた。大正五年生まれのお爺さんから聞き取り取材をしたそうです。
御年97歳!!
聴き取ったその内容は、
「宮崎城を落城後、生き延びた者は甘楽郡南牧村の城へ逃げ込んだそうですが、多勢は匿って貰えず、長野県上田城、鳥居峠、中之条、長野原と流れたそうです。このルートには落ち延びた者の子孫が点々といるそうです。」
城主だったの?
「先祖は旗頭だったそうです」
旗頭ってのは小隊長みたいな位置づけだろうか。
チエさんの祖先は東へ逃げた。
「南牧と逆方向で、東の堺町伊与久の雷電神社に30名ほどで逃げ込んだそうです。その後、堺町鶴谷の山ん中にひっそりと居を構えたそうですが。。。」
雷電神社.jpg
チエさんのご先祖、落ち武者一行30人が逃げ込んだ境町伊与久の雷電神社は東武伊勢崎線の剛志駅の北にある神社だと思う。
神社と神主は領主と密接な関係があったり地元の有力者の場合が少なくない。そこで何を祀っているか、その祀っている御神体によって己の敵か味方かを判別する手がかりにもなる。例えば八幡大菩薩だったら源氏の血脈なら匿ってくれるだろうとか。
境町鶴谷の山中はちょっとわからなかったが、一連のお話を伺うと攻めて来たのは小田原北条を平定しようとした太閤上方軍ではなく、その遥か前、上州を侵略しようといした甲州軍、武田軍ではないだろうか。

後年、上州に攻めて来た太閤上方軍は兵農分離されていたが上州は分離されていない。当時は兵=農民でもある。大軍でこの程度の小城を力攻めで陥落させ、農民、農兵でもあった数十人規模の城兵を駆ったり追い散らしたりしたら、現地の土地を耕作する者がいなくなってしまう。支配できないのだ。
単に領土と戦利品が欲しかった甲州軍と、天下平定が目的の太閤軍とでは敵や農民に対する対処が違う。乱取り、分捕りの甲州軍と違って、全国平定を目指す太閤軍は今後その地を支配する為にある程度の慰撫や懐柔も弄したのである。
(北条一族が籠った巨城は除いての話です。)
なのでチエさんのご先祖が抵抗して落ち延びた敵は甲州軍だと思う。太閤軍だったら物量が圧倒的に違うので降伏するしかない。
何故、降伏開城しないで、徹底抗戦して逃げたのだろうか。
捕われて甲斐府中に売り飛ばされるのを恐れたのだろう。

「宮崎城の話というより私の祖先の話しか聞けませんでしたよ。なぜ先祖の確証があるかというと、家系図があることと、当時の住まいにあった慰霊碑や墓碑等を、祖父が掘り起こして調べたんだそうです」
ご先祖さんはそのまま、武士を捨てて帰農したに違いない。
城の西側.jpg
「まだ一度も行ったことがないんですよ」というチエ嬢は、いつかご先祖さんが戦ったこの地に立つだろう。
その時、何を思うのだろうか。
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