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会津北の防人 穴澤一族 ファースト・ジェネレーション [会津]

八重さんと竹子さんの”早過ぎる握手”にドッ白けたので、戊辰に関係ない会津ネタをUpします。

四季を通じて裏磐梯公言の大自然に触れアウトドアレジャーで賑わう桧原湖。。。
この湖は会津磐梯山大噴火の堰き止め湖沼です。その中では最大級の湖です。
桧原湖4.jpg
最大水深31mには桧原村51軒が水没している。
現在でも水位の変動によっては、昔の集落にあった鳥居や墓石が湖面に現れる。

この桧原湖の西側の湖畔、桧原歴史館の先に、数基の五輪等が建っている。
穴澤氏族桧原五輪塔とあって、水没を免れたものを湖畔に集めたか、渇水時に湖底から移したとも伝わる。
穴沢一族五輪塔1.jpg
穴沢一族五輪塔2.jpg
彼ら、穴澤一族は何処からやってきたのか。
ニ説ある。現在の福島県田村郡、田村市、郡山市東部に、南北朝時代に庄司田村家というのがあって、南朝方の残党を集めて関東公方足利氏満の軍勢と戦った。
だが敗れた。
田村庄は関東公方支配となって、支配される側は小国人衆の集まりになる。
彼らは関東公方に表面上は忠勤を励むが、利益を脅かす外圧には抵抗し、近隣諸地域の国人領主と一揆(※)契約というものを交わしている。
この頃の田村庄の国人衆の一人に穴沢宮内少輔秀朝という名前が見える。これが仙道郡発祥説。

(※後年の農民一揆とはちょっと趣が違う。上州にも一揆衆がいて、小領主たちが団結して、箕輪の長野氏のもと、甲斐武田の侵略軍に抗した。)

もう一説。
甲斐源氏に連なる源盛義(平賀盛義ともいう。武田晴信初陣の相手、源心はその庶流)の枝分かれした後裔に犬飼貞長という人がいて、越後魚沼の広瀬の領主になって穴澤村に居住、穴澤氏になった。
現在のJR只見線で入広瀬~大白川の手前辺りに穴沢の地名が幾つか見える。もしくは守門嶽の南麓辺りとも。これが越後魚沼発祥説。
(今年の冬、限界集落で一人暮らしのお年寄りの雪かきを担うボランティアの紹介があった。そのお年寄りは穴沢さんだった。)

会津若松市内の書籍には、仙道郡からやって来た説が多い。
だが後述する人間業とも思えぬ山岳戦の凄さから想像すると、越後魚沼郡の山々での発祥でもオカシくない気がする。

文明(1469-1487)年間、彼ら穴澤衆は郎党350人連れて、完全武装で桧原村にやって来た。
当時、大塩峠~蘭峠辺りの山中に兇賊がいて、里の荒しや旅人の殺害、女子供の拐や売り飛ばし、ロクなことをしないので、迷惑千万蒙った村人たちが黒川(会津若松)の蘆名十三代当主、盛隆に訴えた。
盛隆は蘆名四天宿老(平田、松本、富田、佐瀬)に、誰を送って兇賊を掃討するか協議させたが、実は「アイツらを差し向けるしかいないな」と目星はついている。
餅は餅屋ではないが、山賊相手なら山岳戦に長けたあの一風変わった一族に退治させようと候補に挙がったのが穴澤一族。党首は穴澤俊家という人。
他領への侵略ではない、外敵の迎撃でもない、この山奥の領民救済のような依頼を穴澤衆は承知した。賊は山の集団なので一族のプライドもくすぐられたであろう。
仙道群田村の穴沢郷、越後魚沼の穴沢郷、どちらから来たのかわからないが、穴澤越中俊家は舎弟の常陸介と350人の手勢を連れて桧原にやってきた。蘆名盛隆の命というか依頼でそヤツらを退治しに来たのである。
一回こっきりの出張遠征のハズだったのだが。

穴澤俊家は桧原に来て驚いた。
(なんちゅう凄い山谷だよ・・・)
当時はまだ桧原と呼ばず桧木谷地と呼ばれていた。まだ穴沢郷の方が平地があると思った。でもまさか穴澤俊家はこれ1回切りの遠征のつもりが、自分より数代に渡って一族郎党がこの地に棲み付くことになるとは思わなかったであろ。

俊家は村人から事情聴取した。
山賊の首領は文太郎という巨漢で配下は70人。
いずれもどんな断崖絶壁も上下する山男集団だという。だが、どうしても村人は被害者側だからオーバーリアクションにもなる。
俊家は内心、「我が一族だってそれぐらいはたやすいさ。それに統率された武士ではあるまい」と思った。
村人たちはいつも見慣れた蘆名の武士とはちょっと変わった穴澤衆の雰囲気を見て、期待と怪訝が入り混じった面持ちである。

穴澤俊家は大塩峠に向かう。
兇賊はこの先、蘭峠方面にある七里という山谷に潜んでいる。
兇賊がいた辺り.jpg
蘭峠~大塩峠の旧米沢街道は、2008年5月にナワ~ルドさんが越えています。
蘭峠.jpg
ナワ~ルド峠おやじさんが2008年5月にこの峠を訪れている。
中ノ七里という場所に一里塚があって、そこの説明版に兇賊の首領、文太郎や、穴澤俊家に退治された云々も載っている。
ナワさんからご承諾を得たので写真を拝借しました。
中ノ七里一里塚.jpg
穴澤俊家は舎弟の常陸介以下、150人ばかりの手勢を南から迂回させた。
常陸介を送り出した後、俊家自身は200人の手勢で本街道を北に進み、3人の家臣を商人に扮装させ、如何にも金目のモノが入った重そうなデカい風呂敷包を背負わせて先に行かせた。撒き餌である。
このエサに兇賊は喰い付いた。
扮装した三人が沢に架かった橋の真ん中に来た時、橋の前に三十人、後ろに三十人の賊が塞いだのである。
「待て」
「騒ぐと殺すぞ」
「命惜しくば身包み置いていけ」
といった類のお決まりの脅しが発せられたが、商人姿の三人は動じない。三人のうち、二人が、
「そっちこそ後悔するなよ」
「今までの奴輩とは違うゼ」
そして三人めが鋭い口笛をヒユッと鳴らした途端に、橋の後、大塩峠側から俊家率いる穴澤本隊200人が突然表れて一斉に矢を射放ち、賊に斬り込んで来た。

橋の前を塞いだ賊は仰天した。
数合、斬り結んで街道を北に逃げたら、その前方からも先に迂回した常陸介の隊が挟み撃ちに向かって来た。では両側の山上に逃げようとしたら、そこからも穴澤兵が逆落としに攻め降りてきて、賊は挟み込まれて四方の退路を断たれてしまう。
完全包囲した穴澤衆は容赦なかった。賊には武士崩れの手練れもいたが多勢に無勢。囲まれて打ち取られ一人残らず全滅したという。
首領の文太郎は大太刀を振るって暴れたが、足を射られ動きが鈍ったところを多勢に組み伏せられて生け捕りにされた。

穴澤俊家一行は縛めた賊の頭を連れて黒川へ凱旋した。
蘆名盛隆はいともあっさりと兇賊を殲滅し、首魁を生け捕った穴澤一族に内心、舌を巻き、穴澤兄弟に太刀を贈って功を称え、慰労の宴を催して労った。
その宴の最中に蘆名盛隆は考える。
彼ら穴澤衆は蘆名の直属の家臣ではないのである。穴澤郷に帰還すればその地の支配者なので、蘆名と同等ともいえる。何か違えれば敵にならないとも限らない。
一風変わった連中だが、手放すのが惜しくなった。
臣下の礼をとらせていずれは家臣に持っていけないか。それには桧原に引き留めてしまえばいいと思いついた。桧原は出羽との国境、米沢街道を抑える重要な拠点、新たな山賊が棲み付かないとも限らない、治安維持の為に桧原に留まって欲しいと下手に出たのである。

穴澤俊家は内心、「冗談ではない・・・」と迷惑に思った。
自領の為にしたのではない。蘆名家は敵ではないがそれでも他家の依頼。そこを領民の人助けと思って遂行したのである。その地に居住するとなると一族の去就、根幹が違ってくる。
一族の会議にかけ、結局、引き受けざるを得なくなるのだが、会津若松市の書籍には、穴澤氏は桧原の人助けの為に無下に断れずとあった。
だがそれだけだろうか。
見返りは何かあるか考えたと思う。原野の開拓、山林の伐採、開墾、砂金が採れる、いずれも一朝一夕にいかないものばかりだが、米沢街道筋を抑えることで、何がしかの公益を得ようとは思わなかっただろうか。
米沢街道と桧原宿.jpg
穴澤衆は、先に俊家の舎弟、常陸介を送って仮の館を築かせ、町割をした後で一族の殆どが移住した。
そしたら蘆名家からも会津にいる遊民を移住させたのでオカシなことになった。人口が増え開墾地が広がり、当初は山賊対策や国境警備の為だったのが、町を作ってそこを統治するという意味合いに変わって来た。

穴澤俊家も上手く乗せられたと気付き、年が改まる度、黒川の蘆名盛隆に「帰りたい」と言上したのだが、盛隆は「もう1年頼む」、「あと1年だけいてくれないか」引き伸ばしにかかった。
実際は他の蘆名家中で、誰も豪雪極寒の山間に赴きたがらないというのが本音ではなかったか。
桧原宿跡説明版.jpg
蘆名盛隆も、さすがにタダでその地にいてくれとは言わなかった。
桧原から西に少し下った大荒井、寺入、堺野他、四つの村を一家の糧を得る知行地として贈ったのです。代替地かも知れない。
穴澤俊家にしてみりゃ、そんな代替地を貰ったところで益々話が違うじゃないかと突っぱねなかったのは、だんだんと桧原が好きになって来たのかもしれない。

(私もその気持ちはわからないでもない。住めば都ではないが、最初は、えぇ~こんなトコに住むのかよって思っても、何かきっかけがあれば好きになっていくものなのである。)

ズルズル引き伸ばしにされているうちに穴澤衆は四代もの間、桧原に住みついてしまう。蘆名氏の思惑通り、桧原の住民になってしまったのである。
桧原宿と観光バス.jpg
穴澤一族は狭隘な山谷、風雪に荒ぶる原野で生活していくうちに鍛えに鍛えられ、山岳戦、ゲリラ戦が磨かれていった。
日常、狩りをしながら、山の峯、崖、岩場構わず徒歩でも馬術でも平地同様に歩行疾駆する。弓は三人張が標準で、それ以上の強弓で矢を射かけ、銃砲を放ち、平野部と同様に槍や薙刀、平たい大太刀を振うようになる。
彼らを会津北の防人と呼んだのは現代の会津の先生だが、名門閥の多い蘆名家中で、一風変わった特異な存在になっていく。
四代に渡って桧原の町は町家が増えてきた。いつの頃からか、砂金が採れるようになった。
檜原方面2.jpg
だが桧原の北方、山の向こうに梟雄がいる。
伊達輝宗です。独眼竜のオヤジ殿。
桧原に砂金が採れる噂を聞いた輝宗は、桧原を直接抜いてその先にある豊穣な会津盆地を喉から手が出るほど欲しがっていたのだ。
(写真提供、ナワ~ルド峠おやじ氏、ありがとうございました。)
コメント(6) 

コメント 6

ナワ~ルド@峠おやじ

あ、どもども、半年ぶりくらいですか?活用いただきましたですね。
穴澤一族は山岳戦のスペシャリストですな。
それを奸計を用いて突破した伊達軍。たしか十三夜の祝いでしたか。

そういう習俗を大事にする一族ですから北の防人というより、プライドをくすぐられ、かつ土地に馴染んでしまったのでしょう。
by ナワ~ルド@峠おやじ (2013-05-22 22:00) 

船山史家

ナワさん。
借用をお願いしてから半年近く経ってしまいましたが寄稿にこぎつけました。流れと勢いで過去記事を掘り起こして加筆してしまいました。
一ノ渡所(大塩峠)の写真もお借りします。見たところ、舗装されていて、セダン車でも訪問できそうですね。
今日は代休でした。西丹沢を散策してきたとこです。でも道が崩落していて途中で断念しました。
by 船山史家 (2013-05-24 17:16) 

穴澤

突然のメ-ル失礼致します。こちらに載っております穴澤一族に興味があります。私は物語に出てくる穴澤の子孫、現当主の妻です。穴澤家の歴史が古い事は承知していますが、5代前が黒船警備任務で浦賀移住後の事しか分からない現状です。(檜原軍の戦いの事は書籍で読みました。)戊辰戦争後会津を着の身着のまま斗南藩に追われたのでそれ以前の詳細が殆ど分かりません。そんな時にこちらのブログを知り、一層先祖の事を詳しく知りたいと思うようになりました。資料を探すにも何分素人ですので、何から始めて良いかすら分かりません。先ずは檜原に行こう!!となりました。来月下旬に磐梯桧原湖畔に滞在します。何かお薦めの立ち寄り場所、調べ方のコツ等ございますでしょうか?教えて頂けますと幸いです。
御多忙中恐縮ですが宜しくお願い致します。
by 穴澤 (2016-07-06 14:16) 

船山史家

穴澤様まこんばんは。
過去Blogのチェックを怠ってお返事遅れましたスミマセン。
拙い当Blogへようこそお出でくださいました。ご子孫の方からコメントをいただき嬉しく思います。
このBlog呟きⅡはソネブロ容量満タンになり、2014年の大晦日で更新を停止しております。現在の呟きⅢでご先祖様の一族その後について触れております。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2015-11-22
一連の記事の出典(資料)は会津若松駅前の書店か会津若松市栄町3番50号にできた「會津稽古堂」の地元コーナーからです。
他は現地調査ですが、私の場合いつも連れがいるので城域には入っていないのです。
檜原湖の西にある集落から、大塩村に抜ける旧米沢街道沿いにいろいろありました。標注や解説板付きです。(国道459ではありません)その峠道はアップダウンや急カーヴがありますが舗装されており、行き違いも可能です。私はセダン車で走りました。
現地の城塞ですが、戸山城はこの時期だと熊が出るそうです。堂場山の岩山城はトレッキングコースになっていますが、リンクしている方からいただいた情報から想像すると、磐梯山噴火の影響か、城内遺構の起伏が不明瞭のようです。加賀守自刃の地に標注があるとか。
ご先祖様が伊達軍をやっつけた北方の檜原峠は自然に還った廃道状態と思われます。山歩きのベテランか、その方面の完全装備をして、案内人に先導されながら集団で向かわないと厳しいレベルのようです。
湖畔の資料館の塩ラーメンが美味しいらしいです。
私は学者ではないので、誤った記述があったら御容赦くださいませ。
お気をつけていってらっしゃいませ。
by 船山史家 (2016-07-08 21:02) 

穴澤

丁寧な御返信ありがとうございます。
会津若松駅前の書店、會津稽古堂 には必ず立ち寄りたいと思います。
呟きⅡ、Ⅲも拝読させて頂きました。
わざわざ浦賀までお越し下さり
お墓参りして頂き、ありがとうございます。
あの階段を登っての墓参はさぞかし大変だったと存じます。

墓碑に刻んであった穴澤與十郎は帰商武士として浦賀で廻船問屋を営んでおりました。多くの苦難があった事と思いますが
晩年は地域貢献に尽力し、県会議員にまで選出された立派な人物です。
今でも当時の資料や写真が沢山残っています。
時折、セピア色の写真やら本、陣羽織等を虫干ししています。

機会がございましたらお会いしたいです。
by 穴澤 (2016-07-09 12:18) 

船山史家

穴澤さまおはようございます。
書店は会津若松駅前のバス発着所近くにある岩瀬書店です。そこには会津の郷土本コーナーがあります。会津人気質溢れるコーナーで、圧倒的に若松市内での戊辰悲劇の内容が多く、蘆名家中関連は少ないです。
戊辰の悲劇アピールは強いのは仕方がないですが、蘆名家中や伊南の河原田氏、伊北の山之内氏の史料も発刊して欲しいといつも思うのです。
会津地方の城館は、戦後に耕地化されたものが多く、山城もあまり整備されてないようですね。檜原方面の城館でも整備されているのは大塩村の柏木城ぐらいではないかと。
そうでしたか。帰農・・・ではなく帰商されたのですね。幕末の資料はお持ちでも檜原に居住していた頃の史料は現地でも僅かなようです。
今年の大河で草刈正雄さんが毛皮のチョッキを着てますが、ご先祖様も冬場はあのような出で立ちだったのでしょうか。
お墓に至る階段はちょっとコタエました。石段の数は下りる時に数えたのです。浦賀駅まで歩く気力もなく往復とも京急バスでした。
ですね。機会がございましたらお話しをうかがいたいものです。
by 船山史家 (2016-07-10 08:02) 

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