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箕輪城 [隠れ郷土史]

箕輪城の大空壕.jpg
この巨城を訪れたのは2月初旬です。
あと2か月で東京に戻される、それまでに見に行かないと・・・かなり焦って見にいった。
行ってみたら重機が出入りしてまさか造成地にするのかと思ったらそうではなく単に公園化整備の為だった。樹木を伐採して見やすくなっていた。
重機の大きさと空壕の大きさを比較してみて下さい。
重機と比較してみてください.jpg
この後も載せますが、如何に巨大な箱堀かがわかるでしょう。人力で掘った当時は相当な労力だったと想像できる。

現在はどうなってるんだろう。
工事看板には平成25年2月28日までとなっていたが、市のHP関連にはこんな見出しがあった。
戦国時代の城門復元で最大級にという仰々しい見出しで、『高崎市教育委員会は、国指定史跡箕輪城の城門を井伊直政が城主をつとめた戦国時代末期の姿に復元する計画を5日に発表した。』
井伊直政??
赤備えか。別に嫌いじゃないけど、讃えるべきは長野業正ではないのか。

どんな門を復元するのか。
『郭馬出西虎口門は幅5・7m、高さ6・3mの2階建て櫓門(やぐらもん)。戦国時代の関東地方の城郭として規模が確認されているものでは最大級。南側から登城する3本の道がこの門に集約されるため防御上極めて重要だった。徳川家康の家臣として最も石高の高い12万石の領地を与えられた井伊直政の城にふさわしい荘厳な城門となっている。』
また井伊直政かい。家康の関東入府の時から8年いたんだったかな。
郭馬出.jpg
その先は略すが、気にとまった箇所がこれ。
『国指定史跡における建造物の復元は根拠が明らかになっていないと文化庁の許可がおりず、現存する文献が少ない戦国時代の城郭では復元が難しいという。門の礎石が全て残っていたため、全国の現存する城門や城絵図面を分析し上部構造を考証した。今回の復元は、国史跡の戦国時代の城門として6例目、「郭馬出西虎口門」は、その中で最大級の。。。』
何かしっかりした根拠がないと認められないんですね。
http://www.takasakiweb.jp/news/article/2013/06/1101.html

百名城の一つです。
榛名山麓のやや斜めになった台地上にある。たまたま工事中だったので大手からではなく搦手から上がったのだが結果、いいコースを歩けた。
搦め手から上がる.jpg
城内のあちこちで工事をしている。
郭を見下ろす.jpg
一見、道路から見るとそれほど要害堅固には見えないが、自然地形に大規模普請を加えている。見学できる城域だけでも広い。
箕輪城碑.jpg
本郭2.jpg
本郭1.jpg
土居が伸びる2.jpg
土居が伸びる5.jpg
空壕に降りてみると工事普請の凄さがわかる。深さ5~6mほどか。
業正の工事ではなく、井伊直政の大改修かも知れない。
ではその空壕に下りて歩いてみましょう。
空壕に降りて見た.jpg
空壕に降りて見上げる.jpg
空壕を歩く1.jpg
空壕を歩く2.jpg
空壕を歩く3.jpg
空壕を歩く4.jpg
空壕を歩く5.jpg
空壕を歩く6.jpg
空壕を歩く7.jpg
本丸の崖に沿う.jpg
井伊直政もいいが、ここには上州一揆衆を束ねた盟主が長野業正がいた。
彼は信玄に勝てずとも負けなかった。撃退数は6回。もっともこの説には異論があって、業正の没年は永禄4年。川中島にケリをつけての上州侵攻がその後だから、信玄と業正の直接対決は無かったんじゃないかという説がある。
その前、弘治3年(1557年)から信玄の西上野侵攻が始まっている説もある。この辺りは私は学者じゃないのでその道の先生方にお任せするが。

前に鷹留城の項でも書いたが、業政には12人の娘がいた。
娘たちの名前は一切、わからないのだが、12人の娘さんを周辺の豪族達に嫁がせ、ホントかどうか数えたことがないが300近くある支城、砦、烽火台を繋いで防衛ラインを繋いだ。
その中には数十人規模の守備兵程度の小塞もあったが、要の婿たち12人は。。。
長女、小幡城主小幡信貞室
次女、国峰城主小幡景定室
三女、忍城主成田室
四女、山名城主木部定朝室
五女、大戸城主大戸左近兵衛室
六女、和田城主和田業繁室
七女、倉賀野城主金井秀景室
八女、羽尾城主羽尾修理亮室
九女、浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室
十女、厩橋城主・長野氏室
十一女、板鼻鷹巣城主・依田氏室
十二女、室田鷹留城主・長野業固室

この娘婿たち十二城のうち、私が訪城したのは長女、次女、四女、六女、十女、十一女、十二女、半分だけだったのが心残りだった。婿たちの要の城塞、例えば十一女の婿である鷹巣城や十二女の婿の鷹留城の防衛ラインには、安中、後閑、里見、雉ヶ尾、ローズベイカントリークラブゴルフ場にある蔵人といった中塞、小塞のネットワークが構成されていた。

野戦になると婿たちや他の国人衆を糾合して大軍を編成する。だが業正は上州衆から選ばれた盟主であって主君と主従ではない。連合軍なので各将の足並みが揃わず、野戦では甲州軍に打ち負かされるが、撤退戦や奇襲で甲州軍にジャブのようにダメージを与え、最終的にはここ箕輪城の防衛戦で受け、結果、上州制覇を諦めさせるのを繰り返す。
勝てなかったが負けなかったのである。
三の丸.jpg
三の丸石垣1.jpg
三の丸石垣2.jpg
三の丸石垣3.jpg
三の丸石垣4.jpg
亡くなる前、嫡男の業盛を呼び寄せ、凄まじい遺言を残した。
「小さい墓でいい。法要は要らんから敵の首を墓前に持って来い。敵に降伏するな。運が尽きたなら討死しろ。それが俺への孝養。これに過ぎたるもの無し」
業盛は「死ね」と言われたに等しい。

業正が没して信玄は喜んだ。
永禄四(1561)年、次女の嫁いだ国峰城を攻略。
永禄六(1563)年、六女の婿、和田城主の和田業繁が武田に寝返った。
永禄七(1564)年、松井田城と安中城が陥落。
永禄八(1565)年、七女の嫁いだ倉賀野城が陥落。
永禄九(1566)年、に十一女の嫁いだ鷹巣城&十二女が嫁いだ鷹留城ラインと箕輪城が分断され、鷹留城陥落。

両軍主力は9月28日に若田ヶ原という場所で激戦となった。若田ヶ原はJR群馬八幡駅の北、若田町で、里見橋台2号がある八幡霊園の辺りです。
29日に箕輪城は落城する。業盛は遺言通り自刃した。

その後は内藤昌豊、内藤昌武(昌月?)、北条氏邦、滝川一益、再び北条氏邦と内藤昌武と城主、城代がコロッコロ変わり、赤備えの井伊直政が最後の城主になる。
直政は後年、和田城(高崎)に移転するので、箕輪城下と高崎市街地には同名のバス停が幾つかある。本町、田町、連雀町です。箕輪城下では本町と田町は箕郷本町、箕郷田町になっている。
石垣1.jpg
石垣2.jpg
雪が残る空壕.jpg
大堀切1.jpg
大堀切2.jpg
大堀切と土橋.jpg
この箕輪城を見た翌日に伊香保のぴのんに行ったのだが、バスで再度この城山を望見した。
箕輪城に行く人が一人いて、バスの運ちゃんに「このバス、箕輪城に行く?」って訊いてた。運ちゃんは帰りの便も含めて丁寧に教えてた。
「箕輪城行きますよ。箕郷営業所で乗り換えないと。近くなったらまた案内します」
箕郷営業所バスロータリーまで来たら、「もう乗り換え出ちゃったですね。次が30分後に出るよりこのまま城山入口までいきますか。そこから歩いて30分くらいですから」と相成った。
城山入口に向かって走る運ちゃんは、箕輪城から市内に戻るバスの便をマイクに通してその客に丁寧に説明してたが、説明熱心が昂じて降ろす予定だった城山入口バス停をうっかり通過してしまったのだ。
「ああっすみませんここです。ここから歩いて300mぐらいです」
途中で降ろしちゃった。そのお客は箕輪城に向かってった。歩いて300mぐらい先に搦手口がある。
一連のTALKは車内アナウンスで丸聞こえで流れたので、1人を除いた乗客全員に箕輪城の名前が刻まれた筈。
その1人とは誰か。
ジャン妻です。
ZZZ。。。寝てたんですよ。
激戦だった辺り.jpg
業正は単純に上州が好きだったんだと思う。「荒らすんじゃねぇ」がホンネだったのではないだろうか。外へは攻めに出ない、侵略されたら戦うのが信条だったのだ。

2013年12月4日加筆添付。
ジャン実家にあった1969年発汗図書にあった当時の箕輪城の古写真です。
箕輪城古写真1.jpg
箕輪城古写真2.jpg
箕輪城縄張図.jpg
コメント(8) 

コメント 8

るな&旦

箕輪城は何と言って堀が凄いですね。
個人的に八王子の滝山城と双璧かと。

整備も進んでいるようですが、あくまでも史跡公園と
して整備して欲しいですね。櫓門も再建される!
これは嬉しいです。

by るな&旦 (2013-07-20 07:38) 

船山史家

るなさん&旦さん。
箕輪城の空壕は、建売住宅が余裕で建設できるくらいの幅でした。こんなに凄くても落城するのが城なんですね。
某レポで見た滝山城も凄いけど、あれだけ作っても八王子城に移ったら廃城に?
重機の無かった時代、幾人の土木人工を要したんでしょうか。
この箕輪城レポで、1年滞在した私の城塞レポはほぼストックが出尽くしました。楽しい1年でしたよ。
by 船山史家 (2013-07-21 06:41) 

先祖は坊主

たのしく拝見させて頂きました。
私の実家は現在の搦め手口近くです。子供のころ(40数年前)は現在の城跡(城山といっていました)とちがい自然そのものでした。
搦め手側の空堀はどこから水を引いたのかわかりませんが、全部田んぼでした。また空堀には幾つもの防空壕があり、中で遊んだのを覚えています。
今後は現在のイメージを壊さない程度の開発を望みます。
by 先祖は坊主 (2013-11-13 12:47) 

船山史家

先祖は坊主さんこんばんは。コメントありがとうございます。
この記事は今年の1月か2月だったかと思います。転勤で上州に1年いたんですが(・・・当初は2年の予定だった・・・)箕輪城はいつでも行けらぁって油断してたら会社命令で帰れと。残り1ヶ月を切っちゃって慌てて訪城したんです。
搦め手近くですか。私は搦め手の駐車場に停めました。深くて広い箱型の空濠に圧倒されました。
先祖は坊主さんが子供のころは城山全体が草ぼうぼうの自然地でしたか。西側にはまだ公園化されてない箇所があって自然地形でした。
搦め手には田んぼがありましたね。アスファルトや細かい砂利を敷くのは車椅子で来場される方への配慮かと思われましが、復元とかもイメージを壊さない程度の整備をして欲しいです。それと、井伊直政もいいけど、やはり外敵に屈しなかった長野業政をもっともっとアピールして欲しいですね。
またお出でくださいませ。
by 船山史家 (2013-11-14 20:36) 

先祖は坊主

こんにちわ。
幾つか40数年前と現在とで変わったところを思い出したので、記述します。
・城跡北側の新郭(しんぐわ)は一部、駐車場になっていますが、当時は綺麗に2mほどの石垣が30mほどありました。※古いものかは定かではありません。
・本丸は全て桑畑でした。(碑はありませんでした)
・御前廓には古い小屋(稲荷?)がありました。
・城全体は遺跡が多く、現在でも堀等を掘ると土器、矢じりがいっぱい出てきます。
また、色々と思い出したらメール致します。
by 先祖は坊主 (2013-11-26 13:00) 

船山史家

先祖は坊主さんおはようございます。
本丸は桑畑だったのですか。今は更地になってましたが。土地所有者が寄付したかも。碑は後年に設置されたんでしょう。
私は北側の新郭は見逃しましたが、北側を通ってる道路の停車して城山を眺めた際、「北側は防御が弱い?」かなと思いました。
写真掲載した石垣は三の丸辺りにあったもので保存状態良好、丸みを帯びた自然石で表面が苔むしてるのでまず当時のものでしょう。
広域だし、何回も戦闘に巻き込まれているし、力攻で陥落したからそこらを掘ったら何か出てくるでしょうね。
県の方でどんな門が再建されるのでしょうか。前のレスに書いたように、上州一揆の銘酒・・・じゃなかった盟主だった長野業政よりも井伊直政アピールの方が勝っているのがちょっと気になりますが。
by 船山史家 (2013-11-27 07:59) 

先祖は坊主

こんにちは、先祖は坊主です。
今回は城周辺について、変わったところの話をします。
城南側に法峰寺というお寺があるのですが、いまから35~6年前に火事にあい全焼しました、火事は裏山に燃え移り大堀切ちかくまで燃えてしまいました。たまたま近くにいたため、寺内部の仏像等の避難を手伝ったことを覚えています。現在小学校がある場所は沼があったといわれていますが、昭和40年半ばごろまでは、学校の東はまだ湿地が残っていました。(現在は住宅地)
城周辺の大きな工事としては現在の搦め手駐車場付近から掘り、白川まで地下に用水管(直径3m位)を通す工事が昭和40年代に行われました(工事中、内緒でなかを通り白川まで行きました)
大がかりな工事であったため、搦め手入口周辺は若干変わってしまいました(道経路)
by 先祖は坊主 (2013-12-02 12:36) 

船山史家

先祖は坊主さんおはようございます。
法峰寺、地図で確認しました。もしかしてご先祖さんはそこのご住職だったとか?
ジャン実家にあった1969年発刊の書籍に当時の箕輪城の写真があったので今日転載して貼り付けました。頁の表面が変色して見難く、どの辺りの角度からの写真かもわからないですが確かに田んぼが写ってますね。本文中に「本丸一帯は杉の木が植えられその遺構は失われつつあります」とありました。本丸一帯に限らず各郭に木々が植わってたのでそれに燃え移ったのでしょうか。現在は公園化や遺構を見やすくする為に、ある程度植林を伐採する古城跡も増えて来たようですが、1969年当時は荒れ放題だったかも知れません。
自分も搦手のパーキングに停めましたが、そこから伸びてる道の脇が田んぼでしたかね。防御の為の沼か湿地帯、泥田堀があったのかなと想像しました。
そこから白川まで直径3mの用水管を通したとなると相当な工事ですね。
>工事中、内緒でなかを通り白川まで行きました。。。
用水管の中を歩いてショートカットされたんですか?(驚)
by 船山史家 (2013-12-04 09:00) 

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